闇ナルコ 習作 作:ナルコスキー
四日目の修行が終わるころには、左手の包帯は泥で真っ黒になっていた。
幹に刻んだ印は、今日だけで七本増えた。初日の倍の高さ。てっぺんまでは、あと大人の背丈で三つ分といったところか。隣の木のサスケの印も、似たような高さで止まっている。どっちが上かは、暗くてよく見えない。
家へ戻る道では、サスケが二歩前を歩いていた。泥だらけの背中が、ときどき思い出したように肩を回す。向こうも、相当きているらしい。こっちだって、ふくらはぎは鉛でも詰めたみたいに重いし、皮のむけた手のひらは、指を曲げるたびにぴりぴりと引きつる。
「……明日は、オレが先に登り切る」
前を向いたまま、サスケがぼそりと言った。
「へへっ、こっちのセリフだってばよ」
「フン。今日だって、オレのほうが上だったろ」
「暗くて見えなかったくせに」
返事はない。かわりに、サスケの歩く速さが少しだけ上がった。抜かされるのは癪なので、こっちも足を速める。向こうがまた速める。家の明かりが見えてくるころには、二人とも、ほとんど走っていた。
息を切らして戸口の前で止まると、中から甘辛い煮物の匂いが流れてくる。
「おかえりなさい。今日はね、お父さんがお魚をもらってきたのよ」
湯気の向こうで、ツナミが笑っている。ちゃぶ台には、大皿に盛ったカレイの煮つけと、山盛りの青菜。橋の現場で、仕事仲間が分けてくれたのだという。タズナは帰りに一杯ひっかけてきたらしく、赤い顔で上機嫌だった。
「おう、ご苦労さん! どうじゃ、木登りは」
「へへっ、明日にはてっぺんまで行くってばよ」
「へえ。明日には、ねえ」
箸を取りながら、カカシが含み笑いで繰り返した。
「……なんだよ、その言い方」
サクラは昼から橋の護衛についていたらしく、海の上は風が強くて髪がぐちゃぐちゃになった、だいたい日焼けしたらどうしてくれるのよ、と文句を言いながら、カレイの骨を器用によけている。サスケは黙々と箸を動かしていた。この前の大食い競争で懲りたのか、おかわりは一杯だけ。こっちも一杯でやめておく。茶碗を出したところで目が合ったが、流石に同じ失敗はしない。
イナリは、いつもの席で茶碗を抱えていた。
箸は、ほとんど進んでいない。ちゃぶ台の向こうから、イナリの視線が刺さる。泥で汚れた包帯の手に。それから、顔に。
桟橋でのことが、ちらりと頭をよぎる。へらへら、すんな。気にしない。いつもの顔のまま、煮汁のしみたカレイを口に放りこんだ。
茶碗を抱えたまま、イナリがぼそりと口を開いた。
「……なんで、そんなになるまでやるんだよ」
イナリの目は、ナルコの左手に向いている。
「ガトーの手下なんか、いっぱいいるんだ。木に登れたって、何にもならない。……父ちゃんだって」
声が、そこで詰まった。ツナミが「イナリ」と小さくたしなめる。
「やってみなきゃ、分かんないってばよ。な?」
笑って、身を乗り出す。
ばん、とイナリの小さな手がちゃぶ台を叩いた。茶碗が跳ねて、味噌汁がこぼれる。
「お前に、何が分かるんだよ!」
帽子の下の目から、涙がぼろぼろと落ちていた。
「この国のことなんか、何も知らないくせに! 辛いことなんか、何も知らないくせに! よそから来て、勝手に頑張って、勝手に……っ」
しゃくりあげる声が、そこで途切れる。
笑った顔のまま、固まった。
辛いことなんか、何も。
頬の内側が、ひくりと引きつる。口の端は上がったまま、そこから先へ動かない。こぼれた味噌汁が、ちゃぶ台の木目に沿ってゆっくりと広がって、縁からぽたりと畳に落ちた。
頬へ持っていこうとした手が、途中で止まる。いつもなら、ここで、へらっと笑って、そうだよなって返しておけばいい。ガキの言うことだ。知らないのは当たり前で、知られたくもない。分かっているのに、表情が動かなかった。
