三歳になった。
生まれたばかりのころに感じた、腹の奥にある硬い何か。
何度呼びかけても反応しない頑固者だったので、僕はひとまず魔力炉と名付けた。
最初は押しても引いてもびくともしなかったが、毎日欠かさず意識を向けているうちに、少しずつ魔力を引き出せるようになった。
一歳になるころには全身へ行き渡らせ、肉体を強化することにも成功した。
三歳になった今、本気で魔力を巡らせれば、前世の僕と同等の力を発揮できる。
十キロを全力で走っても、息切れすらしないだろう。今なら、あの渓谷から落ちても無傷で生還できるに違いない。
試してみたい気持ちはある。
だが、この身体はまだ三歳だ。万が一ということもあるので、五歳までは我慢しようと思う。
僕は自制のできる男なのだ。
問題は、せっかく手に入れた魔力の使い道が、身体強化以外に分からないことだった。
もちろん、使い道そのものは知っている。
魔術だ。
この家には、間違いなく魔術が存在している。
僕が一歳のころ、父上は部屋の扉へ何かを施した。僕が廊下へ出ようとするたび、見えない壁に弾き返されたのである。
息子の冒険心を魔術で封じるとは、さすが異世界の父親だ。
もっとも、二歳になるころには結界も解かれた。言葉を覚え、勝手に屋敷の外へ出ないと約束したからだ。
屋敷の中なら、冒険してもよい。
僕はそう解釈した。
探検の結果、僕が生まれたチューニ家は、かなり裕福だと判明した。
窓から見えるどの家よりも大きく、庭も書庫もある。使用人までいるのだから、おそらく貴族だろう。
何より、メイドのニャンシーには猫の耳と尻尾が生えていた。
一度だけ好奇心に負けて尻尾へ触れたところ、彼女は耳まで真っ赤にして飛び上がった。
「もう、エヒト様!獣人の尻尾に触れていいのは、番だけなんですよ!」
なるほど。獣人族には、獣人族の価値観があるらしい。
異文化は尊重しなければならない。それ以来、触ることは控えている。
目で追うくらいは許してほしい。
あの尻尾は、実にふわふわしていた。
ニャンシーの監視を抜け、書庫へ忍び込むことにも成功した。
気配を殺すのではなく、空気へ溶け込み、そこにいることを不自然と思わせない。
前世で忍者の師匠から教わった技術である。
もっとも、その師匠は後に不法侵入で逮捕された。
忍び込む場所を間違えたのだろう。
せっかく書庫へ到達したものの、当時の僕には文字が読めなかった。
どれが魔術書なのかすら分からず、本棚を眺めて帰るしかない。
魔術への道は遠い。
そう思っていたある日、六歳になった兄上が僕の目の前で魔術を使った。
兄上――リヒト・チューニは、母上譲りの赤い長髪を持つ、とんでもない美少年だ。
父上と母上の優秀な遺伝子が、相談の末に最適な形で配分されたとしか思えない。
その兄上が指先を向けると、燭台へ小さな火が灯った。
「兄上。今のはどうやったのですか」
「エヒトなら、いつか使えるようになる」
優しく頭を撫でられた。
いや、使い方を教えてくれよ。
兄として、弟に格好いいところを見せておきたいのだろう。その気持ちは分からなくもないので、僕は追及しなかった。
代わりに父上へ頼み込むと、幼い僕にも扱える魔術を一つだけ教えてくれることになった。
父上の名は、ダントツ・チューニ。
黒髪に少し猫背という、いかにも研究室から出てこない魔術師らしい風貌をしている。かつては宮廷魔術師を務め、王級にまで至ったらしい。
対して母上のキリア・チューニは、燃えるような赤髪をツインテールにした剣士だ。性格も烈火のごとく真っすぐで、王級武人であることを何度も僕へ自慢してきた。
どうやら、魔術師と武人には等級があるようだ。神級、聖級、王級、上級、中級、低級となっている。つまり、母上も父上も同じ等級だ。
しかし、魔術師と武人が同じ等級であれば魔術師の方が強いことが多いようだ。
武人と呼ばれるものたちは、身体強化のみであとは技量、魔術師はパワータイプなので互角だと負けてしまう。
ちなみに一度、その剣を見せてもらったことがある。
純粋な技術だけなら、前世の僕にも理解できる部分はあった。だが、魔力で強化された身体能力まで含めれば話は別だ。
どれだけ優れた武術でも、核兵器とは戦えない。
今の僕が母上へ挑んでも、勝負にすらならないだろう。
そんな母上は「魔術より先に身体を鍛えなさい」と主張したが、父上は僕の熱意に負け、一つだけという約束で教えてくれた。
「いいかい、エヒト。魔術とは、根源から力を借りるための技術なんだ」
「根源?」
「今は、神様へお願いするものだと思えばいい。願いを届けるためには、使いたい魔術を明確に想像して、詠唱する必要がある」
父上が右手を差し出す。
「大地を撫でる、目には見えぬ自然の息吹よ。我が願いに応え、その風をこの手に宿せ――《ウィンド》」
次の瞬間、父上の手から柔らかな風が吹き抜けた。
髪が揺れ、頬を涼やかな空気が撫でていく。
本物だ。
映像でも、手品でもない。
僕が人生を懸けて探し続けた、本物の魔術が目の前に存在している。
「父上!」
感動のあまり抱きつくと、父上の身体が固まった。
「僕、父上のことが大好きです!」
「そ、そうかい? はは……父さんもエヒトが大好きだよ」
普段は真面目な父上の顔が、見たこともないほど緩んでいた。
ちょろいもんだぜ。
それから父上は、母上に見つからない範囲で、たびたび魔術を教えてくれるようになった。
最初は、教えられたとおりに詠唱した。
「大地を撫でる、目には見えぬ自然の息吹よ。我が願いに応え、その風をこの手に宿せ――《ウィンド》」
手のひらに、そよ風が生まれる。
成功した瞬間は、思わず何度も飛び跳ねた。
しかし、十回、二十回と繰り返すうちに、一つの疑問が浮かんだ。
この詠唱、長くないか?
