33歳のウマ娘は娘と同じG1を目指す 作:Lagavulin
「その鞄、昨日も見てなかった?」
ステラに言われ、ファスナーから手を離した。
娘のデビュー戦当日だった。朝食の皿も片づいていないのに、持ち物を確かめるのはこれで3回目になる。
「替えのタオル、入れたかと思って」
「入ってる。お母さんが入れた」
「飲み物は」
「それもお母さんが入れた」
ステラは茶碗を流しへ運んで戻ってきた。もう一度鞄を開けようとしたら、先に持ち上げられてしまう。
「私が走るんだから、私にやらせて」
そのとおりだったので、手を引っ込めた。隣で夫が笑っていた。膝を軽く叩くと、何も言わずに残りの食器を運び始めた。
*
会場へ着くと、今度は娘が静かになった。控室へ向かう前に、靴を確かめている。こちらを見て、何か言いかけた。
「どうしたの?」
「ううん。靴は持ってるからね。行ってくる」
肩へ手を置くと、ステラは一度だけ身体を寄せてきた。すぐに離れ、父親と並んで歩き出す。
その背中が見えなくなるまで待ってから、観客席へ向かった。
*
「まだ出てこないよ」
戻ってきた夫に言われ、椅子へ座り直した。
「分かってる」
分かっているけれど、座っていると何も見えない気がする。膝の上で出走表を広げたら、端が少し曲がっていた。無意識に握りしめていた。
自分が走ったときは、ここで待つ家族のことまで考えなかった。
娘に水を渡すことも、走る場所を空けてやることもできない。ただ待っているだけなのが、こんなに落ち着かないとは思わなかった。
「いつも、こんなふうに待ってるの?」
「俺?」
「レースが始まる前」
「フィオのときも、まあ」
「落ち着いて見えたけど」
「落ち着いて見せてた」
夫の肩へ、少しだけ身体を預けた。
そのときステラが出てきて、慌てて姿勢を戻す。隣で夫が笑いをこらえているのが分かった。
ゲートが開くと、娘は前のほうへ出た。
いい位置だと思った。けれど、外から来た選手が前へ入ろうとすると、ステラもすぐに速くなる。
「今、そんなに行かなくても」
聞こえるはずがないのに、声が出た。
一度落ち着いたかと思うと、また別の相手へ並ばれて速度を上げる。短い区間では、娘のほうが明らかに速い。肩が先へ出るたびに、こちらも息をついた。
直線へ入った。先頭はまだ少し前にいる。
「ステラ!」
娘が一気に速くなった。
並んでいた選手たちの中から、ステラだけが前へ出る。先頭へ近づき、並び、そのまま抜いた。
後ろからも1人来ていた。娘を見て、追ってくる選手を見て、もう一度名前を叫ぶ。
ステラが先頭でゴールを越えた。
ほっとして座ろうとしたら、椅子が思ったより後ろにあった。片手で座面を確かめてから腰を下ろす。
「勝った」
「うん」
「ステラ、勝ったね」
夫がうなずいた。
いつの間にか夫の袖をつかんでいた。離そうとしても、指がすぐには開かなかった。
*
戻ってきた娘を、今度は私から抱きしめた。
「おめでとう」
「声、どうしたの」
「おめでとうって言ってるでしょう」
「掠れてる」
ステラが父親を見た。夫がうなずくと、娘は笑って私の背中へ腕を回した。
「聞こえたよ。最後」
「じゃあ、次も大きな声出す」
「喉、壊れるよ」
少し腕を緩めて、顔を見る。
嬉しそうだった。まだ息が弾んでいて、笑いながらも、ときどき自分で驚いたような顔をする。
夫が走りの話を始めると、娘はすぐにそちらを向いた。私も横から聞く。何度も加速したことを、夫はひとつずつ映像で確かめた。
「あそこで前へ行けるのは、ステラの強さだよ。その速さを、最後にもっと使えるようにしよう」
「うん。私も、最後はもうちょっと走りたかった」
娘が自分から言った。
夫と目が合い、2人で少し笑った。
*
数日後、居間から「もう1回!」と声がした。
娘に招かれて遊びに来た、メイプルシフォンだった。学園の友人だという。最初の挨拶ははきはきしていたのに、音楽ゲームが始まるとステラと同じくらい声が大きくなった。2人とも、画面の合図に合わせて忙しくボタンを押している。
「今の、私の勝ちじゃない?」
「点数見て。最後に抜いてるから」
「最後だけじゃん!」
料理を運びながら笑ってしまった。メイプルシフォンは、実際のレースでも短い距離が得意だと、ステラから聞いていた。
「ご飯できたよ」
「あと1曲!」
2人の声が重なった。
台所へ戻って夫に皿を渡すと、味噌汁をよそいながら聞かれる。
「あと1曲、待つ?」
「待つ。私も今、どっちが勝つか気になってる」
食卓につくと、メイプルシフォンはゲームの文句をやめ、自分のレースの話を始めた。
デビューが近いのだという。ただ、走るほうはまだ思いどおりにならないらしく、話しているうちに少し眉が下がった。
「でも、ライブは決めてるんです」
「何を?」
「手を上げるところ。客席も、みんな一緒にやってほしくて」
箸を置いて、片手を上げて見せる。
「先にそこ決めてるんだ」
ステラが言うと、友人は当たり前のようにうなずいた。
「だって、勝ってから考えてたら間に合わないじゃん」
私もうなずきかけ、夫に見られていることに気づいた。
「何?」
「フィオも、ライブの話をしたから」
「だって、勝つなら必要でしょう」
ステラが友人へ「ね」と言う。メイプルシフォンは嬉しそうに笑った。
「ステラのお母さん、あとで見てくれますか。私のやつ」
「もちろん。お皿片づけてからね」
2人がそろって立ち上がった。
こちらが手を出す間もなく、空いた皿が運ばれていく。テーブルの向こうで夫と顔を見合わせてから、私も台所へ向かった。