「……私の」
声が、勝手に出る。自分でも聞いたことのない、低くて平たい声。
「私の、何を知ってるんだよ」
ちゃぶ台のまわりが、しんとした。
タズナの赤い顔から、笑いが消えていた。布巾を持ったツナミの手も、宙で止まったまま。イナリも、涙で濡れた目を見開いたまま固まっている。
――やってしまった。
口の端を持ち上げようとする。上がらない。持ち上げようとするほど、頬の筋がこわばって、自分の顔がどこか他人のもののように重くなっていく。
座布団から立ち上がると、膝がちゃぶ台の縁にぶつかった。茶碗が、かちゃりと鳴る。
「……ごちそうさま」
誰の顔も見ないまま、土間で草鞋をつっかけて、戸を開ける。
背中で、誰かが名前を呼んだ気がした。振り返らずに、逃げるように戸を閉めた。
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戸の閉まった後、ちゃぶ台を囲む誰もが沈黙を貫いていた。
「イナリ」
布巾を置いて、ツナミがイナリのほうへ向き直る。
「あの子に、謝りなさい」
「……だって」
「だってじゃないの」
帽子のつばを引き下げて、イナリは唇を噛んでいた。泣き声だけが、まだ小さく漏れている。タズナは何も言わずに、壁の写真のほうへ顔を向けた。
黙って箸を置いたサスケが、腰を浮かせかける。そこへ、カカシが声をかけた。
「サスケ。今は、ほっといてやんな」
「……追いかけるなんて、言ってない」
言い返しながらも、サスケの目はしばらく戸から離れなかった。膝の上で、握った拳がゆっくりとほどけていく。やがて、ゆっくりと座り直す。
サクラは箸を持ったまま、こぼれた味噌汁を見つめていた。何か言おうと口を開いて、閉じる。夜中に聞いた、ごめんなさい、という寝言が、耳の奥に残っている。
イナリの泣き声が、少しずつ細くなっていく。松葉杖を引き寄せて、カカシはそちらへ向き直った。
「イナリくん。さっきのは、君が悪いわけじゃないよ。君も辛いことがあったんだろう」
イナリの唇が、震える。
「ただね。あの子にも、色々あるんだよ。皆がみんな本心のままに生きてるわけじゃないんだ」
何か言いかけたイナリは、帽子をもっと深くかぶった。
ツナミが、ナルコの席の茶碗を手に取る。カレイは、まだ半分も残っていた。少し迷ってから、その上に小皿を伏せて、台所の隅へそっと置く。
「あとで、お腹すくでしょうから」
誰に言うでもないつぶやきだった。帽子の陰で、イナリの目がその茶碗を追いかける。
カカシは松葉杖をついて立ち上がると、何も言わずに縁側のほうへ出ていった。
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がむしゃらにあの場所から逃げ続けていたら、気づけばいつもの林にいた。
夜の林は、昼間よりずっと湿っている。土と、腐りかけた落ち葉と、どこかの木から垂れた樹液の、むっとする甘い匂い。葉の隙間からこぼれた月明かりが、足元にまだらな影を落としていた。虫の声が、耳の奥でうるさいくらいに鳴っている。首筋に止まった蚊を、払う気にもなれない。
いつもの木の根元に、崩れるように座りこむ。幹に刻んだ印が、月の光にぼんやりと白く浮かんでいた。訓練をする気には、どうしてもなれない。
包帯の手を、開いたり閉じたりする。乾いた泥が、ぱらぱらと剥がれ落ちていった。
――辛いことなんか、何も知らないくせに。
頭の中で、イナリの声が鳴りやまない。
お前も、知らないくせに。
