俺には、物心がつく前から声が聞こえていた。
初めは、眠りかけたときに耳の奥で鳴る雑音のようなものだった。
何かを言っている気はするのに、言葉までは聞き取れない。
その声が初めてはっきり聞こえたのは、俺が三歳のとき。
弟のエヒトが生まれた夜だった。
『今の揺らぎは……何だ?』
知らない男の声だった。
驚いて辺りを見回しても、いるのは生まれたばかりの弟と、疲れ切った母さん、それから弟を抱いて泣いている父さんだけだった。
『ついに生まれてしまったのか、虚の英雄が』
声は、誰に聞かせるでもなく呟いていた。
「ほら、リヒト。弟だよ」
父さんが、俺の前へ赤ん坊を差し出す。
「兄ちゃんだよー」
恐る恐る伸ばした指を、小さな手が握った。
温かくて、柔らかくて、少し力を入れたら壊れてしまいそうだった。
『見つけなければ。今度こそ、手遅れになる前に』
声が誰を探しているのかは分からなかった。
けれど、この小さな弟だけは自分が守ろうと、そのとき決めた。
◇
エヒトが生まれてから、声は以前より頻繁に聞こえるようになった。
『どこだ』
『奴が動き出す前に、見つけなければならない』
こちらから呼びかけても返事はない。
耳を塞いでも、声は頭の中へ直接響いてくる。
怖くなって母さんへ相談したこともある。
けれど、母さんには何も聞こえなかった。
それだけではない。
声がはっきりするにつれ、俺は同じ夢を見るようになった。
自分のものではない、大きな手。
その手が剣を握り、人を斬り、家を焼いていく。
助けを求める声も、泣き叫ぶ声も止まらない。
それなのに、夢の中の俺は笑っていた。
そして、何もかもが燃え尽きたあと、暗闇の奥から何者かが囁く。
『これで、お前は自由だ』
いつも、そこで目が覚めた。
息ができなくなり、母さんの寝室へ駆け込んだこともある。
それでも不安が消えない夜は、エヒトの部屋へ行った。
弟は俺が突然抱きついても、不思議そうな顔をするだけで、最後には小さな腕を背中へ回してくれた。
エヒトは可愛い。
俺を慕ってくれるし、少し変わっているけれど、優しい弟だ。
だから、夢の中でどれだけ恐ろしいものを見ても、エヒトの温かさに触れると安心できた。
いつしか俺は、声を無視するようになった。
相手にしてはいけない。
これはきっと、俺の頭がおかしくなっているだけだ。
そう思い続けて、五年が過ぎた。
◇
八歳になった、ある夜のことだった。
『――来る』
頭の中へ響いた声で、俺は目を覚ました。
窓の外は暗い。
いつもと変わらない夜の森が、遠くに黒く沈んでいる。
けれど、その奥から目に見えない何かが広がってきていた。
空気よりも薄く、霧よりも速い。
肌ではなく、身体の内側を撫でられているような気持ち悪さだった。
「何だよ、これ……」
『今、俺の声に答えたのか?』
初めて、声と会話が成立した。
まさか返事が来るとは思わず、俺は布団を頭までかぶった。
『頼む。聞こえているなら返事をしてくれ』
声から、それまでにない焦りが伝わってくる。
『何かが森からこちらを探っている。このままでは、お前だけではなく周囲の者まで被害が及ぶぞ』
その言葉を聞いて、俺は布団を払いのけた。
「家族も危ないのか?」
『分からない。だが、あれが何を探しているにせよ、触れさせない方がいい』
「どうすれば止められる?」
『その前に名前を教えろ。お前との繋がりを確かなものにする』
一瞬だけ迷った。
声の正体は分からない。
名前を教えたことで、何をされるかも分からない。
それでも、隣の部屋にはエヒトがいる。
母さんのお腹には、もうすぐ生まれる弟か妹もいる。
「俺はリヒト・チューニ。チューニ家の長男だ」
自分の役目を言い聞かせるように、名前を告げた。
『見えたぞ、リヒト。森の奥から、何かがこちらへ伸びている』
俺は寝間着のまま屋敷を飛び出した。
森へ続く道まで来ると、不快な気配がさらに濃くなる。
見えない何かが木々の間を抜け、少しずつ屋敷へ近づいていた。
「あれは何なんだ?」
『分からん。だが、普通の魔力ではない。世界の理から外れた何かが混じっている』
「止められるのか?」
『お前一人では無理だ。俺の力を貸す』
胸の奥が熱くなった。
自分のものではない魔力が、細い糸のように身体へ流れ込んでくる。
『両手を地面へ置け。屋敷を包む境界を思い描け』
言われたとおりに膝をつき、土へ両手を押し当てる。
『我が名において境を定める』
「我が名において境を定める」
『内なる者に安寧を。外なる災いに拒絶を』
「内なる者に安寧を。外なる災いに拒絶を」
『閉ざせ――《
「閉ざせ――《
地面を走った光が、屋敷を囲んだ。
淡い壁が立ち上がった直後、森から伸びてきた何かが、その表面へ触れた。
音はしない。
何かが壊れることもない。
それでも、結界を通じて頭の中を覗き込まれるような感覚が流れ込んできた。
「うっ……!」
両腕が震える。
魔力が、ものすごい勢いで吸い出されていく。
『意識を切らすな! 受け止めるのではなく、左右へ流せ!』
「簡単に、言うな!」
俺は歯を食いしばり、真正面から押し返すのをやめた。
屋敷を避けるように結界の形を変え、触れてきた力を左右へ受け流す。
見えない何かは結界の表面を滑り、やがて夜の闇へ溶けていった。
光の壁が消える。
同時に全身から力が抜け、俺はその場へ倒れ込んだ。
「防げた……のか?」
『ああ。少なくとも、屋敷へは触れさせていない』
夜空を見上げながら、荒い息を整える。
「お前は、誰なんだ?」
ずっと聞きたかったことを尋ねた。
『……今は答えられない』
「今は?」
『俺には、名乗る資格がない』
それ以上、声は何も話さなかった。
信用できるはずがない。
正体も、目的も、どこにいるのかさえ分からない相手だ。
それでも、こいつがいなければ今夜は何もできなかった。
「あれは、また来るのか?」
『分からん』
「次も防げるか?」
声は、すぐには答えなかった。
『今のお前では無理だ』
悔しかった。
今回は声の力を借り、運よく防げただけだ。
次に来るものがもっと強ければ、俺には家族を守れない。
土を握りしめ、震える足で立ち上がる。
「俺を鍛えろ」
『何?』
「剣も、魔術も、結界もだ。お前が知っていることを全部教えろ」
『正体も知らない相手を信用するのか?』
「信用なんかしていない」
家族を守るために使えるものがあるなら、何だって使う。
「お前が悪いやつなら、そのときは俺が止める」
長い沈黙のあと、声が小さく笑った。
『いいだろう。夜明けまで、あと二時間ある』
「今からやるのか?」
『家族を守りたいのだろう?』
言い返せなかった。
俺は木剣を取りに屋敷へ戻る。
廊下を通る途中、エヒトの部屋の前で足を止めた。
扉の向こうは静かだった。
きっと、深く眠っているのだろう。
「心配するな、エヒト」
声を潜め、扉へ背を向ける。
「次も、兄ちゃんが守るからな」
この夜から、俺は名も知らない声を師として、誰にも言えない修行を始めた。
彼こそが主人公であってくれよ
そうはいいつつ、森から魔力....誰だろうな(棒読み)