闇ナルコ 習作 作:ナルコスキー
十二の春。卒業試験の朝は、よく晴れていた。
名前を呼ばれた生徒が教壇の前に立ち、三体、四体と分身を並べ、額当てを受け取って席へ戻る。そのたびに、教室の空気が軽くなった。開け放した窓から吹き込む風が、教室の後ろの古い掲示物の角を、かさかさと揺らす。
「次、うずまきナルコ」
その空気が、すっと冷える。
席を立って、教壇の前に出た。脇の机にはイルカと並んで、もう一人の教師――ミズキが座っている。柔らかな笑みを浮かべたまま、手元の名簿に何か書きつけていた。課題は、分身の術。入学した年の夏に、いちばん初めに習った術だ。
毎晩、あの狭い部屋で何十回と繰り返した印を、もう一度結ぶ。抑えろ、と念じれば念じるほど、熱いものがせり上がって、指先から溢れる。
ぼん。
煙が晴れる。六年前と何も変わらない分身が、そこに立っていた。橙色の上着と金髪の境目が水に溶けたように滲んで、顔のあたりは目も鼻も見分けがつかない。
笑う者は、もういなかった。この六年で、すっかり見慣れたんだろう。笑われないのも、別に嬉しくない。イルカだけが、黙ってその分身を見つめていた。
「……練りすぎだ」
こぼれるような声だった。
「お前は、チャクラの量が多すぎるんだ。絞りきれずに溢れてる。分身の術ってのは、ほんのひと匙でいい術なんだよ」
それから名簿に目を落として、イルカは短く告げた。
「……不合格だ」
窓の外へ目をやった。家々の屋根の向こうに、里をぐるりと囲む塀が見える。そのさらに向こうで、遠い山の稜線が春霞にけぶっていた。
――また、出られない。
「イルカ先生」
ミズキが、穏やかな声で口を挟む。
「変化の術は、この子が学年で一番ですよ。今回くらいは、大目に見てあげてもいいんじゃないですか」
「試験の課題は、分身の術です」
イルカは名簿から顔を上げなかった。
「この子だけ、特別扱いはできません」
印を解くと、ぼやけた分身は煙になってほどけた。
「……そう」
自分でも驚くほど平坦な声が出た。そのまま席へ戻る。握りしめた拳の中で、爪が手のひらに食い込んだ。
鐘が鳴って試験がすべて終わると、校舎の前は、額当てを着けた子供たちとその親で埋め尽くされた。
「よくやったわね!」
「今夜はお祝いだな。何が食べたい?」
弾んだ声があちこちで上がる。その輪から少し離れた木陰で、ナルコは古いぶらんこに腰かけていた。
「ねえ、あの子……」
「ひとりだけ落ちたんですって」
「よかったじゃない。あんなのが忍になったら、何をするか分かったもんじゃないわ」
ぶらんこの縄を握ったまま、足元の土を見つめる。
任務で、里の外に行けるから。入学の前の日、執務室で三代目にそう答えた。そのためだけに六年もここへ通って、床下の缶に小銭を落とし続けた。
それが、また一年先に延びる。
誰かの顔を借りて息をして、夜が来るたびにあの路地の夢に怯えて、この里で、もう一年。一年で済むかも分からない。来年も、また滲んだ分身が出てくるだけかもしれない。その次も。
――もう、いいかな。
縄を握る指から、力が抜ける。
死んでしまえば、もう誰の顔も借りなくていい。目を逸らされることも、夜中に跳ね起きることもない。わたしがいなくなって困る人は、この里のどこにもいない。ほっとする人なら、きっといくらでもいる。
――死んだら、楽になれるのかな。
そう思ったら、なぜだか、息がしやすくなった。
陽が傾くと、校舎の前の人影はまばらになった。額当てを着けた子が父親の肩に担がれて門を出る。別の子は母親と手をつないで、何度も額を指さしながら坂を下る。一組、また一組と、門の向こうへ消える。