試しに、前半を省いてみた。
「我が願いに応じ、この手に風を宿せ――《ウィンド》」
風は出た。
「風よ、この手に宿れ――《ウィンド》」
これでも出る。
「《ウィンド》」
問題なく出た。
ならば、魔術を発動させているのは言葉そのものではない。
詠唱は、起こすべき現象を術者の中へ形作るためのものだ。
僕は目を閉じ、先ほどまで唱えていた言葉を頭の中だけでなぞった。
大地を撫でる、目には見えぬ自然の息吹。
世界を流れる風の一部を、手のひらへ引き寄せる。
言葉にはしない。
しかし、詠唱によって作られるイメージは、すでに頭の中にある。
直後、部屋の中を強い風が駆け抜けた。
机の紙が舞い上がり、積んでいた玩具が音を立てて転がっていく。
「できた……」
詠唱は、魔術を発動させるための絶対条件ではない。
根源からどのような力を借り、それをどのような現象へ変えるのかを示した設計図なのだ。一度その形を覚えてしまえば、頭の中で再現するだけでも魔術は発動する。
さらに、詠唱をただ暗記するのではなく、その一節一節が何を意味しているのかまで理解すれば、同じ言葉を使う必要さえない。
風がどこから生まれ、どう流れ、何を動かすのか。
そこまで正確に思い描けるなら、詠唱とは異なるイメージからでも、同じ現象を引き起こせるはずだ。
つまり――詠唱は破棄できる。
新たな発見に歓喜し、さらに魔術を使おうとしたところで、身体から力が抜けた。
どうやら、魔力を使い切ったらしい。
床へ倒れ込んだ僕を見つけた父上は、真っ青な顔で抱き上げた。
目を覚ますと、母上が笑顔で父上の頬をつねっていた。
それからしばらく、秘密の魔術教室は中止となった。
◇
それから二年。
五歳になった僕は、この世界の文字を読めるようになっていた。
この体は優秀なことに物覚えはずば抜けてよい。
おかげで待ちに待った書庫の解禁である。
まず手に取ったのは、『創成記』という歴史書だった。
それによると、この世界は創造神によって作られたらしい。創造神は自らの力を七つに分け、世界の管理を任せた。
その七つが根源と呼ばれ、龍族、人族、巨人族、獣族、精霊族、天使族、魔族を生み出したという。
龍族には興味があったが、残念ながら人族とは仲が悪いようだ。
さらに父上が言っていた根源とは神の力のことだった。七体の根源が世界を形作っているようだ。
続いて読んだ『七栄伝』には、世界の外から現れた虚と呼ばれる敵と、七人の英雄との戦いが記されていた。
世界の危機に際し、七つの根源は各種族の代表者へ特別な力を与える。その選ばれた者こそが、英雄である。
そして現在、人族の英雄である勇者は、三百年以上も現れていない。
「ふ、ふふ……ははははは!」
「エヒト様。書庫ではお静かに」
「ごめんなさいニャンシー」
扉から顔を出したニャンシーへ謝り、僕は本を閉じた。
すべてがつながった。
転生前、あの声は言った。
『大いなる力を求める者よ、その願いを叶えてやろう』
長く現れない人族の英雄。
世界の外からやってきた僕。
間違いない。
この世界には勇者となるにふさわしい者がいなかった。だから、世界は異世界にいた僕を選んだのだ。
魔術が存在する世界では、ただ魔術師になっただけでは本物とは呼べない。こちらでは、それが普通なのだから。
だが、勇者なら話は別だ。
世界の危機へ立ち向かい、人々を救う唯一無二の英雄。薄暗い部屋で紅茶を飲みながら世界情勢を語っていた、あの秘密結社とは訳が違う。
まさしく、本物だ。
もちろん、書庫にあった魔術書も読んだ。
魔術書によれば、根源から借りた力を望んだ現象へ変換する仕組みを、魔術式と呼ぶらしい。そして、その魔術式を人間にも扱える言葉へ置き換えたものが、呪文である。
魔術書に載っている呪文を読み解けば、対応する魔術式を頭の中へ再現できる。一度その構造を覚えてしまえば、わざわざ声に出して詠唱する必要はない。
さらに、呪文が何を意味しているのかまで理解すれば、同じ言葉を頭の中でなぞる必要さえなくなる。
どのように力を流し、どのような現象を起こすのか。
それさえ正確に理解していれば、呪文とは異なるイメージからでも、同じ魔術式を組み立てられるのだ。
だが、知らない魔術まで想像だけで生み出せるわけではない。
魔術式は力の流れを示す設計図であり、呪文はその設計図を言葉へ置き換えたものだ。設計図も原理も知らなければ、頭の中で再現することはできない。
そして、書庫にあるのは、あくまで初心者向けの魔術書だけだった。
より高度な魔術式を知るには、十五歳になって学園へ通うしかないらしい。
だが、覚醒イベントが起きるまで、ただ待ち続けるのは性に合わない。
来たるべき日に備え、今からできることを始めるべきだ。
そうして僕は気配を世界に溶け込ませて、家族に黙って町の外にある森で修行を始めた。
さて、二話目です。
一話目でやばさを感じながらもノリノリで書きました。
もう、止まれません(真顔)