闇ナルコ 習作 作:ナルコスキー
「ッ……身体が……ゲホッ……勝手に、動いたん……だよ……」
咳と一緒に、赤い泡が唇の端からこぼれる。言い終えるのを待たずに、サスケの体から力が抜ける。
ナルコは氷の上に座りこんだまま、サスケの上半身を膝に抱えていた。倒れこんできた体を受け止めた形のまま腕がほどけない。脚はまだ動かなかった。動いたとしても、どこへ運べばいいのかわからない。
重い。人ひとりの重さというものを、ナルコは初めて腕で知った。荷物とも丸太とも違う。命の重さをひしひしと感じる。
首に刺さった千本から血が一筋だけ襟に落ちていく。
唇の色が薄い。さっきまで赤い目が覗いていた瞼は閉じきっていて、サスケの体はぴくりとも動かなかった。
いき、してるか、たしかめないと
口元に手のひらをかざす。息をしているのかどうか、自分の手が震えていて確かめようがなかった。頬に触れるとサスケの体は冷たくなっていた。
「……サスケ」
返事はない。
「なあ、サスケってば。起きろって」
揺すると黒い頭が力なく揺れる。それでもサスケはぴくりとも動かなかった。
「仲間をかばって死ぬ。忍としては、立派な最期でした」
俯いたままのナルコに、鏡の中から声がかかる。
殺気をむき出しにした声ではない。森で薬草の籠を渡してくれたときと同じ、穏やかな声だった。
――憎め
腕の中の重さが急に遠くなる。
霧の白が、端から黒く塗り潰されていく。鏡が見えなくなり、周りの景色がだんだんと見えなくなる。耳の奥で水の音だけが大きくなって、ナルコの体はその音の中へ沈んでいった。
冷たい水の感触で目が開いた。
足首まで水に浸かって立っている。薄暗い石の床が遠くまで続いていて、天井から落ちる水滴が足元に小さな波紋を広げていった。
ここには、鏡も、橋も、吐きそうなほど重いサスケの体もなかった。
ここがどこなのか、ナルコは知らない。ただ、現実ではないらしいことだけはわかった。幻術か。幻覚か。いろいろな推測が頭を巡る。
少し歩くと、足音より少し遅れて水音が壁から返ってくる。嫌なほどよく響くその音に心がざわつく。
はじめは何も見えなかった前方も、歩みを進めるごとにぼんやりと形を見せはじめた。正面には、巨大な格子。一本一本が大人の胴回りほどもある太い柱で、真ん中に「封」と書かれた札が一枚貼ってある。その札の端が水気を吸ってだらりと垂れていた。
格子の奥は真っ暗闇で、何も見えない。何の音もしない。
その暗がりで何かが立ち上がった気配がした。
小さい。ナルコと同じくらいの背丈。ぱしゃ、ぱしゃと軽い水音を立てて、それは格子のほうへ歩いてくる。
それは、目が痛くなるほどの橙色の上着を羽織っていた。
それは、少し傷んだ金色の髪を、輪ゴムで無造作にくくっていた。
それは、
自分だった。
鏡で見慣れた顔。毎朝こしらえている顔。その顔がへらっと笑っていた。
目だけが、グロテスクなほど赤い。
血を溶かしたような赤の真ん中で、黒い瞳孔が縦に細く裂けている。猫の目に似ていた。その目を歪ませてもう一人のナルコはにこにこと笑っている。
不自然さのない笑い方。笑う前に吸う息も、口の端を上げるときの小さな力みもない。
だからこその、違和感。
私でさえ、ここまでの笑顔は作れない。まるで生まれたときからそういう顔で、辛いことなど何も知らないような笑い方だった。
自分の顔を自分よりうまく使いこなしているやつがいる。これほど気味の悪い話もない。
それは弁当の蓋を持っていて、蓋の上には巻き目のそろった黄色い卵焼きが一切れ載っていた。それは卵焼きを指でつまみひょいと口へ放りこむ。