最後の親子の笑い声が角を曲がって聞こえなくなっても、ぶらんこの縄を握ったまま、足元に長く伸びた自分の影を見ていた。
「ナルコ」
顔を上げると、ミズキが立っていた。逆光で、表情はよく見えない。
「イルカ先生も、悪気があるわけじゃないんだ。あの人は真面目すぎてね」
隣にしゃがみ込んで、ミズキは声をひそめた。
「実はな、卒業にはもう一つ、特別な試験がある。成績が足りなかった子のための、追試みたいなものだ」
「……追試?」
「火影様の屋敷に、封印の書という巻物がある。それを持ち出して、書かれている術を一つでも覚えられたら、合格だ」
黙って、ミズキの顔を見た。人の顔なら、嫌というほど見てきた。この男は、口元だけで笑っている。
「合格すれば、忍だ。任務で、里の外にも出られるぞ」
力の抜けかけていた指が、縄を握り直した。
嘘かもしれない。たぶん、嘘だ。でも、ほかに掴めるものなんて、もう残っていない。
「……ほんとに?」
「ああ。本当だとも」
陽が沈んで、校舎の前の歓声がすっかり絶えた頃。書類の束を抱えた中忍がひとり、火影の屋敷の裏口をくぐった。見張りの忍は軽く会釈しただけで通してくれる。顔も歩き方も、昼のうちに廊下ですれ違った本物と寸分違わない。
書庫の奥で術を解く。黴と墨の匂いのこもる暗がり。いちばん高い棚に、ひときわ大きな巻物が横たえられていた。
森の奥のいつもの木の下で、巻物を広げた。月明かりを頼りに、古い墨の文字を追う。最初に記されていたのは、影分身の術。
――己がチャクラを等しく分かち、実体ある分身を為す。膨大なチャクラを要するゆえ、並の者が用いれば命を削る。
印は、分身の術とよく似ていた。
絞らなくていい。溢れるまま、全部注ぎ込めばいい。……なんだ、それなら得意だ。
書かれたとおりに印を結ぶと、煙の向こうに、もう一人のナルコが立った。
輪郭も、金髪も、橙色の上着も、どこも滲んでいない。けれど前髪の下の顔だけが、曇った硝子越しに覗いたようにぼやけている。目も鼻も見分けがつかないのに、それがじっとこっちを向いているのは分かった。
「……なに見てんだってばよ」
分身が、ナルコと同じ声で言う。口がどこにあるのかも分からない顔から、声だけが漏れた。
「……別に」
目を逸らして、印を解いた。
月がずいぶん西へ傾いた頃だった。
「ナルコ!」
夜更けの森に、イルカの声が響いた。
駆け込んできたイルカは肩で息をしていて、額の汗が月明かりに光っている。その目が、ナルコの足元に広げた巻物を捉えた。
「お前……一体何をしたのか、分かってるのか」
「試験」
「試験?」
「これ覚えたら、合格なんでしょ。ミズキ先生がそう言ったってばよ」
イルカの顔から、すっと血の気が引いた。
次の瞬間、腕を掴まれて、思いきり横へ突き飛ばされていた。たった今まで立っていた地面に、クナイが何本も突き立つ。
「さすがだな、イルカ」
木の上に姿を現したミズキの顔からは、昼間の柔らかな笑みがすっかり消えていた。
「ナルコ。その巻物を、こっちへ渡せ」
「渡すな! そいつはお前を利用して、巻物を盗ませたんだ!」
イルカの叫びを、ミズキの笑い声がかき消した。
「利用、ね。なあナルコ、いいことを教えてやろうか。この里のやつらが、どうしてお前を嫌うのか」
「やめろ、ミズキ!」
イルカの制止を嘲笑うように、ミズキは語り始める。
「十二年前、九尾の妖狐が里を襲ったのは知ってるな。四代目火影はあの化け狐を、生まれたばかりの赤ん坊の腹に封じ込めた。それ以来、里ではそのことを口にするのが掟で禁じられている」
夜の森に、ミズキの声がやけに大きく響く。
「その赤ん坊が、お前だ」
手から、巻物が滑り落ちた。
