33歳のウマ娘は娘と同じG1を目指す 作:Lagavulin
大阪杯の話を聞かれることは増えたけれど、仕事は相変わらずだった。
昼休み、返事をしている途中で電話が鳴る。弁当の蓋を閉めて受話器を取ると、取引先から納品日の確認だった。
画面を開いて答え、必要な連絡を送る。顔を上げたころには、同僚は食事を終えていた。
「次、宝塚だっけ」
「はい」
「じゃあ、そっちも見とく。午後の打ち合わせ、こっちの部屋になったから」
うなずいて、予定表の部屋名を書き替えた。
足元の鞄には、帰りに学園で着る運動着が入っていた。
*
宝塚記念では、3着だった。
早めに位置を上げ、先頭争いへ加わるところまでは、考えていたとおりに走れた。けれど、内側にいた黒い勝負服の選手が下がらなかった。
コーナーでも位置を守られ、直線に入ってからも離れない。
追い続けていると、外からもう1人が来た。私たちが競っているあいだ、後ろで待っていた選手だった。
内の相手へもう一度並ぼうとしたとき、外の肩が先へ出た。
まだ走れる。
最後まで脚を出し続けた。それでも、前の2人のほうが速かった。少しずつ背中が遠くなり、そのままゴールを越えた。
戻ってくると、ステラがこちらの顔をよく見た。
「お母さん、最後も速かったよ」
「うん。あの2人はもっと速かったね」
「でも、お母さんも全然止まらなかった」
娘の頭に軽く触れ、夫を見た。
夫は端末を開かず、私が座って水を飲むのを待っていた。
「見せて。最後のところ」
頼むと、すぐに隣へ来てくれた。
画面の自分は最後まで走っている。同じあいだに、相手はもっと先へ進んでいた。
「私のほう、まだできることある?」
「あるよ。今日、よくなってたところもある」
「じゃあ、両方聞きたい」
夫が映像を戻す。
夢中でのぞき込みながら、水の蓋を娘へ渡してしまった。「自分で持って」と返され、慌てて受け取った。
*
夏休み、夫と予定を合わせて、1日だけゆっくり練習できる日を作った。
ステラには長い休みがあるので、私たちの予定を聞いて意外そうな顔をする。
「2人とも1日だけ?」
「お母さんは、まとまったお休みはもう少しあと」
「じゃあ、明日も仕事?」
「そうです」
娘は少し考え、それから私の鞄へ水を入れた。
「今日、いっぱい見てもらおう」
「お母さんも、そのつもり」
朝のトラックは、いつもより空いていた。
夫が練習内容を説明する。ステラは短い区間で速くなること、私はそのあとも速さを保つことを確かめる。
互いに相手役にもなるので、娘の練習だからと気を抜いてはいられなかった。
その1本は、並んで走り始めた。
ステラが先に加速する。最初の数歩では、今もかなわない。少しずつ速度を上げ、前へ出た娘の横へ近づいた。
これまでは、そこで私が抜くことが多かった。
今日は、娘も伸びてきた。
横へ並んでも、離れない。
前を向き、もう少し脚を速くする。娘もついてくる。ゴールの目印を先に越えたのは私だったけれど、足音はすぐ後ろにあった。
「近かった」
ステラが息を弾ませて言った。
私も呼吸を整え、夫の時計を見た。自分の記録は、宝塚記念の前よりよかった。
「私、遅くなってないよね?」
「むしろ速くなってる」
「なのに、今の距離?」
「ステラもよくなってるからね」
ステラが横からのぞき込んだ。
「私も練習してるんだよ」
「知ってます」
娘の記録も見せてもらった。
そのあと顔を見ると、ステラもこちらを見ていた。先に笑ったのは娘だった。
「次は、届くかも」
「そう簡単には行かないわよ」
笑い返してから、もう一度時計を確かめた。
昼食を終えても、夫は2人の映像を並べて見ていた。
娘が外へ出た場面を戻し、私が長く走ったところを再生する。順にノートへ書き込みながら、まだ何か考えていた。
「そんなに、面白い?」
聞くと、すぐに顔を上げた。
「うん。フィオはもう少し長く同じ速さで行けそう。ステラは、行く場所を選べるようになると、追える相手が増える」
「じゃあ、お父さんは2倍考えるね」
娘が言う。
夫はうなずいてから、私たちを見た。
「こんなに嬉しいことないよ」
空いた皿を重ね、夫の前の皿も取った。手を出してきたので、代わりにコップを渡す。
「片づけてから、また聞く。私のほうも」
夫は端末を伏せ、コップを持って立ち上がった。
*
夜、テレビには去年の有馬記念が映っていた。
ステラが選んだ映像だった。ソファへ座ると、娘が少し横へ寄る。夫も食後のカップを持ってきた。
「今年、お母さんと出たい」
画面を見たまま、ステラが言った。
「有馬?」
「うん」
「一緒に?」
「一緒に。出るだけじゃなくて、勝ちたい」
嬉しくてうなずきかけ、途中で止まった。
一緒に出て、娘が勝つ。その隣には、私もいるのだ。
ステラの顔を見ると、冗談ではなかった。
夫が映像を止め、秋の予定を確かめ始めた。娘は挑みたいレースを答え、今練習している走りについても聞いた。
それから、私へ向き直る。
「お母さんも、出るよね」
「出たい。私も勝ちたいから」
「うん」
「1着は1人だけだからね」
「知ってる」
娘が笑った。
「お母さんに勝ったら、お父さん、喜んでくれるかな」
「お母さんも喜ぶよ。悔しいけど」
私も笑い、夫が開いた年末までの予定をのぞいた。自分の仕事の休みと重ね、娘の出走予定も確かめる。
ステラが再びテレビを再生した。
「お父さんの一番の担当、取っちゃうかもね」
「……ステラ」
「ご、ごめんなさい!」
「フィオ、顔怖いよ……」
落ち着いてカップをテーブルに置いたが、ムスッとした顔はしばらく直らなかった。