闇ナルコ 習作 作:ナルコスキー
頬に、冷たいものが落ちてきた。
水だ。まぶたを開けると、葉の隙間から白んだ空がのぞいている。動こうとしたとたんに、首から背中にかけてが、錆びた蝶番みたいにぎしりと軋んだ。指を動かそうとすると、じんじんと痺れが這いのぼってくる。枝の上で膝を抱えたまま、朝まで眠りこけていたらしい。
「こんなところで寝ていたら、風邪をひきますよ」
突然の声にナルコは驚く。その拍子に木の上でバランスを崩してしまった。
尻が枝からずるずると滑る。朝露に濡れる木は、思ったより滑りやすかったらしい。しまった、と思ったときには、もう体が宙に浮いていた。とっさに足の裏を幹に押しつける。ずる、と草鞋の底が樹皮を削って、二尺ほど落ちたところで、体はちゃんと止まった。
……どうやら昨日の夜の成功は、まぐれじゃなかったらしい。
「あ、すみません。驚かせてしまいましたね」
木の根元で、籠を抱えた子が申し訳なさそうに首をすくめている。長い黒髪に、淡い色の着物。一瞬、女の子の幽霊かと思った。……年は、二つか三つ上くらいか。
幹を歩いて降りていくと、まんまるになった目に迎えられた。
「すごい。木の上を歩けるんですね」
「……昨日、できるようになったばっかだってばよ」
「じゃあ、忍の方なんですね」
額当てに目をとめて、にこりと笑う。
きれいな笑い方だった。口の端の上がり方も、目の細め方も、ちょうどいい。ちょうどよすぎる。毎朝、頬を揉んでからつくる自分の顔と、どこか似ている。
「ボク、薬草を摘みに来たんです。知り合いが怪我をしていて」
籠の中には、ぎざぎざした葉っぱが半分ほど溜まっていた。
「よかったら、手伝ってもらえませんか」
断る理由を探しているうちに、気づけばその子が薬草の籠を渡してくる。腹は減っているし、今すぐ帰る気にもなれない。草むしりくらいなら、ちょうどいい暇つぶしになるだろう。そう思い、ナルコは籠を受け取った。
これです、と見せられたのは、ぎざぎざの葉をした地味な草だった。なんだ、そこらじゅうに生えてるやつじゃん。茎の先に、小さな黄色いつぼみがいくつもついている。
「オトギリソウっていうんです。葉を揉んで傷に当てると、血が止まりやすくなるんですよ」
根元から折らずに、上の柔らかいところだけを摘む。言われたとおりにやってみると、指先がたちまち青くさい汁に染まった。朝露に濡れた草の冷たさが、皮のむけた指先にしみる。
「上手ですね」
「……裏山で、食べられる草はだいたい覚えたから」
「食べられる草を?」
「金、ないときとか」
言ってから、しまったと思った。こんなこと、誰にも話したことがない。三代目にもイルカにも、もちろん七班の誰にも。ところがその子は、少しも驚いた顔をしなかった。逆にニコニコとしている。
「ボクも、昔はそうでした」
摘んだ葉を籠に移しながら、そいつはなんでもないことのように言う。
それから、ふとナルコの手に目をとめた。包帯はとうに泥だらけで、指の付け根の皮が何か所もむけている。
「手、ちょっと貸してください」
返事をする前に、向こうの手が伸びてきた。
肩が跳ねる。引っこめかけた手首を、細い指がやわらかくつかんだ。力は少しも入っていないのに、なぜか振りほどけない。つかまれた手首から、ひんやりした体温が伝わってくる。
――指先に、妙なたこがある。
人差し指と中指の、先の腹のところ。筆だこにしては位置が低いし、包丁だこにしては小さい。細いものを、数えきれないほどつまんで投げてきた手だ。手裏剣か、もっと細い何か。
少なくとも、薬草摘みだけをしてる奴の手じゃない。
摘んだばかりの葉が一枚、平たい石の上ですりつぶされる。青くさい汁を、むけた皮の上にそっと塗られた。ひやりとして、それから少しだけ、じんとする。
「気休めですけど」
「……すぐ治るから、こんなことしなくても、いいってばよ」
「でも、今は痛いでしょう」
痛い、と言われて、初めて痛かったことを思い出した気がした。
手のたこのことは、聞かなかった。聞いたら、こっちも何か聞かれる気がしたから。
それきり、二人とも黙って草を摘んだ。鳥が鳴きはじめて、朝靄が少しずつ薄くなっていく。隣で動く指先には迷いがなくて、しゃがんだまま横へ移るときも、足音ひとつ立てない。どこかで見たような身のこなしなのに、思い出せない。
「どうして、あんなところで寝ていたんですか」
「……修行」
半分は、嘘じゃない。
「強くなりたいんですね」
「……強くないと、なんにもできないから」
口に出してみると、思っていたより子供っぽい響きになった。
葉をちぎる音が、ふっと止まる。
「あなたには、大切な人はいますか」
指が、草の茎をつかんだまま固まった。
大切な人。頭の中を探してみても、誰の顔も出てこない。いや、出てきかけて、すぐに消えた。昨日の夜、木のてっぺんで浮かびかけた顔。確かめるのが怖くて、目を閉じた顔。
いる、と言ったら、それは誰なのかを、自分で決めなきゃいけなくなる。
「……いない」
ずいぶん間があいてから、それだけ答える。茎が、ぷつりと指の中で切れた。
