TSしたので儚い女をめざします 作:儚くない女
雲を抜けて隠れ家に飛び帰ると、私は真っ先に脇の下を確かめた。
やっぱり。縫い目がぱっくり裂けている。
次の街でデビューするのに、裂けた服では儚くない。まずはこれを直さねば。
ワンピースを脱いで針と糸を手に取り、壁の姿見の前に立つ。
「おかえりなさいませ、ミラージュさま。今日も実に、貴女は儚い」
鏡から声がした。鏡の中の私だけが、勝手ににこにこしている。
「お世辞はやめて」
十八年前、山奥に捨てられた私を拾ったのが「こいつ」だ。
ちなみにミラージュという名前は自分でつけた。蜃気楼。儚そうだから。
「今朝はずいぶんと派手に散らしておられましたね」
「派手じゃない。儚く散らしたの」
「左様でございますか」
私は書棚から魔導書を引き抜いて鏡に突きつけた。
「この魔導書は初心者向けって言ったよね!?」
「ええ、本にもそう書いてあるでしょう? 猿でも使える初級魔法、と」
擦り切れた表紙には確かにそう書いてある。何百回と開いた頁を指でなぞった。
『初級火魔法・線香花火——杖の先に小さき火を灯し、儚く散らすべし』
何度読み返しても、書いてある。私は今朝、その通りにやった。日傘の先に小さな火を灯して儚く散らした。散ったのは魔物の群れだったが。
物心ついて自分がTS転生したのだと気がついてからは山奥で自給自足しながら、前世でずっと憧れていた儚い女を、ただひたすらに目指してきた。
日傘の差し方を練習した。消え入りそうな声を練習した。遠くの空を眺めて微笑む練習は、山の上で三年続けた。咳の練習で山を一つ削ってしまったが、あれは事故だ。
そして今朝、満を持して山を降り、困っていた村を儚く救ってみせたのだ。
それが、なぜ「やばい女」に……!
「あんな村には、まだミラージュさまの儚さがわからないのです……」
そうそう、そうだよね!?
「鏡よ鏡よ鏡さん! この世界で一番儚いのは誰?」
「もちろん、あなたさまにございます」
「ですよね! やっぱり! まちがいない!」
鏡に映る自分を上から下まで眺める。細い肩。折れそうな手首。色の抜けたような白い肌に、薄い胸。
みごとなうすほそである。
この体は必死の努力のたまものだ。儚い女たるもの、透き通るような肌を保たねばならない。だから食事は木の実と山菜と川魚で栄養の釣り合いを考え、日が沈んだら床に就いてたっぷり眠る。
朝は谷の湧き水で顔を洗い、薬草を煮出した化粧水で肌を整え、昼は日傘の影から一歩も出ない。おかげで肌も髪もつやつやで、生まれてこのかた風邪ひとつ引いたことがない。
「ええ、まことに儚うございます。山を削るほどに」
「どう見たって儚いだろ!!」
一通り叫んでみたが、特に解決はしない。鏡の中でこいつが肩を震わせていた。
この屋敷も儚い女といえば古民家だろうと、私が自分の手で建てた。魔法は使っていない。裏山の杉を素手で引き抜き、丸太を一人で担いで先月ひと月で建てた。縁側も、障子も、苔むした庭石もある。
儚い女の古民家は、訪ねてももぬけの殻でなければならない。良くも悪くも誰も寄り付かないこの山奥は、うってつけだ。どれだけ叫んでも、誰にも聞かれない。
縁側に腰を下ろして裂け目に針を通す。
縫い物は得意だ。儚い女は縁側で繕い物をするものなので、これも十年練習した。
「そういえば、ミラージュさま」
姿見からまた声がした。
「儚い女というものは、縫い物の途中で指を刺し、ぷくりと浮いた血の玉を見つめて、ため息をつくものだそうでございますよ」
「それ、すごく儚い」
針を持ち直し、左の人差し指の腹へそっと押し当てると、針が折れた。
二本目も折れた。三本目は指先に弾かれ、くの字に曲がって縁側の板に突き刺さった。
「刺さらないんだけど」
「針のほうが、よほど儚うございましたね」
姿見の中の私が口もとを押さえている。
血の玉は諦めて、縫い目だけを見つめてため息をついてみた。ため息で庭の苔が一枚めくれた。
裂け目を縫い終える頃には日が傾いていた。
お腹が空いた。
ぐう、と腹の虫が鳴いて、障子が三枚まとめて庭へ吹き飛んでいく。
「まあ。なんと儚いお腹の音でございましょう」
「でしょ?」
障子は明日張り直すことにした。
儚い女は、たくさん食べない。こいつがそう言うので、デビューに備えて昨日から何も食べていない。そして今朝は、大きめの線香花火を一つ打ち上げている。
「ねえ。儚い女って、夕ご飯はどれくらい食べるの?」
「お粥を三口でございます」
「三口……」
頭の中に、麦酒のジョッキが三杯並んだ。焼いた肉の匂いまでした。
いけない。儚い女は、お粥を三口。お粥を、三口——
ぐうううう、と腹の虫が鳴いた。
今度は屋根瓦が十枚まとめて剥がれ、裏山の向こうまで飛んでいった。
「……街で、つつましく何か食べてくる」
「ええ、ええ。儚い女も、たまにはお粥以外を召し上がるものでございます」
直したワンピースに袖を通して縁側に立つ。
よし、行くか。
◇ ◆ ◇
「おいおい、またあの屋敷から叫び声が聞こえたぞ……」
薪を背負った木こりが山道の途中で足を止めた。連れの男が木々の向こうに覗く奇妙な屋根を見上げて、声を潜める。
「やっぱ住んでるんじゃねーか……幽霊がよ……」
「見たこともねえ造りの屋敷が、ひと月でいきなり建ったんだろ? 人の住むもんじゃねえよ」
「なんか白いやつを見たって噂もあるぜ……白い服で、ふわふわ浮いてたってよ……」
二人は顔を見合わせ、そろって身震いした。
「……行ってみるか」
「やめとけって」
「なに、行ってみたって、どうせもぬけの殻だろ」
強がった方が先に立ち、二人は藪をかき分けて屋敷の垣根から中を覗き込んだ。
庭には細い木の格子に紙を張った戸板のようなものが三枚、骨をへし折られて転がっている。家のぐるりに張り出した板の床にはくの字に曲がった鉄の針が深々と突き立っていた。庭石を覆う苔は一か所だけべろりとめくれている。
「やっぱり、幽霊屋敷だ……」
瞬間、布が裂けるような音とともに白い何かが飛び立った。
「あーーー!!! 私よりワンピースの方が儚いのかよ!」
ドラゴンの咆哮もかくやという轟音が空気を震わせる。
「ひぃっ!」
「ば、化け物!」
「二度とこの屋敷に近づきません! ゆるしてください!!!」
木こりたちは薪を放り出して、山道を転がるように駆け下りていった。