闇ナルコ 習作 作:ナルコスキー
火影の屋敷の廊下には、まだ夜の冷たさが残っていた。
執務室の前の長椅子に、ナルコはひとりで座っている。どれほどの時間が経っただろうか。あの後すぐに暗部の男たちによってこの場所に連行されたので、ナルコには日が明けたかどうかも分からなかった。
服にも顔にも、ミズキの返り血が赤黒く乾いてこびりついている。
閉ざされた扉の向こうで、誰かが話している。片方は三代目の声だ。もう片方は、知らない声だった。
「例の子供が、中忍をひとり殺しかけた」
乾いていて、感情の揺れがない。不気味な声だった。
「それも、眉ひとつ動かさずにな。イルカの声がなければ、喉を裂いていたそうではないか。報告は聞いたであろう、ヒルゼン」
パイプを置く、硬い音がした。
「ミズキは里を裏切り、イルカを手にかけようとした。あの子は、身を守っただけのことじゃ」
「身を守る、か。到底そのような状況には見えなかったがな」
しばらくの間、沈黙が流れる。
「あれは器だ。器は、里のしかるべき場所で管理するものだ。死なれたら困る。根で預かるぞ」
「ならん」
「では下忍として、外の任務に出すつもりか。死んだらどうする。里の外で、また同じことが起きたらどうする。他里の忍の目の前で、九尾を見せびらかすか」
「……あの子は、ただの子供じゃ」
「ただの子供は、あんな目で人を見ない」
しばらくの沈黙の後、椅子を引く音がした。
「次に何かあれば、そのときは儂が預かる。それまでは、お前の好きにするがいい」
開いた扉から出てきたのは、杖をついた老人だった。顔の半分と片腕を包帯で覆い、残った片目だけで、長椅子のナルコを見下ろしている。その目がナルコの顔から爪の先までをゆっくりとなぞっていく様子は、店先の品に値をつけるときの目によく似ていた。
「……なるほど」
老人はそれだけ言うと、杖の音を響かせながら廊下の奥へ消えていった。
「ナルコ。入れ」
呼ばれて入った執務室で、三代目はパイプを咥えたまま座っていた。目の下に深い影が落ちていて、たった一晩で、ずいぶん老け込んだように見えた。
「ミズキは暗部が連れていった。巻物のことも、お前を咎めはせん」
ナルコが黙っていると、三代目は長いことその顔を見つめていた。何か言おうとして口を開きかけ、また閉じる、そんな動作を何度か繰り返してから、ようやく言葉を絞り出した。
「……何か、聞きたいことはあるか」
四つのときも五つのときも、ナルコはこの部屋で同じことを聞いた。わたし、どうしてひとりなの、と。その答えを教えてくれたのは、目の前のこの人ではなく、ミズキだった。今さら、何を聞けっていうんだろう。
「……ない」
ナルコは一度も顔を上げないまま、執務室をあとにする。
扉が閉まっても、三代目はパイプを口から離さなかった。火は、とうに消えている。
閉じた扉に向かって、長く息を吐いた。
屋敷を出て通りを歩きはじめたところで、うなじがひやりとした。これまで一度も感じたことのない、肌に貼りつくような視線だった。
顔を上げると、向かいの家の屋根の上に、白い面を被った人影が見える。獣を象った、あの夜と同じ形の面だ。目が合ったと思った次の瞬間には、もうそこには誰もいなかった。
ナルコは角を曲がったところで路地へ入り、知らない女の子の顔を借りた。人混みに紛れて商店街を抜け、八百屋の前を過ぎ、乾物屋の角を曲がる。
……まだ、見られている。
背中に貼りついた視線を振り払うように、ナルコは家路を急いだ。
いつもの日課の木登りをする頃には、陽はもう高くなりかけていた。
一番上の枝に腰を下ろすと、春の陽を照り返す瓦屋根の向こうに、里をぐるりと囲む高い塀が続いているのが見える。正面の大門が開いていて、荷を積んだ商人の車が、門番に通行証を改められては、一台、また一台と外へ出ていくところだった。
門の先には細い街道が一本延びていて、やがて山の向こうへ消えている。缶の蓋の裏に貼った地図の、その続き、自由がそこにはあった。
ナルコは長いこと、その道を見つめている。少し離れた杉の梢からの気配は、屋敷を出てからずっと追ってきたのと同じものだった。
七歳のあの夜、路地の暗がりに、白い面はどこからともなく現れた。差し出された手を取らずに、ナルコはその面を睨みつけた。涙と泥にまみれた顔のまま、腹の底から湧き出る憎悪をむき出しにして。
『ただの子供は、あんな目で人を見ない』
額当てを結んだ、イルカの震える指が浮かぶ。
『次に何かあれば、そのときは儂が預かる』
