十二歳になった。
今日は、兄上がゴルゴン学園へ入学するため、王都へ旅立つ日だ。
僕たち人族が暮らす中央大陸には、ゴルゴン王国、ディーン魔導帝国、イグノアス聖国という三つの大国が存在する。
その中でも最大の領土を持つゴルゴン王国では、十五歳になった貴族の子どもの多くが、王都にあるゴルゴン学園へ入学する。
もっとも、入学は義務ではない。
平民には学費を払えない者も多く、実際には貴族同士の交流の場という側面が強いらしい。
僕としては、魔術を学べるだけで十分に魅力的な場所なのだが。
「兄上、嬉しそうですね」
馬車の前に立つ兄上へ声をかける。
兄上――リヒト・チューニは、普段あまり感情を表に出さない。
母上譲りの赤い長髪に、鍛えられた長身。十五歳になった今では、どこから見ても物語に登場する美形剣士だった。
そんな兄上の口元が、今日はわずかに緩んでいる。
「ああ。ようやく、本格的に魔術を学べるからな」
「いいなあ。僕も早く学園へ行きたいです」
兄上の手が、僕の頭に置かれた。
「エヒト。お前には、俺よりもずっと大きな才能がある」
「そんなことはありません。兄上も十分強いですよ」
「だからこそだ。お前が学園へ来るまでに、俺は学園で一番になる」
兄上の目は真剣だった。
「何があっても、お前より前に立てる兄でいるためにな」
なるほど。
僕が追いつくまで、先頭を走り続けてくれるということか。
「流石です、兄上! それなら僕も、兄上を追い越せるように頑張ります!」
一瞬だけ、兄上が言葉に詰まった。
しかし、すぐに小さく笑い、僕の頭を撫でる手へ力を込める。
「ああ。楽しみにしている」
撫でる速度が少しずつ上がっていく。
嬉しいのだが、このまま続けられると十二歳にして禿げてしまう。
「リヒト! そろそろ時間だ!」
馬車へ荷物を積んでいた父上が声をかけた。
「分かったよ、父さん。今行く」
兄上はようやく僕の頭から手を離した。
「次に会うときは、今より強くなっているからな」
「望むところです」
僕たちは固く握手を交わした。
そこへ、五歳になった妹のジェニーを連れた母上が近づいてくる。
「身体に気をつけて頑張るんだよ。寂しくなったら、いつでも帰ってきな。可愛い我が子、リヒトよ」
「もちろんだ、母さん」
「リヒト兄ちゃん、どこに行くの?」
ジェニーは、兄上がこれから長く家を離れることを、まだ理解していないらしい。
兄上はジェニーの前へしゃがみ、その小さな頭を優しく撫でた。
「魔術を学んでくるんだ。帰ってきたら、ジェニーにもたくさん教えてやるからな」
「うん。待ってる!」
兄上を乗せた馬車が、ゆっくりと動き出す。
僕たちは、馬車が道の向こうへ見えなくなるまで手を振り続けた。
次に兄上と会えるのは、おそらく僕が十五歳になったときだ。
三年後。
兄上はきっと、今よりもはるかに強くなっている。
しかし、僕は勇者になる男だ。
いくら兄上が天才でも、負けるわけにはいかない。
「よし。今日から修行を二割増しにしよう」
別れを惜しんでいる時間はなかった。
◇
屋敷へ戻った僕は、自室の扉へ鍵をかけ、何もない空間へ右手を向けた。
「虚空に眠りし、果てなき扉よ」
指先から流した魔力が空中で線を描き、円形の術式を組み上げていく。
「我が名の下に、その眠りを妨げよ」
かつて《
「開け――
何もなかった空間に、黒い穴が開いた。
人一人が通れるほどの大きさまで広がったところで、僕は迷わず中へ足を踏み入れる。
穴の先には、窓も扉もない部屋が存在していた。
石造りの壁。その内側を埋め尽くす本棚。床には書きかけの紙が散乱し、部屋の中央では一人の男が机に向かっている。
「やあ、ポチ。兄上を見送ってきたよ」
声をかけると、男――ポチは心底嫌そうな顔をこちらへ向けた。
「だったら今日は家族と過ごせ。わざわざ地獄まで来るんじゃねえ」
「何を言っているんだ。三時間も僕と話せなかったら、すぐ寂しがるくせに」
「あれは、てめえが俺の意識だけ残して、一週間も放置したからだろうが!」
どうやら、まだ昔のことを気にしているらしい。
ポチは意外と根に持つ性格だった。
「くそっ……あの日、あの依頼さえ受けなければ……。俺が地獄へ落ちるのは、もっと先のはずだった……」
頭を抱えるポチを眺めながら、僕は七年前の出来事を思い出していた。
◇
五歳のとき、森で出会った男を《
僕はてっきり、男の身体を跡形もなく消滅させたのだと思っていた。
ところが屋敷へ戻ったあとも、《
不思議に思って解析した結果、《
正確には、空間の境界を一時的に食い破り、その狭間へ対象を放り込む魔術だったのだ。
男が使った《
しかし、僕の《
そのため男は分解されず、世界の狭間に取り残されていた。
まったく、運のいい男である。
残っていた術式を改良して穴を開け、僕が初めてこの空間へ入ったとき、男は右腕を構えて襲いかかってきた。
僕は穴を閉じた。
翌日、もう一度開けると、男は再び襲いかかってきた。
僕はまた穴を閉じた。
この空間は、僕が魔力を送らなければ時間そのものが止まる。
そこで三度目は、男の身体だけを停止させ、意識だけが動くように術式を調整してみた。
一週間後、男はずいぶん話を聞いてくれるようになっていた。
「出してくれ」
穴を開けた僕へ、男はかすれた声で言った。
「もう襲わない?」
