闇ナルコ 習作 作:ナルコスキー
日が傾きかけた林の、てっぺん近くの枝で、サスケとナルコは、同じ高さに並んで座っていた。
朝ごはんのあと、ナルコは黙って林へ向かった。振り返ると、後ろには黙ったままのサスケがいた。それから半日、どちらが先にてっぺんに着くかで何十回も木を駆け上がり、今のは同時だ、いやオレが先だった、と言い合っているうちに、太陽はもうてっぺんを通り越していた。木登りの修行としては、とっくに目的を果たしているはずである。誰もそれを口にしないだけで。
「……さっきのは、オレが先だった」
肩で息をしながら、サスケがまだ言っている。
「爪先一個ぶん、こっちが先だってばよ」
ちっ、と舌打ちが返ってきた。言い返してこないところを見ると、今回はこっちの勝ちらしい。
足の下に、森の屋根が広がっている。その向こうに海。夕日が水面を斜めに照らして、波の一つひとつが橙色の鱗のように光っていた。海の真ん中には、途中で途切れたままの橋。昨日の夜、坂の上から見たときより、ずっと近くに見える。
サスケは、もう何も言わない。ナルコも、しゃべろうとはしなかった。風が吹くたびに、二人の座った枝がゆっくりと揺れる。
汗の引いた首筋が、すうっと冷えていく。風に吹かれているうちに、いつもの笑い顔がどこかへ抜け落ちていた。気づいて、へらっと笑い直す。サスケは、海を見たままだった。
下から、サクラの声が飛んでくる。
「ちょっと、二人とも! いつまで登ってんのよ、ご飯よ!」
ふん、と鼻を鳴らして、サスケが先に幹を駆け降りていった。負けじと追いかけて、地面に着いたのは、また同時だった。言い合いを始めたところで、遅い、とサクラに怒鳴られながら、家路についた。
その夜は、ヘロヘロで布団に倒れこんだところまでしか覚えていない。
次に目を開けたとき、天井の木目がやけに明るかった。障子の向こうから、昼近い日ざしが差しこんでいる。家の中は、物音ひとつしない。
跳ね起きて、居間へ駆けこんだ。
誰もいない。ちゃぶ台の上に、紙切れが一枚だけ。
『ナルコへ。よく寝てたから置いていく。今日はゆっくり休むこと。 カカシ』
その下に、小さい字で書き足してあった。
『追伸。布団くらいは自分でたたみなさい』
……毎朝ちゃんとたたんでるってばよ。今日は寝坊しただけだ。
紙切れを握りつぶして、額当てをつかむ。今日も、みんなはタズナの橋の護衛のはずだった。カカシが寝こんでから、もうすぐ一週間。一週間は動けないと言ったのはカカシ本人で、それは再不斬にも同じだけの時間があったということになる。動けるようになっていても、おかしくない。来るとすれば、たぶん橋だ。置いていかれて、黙って寝ていられるわけがない。
草鞋に足を突っこんだところで、外から何かの割れる音がした。
「きゃあっ!」
ツナミの悲鳴だった。
戸の隙間からのぞいた桟橋に、男が二人。
頬に刀傷のある大男が、ツナミの手首をねじり上げている。足元には、割れた水瓶。もう一人は笠をかぶった痩せぎすで、腰の刀に手を置いたまま、退屈そうに欠伸をしていた。
「タズナの娘だな。悪いが、人質になってもらうぜ」
ガトーの手下だ。忍ではない。構えも、立ち方も、鬼兄弟や再不斬とは比べものにならない。ただ、刀を持っている。
戸口から桟橋まで、十歩。大男はツナミを盾にできる位置にいて、笠の男はその後ろ。正面から行けば、大男はツナミを前に突き出すだろう。なら、分身を四人。一人目と二人目で大男の両腕を取ってツナミから引きはがし、三人目で膝の裏を払う。四人目は笠の男に張りついて、刀を抜かせない。本体はそのあいだに大男の背中へ回る。十歩ぶんの距離も、跳べば三歩で届く。