あの面たちは、見たものをすべてあの男に伝えるのだろう。ミズキの喉元へ振り下ろしたクナイも、この木の上からじっと門を見ている、今の姿も。
門の前では、また一台の荷車が改められていた。門番が通行証を返して片手を振ると、車輪がゆっくりと門の外へ転がり出ていく。
憎しみの声が、せり上がってきた。
――憎め。あいつらは、お前を外になど出さない、お前が死ぬのも許さないぞ。
知っている。そんなことは、言われなくても分かっている。ナルコは膝を抱えたまま、門の外へ遠ざかっていく荷車を、見えなくなるまで目で追った。
自由になれないなら、死んでもいい。昨日の夕方、ぶらんこの上で本気でそう思った。
でも、それさえ許されない。あの白い面は、これからずっと私を見張るだろう。死のうとしたって、きっと止めに来る。知らない女の子の顔を借りても、視線は背中から離れなかった。逃げたって、どうせ何歩も行かないうちに捕まる。
――このまま飼い殺しにされるわけにはいかない。
木の上で、ナルコは拳を握りしめた。
部屋に戻ると、ナルコは床板をはがして缶を取り出す。
蓋を開ければ、六年ぶんの小銭が薄暗い缶の底で鈍く光っていた。何度も開いては畳んだせいで、蓋の裏の地図はボロボロで、折り目のところは文字が消えてしまっている。指先で、里から延びる街道の線をなぞる。この先まで行けば、もう誰の顔も借りなくていい。早く、ここを出たい。
ナルコは缶を床下に戻し、ポケットから手鏡を取り出した。
流しで顔を洗い、濡れた前髪をかき上げる。水を含み、再び液体となった血の匂いが鼻腔をくすぐる。小さな丸い鏡の中に、何ひとつ動かない顔が映っていた。
濡れた指先が、知らず頬に触れていた。左右に三本ずつ、生まれたときからそこにある線。化け狐、とミズキの声が耳の奥でかすれる。指でこすっても、線は少しも薄くならなかった。
ナルコは、目を閉じた。
――今のままじゃ、だめだ。
このままでは、私は外に出ることも許されず、あの老人に管理され、飼い殺しにされる。
三代目もあの老人も、もう私を警戒しているだろう。ミズキの喉にクナイを振り下ろしたことも、全部知っている。あの二人の前で今さら何をしても、たぶん遅い。
でも、里の連中は違う。あいつらは私のことなんか、ほとんど知らない。道の端を歩いて、誰とも口を利かず、ずっと空気みたいに生きてきたんだから。知っているのは、九尾の子だってことくらいだ。
次に何かあれば、儂が預かる。老人はそう言っていた。
その「次」は、あの老人がわざと仕掛けてくるかもしれない。まんまと乗せられたら、私は危険な化け物のレッテルを里中に貼られる。
今でさえ、私は里の奴らから煙たがられているのに、そうなったら最後、私は一生あの老人の管理下で飼われるだろう。里の連中は、両手を挙げて歓迎するに違いない。
なら、化け物のレッテルを貼られる前に、こっちから先に、「都合のいいナルコ」を里中に印象づけさせればいい。
うるさくて、ばかで、考えていることが全部顔に出ているようなやつ。
わざわざ忍がナルコを管理することが、馬鹿らしく思えるほどしょうもない存在。
周りにそう思わせればいいんだ。
目を開けると、鏡の中の私は、やはり何の感情も映していなかった。
――今のままじゃ、だめだ。
あの面を振り切れるくらい強くなるまでは、道化を演じるんだ。
ナルコは鏡に顔を近づけ、口の端を持ち上げようとした。頬がぴくりと引きつっただけで、顔はうまく動かない。
イルカの笑い方を思い出して、目尻に皺を寄せてみる。目の周りの筋肉がピクピクと震える。頬を両手でぐにぐにと揉んで、もう一度。
何度目かで、鏡の中の女の子が、へにゃりと笑った。ばかみたいな顔だった。
その顔のまま、ナルコは小さく口を開いてみる。
「……よろしくってばよ」
自分の声とは思えないくらい、情けない声だった。
ナルコは口を閉じて、鏡の中の笑顔だけを、もう一度確かめた。
頬から力を抜くと、鏡の中の顔はすとんと元に戻った。
班分けの説明がある日まで、まだ三日あった。
その三日間、ナルコはほとんど手鏡から離れなかった。
三日後の朝、アカデミーの教室の前でナルコは足を止めた。
扉の向こうから、ざわざわと話し声が聞こえてくる。額当てを着けたばかりの同級生たちが、班分けの噂でもしているのだろう。引き戸にかけた指が、なかなか動かなかった。
ナルコは小さく息を吸って、両手で頬をぐにぐにと揉んでから、口の端を持ち上げた。
扉を開けると、近くの席の何人かが、こちらを振り返った。その目が、ナルコの顔の上でぴたりと止まる。話し声が、だんだんと途切れていった。
