33歳のウマ娘は娘と同じG1を目指す 作:Lagavulin
「お母さん、お弁当持った?」
「持った」
「飲み物は?」
「持ちました」
「靴は?」
玄関で片足を上げて見せると、ステラはようやくうなずいた。
娘を送り出すときに言っていたことを、そのまま返されている。夫は先に車へ荷物を積みに行った。私も鞄を持ち、娘に見送られる形で玄関を出る。最後にステラも自分の鞄を持ち、ついてきた。
今日は、私の復帰初戦だった。
会場へ着いてからは、思ったよりも忙しかった。受付を済ませ、控室へ入り、共通のレース衣装に着替える。鏡の前で服を直していると、近くの選手と目が合った。
若い子だった。軽く会釈をすると、相手も会釈を返し、すぐ自分の準備へ戻った。
そのくらいの距離感がありがたかった。久しぶりのレースなのだから、準備に時間を使いたい。そう思っていたのに、靴の具合を確かめ始めると、どこまでやれば済むのか分からなくなる。
「緊張してる?」
夫に聞かれ、うなずいた。
「練習とは、やっぱり違うね」
「最初のコーナーまで、位置を取りに行きすぎなくていい」
「うん」
「そのあとは、いつものように上げていこう。急がなくていいから」
話しているうちに、ようやく靴から手を離せた。
よし、と立ち上がったところで、また名前を呼ばれる。
「フィオ」
「何?」
「楽しみにしてる」
せっかく落ち着きかけたのに、胸の辺りをまた忙しくされた。
*
ゲートが開いた。
前へ出る選手の足音が、いっぺんに重なる。私も走り出したが、横から抜けていった相手をすぐには追わなかった。
最初のコーナーで、外側の選手が内へ寄る。その少し後ろへ入ると、ようやく自分の走る場所ができた。
前に4人。後ろからも足音がする。
娘と2人で走ったときより、ずっと音が多い。横も後ろも気になったけれど、まずは前を見て、呼吸を整えた。
向こう側の直線で、外から1人が上がってきた。
すぐ横へ並び、そのまま先へ出る。ついていきたいと思った。ここで離されれば、もう追いつけないような気がする。
昔は、それで追いかけていた。前の背中が遠くなるのが怖くて、無理に脚を速くし、最後まで走れなくなった。
急がなくていい。
夫の声を思い出し、少しずつ速度を上げた。
先ほど抜いていった相手が、また近くなる。肩が並ぶと、向こうも速くなった。そこで慌てず、もう少しだけ同じ調子で走ってみる。
まだ行けた。
相手の肩が、少しずつ後ろへ下がる。その先にいた2人にも追いつき、抜いた。前にはあと2人。大きく離れてはいない。
最後のコーナーで外へ出た。前が開くと、一気に追い抜きたくなる。けれど、ここまで走ってきたのと同じように脚を出した。
1人を抜いた。もう1人へ並ぶ。
直線の先に観客席が広がり、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。ステラに似た声も混じっている。確かめる余裕はなかった。
横の相手が離れない。
こちらが少し前へ出ても、すぐに並び直してくる。気になって、顔を向けそうになった。そのたびにゴールへ視線を戻す。
あと少し。
脚はまだ動いていた。もう一歩、次の一歩と進んでいるうちに、横にいた相手が見えなくなった。
ゴールを越えても、しばらくは走り続けた。
速度を落としてから振り向く。さっきまで隣にいた選手が、少し離れている。私の前には誰もいない。
掲示板を見た。
1着、リラフィオーレ。
自分の名前だった。
「……よし」
声が出て、つい笑みがこぼれた。
勝ったら、もっと大きな声で喜ぶと思っていた。けれど今は、息を吐いて、吸って、立っているだけで精いっぱいだった。
*
戻る途中で、ステラを見つけた。
娘は片手を上げたまま待っていた。こちらも手を上げると、隣の父親の腕を叩く。
「ほら、こっち見た!」
「見てるよ」
近づくと、今度はそのまま飛びついてきた。
「お母さん、勝った!」
「うん」
「抜いて、抜いて、そのあと全然戻ってこなかった」
「戻ってきたでしょう、今」
「そういうのじゃない!」
娘を受け止めたまま、夫を見た。
夫が手を差し出す。空いているほうの手を伸ばして握ると、話そうとしていたことが全部なくなってしまった。
「私、勝ったよ」
「うん。おめでとう」
握った手に、少し力を込めた。
夫は笑っていた。その顔を見ていると、勝てたのだと分かった。
やがて、何か思い出したように端末を持ち上げた。
「最後のコーナー、外へ出たところ。あそこで一気に速さを上げなかったのがよかった。その前も、上がってきた相手に」
「待って。まだ、見られない」
端末を下ろしてくれた。
今説明されても、たぶん何も覚えられない。夫の顔を見て、娘を抱えて、握っている手の温かさを確かめていたかった。
「あとで、全部聞くから」
「うん」
「よかったところ、忘れないでね」
「忘れないよ」
もう一度、手を握ってくれた。
ステラは私たちの手を見てから、近くの椅子へ荷物を置きに行った。
「写真撮ろう。今の服で」
「汗、拭かせて」
「早く。お母さん、すぐ着替えちゃうから」
急かす声まで嬉しかった。
夫がカメラを構えようとしたので、上着を引いて呼び止める。
「あなたも入って」
「もちろん。誰かに頼もうか」
夫が近くの係員に撮影を頼んだ。カメラの前に立つと、ステラがいつものように真ん中へ入りかけた。
そこで止まり、私の背中を押す。
「今日はお母さんが真ん中」
夫と娘の間へ入った。
まだ、笑ってくださいとも言われていない。けれど、どうしたって口元が緩んでしまった。
*
その夜、ステラが寝てから、夫の端末で写真を見返した。
真ん中にいる私は、思っていたよりずっと嬉しそうだった。画面を広げようとすると、夫が端末をテーブルへ置いた。
「もう1回、見たかったのに」
「あとで見よう」
背中へ腕が回り、そのまま抱き寄せられた。夫の肩へ頬をつけると、さっきまで見ていた写真のことも言えなくなった。
「おめでとう、フィオ」
「それ、さっきも聞いた」
「何回でも言いたいんだよ」
夫の背中へ腕を回した。
「……じゃあ、もう1回」
今度は、耳元で言ってくれた。少し顔を上げ、頬へ口づけを返す。
夫の腕が緩んだので、服をつかんだ。
「まだ、離さなくていいから」