頭の中で、手順が組み上がっていく。
なのに、足が動かない。
大男が、喉の奥でくぐもった笑い声を立てた。酒の匂いがした気がした。気がしただけかもしれない。それだけで膝の裏がすうっと冷えて、指先から血の気が引いていく。戸の木枠を握った手のひらに、じっとりと汗がにじんだ。指が、ぬるりと滑る。滑った指を握り直そうとして、うまく握れない。
――違う。あの夜じゃない。ここは波の国で、私はもう、何もできない子供じゃない。
言い聞かせても、喉は勝手に狭くなっていく。
「母ちゃんを、離せっ!」
甲高い声が、桟橋に響いた。
家の裏手から飛び出してきたのは、イナリだった。物干し竿を短く切ったような木の棒を両手で握りしめて、膝をがくがく震わせながら、大男の前に立ちはだかる。
「なんだ、このガキ」
「イナリ、だめ! 逃げなさい!」
ツナミの叫びも聞かずに、イナリは棒を振り上げた。
笠の男が、鼻で笑って刀を抜く。しゃらりと、鞘走りの音。
「邪魔だ。斬っちまうか」
――動け。
足が、床に貼りついたまま動かない。刀の刃が日の光を跳ね返して、ぎらりと光る。その真下に、イナリの小さな背中があった。
何も知らないくせに、と泣きながらちゃぶ台を叩いた手。あの手が今、震えながら棒を握っている。
こんなとこで、つまずいてらんない。
刀が振り上がる。その頂点の、振り下ろされる直前の、刹那。
印を結ぶより先に、体が戸口を飛び出していた。
十歩ぶんの距離を、三歩で跳ぶ。刃が落ちてくる。イナリの体を横から抱えこんで、桟橋の板の上を転がった。右腕の肘から下が、焼けるように痛む。板の継ぎ目に背中を打ちつけて、一瞬、息が止まった。顔を上げると、橙色の右袖がざっくりと裂けて、腕から血がにじんでいる。
腕の中で、イナリが目を見開いていた。
「な、なんだてめえ!」
笠の男が、刀を構え直した。
構え直したその刀の切っ先が、少し下がっている。大人の腰の高さではなく、子供の胸の高さに。相手が子供なら、それで十分だと思っているのだろう。木の葉の額当てが見えていないのか、見えていても、こんなガキが忍のはずがないと決めつけているのか。
どちらでもいい。見くびってくれるなら、そのほうが早い。
イナリを背中に押しやって、立ち上がった。指はまだ少し震えている。それでも、印は結べた。
「影分身の術!」
煙が弾けて、桟橋の上に橙色の上着が四人並ぶ。
「は……?」
笠の男の切っ先が、四人のあいだを迷うようにさまよった。どれを斬ればいいのか。その迷いが、男の手を一拍遅らせる。
この一瞬があれば、いける。
分身たちが、さっき頭の中で組んだ手順どおりに飛びかかる。一人目が大男の右腕に、二人目が左腕にしがみついた。大男がツナミの手を放す。放した手で刀の柄をつかもうとしたところへ、三人目が膝の裏を蹴った。巨体がぐらりと傾く。傾いた背中へ、本体が飛び乗って、首に腕を回した。締め上げる。大男の体が、どすんと桟橋に沈んだ。
笠の男は、四人目の分身に刀を振るった。一太刀で、分身が煙になる。その煙の中から、本体が飛び出した。刀を振り切った腕に、体ごとぶつかる。重みで刀先が下がった瞬間、手首をひねり上げて、板の上に押さえつけた。刀が、からんと桟橋を転がっていく。
縄の代わりに使ったのは、ツナミの家の物干し綱だった。
分身を消したとたん、体がずしりと重くなった。膝が笑って、桟橋の杭に手をつく。息を吸うたびに、打った背中がずきずきと痛んだ。
