33歳のウマ娘は娘と同じG1を目指す 作:Lagavulin
「日曜、テレビでやるんだよね」
退勤前、隣の席から聞かれた。
夏のあいだにいくつか勝ち、職場でもレースの話をされるようになっていた。今度は重賞に出る。放送の時間を伝えると、同僚は自分の予定表へ書き込んだ。
「その時間、実家にいるから。つけてもらう」
「ありがとうございます。でも、無理しなくていいですよ」
「父がレース好きなの。私より詳しいかも」
それを聞くと、急に緊張してきた。
見てもらえるのは嬉しい。けれど、詳しい人が見たらどうなのだろう。そんなことを考えかけ、まだ仕事が残っているのを思い出した。
注文の数字を最後まで確かめ、夫へ退勤の連絡を送った。
*
日曜の控室では、夫のほうがいつもより静かだった。
出走表を見て、何か考えている。隣へ座って顔をのぞくと、ようやくこちらを向いた。
「何か気になる?」
「フィオが前へ出たあと、どこから追ってくるか」
「怖い話ね」
「うん。強い子がいる」
指された名前には覚えがあった。前へ並ばれたあとに、もう一度伸びる選手だ。映像を見たときも、抜けそうで抜けないまま最後まで走っていた。
「でも、フィオもその間ずっと走れる。いつものところから上げていこう」
「私のほうから行っていい?」
「行こう」
その短い返事が嬉しかった。
夫の手へ一度触れてから、控室を出た。
2000mのレースは、最初の直線から落ち着かなかった。
前へ出ようとする選手の後ろへ、何人も続いていく。私も前のほうにはいたけれど、先頭についていくために無理をするのはやめた。
自分の走る場所を決め、ひとつずつ目印を過ぎる。
観客席は、これまでよりずっと人が多かった。私の名前を初めて見る人もいるだろう。職場の同僚は、今ごろ実家でテレビをつけてくれているのかもしれない。
最後のコーナーへ近づく前から、少しずつ脚を速くした。
前の選手に並びかける。外からも足音が来た。控室で夫が名前を挙げていた相手だった。
私が内側の選手を抜くのに合わせて、その外から先頭へ出ようとしている。
内の相手が下がった。
外にいる選手と、並んだまま直線へ入る。向こうの肩が少し先へ出た。半歩後ろから追いかけ、また並ぶ。
相手も譲らなかった。
少し出られ、追いつき、今度はこちらが前へ出る。すぐ横から、息を吸う音が聞こえた。私も苦しかったけれど、脚はまだ動いている。
ゴールが近づく。
最後に、自分の肩が先へ出た。そう思った。けれど、走り終えて振り向いても、どれだけ離れていたのか分からなかった。
着順を確かめるまで、落ち着かなかった。
*
戻ると、ステラが夫の端末を両手で持っていた。
差し出された画面には、1着、リラフィオーレとあった。今日の重賞の名前も、一緒に出ている。
「勝ったね」
ようやく口にすると、娘が大きくうなずいた。
「最後まで、ずっと速かった」
「うん。相手もね」
「お母さんのほうが速かった」
言い切られて、笑ってしまった。
娘に手を伸ばしてから、夫を見る。今やっと息をついたような顔をしていた。
「今、すごく緊張してたでしょう」
「してた」
「分かりやすくなったね」
「フィオがあんな勝負するから」
その顔をもう少し見ていたかったけれど、先に取材の声がかかった。
復帰のきっかけと、普段の生活について聞かれた。
娘の練習に付き合って走ったこと。昔のトレーナーでもある夫に、もう一度出ないかと誘われたこと。営業事務の仕事は、今も続けていること。
順に答えると、聞き手は熱心にうなずいた。
「学園を卒業したころに引退する選手も多い中で、33歳の今、これだけ走れる。ご自身では驚きはありますか」