ナルコはぎこちない声で挨拶をする。
「お、おはよう」
前の席のいのとサクラが、ぽかんと口を開けてこちらを見ている。
「……え」
いのが、ぽつりと言う。
喉の奥が、ひくりと縮んだ。ナルコはどうにか口の端を上げたまま、ぎくしゃくと一番後ろの席へ向かって歩きだす。視線が痛い。右手と右足が一緒に前へ出てしまう。なんで。鏡の前ではできたのに。どこを見ればいいのか分からず、目は床の木目ばかり追っていた。だから、誰かが机の脇に放り出していた鞄の紐にも、爪先が引っかかるまで気づかなかった。
あっと思ったときには、もう遅かった。ナルコは両手を泳がせたまま、床に顔から突っ込んでいた。額当てが板張りにぶつかって、ごん、と派手な音を立てる。
一拍おいて、キバが机を叩いて噴き出した。
「なんだそりゃ! お前、何やってんだよ!」
つられたように、教室のあちこちから笑い声が起きる。女子たちが顔を寄せて、ひそひそと囁き合った。
なにあれ、卒業デビュー? 似合わなーい。
動悸が激しくなる。笑い声が、全部こっちを向いている。
――化け狐が、何ふざけてんの。気持ち悪い。
誰かが本当に言ったのか、頭の中で鳴っているだけなのか、もう分からない。今すぐ逃げ出したかった。でも、ここで逃げたら何も変わらない。
床に這いつくばったまま、ナルコは首をすくめて、へへっと笑った。へまをしたときのイルカの、あの情けない笑い方を真似て。
「へ、へへっ……い、いてえ、ってばよ」
裏返った声に乗って、いつもの口癖の方が先に転がり出ていた。
キバが腹を抱え、教室の笑い声がいっそう大きくなる。女子たちが呆れたように肩をすくめている。誰も目を逸らしていない。道の端に寄る者も、子供の手を引いて遠ざかる者もいない。
――笑われてる。
床に手をついたまま、ナルコはその笑い声を聞いていた。
――誰も、怖がってない。
床にぶつけた額はまだじんじんと痛むが、激しかった動悸がだんだんと治まってくる。
一番後ろの席に着くと、隣の机に突っ伏していたシカマルが、片目だけを開けてこちらを見た。
「……お前、なんか変なもんでも食ったか」
「……べ、別に。なんでもないってばよ」
それだけ言うあいだに、口の端が二度ひきつった。シカマルはしばらく黙ってナルコの顔を眺めていたが、やがて面倒くさそうに、また腕の中へ顔を埋める。
教壇の脇の扉が開いて、イルカが入ってきた。背中をかばうような、ぎこちない歩き方だった。その目が、教室の後ろでいつもと違う雰囲気で座っているナルコを捉えて、止まった。
イルカは何も言えずに、立ち尽くしていた。それから、ふっと目尻を崩す。鼻の傷を指でこすって、小さく一つ頷いた。
「……よし。席に着け、始めるぞ」
窓際の席では、サスケがほんの一瞬だけこちらへ目を向け、わずかに眉を寄せる。けれどすぐに、また窓の外へと顔を戻してしまった。
朝の説明が一段落すると、ナルコは手洗いの個室に入って、頬から力を抜いた。
壁の小さな鏡に、何ひとつ動かない顔が映る。頬の内側が、じんじんと痛んでいた。洗面台の縁を掴んだ指先が、細かく震えている。
震えが止まりきらないまま、鏡の中の顔を見ていた。
ナルコのままで笑おうとするから、顔が言うことを聞かないんだ。
――化ければいい。いつも人を観察してたから模倣は得意だ。
頬を両手でぐにぐに揉んで、もう一度鏡を見る。
ナルコの顔の雰囲気がふっと変わる。鏡の中で、ナルコじゃないナルコが、にっと笑っていた。
教室に戻ると、ちょうどイルカが教壇で名簿を広げたところだった。
「それじゃあ、これから班を発表する。下忍は三人一組で、上忍の先生がひとりつく」
教室中が、わっとざわめいた。隣の席同士が顔を見合わせている。ナルコはその輪に加われないまま、口元だけをゆるめて、黒板の方をぼんやりと眺めていた。
窓の外、向かいの屋根の上に、白い面がひとつ、静かにこちらを見下ろしている。
ナルコはそれに気づかないふりをして、頬を揉んで、笑い直した。
屋根の向こう、家並みが途切れたずっと先に、里の大門が小さく見えている。今朝も大きく開け放たれていて、荷車がひとつ、ゆっくりと外の道へ出ていくところだった。
――道化にでも何でも、なってやるってばよ。
イルカが、最初の班の名前を読み上げはじめる。ざわめきの名残が漂う教室の隅で、ナルコは頬杖をつき、締まりのない笑みを浮かべている。その目だけはずっと、窓の向こうの小さな門へ向けられている。
この日、木の葉の里に、「うずまきナルコ」が生まれた。