「お前が九尾なんだよ。里のやつらの親や兄弟を殺した、あの化け狐だ。だからお前のまわりには、いつだって暗部が張りついてた。いつ化け物が暴れ出すか、分からないからな」
白い面が、頭に浮かぶ。七つの夜、殴られていた路地に、あの面の男はどこからともなく現れた。
……ああ。だから、か。
「忍になれば外に出られる、か。おめでたいやつだ」
ミズキが、愉しげに目を細める。
「化け物を、里が外に出すと思うか」
腹の底で、何かが低く笑った。七つの夜に聞いたのと、同じ笑い声。
ミズキが背中の大きな手裏剣を振りかぶる。月明かりを受けて、四枚の刃が回りはじめた。
動かなかった。避けようと思えば、たぶん避けられた。けれど足が、根を張ったように地面から離れない。
――ばけもの、そっか、そりゃ嫌われるよね。
ただ、立ち尽くす。
風を切る音が、すぐそこまで迫る。
――最期に理由が知れて良かった。
目を閉じかけたとき、横からぶつかってきた何かに突き飛ばされた。
体ごと地面に押し倒される。背中を打って、息が詰まる。視界いっぱいに黒い影が覆いかぶさって、肉を裂く鈍い音が、すぐ耳元で鳴った。
「……っ」
鉄と汗の匂い。おそるおそる目を上げると、ベストの肩越しに、見慣れた鼻の傷があった。イルカの背中に、大きな手裏剣が深々と刺さっている。ナルコを抱え込むようにして膝をついたイルカの顔が、すぐ目の前にある。
「……なんで」
勝手に、声がこぼれた。
「オレもな、両親を亡くしてからは、ずっと一人だった」
イルカの額から、汗とも血ともつかないものが伝い落ちる。
「誰にも見てもらえないのがどんなものか、知ってたはずなのに。……ごめんな、ナルコ」
抱きすくめてくる腕が、小刻みに震えている。痛みのせいか、別の何かのせいか。ナルコには分からない。
「お前は、九尾なんかじゃない。オレの生徒の、うずまきナルコだ」
その声を聞きながら、入学式の日の講堂を思い出していた。壇の脇に立っていたこの人と目が合った瞬間、その視線は逃げるように手元の名簿へ落ちた。初めて一楽で隣に座った晩も、この人はずっと、ラーメンと親父さんの方ばかり見ていた。
――先生も、目逸らしてたくせに。
いつものように、腹の底から憎悪が溢れる。けれど、抱きしめてくるイルカを押しのけようとしても、腕にはちっとも力が入らなかった。なんで。押せば、どけられるはずなのに。
「感動の場面に水を差して悪いがな」
ミズキが、木の上から音もなく飛び降りた。
「まとめて片付けてやるよ」
死んでもいい、とさっきまで思っていた。それは今も変わらない。けれど、この男の手で終わらされるのだけは、我慢がならなかった。冗談じゃない。こいつにだけは、絶対に嫌だ。
イルカの腕の下から立ち上がって、印を結んだ。
森じゅうで煙が上がる。木の上にも茂みの陰にも、数えきれないほどのナルコが、ミズキを取り囲んで立った。
「な……なんだ、これは」
ミズキの声が裏返る。
「ば、化け物……」
目鼻のない何十もの顔が、いっせいにミズキの方を向いた。
終わるまでに、それほど時間はかからなかった。
地面に這いつくばったミズキが、血の混じった唾を吐く。片腕はおかしな方向に曲がって、もう立ち上がれもしないのに、目だけはまだナルコを睨み上げていた。
「化け物め……」
影分身がひとり、またひとりと煙になって消える。最後に残ったナルコが、ミズキの前に立った。
「お前さえ……お前さえ、生まれてこなけりゃ……」
誕生日の夜がよみがえる。酒の匂い。土の匂い。
『お前さえ、いなけりゃ』
ミズキの手から零れたクナイが、足元に転がっている。それを拾い上げて、まっすぐに振り下ろした。
「ナルコ、やめろ!」
