「わっ!」
王都の大通りを歩いていたメチャ・スーゴワルへ、一人の少年がぶつかった。
少年は尻もちをつき、手にしていたアイスを取り落とす。溶けかけたアイスが、メチャのズボンへべったりと付着した。
王都でも名の知れた職人に仕立てさせた一着である。付き従っていた護衛が顔色を変え、少年を怒鳴りつけようとした。
「貴様、侯爵閣下になんという――」
「よい」
メチャが片手で制した。
少年の前へ膝をつき、怯える頭を優しく撫でる。
「大丈夫か。怪我はしていないか?」
「は、はい……。でも、服が……」
「服なら、また仕立てればいい。其方の身体は一つしかないのだから、そちらの方が大切だ」
メチャは懐から銀貨を一枚取り出し、少年の小さな手へ握らせた。
「これで新しいアイスを買えばいい。余った分は、お母さんと一緒に何かおいしいものでも食べるといい」
「あ、ありがとうございます!」
少年は何度も頭を下げ、通りの向こうへ駆けていった。
一部始終を見ていた民衆から、感嘆の声が漏れる。
「やっぱり、メチャ様はお優しい方だ」
「あれだけ高そうな服を汚されたのに、子どもの心配をするなんて」
メチャは周囲の人々へ穏やかな笑みを向けた。
「子どもは国の宝だ。皆で大切にしなければならないよ」
民衆へ丁寧に手を振りながら、メチャはその場を後にした。
ゴルゴン王国には、四つの侯爵家が存在する。
中でもスーゴワル家は特別だった。かつて王国を治め、一度は滅びたジェスター王家。その血を現在まで受け継いでいるのが、スーゴワル家である。
現当主であるメチャ・スーゴワルは、政治家としても優秀だった。
貧民街の治安改善。孤児を保護する施設の設立。生活に困窮する家庭への食料支援。中でも、犯罪組織に誘拐された三十人の子どもを救出した事件は有名である。
民衆は敬意を込め、彼をこう呼んでいた。
――慈愛の侯爵。
◇
屋敷へ戻ったメチャは、玄関を通り抜けるなり笑顔を消した。
「この服を脱がせろ」
使用人たちが急いで上着とズボンを脱がせる。
「処分いたしますか?」
「燃やせ。灰も残すな」
服には、アイスが少し付着しただけだった。
それでもメチャは浴室へ向かい、用意させた聖水を頭から浴びた。一度では足りない。二度、三度と繰り返し、使用人に全身を洗わせる。
肌が赤くなっても、汚れが落ちた気はしなかった。
「下民め」
吐き捨てるように呟く。
慈愛の侯爵。
その称号ほど、彼に似合わない言葉はなかった。
三十人の子どもをさらわせた犯罪組織も、貧民街の治安を悪化させた者たちも、裏ではメチャとつながっていた。
秘密結社――
彼らと手を組んで問題を起こし、それを自ら解決する。被害も、救済も、民衆から向けられる感謝さえも、メチャにとっては王座へ至るための道具にすぎない。
すべては、現王家であるゴルド家から王位を奪うためだった。
◇
事の発端は、数日前に開かれた王族と四侯爵家の会議である。
会議を終え、迎えの馬車へ向かっていたメチャを、一人の男が追いかけてきた。
「聞きましたぞ、メチャ様」
スーゴワル派に属する貴族、コソワールだった。
人目があることにも構わず、その顔には怒りが浮かんでいる。
「陛下が、シェヴァ王女殿下の婚約相手として、チューニ家の長男を考えているという話は本当なのですか?」
「耳が早いな」
「なぜです。シャロン王女殿下の件では、我々も国のためと思い、一度譲っております。それなのに、第二王女殿下まで他家へ嫁がせるなど」
スーゴワル家と王家の婚姻は、一つの家だけの問題ではない。実現すれば、派閥に属するすべての貴族の発言力が増す。
それを二度も反故にされれば、スーゴワル派全体の威信に関わる。
「それも、よりによってダントツ・チューニの息子ですぞ」
その名を口にしたコソワールの顔には、派閥の利益だけでは説明できない憎悪が浮かんでいた。
「平民上がりの男が炎龍を一体倒しただけで貴族となり、今度はその息子を王家へ入れる。陛下は何をお考えなのでしょうか」
「陛下にも、お考えがあるのだろう」
「メチャ様は、それでよろしいのですか?」
「よいも悪いもない。王家の婚姻へ、臣下である私が口を挟むことはできない」
メチャは穏やかな笑みを崩さなかった。
「それに、まだ婚約が決まったわけではない。陛下が候補として名前を挙げただけだ」
「候補……」
「近く、ダントツ殿を王都へ呼び、意向を確かめるそうだ。その返答次第では、話そのものがなくなる可能性もある」