【ん、あまーい】
もぐもぐと頬を動かしながらこちらを見る。
【サクラちゃんがくれたやつだよ。サスケはね、あたしの縄ほどいてくれたの】
足元の水にはほかにもいろいろ浮かんでいた。ツナミが巻いてくれた白い包帯。サクラに押しつけられた水筒。夕暮れの戸口で聞いた「おかえりなさい」まで、形もないのにそこにある。
「……それ」
出てきた声は自分のものとは思えないほど冷たかった。
「返せってばよ」
【返す?】
こてん、と首が傾く。
【なんで? ぜんぶ、あたしがもらったんだよ】
もう一人のナルコは指を折って数えはじめる。
【サクラちゃんも、カカシ先生も、ツナミさんも、みーんなあたしのほうが好きなの。へらへら笑って、元気に振る舞うほう。あんたじゃなくて、あたし】
それから天井の暗がりを見上げた。
【さっきだってそう。サスケがかばったのは、あたしだもん】
違う、と言おうとした。
何が違うのかは、言えなかった。
ぱしゃ。ぱしゃ。
水を蹴ってもう一人が近付いてくる。ナルコの目の前で止まり、下からこちらを覗きこんだ。同じ三本線に、同じ金髪。ほとんどが同じで、目だけが赤い。
【じゃあ、あんたは?】
優しい声で聞いてくる。
【あんたには、何があったっけ】
探した。
床下の缶の小銭。思いつくのはそれくらいだった。
【ね?】
濡れた手が伸びてきて私に触れようとする。
私は、本能でそれを避けた。こいつに触れられてはいけないと、体のほうが全力で警戒していた。
【……ちぇ。まぁいいや。だからさ、代わってあげよっか】
水滴が一つ、落ちる。
【ぜーんぶ、あたしでいいじゃん。そのほうが、みんなうれしいよ】
赤い目がまた細くなる。不気味なほど自然で、そのくせどこまでも不自然な笑いだった。
「……いらない」
喉の奥からそれだけを絞り出す。
【そっか】
もう一人のナルコはあっさりとそう言った。がっかりした様子もない。断られることまで最初から知っていたような顔だった。
その視線が足元へ落ちる。
つられて見下ろした。足首までだったはずの水がいつのまにか膝まで来ている。
ぬるい。
色が、赤い。
【まぁ、今回はお試しってことで】
赤い水をつま先でちょんと蹴る。
【怒るのとか。憎いのとか。殺したいのとか。あんたの気持ち、ぜーんぶあたしがかなえてあげる】
もう一人のナルコが、口を大きく開けて笑う。
その笑い声だけはナルコの声ではなかった。低く、太く、足元の水ごと揺らす声。七つの夜に腹の中で聞いたのと、同じ笑い声だった。
赤い水が一息にせり上がってくる。
――まずい、溺れる……
氷の上で、少女の体がびくりと跳ねた。
その拍子に、膝に抱えられていた忍びの少年の頭が氷の上へずり落ちる。少女は気付いた様子もなく、俯いたまま肩だけを大きく上下させていた。息の音がおかしい。吸うたびに喉の奥がひゅうと鳴り、吐くたびにその音は低く、濁っていく。
最初に変わったのは、匂いだった。
焼けた鉄のような匂いが鏡に囲まれた空間に満ちていく。少女の座りこんだ周りの氷が、触れてもいないのにじわじわと溶けはじめる。立ちのぼる湯気がうっすらと赤い。
赤いのは湯気ではなかった。少女の肌から滲み出したチャクラが霧に溶けて、色を帯びているのだった。初めは靄のように薄かったそれが見る間に濃くなっていく。やがて煮え立つ湯のように泡を立てながら、少女の体を内側から押し包んだ。
みしり、と骨の軋む音がした。
橙色の上着の背中が、下から何かに押し上げられるように盛り上がる。氷に突いた指の先からは、爪が肉を押し破って伸びていく。ゆっくりではない。一息に、内側から突き出されるように。頬の三本線は墨を流したように太く黒く滲み、唇の両端がじりじりと裂けていく。その隙間から覗いたものはもう人間の歯の形をしていなかった。