腹の底から、熱いものがせり上がってくる。押さえつけようとすると、かえって喉元まで這いのぼってきた。息が荒くなる。こめかみが脈打つ。爪が、包帯ごと手のひらに食いこんでいく。痛いはずなのに、痛くない。
ここに、いたくない。
それだけで、体が跳ね起きていた。どこへ行くのかなんて、考えもしなかった。足が勝手に地面を蹴って、林の外へ飛び出していく。
家の裏を突っ切ろうとしたところで、縁側から声がした。
「お、来た来た」
ピタッと足が止まる。月明かりの下、縁側の端に何でもないようにカカシは座っていた。松葉杖を柱に立てかけて、今夜は本も持っていない。
待ち伏せかよ。
「……先生、また来たの」
「夜風に当たってただけだよ。この足じゃ、ほかにすることもないしね」
とん、と松葉杖を指で叩いてみせてから、カカシの目が、何も持っていないナルコの両手と、海のほうへ向いた足先をなぞっていった。
また、捕まる。前の夜と同じだ。縁側までは五歩。松葉杖の上忍と、走り出した下忍。それでもたぶん、逃げきれない。
思わず身構えたこっちに向かって、ひらひらと手が振られる。
「止めやしないよ」
「……え」
「行きたいなら、行けばいい。オレは、この足だしね」
何を言われたのか、すぐには分からなかった。罠かもしれない。追いかけられないふりをして、どこかで待っているのかもしれない。でも、片目はいつもどおり眠そうに細められているだけで、何を考えているか読めない。
「けどまあ」
片目が、ふいと夜の海のほうへ逸れた。
「お前たちとのこの数日、オレは結構楽しかったけどね」
……なに、それ。
「……なんで、止めないの」
やっと出てきたのは、それだけだった。
「なんでだろうねえ」
頭をかく音が、やけにのんきに聞こえた。
「オレもね、お前くらいの頃、里なんか出てってやろうと思った夜があったんだよ。……結局、出なかったけど」
「……なんで」
「さあ。忘れちゃった」
嘘つけ、と言いかけて、やめる。
一歩、後ろへ下がる。カカシは動かない。もう一歩。それでも、動かない。
背を向けて、走った。
草鞋の裏で砂利を蹴って、海沿いの道をひたすら走る。
漁師の家が並ぶこのあたりは、どの窓にも板が打ちつけてあった。その板の上から、ガトーの印の入った貼り紙が、何枚も重ねて貼られている。軒下に干しっぱなしの網が、潮風に揺れてかさかさと鳴った。誰か出てきたら、と身構えたのは最初だけ。人の住んでいる気配なんか、どこにもない。路地の奥で、あばらの浮いた野良犬が一匹、こっちを見て、すぐに暗がりへ消えた。
何度か振り返ってみても、後ろから足音はついてこなかった。
本当に、追ってこない。
喉の奥が、鉄の味でひりひりする。脇腹が刺すように痛くなって、ようやく走るのをやめた。膝に手をついて、肩で息をする。汗が鼻の頭から一滴、砂利の上に落ちた。それでも足だけは止まらずに、知らない道を勝手に進んでいく。
家並みが途切れると、道は海を離れて畑のあいだへ入っていった。畑、と呼んでいいのかも分からない。何も植わっていない土が、月の下にどこまでも黒く広がっている。畝の跡だけが、波みたいに、遠くまで続いていた。
ぐう、と腹が鳴った。
……腹、減った。
カレイは、半分も食べないうちに置いてきてしまった。空っぽの胃が、きゅうと縮む。こんなふうに腹を空かせていたのは、鈴取りの日以来だ。丸太に縛られて、昼飯を抜かれたあの日。黙って縄を緩めて、自分の弁当を突き出してきたサスケ。サスケくんがあげるなら、と、ぶつぶつ言いながら蓋の上に卵焼きを載せてきたサクラ。あの卵焼きは、少し甘すぎた。
足が、少しだけ遅くなる。
畑の先の四つ辻に、小さな地蔵が立っていた。前掛けはすっかり色が抜けて、紋も読めない。足元に、干からびた花が一輪、倒れている。