コソワールは黙り込んだ。
ダントツが王都へ呼び出される。
その事実が何を意味するのか、理解したのだろう。
「余計なことは考えるな、コソワール卿」
メチャは彼の肩を軽く叩いた。
「我々は陛下の決定を待てばよい。くれぐれも、勝手な行動は慎むことだ」
「……承知しております」
そう答えたコソワールの目から、怒りは消えていなかった。
メチャはそれ以上何も言わず、迎えの馬車へ乗り込んだ。
リヒトをさらえとは、一言も命じていない。
ただ、コソワールが持っていた情報を、結びつけるきっかけを与えただけだ。
それで十分だった。
コソワールが、学園時代からダントツをどれほど憎んでいるのか。メチャは誰よりもよく知っていた。
人間は、命じられた悪事にはためらう。
しかし、自分で思いついた復讐ならば、喜んで手を汚す。
予想どおり、コソワールは三人の人間を雇った。
目的は、リヒト・チューニの誘拐。
それを知ったメチャは、止めるどころか逢楽廻へ連絡し、《深淵の渡り人》と呼ばれる男を送り込んだ。
三人が失敗したときの保険である。
計画に、不備はないはずだった。
◇
鴉が一羽、メチャの部屋の窓枠へ舞い降りた。
窓を開けると、鴉は音もなく室内へ入る。その身体が黒い羽根に包まれ、次の瞬間には一人の老人へ姿を変えていた。
「依頼はどうした?」
「失敗だ」
メチャの眉が、わずかに動いた。
これまで
「何があった?」
「分からぬ。それこそが問題だ」
「どういう意味だ。コソワールが怖じ気づいたのか?」
「いや。奴が雇った三人は予定どおり森へ入った。我々の幹部、《深淵の渡り人》も後を追った」
老人は窓の外へ目を向けた。
「その四人が、全員消えた」
「……消えた?」
「森には、何本もの木をまとめてへし折った魔術の痕跡が残っていた。だが、死体は一つもない。そしてチューニ家は、襲撃があったことすら把握していない」
ダントツは予定どおり屋敷へ帰り、妻の出産に立ち会ったという。
キリアが襲撃者を倒したのなら、チューニ家が何の反応も示さないはずがない。
何者かが襲撃者たちを屋敷へ到達する前に排除し、その正体を隠している。
「最悪の展開だ。奴らか?」
「まだ分からぬ。だが、その可能性はある」
メチャは深いため息を漏らした。
奴らはスーゴワル家にとって因縁深く、先祖代々の仇とも呼ぶべき存在だった。
王となった暁には、必ず滅ぼすと決めている。
その目論みを悟られ、先手を打たれたのだとすれば、事態は誘拐の失敗だけでは済まない。
「いつ気づかれた?」
「我々から情報が漏れたとでも言いたいのか?」
「疑われても仕方あるまい。幼い子ども一人さらえず、送り込んだ幹部まで失ったのだからな」
老人の背中から、黒い翼が広がった。
部屋の空気が一変する。常人なら、その圧力を浴びただけで意識を失っていただろう。
それでもメチャは、表情一つ変えなかった。
「金ならいくらでも払う。奴らの動きを探れ」
「存在するかどうかも分からぬ亡霊をか?」
「存在しているからこそ、私の計画が邪魔されたのだろう」
老人は翼を畳んだ。
「それから、ダントツ・チューニについても再び調べろ」
「なぜだ。あの男については、すでに調べたはずだ」
「国王は、ダントツを不自然なほど優遇している。炎龍討伐の功績を差し引いても、平民出身の男の息子を王女の婚約候補に挙げるのは異常だ」
「……承知した。ただし、何者が《深淵の渡り人》を倒したのか判明するまで、これ以上の人員は送れぬ」
「構わん。貴様ら鴉に頼らずとも、私一人で進められる」
「そうか。ならば、さらばだ」
老人の身体が無数の黒い羽根に包まれ、再び鴉の姿へ戻った。開かれた窓から飛び立ち、夜の闇へ溶けていく。
一人残されたメチャは、机の上にあったグラスを握った。
力を込めると、グラスが砕ける。
破片が手のひらへ食い込み、赤い血が指を伝った。それでも、メチャは拳を緩めなかった。
「邪神教団め……どこまで私の邪魔をするつもりだ」
そのころ、邪神教団の暗躍を疑われているとは夢にも思わず、僕は生まれたばかりの妹を眺めていた。
「可愛いね僕の妹ジェニー」
幼き子供は可愛いものだ。僕も転生したときはこうして手を伸ばすふりをしながら魔力炉と格闘していた。
僕も負けてはいられない。あいつからパクった。違うな譲ってもらった魔術の解析でもしようかな。
少し遅れて投稿しました。
次は主人公視点です。