33歳のウマ娘は娘と同じG1を目指す 作:Lagavulin
次の練習では、後ろから来るはずの足音が来なかった。
決めていた目印まで走り、速度を落として振り向く。ステラが少し遅れてゴールした。
夫のところへ戻ると、娘が私を指さす。
「今、ずるかった」
「何が?」
「速くなりそうで、ならなかった」
「ステラが来そうだったから、ちょっと考えたの」
「ずるい」
夫が映像を開いた。
私が速度を上げかけたところで、娘も一度前へ出ようとしている。そのあと追うのをやめ、元の走りに戻っていた。
「今は戻せたね」
「すごく行きたかった」
「うん。だから、今のところを見ておこう」
娘が画面へ顔を近づける。私も隣からのぞいた。
走っている間は後ろを見られなかったので、娘がこんなに迷っていたとは知らなかった。
次に自分の記録を見せてもらう。私にとっては、長く速さを保つ練習でもあった。娘がすぐ追ってこなくても、手を抜くつもりはない。
夫はそれぞれの記録を別のページに書き、ステラには短く加速した区間を示した。
「最後にこれが使えると、面白いよ」
「お母さんまで追いつく?」
「それはお母さんにも頑張ってもらおう」
2人に見られたので、うなずいた。
「頑張ります」
ステラが少し笑った。
夫は記録を書き終えると、私たちへ顔を上げた。
「2人とも、今日はよく走ったね」
「お母さんより?」
「それは、お母さんも聞きたい」
夫が記録を指したので、ステラと並んでのぞき込んだ。
*
冬休みに入る前、メイプルシフォンがまた遊びに来た。
今度はゲーム機より先に、端末を取り出した。
「ライブの練習、見てもらってもいいですか」
「この前言ってた、みんなで手を上げるところ?」
「はい。1曲だけ。でも、何回かやってもいいですか」
「もちろん」
ステラが椅子を動かし始めたので、私もテーブルの上を片づける。
ソファへ座るように言われ、ステラと並んだ。メイプルシフォンが前へ立つ。音楽を流すまでは、いつもの友人の家で遊んでいる顔だった。
歌い始めると、表情まで変わった。こちらを見て笑い、音楽に合わせて腕を上げる。隣のステラも同じところで手を上げた。
見とれていて、私だけ遅れてしまった。
「分かりにくいですか?」
メイプルシフォンが首を傾げる。
「見とれちゃって、手を上げるのを忘れてた。もう一度お願い」
「ここ、お母さんは立ったほうがいいよ」
ステラに手を引かれ、立ち上がった。
次は一緒に上げられた。メイプルシフォンが嬉しそうにうなずき、そのまま歌へ戻る。
最後まで終わると、娘と2人で拍手をした。
「本当に、これやりたいんです。大勢で」
「見に行くよ」
「ステラも来て」
「行くって。何回も言ってるじゃん」
友人はまだ心配そうだったけれど、次の短距離戦の話になると、よく喋った。最後に外へ出られるよう、担当トレーナーと練習していると話してくれた。
話しているうちにステラがソファの真ん中へ来ていたので、少し詰めてもらった。
隣へ座ると、メイプルシフォンがさっきの曲をもう一度流した。
*
そのレースの日は、夫も一緒に3人で応援へ行った。
最後の直線で、メイプルシフォンが外へ出る。
先頭までの距離が縮まっていく。ステラが友人の名前を呼び、私も続けて声を出した。
ゴールを越えた瞬間、娘が腕をつかんできた。
「勝った!」
「見た、見た」
遠くで、メイプルシフォンが両手を上げている。ステラはすぐに父親へ向き直った。
「ライブ、どこだっけ」
夫はもう、会場の地図を開いていた。
ライブが始まるころには、客席の前のほうへ着けていた。夫が小さな三脚にカメラを据え、ステージへ向ける。