門を出た日は、知らない景色ひとつひとつが、ワクワクした。里に生えてる物とは形の違う葉っぱも、見たことのない紋も、いつまでも眺めていたかった。サクラに、きょろきょろしすぎ、と肘でつつかれたっけ。
今だって、知らない道を歩いている。なのに、全然楽しくない。
歩幅が、だんだん狭くなっていく。
四つ辻を過ぎると、ゆるい上り坂になった。一歩歩くごとに、昼間さんざん木から落ちた背中の痛みが、今さらのように響いてくる。そんなになるまでやらなくてもいいじゃない、と怒ったみたいに言って、水筒を押しつけてきたサクラの顔。あの夜、なんで逃げようとしたんだ、と聞いてきたサスケの、まっすぐな黒い目。外、まだ楽しい? と、本から目も上げずに聞いてきた、のんきな声。
坂をのぼりきると、目の前がひらけた。
月明かりの下に、海が広がっている。風が、坂の下から吹き上げてきて、汗の冷えた首筋をなでていった。海の真ん中に、黒い影がひとつ突き出している。舟の上から見た、途中で途切れたままの橋。
お前たちとのこの数日、オレは結構楽しかったけどね。
なんだよ。
楽しかった、って。何がだよ。木から落ちて、飯を吐いて、子供に怒鳴られて。それの何が、楽しかったんだ。
言い返したい相手は、今ここにはいない。途切れた橋を見下ろしたまま、次の一歩を、どうしても踏み出せなかった。
来た道を戻ったのは、帰るためじゃない。ほかに、眠れそうな場所が思いつかなかっただけだ。
家の明かりが届かないあたりで、手前の森に入る。湿った土が草鞋に沈んで、冷たさが指のあいだまでしみてきた。こんなところで寝たら、朝には泥まみれになるに違いない。
ふと見上げると、ひときわ高い木が一本、森の屋根を突き抜けていた。幹は、修行に使っていた木の倍は太い。大人が三人で手をつないでも、たぶん回りきらない。枝の向こうに、星がのぞいている。
届くわけがない。それなのに、足は木に向かっていった。
一歩目で、幹が足の裏に吸いつく。二歩目も、三歩目も。昼間あれほど背中を地面に叩きつけられた高さが、するすると足元へ流れていく。上は見ない。足の裏で、チャクラを薄くのばす。サクラに教わったとおりに。
枝の付け根を越えて、もっと上へ、もっともっと上へ。頬をかすめる葉が、ひやりと冷たい。樹皮のざらつきが、草鞋越しに伝わってくる。息は上がっているのに、苦しさは少しも感じなかった。
夢中で登っているうちに、まわりの枝がまばらになっていく。最後の枝に手をかけて体を引き上げると、森がまるごと足の下に広がっていた。
……登れた。
「……ははっ」
なぜかわからないけど、笑い声が漏れる。四日かけて、数えきれないほど落ちた。それが、誰も見ていないこんな夜に、あっけなく。
森の屋根の上には、さえぎるものが何もなかった。黒い海と、その真ん中で途切れた橋と、ぽつぽつと灯る家の明かり。歩いてきた畑も、地蔵の立っていた四つ辻も、さっきまで足を止めていた坂の上も、ぜんぶ足の下にある。あんなに長く歩いた気がしたのに、ここから見ると、指で二つ三つたどれば届くほどの距離だった。
風が吹いて、潮風で少し傷んだ髪が揺れた。
明日にはてっぺんまで行く、と夕飯のときに言ったばかりだ。明日を待たずに、来てしまった。
――見せたかったな。
胸の奥から、自分でもよく分からない気持ちがせり上がってくる。浮かびかけた顔が誰のものか、確かめるのが怖かった。
今さら下りて、どこへ行けばいいのかも分からない。太い枝に腰を落ち着けて、背中を幹にもたせかける。
このまま、ここで朝を待てばいい。
枝の上で小さく丸くなって、目を閉じる。イナリの声も、波の音も、ここまでは届いてこなかった。