「あります。でも、練習でもまだよくなるので。今日も、次に試したいところはありました」
そう答えてから、夫を見た。
うなずいていた。まだ走ったばかりなのに、次の練習をしたくなっている。そのことが自分でもおかしくて、少し笑った。
*
週明け、ウマッターで取材記事を見つけた。
職場で昼食を終え、端末を開いたときだった。共通のレース衣装を着た私と、走り終えたときの写真が並んでいる。
『会社員なのに重賞勝ったの?』
『同じ職場だったら絶対見に行く』
そこまで読んだところで電話が鳴った。
端末を伏せ、受話器を取る。先週確認した注文の件だった。納品の予定を答え、電話を置くと、隣の同僚がこちらを見ていた。
「父、名前覚えたって」
「それは、頑張らないと」
「次も教えてね。で、この納品なんだけど」
うなずいて、仕事の画面を開き直した。
*
帰宅して夕食を済ませても、まだ仕事着のままだった。
ステラは自分の部屋で課題をしている。食器を片づけて居間へ戻ると、夫が昼間と同じ記事を開いていた。
「会社でも、見たよ」
「うん。この写真、いいなと思って」
走り終えた私が、家族のほうを向いている写真だった。髪も少し崩れていたけれど、夫はしばらく眺めていた。
隣へ座り、ブラウスの首元のボタンを1つ外した。袖も下ろそうとすると、夫がこちらを見る。
「何?」
「その服も、似合うね」
「今朝も着てたでしょう」
「朝は、ゆっくり見られなかったから」
仕事へ行くために選んだだけの服だった。そう言おうとして、やめた。横から見られていると思うと、袖口を直す手まで少し落ち着かない。
「記事は、もういいの?」
「本人がいるからね」
端末が伏せられた。夫の手が腰へ回り、ブラウス越しに引き寄せられる。
胸元を直そうとした指に夫の手が触れたので、そのまま重ねた。顔を上げると、唇が近づいてきた。
「待って。まだ口紅」
夫が止まる。その顔を見ると、待たせたくなくなってしまった。
「……少しぐらい、いいか」
こちらから口づけた。短く離れるつもりだったのに、腰へ回った腕に力が入り、もう少し続いた。
ようやく顔を離すと、夫の唇にも少し色がついていた。親指で拭ってやると、その手にまた口づけられる。
「会社の人が見たら、びっくりするだろうね」
「私が重賞勝ったほうが、びっくりしたと思うけど」
「そっちじゃなくて」
分かっていたけれど、聞き返すのはやめた。肩を寄せたまま髪のゴムを外すと、夫の指が髪の下を通り、首筋に触れた。
くすぐったくて少し身をすくめた。その手を押さえてから、離さずに自分の膝へ下ろす。
「帰ってきてまで、緊張させないでよ」
「嫌だった?」
「……嫌なら、もう着替えてる」
夫が笑ったので、頬をつついた。今度はその手首を取られ、もう一度顔を寄せられた。
*
着替えて居間へ戻り、夫とレースを見返していると、ステラもやってきた。
私が前へ出る少し手前で、娘が映像を止める。残り600mの目印より、もう少し前だった。
「いつも、ここから上げてるの?」
「相手にもよるけど、お母さんはこのくらいから上げてるね」
夫が答える。
娘が見やすいように場所を空けると、ステラは端末を少し近づけてから、こちらを向いた。
「お母さん、次はGⅠ?」
「出たいね」
夫婦で相談し始めていた予定を、夫が見せてくれた。
翌春の大阪杯だった。
娘と一緒に、その名前を見た。昔も知っていたレースだ。自分が出るつもりで見ると、同じ名前なのにずいぶん違って感じられた。
「そこで、勝ちたい」
「うん。勝とう」
その返事を聞いてから、ステラのほうを見た。
娘はもう私のレースへ戻っていた。前へ出る場面を再生し、少し戻して、もう一度見ている。
その横へ座り直し、私も一緒に画面をのぞいた。