闇ナルコ 習作 作:ナルコスキー
喉が、張りついていた。
目を開けると、見覚えのある天井の木目がにじんで見える。体じゅうが痛い。どこか一か所ではなく、関節という関節がきしんで、少し動いただけで体がばらばらになりそうだった。指を動かそうとしても、敷布の上で一本がやっと曲がるだけ。
水が飲みたい。
起き上がろうとして、肘が崩れた。二度目でどうにか体を半分起こすと、それだけで額に汗が浮いてくる。障子の向こうはうっすら明るいが、朝なのか夕方なのかもわからない。
なんでこんなことになってるんだっけ。
思い出そうとすると、頭の芯がずきずきと痛んだ。
割れた白い面と、その下の長い黒髪。それから、腕が何か温かいものの中へ沈んでいく感じ。
そこまで出てきたところで、息が止まった。
その前もあとも、ところどころしか覚えていない。
頬を、冷たいものが伝っていく。また、あの夢を見ていたらしい。寝間着の袖で、ごしごしとこすった。
障子が開く。
「……起きたか」
サスケだった。首と肩に包帯を巻いたまま、障子の桟に手をかけて立っている。
氷の上で冷たくなっていったサスケが、頭に浮かぶ。揺すっても、呼んでも、返事はなかった。
「サスケ……生きてた……」
声が、途中でかすれる。
「勝手に殺すな、ウスラトンカチ」
いつもの、ぶっきらぼうな声だ。それを聞いて、やっと息が吐けた。よく見ると、サスケの目の下にはうっすらと隈が浮いている。
枕元の水差しに目を留めると、サスケは湯呑みに水を注いで突き出してきた。
「飲め」
受け取ろうとしても、手が震えてまともに持てない。舌打ちが一つ聞こえて、湯呑みのほうが口元まで寄ってくる。ありがたいが、傾け方が雑だ。こぼれた水が顎を伝って、寝間着の襟まで濡らしていく。
「お前、二日も寝てたんだぞ」
空の湯呑みを畳に置くと、サスケの目が一度だけ、こちらの濡れた袖に落ちた。何か言いかけて口を開き、そのまま閉じる。
「……カカシ、呼んでくる」
あの日のあとのことは、布団の脇に腰を下ろしたカカシが話してくれた。
ガトーは死んだ。殺したのは再不斬で、その再不斬も、そのあと死んだという。給金が出ないとわかると、ガトーに雇われていた男たちは我先に島から逃げ出していったらしい。漁師たちは何年かぶりに自分の舟で海へ出ていて、橋の工事には、昨日だけでいつもの倍の人が集まったそうだ。
カカシは、そういう話ばかり選んでしているようだった。どこにも、白の名前は出てこない。
「……先生」
「ん?」
「白は」
カカシが、少しのあいだ黙る。
「死んだよ」
わかってはいた。それでも、聞きたくなかった。
「……私が」
「再不斬から、言づてがある」
言いかけたところに、カカシの声がかぶさる。
「白は、テメェで飛びこんだ。あいつはいつもそうだった、ってさ」
「……そっか」
右手を、布団の中に隠した。あの温かさが、まだ腕に残っている。
カカシは膝の上で、左手だけを軽く握っている。右手は、さっきから一度も袖から出ていなかった。
「先生、その腕」
「かすり傷だよ」
間を置かずに返ってくる。嘘が下手だってばよ。
「見せて」
「見ても面白いもんじゃないぞ」
「見せてってば」
しばらくこちらを見ていたカカシが、観念したように袖をまくる。
手首から肘の手前まで、包帯が厚く巻いてあった。その上に、三本の線の形で血がにじんでいる。
「……覚えてるのか」
カカシの声が、少し低くなった。
覚えていない。けれど、三本の線を見た途端に、指がこわばった。
「……ごめん、なさい」
謝るつもりもないうちに、声が出ていた。
何も言わずに、袖が戻される。包帯のないほうの手が、ぽんと布団を叩いた。
「寝てなさい。まだ顔色がひどいぞ」
起き上がれるようになったのは、その次の日だった。
家の中は前と同じようで、少しずつ違っている。
ツナミはいつもどおり「おはよう」と言ってご飯をよそい、魚の骨まで取ってくれようとする。いつもどおりにしようとしてくれているのが、かえって落ち着かない。
タズナは、ちゃぶ台の向こうで、酒の入っていない湯呑みを握っている。目が合いそうになるたびに、湯呑みの中へ視線を落とした。その目つきには覚えがある。里の大人たちが、ナルコとすれ違うときにする目だ。
サクラは、何度かこちらを見ていた。