「襲わない」
「魔術を教えてくれる?」
「教える」
「僕のことをご主人様と呼べる?」
「それだけは断る」
まだ反抗する元気が残っていたので、僕は穴を閉じようとした。
「待て!分かった!何でも教える!だから閉じるな!」
こうして、僕たちは和解した。
拳を交えたあとに芽生える友情というものだろう。
男は魔術について、僕の知る誰よりも詳しかった。
「いいか。この世界には、時、界、質、力、命、理、無――七つの根源が存在する」
男は石の床へ七つの円を描いた。
「人族を作り上げたのは、界の根源だ。だから人族は、空間や境界を操る魔術との相性がいい。お前がこの場所へ穴を開けられたのも、その性質が関係している」
「なるほど。では、君の《
「違う。これは――」
男は上着を脱いだ。
胸や腹、背中に至るまで、その身体には無数の魔術式が刻み込まれている。
「我々、秘密結社《
誇るでもなく、男は乾いた笑みを浮かべた。
「もっとも、お前は俺たちが積み重ねてきたものを、何の代償もなく再現しやがったがな」
急に褒められると照れてしまう。
「それで、お前は俺をどうするつもりだ」
男が僕を睨む。
「邪神教団へ引き渡すのか。それとも聖国か。まさか、調停者の手先じゃないだろうな」
「何の話だ?」
「……は?」
「僕はただ、魔術を教えてほしいだけだよ。学園へ入れるのは十年も先だからね」
男はしばらく目を見開いていた。
やがて、何がおかしいのか、腹を抱えて笑い始める。
「はは……あははははは!とんだ怪物だ! この《深淵の渡り人》を捕まえて、やらせることが学園ごっこかよ!」
深淵の渡り人。
なんと格好いい二つ名だろう。
「僕にも何かないのか? 深淵の支配者とか」
「知るか。自分で勝手に名乗ってろ」
「ところで、君の名前は?」
「俺に名はない。ナナシだ」
「それでは呼びにくいな」
少し考え、僕はふさわしい名前を思いついた。
「今日から君は、ポチだ」
「ポチ?」
「僕の秘密を守り、僕へ魔術を教えてくれる。つまり番犬だろう?」
「ふざけるな!誰が犬だ!」
元気を取り戻してくれたようで何よりだった。
それが、僕とポチの出会いである。
現在は、僕の全魔力の十五パーセントを常にこの空間へ送り、時間が流れるようにしている。
食事や睡眠に必要な力も僕の魔力で補っているため、ポチは僕なしでは生きられない。
ここまで面倒を見ているのだから、もう少し感謝してくれてもよいと思う。
◇
「ポチ。火魔術の本は完成した?」
現在へ意識を戻して尋ねると、一冊の本が顔面へ向かって飛んできた。
首を傾けて避け、そのまま片手で受け止める。
「ほらよ。言われたとおり、初級から上級までまとめてある」
ページをめくってみる。
基本術式だけでなく、実戦での使い方や、術式が暴走しやすい条件まで細かく記されていた。
「流石だ、ポチ。褒美に骨をあげようか?」
「てめえ、俺は犬じゃねえぞ!」
どうやら骨は好きではないらしい。
好き嫌いはよくないぞ。
ポチと出会ってからの七年間、僕の魔術は飛躍的に成長した。
夜は森で実戦訓練を行い、その後はポチから魔術を学ぶ。昼はニャンシーに一般教養を教わり、母上から剣術を学んだ。
近頃は、妹のジェニーが僕のうろ覚えの科学知識をすぐに理解してしまうので、前世の知識を総動員して兄としての威厳を守ることにも忙しい。
我ながら、充実した七年間だった。
現在の僕がどれほど強いのか、自分でも正確には分からない。
ポチへ聞いても、教えてはくれなかった。
「十二歳で世界の狭間に自分の書庫を作る奴を、どんな基準で測れっていうんだ」
そう言って、なぜか遠い目をするだけだ。
とはいえ、母上と本気で戦って勝てるかと聞かれれば、自信はない。
武術も肉体改造も、身体が成長しなければ完成しない部分が多い。魔術についても、まだ試したいことが山ほどある。
兄上が学園で一番を目指すなら、僕も立ち止まってはいられない。
あと三年。
そのときこそ、万全の状態でゴルゴン学園へ乗り込もう。
僕を待つ数々の出会い、謎の組織、学園を襲う敵、そして勇者としての覚醒。
考えるだけで胸が高鳴る。
「待っていろ、ゴルゴン学園。僕の勇者伝説は、そこから始まる!」
「頼むから、英雄様。この怪物を討伐してくれ」
ポチが何か言っていたが、僕の耳には届かなかった。
◇
――後世に編纂された、ゴルゴン王国史より抜粋。
アーク歴九五九年。
ゴルゴン王国において、三百年以上の時を経て、新たな勇者が認定された。
その名は、ゼイン。
十七歳の彼は、ゴルゴン学園を襲撃した邪神教団の大司教《正義》を、当時学園最強と呼ばれたリヒト・チューニとともに退けた。
その戦いの最中、王国に眠っていた伝説の剣、破邪の剣がゼインの手によって覚醒。これをもって、ゴルゴン王国は彼を人族の英雄たる勇者に認定した。
もっとも、邪神教団の大司教を討ち取るには至らず、権能も完全には使いこなせていなかった。そのため、他国の英雄たちは、彼を正式な英雄と認めなかったとされる。
翌九六〇年。
ゼイン、リヒト・チューニを含む数名の学生が、さらなる修行のため、ディーン魔導帝国へ渡った。
この一連の記録に、エヒト・チューニの名は残されていない。
深淵の渡り人パイセンはそれなりに強いはずなのに番犬扱い。
主人公を止めてくれ英雄様。