少女が、顔を上げた。
目が、赤い。
――これは。
鏡の中で、白は千本を握る指に力をこめる。面の内側でこめかみを冷たい汗が伝っていく。
チャクラの量が多いことは、あれだけの分身を見ればわかっていた。だが、目の前にあるのは量の話ではない。質が違う。人の体から出てきていいものではなかった。
「……まずいですね」
声に出したのは自分を落ち着かせるためだった。落ち着きはしなかった。
赤い目が、こちらを見た。
ぐるりと並んだ鏡のうち、白が潜んでいる一枚を、まっすぐに。
次の瞬間、その鏡が爆ぜた。
---
カカシの右手で、雷切が鳴いていた。
青白い光が指のあいだから溢れ、足元の霧を内側から照らしている。その先では忍犬たちが、再不斬の腕に、脚に、脇腹に牙を立てていた。大刀を構えたまま、霧隠れの鬼人は一歩も動けない。
踏みこめば終わる。
その踏みこみより先に霧が逆向きに流れた。
風ではない。橋の奥から押し寄せてくる何かが霧を力ずくで押しのけている。むき出しの頬がちりちりと焼け、喉がひりついた。これだけ離れていて、この熱である。
人間のチャクラではなかった。赤くて、重くて、粘りつく。
覚えがあった。十二年前の夜。忘れようとして忘れられなかった、あの夜の空の色。
「……なんだ、こいつは」
忍犬に噛まれたまま、再不斬が呻く。
答えるより先に霧を破って赤いものが降ってきた。
橋板が割れ、忍犬がまとめて煙になる。術が解けたのではない。裂かれたのだ。
ナルコだった。
いや、ナルコの体をした何かだった。両手を橋板につき、四つ足の獣のように背を丸めている。肩甲骨が上着の下で盛り上がり、伸びた爪が板に深く食いこんでいた。全身から噴き上がる赤いチャクラが、背中で尾のように一本揺れている。
――これは、マズい
頬の三本線は太く黒く浮き、裂けた唇の端から牙が覗いている。眉間から鼻筋にかけて深い皺が寄り、吊り上がった目の中で赤い瞳孔が縦に裂けていた。タズナの家で飯をかきこんでいた子供の面影は、どこを探してもない。あるのは憎しみだけだった。それも誰か一人に向けたものではなく、目に入るもの全部に向けた憎しみ。
赤い目が再不斬を見て、それからカカシを見る。
どちらを見るときも同じ目だった。敵も味方も、今のナルコには区別などできるわけがない。
どうやら、何かの拍子に封印が緩んだらしい。サスケか。面の子か。何があったにせよ、今この橋でいちばん危ないのは、もはや桃地再不斬ではなかった。
「グ……ル、ゥ……ッ」
喉の奥で、唸り。牙を伝った涎が橋板に落ちてじゅっと音を立てる。
その直後、ナルコの姿が、消えた。
次の瞬間には再不斬の首の前に爪が襲いかかる。首切り包丁が爪に割りこみ、金属を引っ掻く嫌な音が響く。受けた衝撃で再不斬の踵が橋板に沈んだ。霧隠れの鬼人が、子供の一撃で膝を曲げさせられたわけである。
再不斬が横薙ぎに返す。
だが、そこにナルコはいない。大刀の峰を蹴って、もう宙にいた。
――まったく、なんて速さだ
赤い目が宙からこちらを向く。
カカシは雷切を握り潰した。突けば届く。届けば、この子の胸に穴が開く。そんなことはまずできない。散ったチャクラが指のあいだで弾けるのを感じながら、右の手甲を上げる。
落ちてくる爪を、受けた。
とてつもない衝撃がカカシを襲った。
「ッく」
膝ごと沈むほどの衝撃に、食いしばった歯から空気が漏れる音がした。手甲が裂け、爪はそのまま内側へ入りこんで前腕の肉を持っていった。肘まで熱いものが伝う。