口を開きかけては、閉じる。一度は箸を置いて、身を乗り出しかけた。そのくせナルコが顔を上げると、肩がびくっと跳ねて、味噌汁の椀を持ち上げてしまう。
どの目も、こっちをまっすぐには見ない。箸を持ったまま、手が止まっていた。焼き魚は、皿に載せられたときのままだ。
隣のサスケが、横から箸を伸ばしてきた。
「食わねえなら、もらうぞ」
「……食べるってばよ」
皿を引き戻すと、サスケはそれ以上何も言わずに、自分の味噌汁をすする。
一口かじってみる。毎朝おいしいと思って食べていた焼き魚なのに、何の味もしなかった。
――ま、こんなもんだってばよ。
里でも、ずっとそうだった。この家でだけ違うなんて、どうして思ったんだろう。
体が動くようになると、ナルコは毎日、橋の工事を手伝いに出た。
朝から日暮れまで丸太を運び、杭を打って、板を渡していく。橋の上は村の人でいっぱいだったが、ナルコを気にする人は誰もいない。霧の中のことを、ここの人たちは知らない。
知らない人の隣は、楽だった。
持ち場は、いつも橋の一番端にした。反対の端では、サクラが丸太を運んでいる。
手を動かしていれば、何も考えなくていい。休まずに丸太を担いでいたら、三日目には村の大人たちのほうが先にへばって、ナルコの横の丸太の山だけが妙に高くなっていた。
三日目の夕方、ナルコは海の見える丘に登った。
てっぺんに、墓標が二本立っている。カカシと村の人たちで埋めたのだと、ツナミから聞いていた。片方には首切り包丁が突き立ててあって、もう片方には何もない。根元に、白い小石がいくつか並べてあるだけだ。
何もないほうの前で、足を止める。
手を合わせようとして、途中でやめた。殺した自分が手を合わせていいのか、わからなかった。結局、ただそこに立っている。
後ろで、草を踏む音がした。
「……こんなとこにいたのか」
足音が隣で止まる。潮風に、黒い髪が揺れていた。
「カカシが探してる。晩飯だ」
「……うん」
返事はしても、足は動かない。サスケも戻ろうとはせずに、隣で墓標を見下ろしている。
夕日が、海を赤く染めていく。
「……殺したの、私だから」
自分の声が、ひどく平べったく聞こえた。
サスケは墓標から目を離さない。しばらくして、低い声が返ってきた。
「……知ってる」
それきり、何も言わない。慰めもしないし、責めもしない。
黙っていると、落ち着かない。いつもの癖で、顔がゆるんだ。
「へへっ……まあ、しょうがないってばよ。任務だったし」
サスケの横顔が、ぴくりと動いた。
「……その面、やめろ」
「え」
「そのへらへらした面だ。見てるとイライラすんだよ」
サスケが、初めてこちらを向いた。眉間に皺を寄せて、睨むように見下ろしてくる。
「しょうがない、だと? だったら、なんでこんなとこに突っ立ってる。三日も橋の端で丸太ばっか担いで、誰とも口きかねえで」
言い返そうとして、何も出てこない。笑った顔のまま、口元が固まった。
「寝てるあいだも、ずっとうなされてたろ。障子越しでも聞こえたぜ。ごめんなさい、ごめんなさいってな」
サスケの目は、こちらの顔から離れない。
「誰に謝ってんだ、お前は」
答えられなかった。ゆるんだままの頬から、少しずつ力が抜けていく。笑っていない顔がどんなだったか、すぐには思い出せない。
しばらくして、やっと声が出た。
「……いつから」
サスケが、ふん、と鼻で笑った。
「見りゃわかる。ずっと前からな」
それだけ言うと、また墓標のほうへ向き直る。帰ろうとはしない。さっきと同じところに、同じように立っている。
気づくと、指がサスケの袖の端をつまんでいた。
サスケが袖を見下ろして、少し眉を寄せる。
放さなきゃ、と思う。なのに、指が言うことを聞かない。つまんだ布を、かえってきつく握りこんでいた。
――もうちょっとだけ。
サスケは何も言わなかった。振り払いもしない。
夕日が沈みきるまで、ナルコは袖を放さなかった。
その夜、縁側にイナリがやってきた。
両手に、橙色の布を抱えている。それが自分の上着だと気づくまで、少しかかった。
「……母ちゃんが、直したって」
受け取ると、右の袖が縫い合わされていた。桟橋でイナリをかばったとき、刀でざっくり裂かれたところだ。縫い目は細かくて、糸の色まで橙に合わせてある。指でなぞらなければ、どこが裂け目だったのかもわからない。