向こうの手も、少しのあいだ止まっていた。
「そうですか。……つらいことを、聞いてしまいましたね」
違う、と言いかけて、言葉が続かなかった。なくしたわけじゃない。最初から、いない。わざわざ言い直すのも妙な気がして、黙って次の葉っぱに手を伸ばした。
「人はね、大切な何かを守りたいと思ったとき、本当に強くなれるんです」
静かな声だった。
「ボクには、大切な人がいます。その人の夢をかなえるためなら、ボクはなんにでもなれる」
なんにでも、か。
「だから、あなたもきっと強くなれますよ」
返事は、できなかった。
大切な人なんて 、誰もいない私の、自由になりたいという願い。……あいつの言うことが本当なら、私は、何のために強くなりたいんだろう。
籠がいっぱいになると、その子は立ち上がって、着物の膝についた土を払った。
「ありがとうございました。おかげで、早く帰れます」
「……べつに」
「それと」
帰りかけた足を止めて、振り返る。
「ボク、男ですよ」
「……は?」
「さっきから、ずっとそういう顔をしていたので」
くすりと笑われて、言葉に詰まる。してない、と言い返したかったけれど、図星だった。
「あなたは、女の子ですよね」
「……そうだけど」
あんまり当たり前の顔で聞かれて、かえって返事に困った。里では、男みたいな格好だの、女のくせに可愛げがないだの、言われるのはそんなことばかりだった。女の子ですよね、なんて、まっすぐ確かめられたのは初めてかもしれない。
「髪、せっかくきれいなのに。輪ゴムだと、傷んでしまいますよ」
そう言ってそいつは、私の髪に触れた。
不思議なことに、そいつに触れられたとき、私はその手を振り払おうとはしなかった。いつもなら背筋がゾクゾクっとして本能的に振り払うのに。
「…触るな」
ナルコは困惑しながらも、その言葉を絞り出す。彼はニコニコしながら、払われた手を引っ込めて、つぶやく。
「…朝は、一番冷え込みます。あなたには、帰りを待っている人がいるんじゃないですか?」
「なっ…何言ってんだってばよ」
「まぁまぁ」
さっきの発言を追及する間もなく、そう言って朝靄の向こうへ遠ざかっていく彼の背中を、ナルコは突っ立ったまま眺めていた。名前を聞きそびれたのに気づいたのは、その背中がすっかり見えなくなってからだった。
指先に残った青くさい匂いをかぎながら、森の出口までのろのろと歩く。
帰るんじゃない。腹が減っただけだ。昨日のカレイ、半分も食べてないし。そう言い訳しているうちに、朝の光のなかに、杭の上の古い屋根が見えてきた。台所の煙突から、細い煙がのぼっている。風に乗って、味噌汁の匂いがした。
足が、少しだけ遅くなる。
縁側に、桃色の頭があった。
「ナルコ!」
こっちに気づいたとたん、サクラが縁側から飛び降りてくる。裸足のままだ。
「あんた、どこ行ってたのよ! 一晩じゅう帰ってこないで……っ」
目の下が、うっすら赤い。髪も、昨日の朝結んだままほつれている。寝ていないのかもしれない。
「……ちょっと、散歩行ってた」
「散歩で朝帰りする人がいるわけないでしょ、ばか!」
頭をはたかれた。痛い。そんなに痛くしなくてもいいと思う。
柱にもたれていたサスケは、こっちを一度だけ見て、黙って家の中へ入っていった。何も聞いてこないのが、今はありがたい。
入れ違いに、松葉杖の音が近づいてくる。
「おかえり」
それだけだった。何も聞かない。怒りもしない。昨日の夜、縁側で手を振ったときと同じ、眠そうな片目。
「……ただいま」
口が勝手に動いていた。言ってから、自分の声に驚く。そんな言葉、今まで誰にも言ったことがない。誰もいない部屋に向かって言ったところで、返事なんか返ってこない。
ちゃぶ台には、もう朝ごはんが並んでいた。
焼いたアジと、豆腐の味噌汁と、白いご飯。ナルコの席にだけ、小皿をかぶせた茶碗がひとつ多い。小皿を持ち上げると、昨日のカレイが、温め直されて湯気を立てていた。
「お腹、すいてるでしょう」
台所から顔を出したツナミは、それ以上は何も言わずに鍋のほうへ戻っていった。
向かいの席では、イナリが茶碗に顔を突っこむようにしてご飯をかきこんでいる。一度も、こっちを見ようとしない。けれど、ナルコが座布団に座ったとき、その肩が小さく跳ねたのは分かった。
箸に伸ばした手が、途中で止まる。
湯気の向こうで、サクラはまだぶつぶつ文句を言っていた。心配させといて散歩って何よ、散歩って。サスケは黙って味噌汁をすすっている。カカシの茶碗は、いつの間にか空になっていた。
……いつ食べたんだ、今の?
口布を下ろしたところなんか、一度も見ていない。目を離したのは、ほんの一瞬だったはずだ。横目でうかがっていると、カカシは二杯目のご飯を受け取って、こっちに向かってのんびりと首をかしげた。
「なに?」
「……なんでもないってばよ」
誰も、昨日の夜のことを口にしない。その気遣いが、妙にこそばゆかった。
止まっていた手を伸ばして、箸を取る。食べさしのカレイは、昨日よりずっとおいしく感じた。