切っ先が、喉の皮一枚のところで止まった。
ミズキの喉に、ぷつりと赤い玉が浮かぶ。ひっ、と短い悲鳴を漏らしたきり、ミズキは喉を引きつらせて固まった。見開いた目に、さっきまでの嘲りはもうない。
クナイを握ったまま、動かなかった。止めたのはイルカの声だったのか、自分の手だったのか。自分でもよく分からない。顔は、振り下ろす前からずっと、ぴくりとも動いていない。
強張った指がほどけて、クナイが草の上にぽとりと落ちた。
振り返ると、イルカがこっちを見ていた。木の幹にすがって、上体を起こしている。見開かれた目に、恐怖の色が浮かんでいた。
遠くで、枝を蹴る音がいくつも近づく。暗部だろう。
イルカは、自分の額当ての結び目に手をかけたまま、動けなかった。
背中の傷が脈打つたびに、焼けるような痛みが走る。けれどそれより、目の前に立つ子供の方が、ずっとイルカの体を強張らせた。
橙色の上着に、ミズキの返り血が点々と散っている。その足元で、昨日まで同じ職員室で茶をすすっていた男が、喉元に赤い筋を一本残したまま、腰を抜かして震えている。あと一瞬、自分の声が遅れていたら。
そしてナルコの顔は、クナイを振り下ろしたときから、ただの一度も動いていない。
怒っているのでも、怯えているのでもない。泣いてさえいない。
――この子は、もう。
その先を、イルカは頭の中でさえ言葉にできなかった。
この額当てを結べば、この子は忍になる。クナイを持ち、人を殺す術を学び、任務で里の外へ出る。今夜のようなことが、また起きないと言い切れるのか。起きたとき、そばにいるのが自分でなかったら。
今年は見送るべきなのかもしれない。三代目にすべてを話して、もう一年。いや、もしかすると、この子はもう二度と――。
さっきのナルコが、まだ目に焼きついている。何も映していない青い瞳に、確かに憎しみの炎が見えた。この子の闇は、底が見えない。いつか憎しみに身を委ねてしまうかもしれない。教師として、それを否定できなかった。
結び目にかけた指が、離れかける。
そのとき、一楽でのナルコが浮かんだ。
台の上に、絆創膏だらけの小さな指が、一枚ずつ小銭を並べる。こっちが財布に手を伸ばしかけても、その指は止まらない。いい、自分で払う、と、丼から顔も上げずに言う声。暖簾をくぐりかけたところで、また一緒に食べよう、と呼びとめたとき、一瞬だけ動きを止めたこと。それから、がたんと倒れた椅子の音。両腕で頭を抱えて床に縮こまった、あんまりにも小さな体。
この子は――ナルコは、人生を決められてしまうには幼すぎる。
子供の成長を信じないなんて、イルカにはできなかった。道を外れそうなら、戻してやればいい。この子の望みを、まっとうな形で叶えてやる。教師としてしてやれることなんて、それくらいだ。
お前は九尾なんかじゃない、とついさっき言ったのは、自分だ。その舌の根も乾かないうちに、この子から額当てを取り上げるのか。里の大人たちがこの子を見捨ててきたみたいに、自分まで。
できるわけがない。
イルカは奥歯を噛みしめて、結び目をほどいた。
「……ナルコ」
かすれた声で呼んで、ほどいた額当てを手のひらに載せる。それから、あの晩と同じように、ナルコに見えるように指を開いて差し出した。
「……こっちへ、来い」
ナルコはしばらく動かなかった。やがて、クナイを取り落とした手をだらりと下げたまま、ゆっくり近づいてくる。
イルカは腕を伸ばして、その額に額当てを結んだ。結び目を作る指が震える。止めようとしても、止まらない。
「卒業、おめでとう」
ナルコは、何も言わなかった。
額当ての冷たさと、イルカの色んな想いがごちゃ混ぜになった表情が、ナルコの青い瞳に焼きついていた。