揃いのライブ衣装を着たメイプルシフォンが、真ん中へ出てきた。
家で何度も見た姿だった。けれど、照明の下に立っていると、一緒にゲームをしていた子と同じだとは思えないくらいだった。
ステラと顔を見合わせる。娘も笑っていた。
合図のところが来た。
ステラが手を上げ、私も上げる。ステージからメイプルシフォンが客席へ手を向けた。
周りの人たちも、一緒に動いた。隣で娘が何か言う。音楽に紛れて聞こえなかったので、顔を寄せた。
「できたね!」
うなずいて、次の歌でも一緒に手を上げた。
終わってから合流すると、メイプルシフォンは自分のレースより先にライブの映像を見たがった。夫がカメラで撮った映像を出す。客席へ手を向けたところで止め、今度は端末で撮った客席の映像に切り替えてくれた。メイプルシフォンは娘と2人で、画面をのぞき込んだ。
「ほら、後ろのほうも!」
「うん。みんなやってた」
「次、もっと大きいところでやりたい」
画面を少し広げ、奥の観客まで見えるようにしてやった。
メイプルシフォンはしばらく黙って眺めてから、顔を上げる。
「次も来てくれますか」
「もちろん」
答える横で、ステラも大きくうなずいていた。
*
家に帰ると、夫が別の映像を見せてきた。
客席で手を上げている、私とステラだった。
「いつ撮ったの」
「途中。楽しそうだったから」
「あなたも見てたでしょう、ステージ」
「ステージはカメラで全部撮ってるよ。こっちは端末で少しだけ」
「手、ちゃんと上がってたよ」
「そこは、練習してきたもの」
画面の中で、ステラが私へ寄りかかってくる。何か言われてうなずき、また2人でステージへ手を上げていた。
そこをもう一度再生してくれる。
「今の、好きだな」
「分かったから」
端末を取ろうとすると、少し持ち上げられた。反対側からステラまでのぞき込んでくる。
「お母さん、楽しそう」
「楽しかったの。もういいでしょう」
「あと1回」
夫と娘の声が揃った。
ため息をつくつもりだったのに、先に笑ってしまった。端末を取ろうと伸ばした腕はそのままで、夫の肩へ体重をかけた。
*
ステラが部屋へ戻ってから、順に風呂を済ませた。
部屋着のワンピースに着替えて居間へ行くと、夫がソファの隣を空けてくれた。テレビも端末もついていない。
隣へ座ると、すぐに腰へ手が回った。こちらも夫の肩へ寄りかかり、足を揃えてソファへ上げる。
「今日は、楽しかったね」
「うん。また行こう」
「今度は、2人でも」
夫がこちらを向いた。
「ライブ?」
「どこでも。たまには、あなたと出かけたい」
言ってから、少し照れた。普段から練習も買い物も一緒に行くのに、今さら誘い直すのも変な気がした。
けれど、夫は嬉しそうだった。
「次の休み、どこか行こうか」
「うん。練習のあとでもいいから」
腰にあった手が背中を撫でた。夫の胸へ向き直った拍子に、部屋着の裾が膝より上へずれた。直しかけた手を、夫の手が取った。
「寒い?」
「そうじゃなくて。……見えるでしょう」
夫が一度目を落とし、また私を見る。
「見ていい?」
「聞かれると、困るんだけど」
少し迷ってから、重なっていた手を自分の膝へ置いた。夫の指が、そこからゆっくり腿を撫でる。
顔を見ているのが恥ずかしくなり、夫の肩へ額をつけた。
「今日は、走ってないわよ」
「うん」
「だから、脚の手入れは頼んでない」
夫が笑った。腿にあった手が止まり、代わりに髪へ口づけられる。
少し身体を起こして、顔を見た。
「……そこまでやめなくていいのに」
今度は夫のほうが、少し困った顔になった。笑う前に、自分から唇を重ねた。
背中へ回った腕が、私をもう一度抱き寄せる。部屋着の裾を直す代わりに、夫の肩へ手を置いた。