男が包帯の解けた右腕を突き出した。
黒く変色した皮膚が脈打ち、その内側から何本もの触手が這い出してくる。
「喰らえ――《
魔術について、以前から一つ疑問があった。
魔術とは、根源から力を借りるための技術だという。
人を英雄にまで変える存在から力を借りておきながら、本当に魔力を支払うだけで済むのだろうか。
最初は、魔力こそが唯一の代償なのだと思っていた。
それは正解であり、不正解でもあった。
魔術書に詳しい説明がなかったのは当然だ。誰にでも核兵器の作り方を教えるような真似は、どの世界でも避けるべきだろう。
だが、魔術書で得た知識と、目の前の男が使った魔術式を重ね合わせたことで、ようやく理解できた。
僕たちが普段使っている魔術は、根源の力を直接引き出しているわけではない。火、水、風、光、闇という属性の枠へ無理やり押し込み、人間にも理解できる形にまで弱めている。
属性とは、理解できないものを理解するための翻訳機であり、強大すぎる力から術者を守る檻なのだ。
けれど、男の右腕に属性の枠はない。
根源へつながる魔術式を肉体へ直接刻み込み、自分の腕そのものを通り道にしている。魔力の消費を抑える代わりに、耐え切れない力を肉体で受け止めているのだ。
あの痛々しい右腕こそ、力を借りた代償だった。
「ずいぶんと痛そうな腕だね」
「大いなる犠牲の上で正義はなされるのさ!」
素晴らしい。
痛みを抱えた異形の腕を誇り、そこから黒い触手を放つ。前世の僕が何度夢見ても手に入れられなかったものを、この男は本当に持っている。
「ねえ、お兄さん。その腕は、どの根源とつながっているの?」
「教えるわけがないだろう」
「ケチだな。なら、直接確かめるしかないか」
全身へ魔力を巡らせた瞬間、黒い触手が地面を削りながら迫ってきた。
速い。あくびを一回も出来なさそうだ。
ゴブリンとは比べ物にならない。
僕はその場で跳躍し、頭上へ逃れた。会話の間に右手へ集めていた圧縮した風を、眼下の触手へ向けて解き放つ。
「無駄だ」
触手の先端が裂け、獣の口のように開いた。
圧縮した風を丸ごと呑み込み、さらに新たな触手が枝分かれして、空中の僕へ伸びてくる。
「なるほど。いい触手だ」
足元で小さな風の塊を破裂させる。
反動で身体を横へ飛ばし、追ってきた触手を避けた。空中で一回転して着地し、服についた土を払う。
「俺の攻撃を避ける体術に、見たこともない風魔術の使い方……。お前、本当にガキか?」
失礼な男だ。
どこからどう見ても、ぴちぴちの五歳児ではないか。
風魔術の圧縮には5秒の時間がかかる。しかし、一回で一個というわけじゃない。最大五個同時に作っていられる。
さらに、僕が風魔術を愛用するのは見えないというメリットがある。
とはいえ、このまま魔術を撃ち続けても《
どれだけ工夫したところで、使っているのは属性という枠に収められた魔術。根源へ直接触れているあの腕とは、そもそもの出力上限が違う。
ならば、魔術だけで戦わなければいい。
僕には、前世から鍛え続けてきた身体操作がある。
両足の裏で圧縮した風を破裂させた。
一瞬で男との距離を詰める。
「戦い方を変えたか!」
男が右手を地面へ叩きつけた。黒い脈が地中へ広がり、僕の足元まで一直線に走ってくる。
「喰らいつくせ――《
地面を突き破り、巨大な牙を思わせる触手が左右から噛みついてきた。
やっぱり、魔術は格好いい。
牙が閉じる寸前、右側だけで風を破裂させる。進行方向を無理やり変え、触手の隙間を抜けて男の死角へ回り込んだ。
再び風を噴射し、その背中へ拳を叩き込む。
「ぐおっ!」
直撃する寸前、男が身体をひねって左腕で受けた。
拳に込めた衝撃で数メートル先まで吹き飛ばしたものの、倒すには至らない。受ける瞬間、男は左腕へ魔力を集中させていた。
「危なかったぜ、くそガキ。判断が少しでも遅れていたら、背骨を折られていた」
男はすぐに起き上がろうとした。