「ナルコ!」
呼んだ。赤い目は瞬きもしない。
「……じゃ、ま……ずんな……ッ」
唸りに混じって、言葉の欠片が落ちてくる。声はナルコのものだ。だが、意識が残っているとは思えなかった。
着地と同時に、二撃目が顔へ来る。首をひねってかわすと、三撃目は脇腹を狙ってくる。身をよじったが、ベストが裂けた。
四撃目は再不斬へ向かった。大刀と爪が噛み合って火花が散り、弾かれたナルコは欄干を蹴ってまた来る。カカシへ、再不斬へ、またカカシへ。目に入ったほうへ憎しみを込めた爪が飛んで来た。
受けては躱し、躱しては受ける。そのあいだにもナルコの動きは時間が経つごとに速くなっていた。
背中の赤い尾が最初より太くなり、打ち合うたびにスピードと、威力が加速度的に上がっていく。ナルコが受けた頬の傷は、赤い泡を立てて端からすぐに塞がってしまった。
反撃の隙はない。もっとも、隙があったところで打てないのだが。
「テメェのとこのガキだろうが! どうにかしやがれッ!」
大刀を振り回しながら、再不斬が怒鳴る。湖のほとりで聞いた、あの余裕のある声はどこにもない。
どうにかできるなら、とうにしている。
ナルコの体がさらに沈んだ。両手両足で橋板を掴み、肘も膝も外へ張り出している。人の骨の付き方でできる姿勢ではなかった。上着の背中が、内側から押し上げるチャクラに負けて縫い目から裂けていく。
「ア゛ア……ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!」
吠えた。声の圧で霧が吹き飛び、橋の上がいっとき見通せるほどに晴れる。叫んでいるというより、喉が勝手に裂けて音を出しているような声だった。
このまま行けばナルコの方が自分の扱う力に耐えられずに壊れてしまうだろう。
写輪眼はあと一度。雷切を練り直すチャクラはなく、あったとしても撃てない。忍犬を呼んでもまず意味がないだろう。
――やはり、写輪眼か
写輪眼の幻術で意識を落とす。九尾のチャクラに呑まれていても、器は十二歳の子供のはずだ。眠らせればチャクラも引くかもしれない。
五撃目を、わざと裂けた手甲の残りで受ける。爪が腕に食いこむ。その代わりに、ナルコの顔がすぐ目の前まで来る。
その瞬間、カカシは額当てをずらし左目を開いた。
赤と赤の目が、正面から睨み合う。
―――眠れ。
幻術を流しこんでいく。瞳の奥へ、もっと奥へ。
ナルコの動きが止まった。
腕に食いこんでいた爪がわずかに緩む。縦に裂けた瞳孔がふらりと揺れて、細い裂け目が少しずつ丸みを帯びていった。赤の底にほんの一滴だけ青が滲んだように見える。
「……サ、ス……」
唇が動いた。ナルコの意識が戻りかけていっている。
背中の尾が細くなっていく。橋板を掴んでいた指が一本ずつ開いていく。
まだだ。カカシは奥歯を噛みしめ、残ったチャクラを左目に注ぎこんだ。
押しこむほどに向こうから押し返してくる力が強くなる。重い扉の向こうに何かが寄りかかっていて、こちらが押すたびに同じだけ押し戻してくる。そんな手応えだった。左目の奥がずきずきと脈を打ち、こめかみを汗が伝っていく。
赤い目が、また青に近づく。
あと少し。
そう思ったとき、頭に激痛が走る。限界を超えて使いすぎた弊害が、ここに出てしまった。
――まずい
そう思った瞬間に、流しこんだ幻術ごと赤いチャクラが左目へ逆流してくる。目の奥で何かが弾け、視界の左半分が白く塗り潰された。
「ぐ……っ」
膝が落ちた。押さえた指のあいだを血が伝っていく。
写輪眼は、これで打ち止めだ。
