33歳のウマ娘は娘と同じG1を目指す 作:Lagavulin
レースへ戻ると決めて、まず困ったのは、職場でどう切り出すかだった。
営業事務の仕事は続けたい。練習もしたい。そのために出勤と退勤の時間を相談したかったのだけれど、話し始めると、上司は少し不思議そうな顔をした。
「娘さんの付き添いで、勤務を変えたいってこと?」
「いえ。出るのは私です」
「……走るほう?」
「はい。走るほうです」
それから担当している仕事を確認し、どの時間なら動かせるかを相談した。娘の入学については前にも話していたので、その付き添いの相談だと受け取られていた。
話が済んで自分の席へ戻ると、取引先からいつもの問い合わせが届いていた。レースに出ることにしたからといって、こちらの仕事がなくなるわけではない。順に返事を書き、最後に夫へ連絡を入れた。
練習へ行ける日を送ると、すぐに返事が来た。
その文面を読んでいると、消えていたレースへの熱が再び胸に灯った。
*
数日後、仕事を終えて学園へ向かった。
更衣室で腕時計を外し、水のボトルを出す。運動着に着替えて鏡を見ると年甲斐もなくはしゃいでいる気がして、つい裾を引っ張って直してしまった。
廊下には、娘と同じくらいの子たちがいる。少し大人びた子も、友人と声を上げて笑っている子もいた。その間を通って練習場へ出ると、夫がトラックへ端末を向けていた。
「遅くなった?」
「ちょうど終わるところ」
前を走る生徒を、ステラが少し後ろから追っていた。練習相手になってもらっているのだという。
娘は私に気づき、手を上げかけた。途中でやめて、慌てて前を向く。こちらも上げかけた手を下ろした。
ベンチへ座って上着を畳んでいると、走り終えたステラが戻ってきた。
「どうだった?」
聞く相手は父親だった。夫が映像を開くと、娘はすぐにのぞき込んだ。
「前の子に近づいたところ。急に歩幅を広げて、強く踏み込んでる」
「抜けそうだったから」
「うん。でも、そのあとも走るからね。ここで使いすぎないようにしよう」
家で宿題を見ているときとは、少し声が違う。
夕食の買い物について聞こうとしていた口を閉じ、私も横から映像を見た。ステラは自分で少し巻き戻し、父親に言われたところを確かめてからうなずいた。
話が終わっても帰る支度はせず、私の隣へ腰を下ろす。
「お母さんのも見る」
「家に帰っても見られるわよ」
「走るお母さんは、ここじゃないと見られないもん」
それはそうだった。
ボトルをベンチに置いて立ち上がると、夫がノートの新しいページを開いた。
「今日は前半、少し速く入ってみよう」
「昔は、あまりやらなかったよね」
「今のフィオで確かめたい」
仕事中から、今日の練習を楽しみにしていた。スタートの目印へ立つと、少し緊張した。
夫がこちらを見ている。娘の練習が終わるのを待っているのではない。私が走り出すのを待っているのだ。
「トレーナー。前のときより上げていいの?」
「最初から急には変えなくていいよ。楽に速くなれるところを探して」
うなずいて、走り始めた。
少しずつ脚を速くする。前へ進むにつれ、風が強く顔へ当たった。身体がついてくるのを確かめながら、もう少し上げてみる。
ベンチの近くでステラが立ち上がった。その横を通り過ぎても、まだ余裕があった。
最後の区間へ入る。ここから先も走れそうだと思いながら、ゴールの目印を越えた。
「今、途中でまだ上げられた」
息を整える前に言うと、夫がうなずいた。
「うん。見えた」
「次は、もう少し長くても」
「その前に今のを見よう。ここ、すごくよかった」
差し出された映像へ顔を寄せる。説明がいつもより早い。途中で質問すると、一度止まってから、嬉しそうに別の場面も見せてくれた。
「お父さん、今すごく喋るね」
ステラが隣から口を挟んだ。
「ステラのときも喋ってるよ」
「うん。でも、お母さんもすごく聞く」
「聞きたいんだから、いいでしょう」
端末を少しこちらへ向けてもらい、さっき走った自分をもう一度見た。
*
その夜、風呂から上がってソファへ座ると、ふくらはぎが少し重かった。足首を回していると、夫が隣へ来た。
「脚、張った?」
「少し。走ってる間は平気だったんだけど」
「見てみようか」
夫が膝にタオルを広げた。身体を横へ向け、右の脚を乗せる。ふくらはぎを両手で包まれると、思っていたより力が入っていたことに気づいた。
「強くない?」
「うん。そのくらいでいい」
背もたれへ身体を預けた。夫の手が少しずつ移り、押してほしいところへ来る。
「あ、そこ。もう少し」
同じところをゆっくりほぐしてくれたので、大きく息を吐いた。目を閉じると、そのまま眠ってしまいそうだった。