しかし、その右腕が大きく脈打った途端、苦悶の表情を浮かべて膝をつく。
「ぐっ……静まれ。まだ、俺は喰われていない。俺がお前を支配している……!」
右腕を押さえながら、自分の力へ必死に語りかけている。
おお、神よ。
まさか、この光景を生で拝める日が来ようとは。
力を封じる包帯。異形と化した右腕。暴走しかける力へ呼びかける姿。
間違いない。
この男は、僕と同じ側の人間だ。
それなのに、肉弾戦で倒そうとした僕は何をしているのだろう。
同類が己のすべてを懸けて魔術を放ったのなら、こちらも魔術で応えるのが礼儀というものだ。
「悪かったね。僕の名前は、エヒト・チューニだ」
「チューニ……? なぜ、チューニ家の次男がここにいる!」
男が明らかに動揺した。
やはり、僕が勇者になる人間だと知って狙ってきたのだろう。
覚醒イベントとは、ただ待っていれば向こうから訪れるものではない。自分から行動し、つかみ取ってこそ意味がある。
今が、そのときだ。
僕は森一帯へ張り巡らせていた魔力へ意識を向けた。
あの触手が動くたび、僕の網も揺れていた。
最初の一度では分からなかったが、二度、三度と触れたことで、右腕の内部を流れる魔力の道筋が見えてきた。
男の術式は、僕たちが使う魔術よりも単純だった。
肉体の各所へ刻まれた魔術式が、右腕の式へ魔力を送り込んでいる。
複雑な詠唱がないのは、常に術式が完成した状態だからだ。《
根源の名は分からない。
だが、男の術式が根源へ伸ばした道は、すでに僕の脳が記憶している。
ゼロから術式を作ることはできない。だが、目の前に設計図があるなら話は別だ。
同じものを肉体へ刻めば、僕の右腕もいずれ喰われるだろう。
ならば、肉体の外に作ればいい。
僕は右腕を覆うように魔力を流し、空中へ一時的な魔術式を組み上げていく。
肉体を通り道にしない分、必要な魔力量は桁違いに増える。それでも、代償が腕一本から魔力へ変わるのなら安いものだ。
「ねえ、お兄さん。素晴らしい魔術を見せてくれたお礼をさせてよ」
無詠唱でも発動できる。
しかし、せっかくの覚醒なのだ。詠唱がなければ盛り上がらない。
ここで僕の黒魔術Vol.3の23ページから引用させてもらう。
「闇を喰らう魔の手。されど、その手は僕には届かない」
右腕を包む魔力が、夜よりも深い黒へ染まっていく。
「なんだ、その魔力は……。お前、何をするつもりだ!」
「その手が伸びた先にあるのは、光すら沈む底なしの闇」
「やめろ! それ以上、その術式へ魔力を注げば――」
「この魔術を君へ捧げよう。深淵さえも喰らい尽くす、果てなき欲望の根源を」
男の魔術が《闇喰》なら、僕の魔術は《暴食》と名付けよう。
「――《
僕の右腕を喰らうように、巨大な黒い手が現れた。
男も残った力を振り絞り、《
二つの黒が、夜の森で正面からぶつかった。
触手は僕の手へ喰らいつこうとする。しかし、《
男の代償ありきの不安定な出力とは違い、僕の方は代償なしだが安定しているのだ。
「な、なんだ、その魔術は……。まさか、俺の《
「失礼だね」
黒い手が男の右腕を呑み込み、肩へ、胸へと迫っていく。
「模倣じゃない。僕が完成させてあげたのさ」
男の叫びは、闇の中へ吸い込まれていった。
やがて《
「やっぱり、魔術は面白い」
右腕を握り、何度か開いてみる。
男のように黒く変色してはいない。肉体へ術式を刻まなかったことが正解だったのか、それとも全魔力の九割を代償として吸われたからなのか。現時点では判断できなかった。
唯一残念なのは、男をすべて喰らってしまったことだ。
せっかく同類と出会えたのだから、もう少し話をしてみたかった。
魔力をほとんど使い切った身体を引きずり、僕は屋敷へ帰った。
ベッドへ潜り込むと、すぐに眠気が押し寄せてくる。
初めて魔物を倒し、初めて本物の魔術使いと戦い、新しい魔術まで完成させた。
今日は、実にいい日だった。
かっこいい魔術を扱えて満足の主人公
ということで次回は裏事情です。