橋のたもとにはタズナさんとサクラがいる。霧が晴れれば二人にも見える。見せたくなかった。そう思ったところで、今この橋の上では何の足しにもならない。
片目だけの視界の中で、ナルコの爪が振り上がる。
膝を突いた男の首へ、まっすぐに。
避けられない。
その瞬間、ナルコの背後に、大刀の刃が振り下ろされる。
金属と爪のぶつかる音が耳のすぐそばで弾ける。再不斬は、ナルコの爪がカカシへ向いた隙を狙って斬りかかったのだ。ただ、狙いは届かなかった。ナルコは刃を受けた反動で跳びのき、そのまま新しい獲物のほうへ首を回した。
「くそっ」
舌打ちをしながら、再不斬が大刀を肩に担ぎ直す。忍犬に噛まれた腕からまだ血が垂れていて、到底ナルコに勝てるような状態ではないことは明らかだった。
「……かえ、せ……」
牙のあいだから涎と一緒に声が落ちる。
「かえせ……ぜんぶ……ごろ、す……ッ」
「来いよ、小娘」
その声が終わらないうちに、ナルコは橋板を蹴っていた。
それに合わせて、再不斬が大刀を振り下ろす。ナルコは避けようともせずに、刃の横腹を爪で殴りつけて筋をずらし、そのまま懐へ潜りこんだ。
再不斬の切り上げが来るより早く、爪が再不斬の左肩を裂く。
「っテメェ!」
吠えながらも再不斬は大刀を放さなかった。空いた拳でナルコの顔を殴りつけ、小さな体が吹き飛んで、橋の縁に叩きつけられる。
ナルコがぶつかった橋の縁は、粉々に砕け散っていた。
普通の子供なら骨が何本も折れている。普通の子供なら、である。
そんな攻撃を受けてなお、ナルコは一瞬で立ち上がった。殴られた頬も赤い泡を立てて元の形に一瞬で修復されていく。
「……化け物が」
再不斬の声に初めて焦りが混じった。人を斬ることにかけては誰より慣れた男だろうが、斬った端から治る相手には慣れていないらしい。
瞬間、ナルコの体が低く沈む。
橋板すれすれを滑ってくるナルコを、大刀が橋板ごと薙ぎにいく。ナルコは跳ばない。刃の下をくぐって膝の裏へ爪を走らせる。
攻撃を受けた再不斬は、明らかに苦しそうな顔をしていた。
もうまともに立つのも厳しいようで、突き立てた大刀にすがって、それでも倒れまいとする再不斬の前に、ナルコが立つ。
ナルコが腕を上げる。爪の先が、まっすぐに再不斬の胸を向いた、その瞬間、カカシは立とうとする。
だが、脚が言うことを聞かない。左目の奥はまだ白く焼けていて、もう動ける状態ではなかった。それでも、橋板に手をついて膝を立てる。あの子に人を殺させてはならない。あの状態で人を殺させたら、あの子は―――
一歩目で膝が崩れた。
――くそっ
波の音も、再不斬の荒い息も、自分の心臓の音さえも聞こえなくなった。
見えるのは、引き絞られた小さな腕。その先で鈍く光る、五本の爪。爪の先にある再不斬の胸と、大刀の柄を握りしめた男の、血走った目。
ナルコの腕が、まっすぐ突き出される。
ゆっくりと。カカシの目にはひどくゆっくりと見えた。
二人のあいだまで、あと腕一本ぶん。
――ナルコ、だめだ。
そう言おうとした瞬間、霧の中から白いものが視界に飛び込んでくる。
足音もなく。気配もなく。気付いたときにはもうそこにいた。再不斬とナルコのあいだに、背中で再不斬を庇うようにして、両腕を広げて立っていた。
ほどけた長い黒髪が遅れて肩に落ちる。割れた面のかけらが一つ、頬から剥がれて宙に浮いた。
彼は、怯えてはいなかった。迫ってくる爪から目を逸らさず、まるで最初からこうすると決めていたように、静かにそれを受け止めていた。
面のかけらが橋板に落ちる。
かつん、と小さな音。
その音と同時に、ナルコの腕が少年の胸を貫いた。