「ナルコちゃん、腕……!」
駆け寄ってきたツナミが、裂けた袖をつかむ。
血のにじんでいた傷は、もう薄い皮でふさがりかけていた。袖をめくったツナミの手が、そこで止まる。
慌てて、腕を背中に回した。
「へ、へへっ……かすっただけだってばよ。もう、平気」
ツナミは何か言いかけて、口を閉じた。それから、背中に回した腕を引っぱり出して、裂けた袖ごとそっと両手で包む。袖の裂け目を、指先でなぞっている。肘から手首のほうへ、斜めに、ざっくりと。ツナミの手のほうが、ずっと冷たかった。
「……自分のことも、少しは勘定に入れなさい」
怒っているのか、泣きそうなのか、分からない声だった。
桟橋の端で、イナリが棒を握りしめたまま座りこんでいた。膝が、まだがくがく震えている。
「……なんで」
かすれた声で、イナリが顔を上げた。
「この前、あんなこと言ったのに。なんで、助けに来たんだよ」
なんで、と聞かれても困る。
木の葉の忍だから。護衛の任務だから。そう答えれば、筋は通る。けれど、戸口で動かなかった足を動かしたのは、そんな筋ではなかった気がする。ちゃぶ台を叩いた手が、震えながら棒を握っていた。それを見たら、体が勝手に出ていた。理由を言えと言われても、それ以上のことは自分でも分からない。
分からないことを言うのは、苦手だった。
「……かっこよかったってばよ、さっきの。母ちゃんの前に、一人で立ってさ」
へらっと笑って、答えの代わりにそれだけ言った。
イナリの目が、まんまるになった。何か言い返そうとして、口を開けて、閉じる。帽子のつばをぐいと引き下げて、そっぽを向いた。
「……そういうこと聞いてんじゃないし」
「分かってるってばよ」
イナリは、それ以上何も言わなかった。あの夜、ちゃぶ台の前で言われたことも、言い返したことも、どちらもまだ二人のあいだに転がったままだった。
橋のほうから、風に乗って低い音が流れてきた。何か硬いものがぶつかり合うような、高い音もまじっている。
ツナミと、顔を見合わせた。
「……行ってくる」
「ナルコちゃん!」
呼び止める声を背中で聞きながら、桟橋を蹴った。
走るほどに、まとわりつく空気が湿って重くなっていく。額にかいた汗が、いつまでも乾かない。気づけば、道の先が白く溶けていた。
霧だ。湖のほとりで再不斬と向き合ったときの、喉がひりつくような白さ。
橋のたもとで、何かにつまずいた。人だ。タズナのところで働いていた、日焼けした顔の男。肩を揺すると、かすかなうめき声が返ってくる。……生きている。顔を上げれば、霧の向こうに同じように倒れた影が二つ、三つ。数えながら走ると、五つ目で数えるのをやめた。斬られた傷はない。殴られたか、気を失わされたか。殺す気なら、とっくに殺している。殺さずに道だけ空けさせたのだとしたら、相手の狙いはタズナと、それを守る忍のほうだ。
霧の奥から、くぐもった声が聞こえる。右の奥からカカシの声。左の、ずっと手前からサクラの悲鳴。
サスケの声だけが、どこからも聞こえない。
霧をかき分けて、橋の上を走った。足元の板が、途中から新しい木の色に変わる。吸いこむ空気がだんだん冷たくなって、昼間だというのに、吐く息がうっすら白い。どれくらい走ったのか分からなくなったころ、霧の一角が、不意に白く光った。
鏡だ。人の背丈ほどもある氷の板がいくつも宙に浮かんで、丸く何かを取り囲んでいる。その真ん中に、見覚えのある黒い背中がうずくまっていた。
サスケ。
氷の鏡の一枚に、白い面が映りこむ。
……あの面。
体がこわばるより早く、足が橋の板を蹴っていた。