「寝てもいいよ」
「まだ寝ない。左もあるもの」
夫が笑った。
脚を預け直そうとしたところで、廊下から足音がした。部屋から出てきたステラが、ソファの前で止まる。
「お母さんだけ、ずるい」
「何が?」
「それ。私もやって」
夫の手を見てから、自分のふくらはぎを指さした。
「終わったらね」
「私も今日、走ったよ」
「お母さんだって走ったもの」
「だから、私もって言ってるの」
夫が少し笑い、娘を見た。
「ステラもやるよ。こっちが終わったら」
「あとどのくらい?」
「もう少し」
答えると、娘がこちらを向いた。
「お母さんが決めるの?」
「まだ、こっちもあるから」
左の脚を少し上げて見せた。
「両方やるの?」
「片方だけじゃ、困るでしょう」
「ステラも両方やるよ」
夫に言われ、娘はようやくソファの空いている端へ座った。
右が済むと、夫がタオルを直してくれた。左の脚を預ける。ステラは自分の足首を回しながら、こちらの様子を見ていた。
「お母さん、昔もやってもらってたの?」
「うん。練習のあとにね」
「じゃあ、私よりいっぱいやってるじゃん」
「そのころは、お母さんが担当だったんだから」
娘が父親を見る。夫はうなずきながら、私の脚へ目を戻した。
押される場所が変わり、思わず夫の腕へ手を添えた。
「そこ、もう少しお願い」
「さっきも言ってた」
「さっきは右」
娘が笑った。こちらも笑うと、脚まで動いてしまう。夫に支え直され、慌てて力を抜いた。
左も終わって脚を下ろすころには、ステラはもうこちらへ身体を向けていた。座る場所を少し空け、背中へクッションを入れてやる。
「はい、お待たせ」
「両方ね」
「分かってるよ」
夫の膝へ娘の脚が乗った。
初めは手元をのぞいていたステラも、しばらくするとクッションへもたれた。私も隣へ座り直し、テーブルの水をひと口飲む。
「強くない?」
「大丈夫。もう少し下」
夫の手が移った。娘が大きく息を吐いたので、つい笑ってしまう。
「何?」
「ううん。気持ちいいでしょう」
「うん」
夫が片方の脚を下ろそうとすると、ステラが膝を少し戻した。
「そこ、あと少しだけ」
私はコップを置き、娘の背中でずれたクッションを押し直した。
*
その週末、昔の記録も見直そうと押し入れから箱を出したら、写真が1枚落ちてきた。
白と淡いピンクの服を着た私が、鏡の前に立っている。大きなリボンと、花の飾り。裏には16歳のころの日付があった。
「あ、それ」
ステラが手を出すより先に拾い上げた。
「お母さん、好きだよね。この写真」
「好きなのは、あなたでしょう。小さいころ、何度も見てた」
「だって可愛いし」
娘に言われ、改めて写真を見る。
GⅠへ出るときのために考えた服だった。試作品を着て写真は撮ったけれど、本番で着る機会は来なかった。箱の中を探すと、当時描いた服の絵も出てきた。
「レースでは着なかったの?」
「そこまで行けなかったからね」
「今なら着るかもしれないじゃん」
「まだ、戻って走り始めたところです」
ステラは聞いているのかいないのか、自分の部屋へ行ってしまった。
戻ってきた手には、別の紙がある。白と淡いピンク。花の飾りもあった。ただ、その真ん中には、私の絵にはない星が描いてあった。
「ステラの?」
「うん。GⅠに出るときの」
「ここ、星にしたんだ」
「名前がステラだし。お母さんとまったく同じだと、間違えられるかもしれないから」
まず2人ともGⅠに出ないと、間違えてもらうこともできない。そう思ったけれど、娘は真剣だったので言わずにおいた。
2枚の絵をテーブルに並べていると、夫がコーヒーを運んできた。置きかけたカップを持ち直し、紙から離れたところへ置く。
「懐かしいな」
「あなた、この写真も取ってたの?」
「写真は俺のほうにもある」
「なんで?」
「欲しかったから」
ステラが父親を見て、それから私を見た。
何も言われないほうが、かえって困る。娘の絵へ目を戻し、星の形を指で示した。
「これ、いいね。走ったときもよく見えそう」
「でしょ」
夫が今週の練習記録も持ってきた。写真を片づけようとしたので、手で止める。
「その隣でいい」
昔の服と、娘が描いた服と、今の私の記録。
ステラが自分の紙を少しずらし、コーヒーがこぼれてもかからない場所へ置き直した。
娘が絵を持って部屋へ戻ると、夫が隣へ座った。写真をのぞき込みながら私の肩へ腕を回し、近くへ寄せてくる。
「今度は、これで走るところも撮ろう」
「まずは、レースで勝たないとね」
隣の顔を見ると、夫は嬉しそうにうなずいた。その腕に手を添え、写真を2人の間へ置き直した。