七つの誕生日の夜、路地で大人たちに殴られたときにも、服の袖が裂けた。直してくれる人はいなくて、自分で結んで、そのまま着ていた。
縫い目を、親指でなぞる。
「……あのさ」
イナリが、帽子のつばを引き下げた。
「ごめん」
顔を上げると、イナリは縁側の板をにらんでいる。
「ご飯のとき、辛いことなんか何も知らないくせにって言った。……姉ちゃん、寝てるとき、ごめんなさいって何回も言ってた。ボク、聞いてたもん。なんにも辛くない人は、あんなふうに謝らないよ」
帽子の下で、声が震えていた。
「何も知らなかったの、ボクのほうだった」
すぐには返事ができない。膝の上で、縫われた袖を握る。
いつもなら、へらっと笑って「気にすんなってばよ」で済ませるところだ。
なのに今夜は、その顔がうまく作れなかった。
「……私も、ごめん」
小さな声しか出なかった。
「私の何知ってるんだよって、言った」
イナリが顔を上げる。帽子のつばの下で、目のふちが赤くなっていた。
「……姉ちゃん、桟橋で、ボクのせいで腕切られたのに」
「あんなの、次の日には治ってたってばよ。もう跡もないし」
袖をめくって見せると、イナリの顔がくしゃっとゆがんだ。
「治ったって、忘れられるわけないじゃん」
すぐには、何も言い返せない。
しばらく黙っていたイナリが、ずずっと鼻をすすって、袖で目元をごしごしこすった。
「……泣いてないからな」
「わかってるってばよ」
「……じゃあさ。次来たとき、釣り教えてやる」
「……イナリが?」
思わず聞き返すと、帽子のつばの下から、目だけがこっちをにらんだ。
「なんだよ、その顔」
「下手そう」
「うるさい!」
背中を、ばしっと叩かれた。痛くはなかった。
イナリが寝床へ戻っていったあと、上着を抱えて台所をのぞいてみる。ツナミは洗い物をしていて、こちらに気づくと手を止める。
「……これ。ありがと」
差し出した袖を見て、ツナミの目元がゆるんだ。
「ちゃんと着られそうで、よかった。ナルコちゃんの服、ほかにもほつれてたから、ついでに見ておいたの」
言われて見れば、襟のほつれも、裾の糸も、きれいに留め直してある。
「また来てね。そのときは、ご飯もっとたくさん作るから」
うん、と返した声は、思っていたより素直に出た。
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出発の前の晩、私は鞄の中身を畳の上に全部広げた。
櫛が二本と、手拭い。日焼け止め。予備の髪紐が三本。
髪紐を一本、手に取る。
ナルコのことを知りたいと思った気持ちは、嘘じゃない。なのに、ナルコが起きてからの数日、私はろくに話しかけられていない。朝ご飯のときは何度も声をかけようとして、そのたびに口が開かなかった。目が合うと、体のほうが勝手に引けてしまう。
ナルコは、たぶん気づいている。
気づいていて、何も言わない。それどころか、橋の上では自分から一番端へ行ってくれる。私が近づかなくて済むように。
霧の中で見たナルコを思い出すと、今でも膝が震える。怖いのは、本当だった。
でも、あの子に気をつかわせたまま木の葉に帰るのは、違う。
汗を拭くたびに見た寝顔を思い出す。眉間に浅く皺を寄せて、ときどきごめんなさいと言っていた。
ナルコの髪は、いつも輪ゴムで縛ってある。あの鞄に櫛が一本もなかったことも、私は知っている。
話しかけるのが怖いなら、せめて、輪ゴムよりましな物くらいは渡せるはずだ。
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出発の朝、荷物をまとめて縁側に出たところで、ナルコは呼び止められた。
「……ちょっと、そこ座って」
サクラだった。手に、櫛と細い紐を持っている。目が合うのは何日ぶりだろう。すぐに目をそらしたサクラが、縁側の板をとんとんと叩く。
「早く。出発、遅れるでしょ」
言われるまま腰を下ろすと、サクラが背中に回った。
輪ゴムに、指がかかる。
「いっ……」
「動かないの」
髪に絡みついた輪ゴムが、少しずつほどかれていく。何本かまとめて引っぱられて、頭の皮がつんと痛んだ。
「……あんた、これ何年やってんの」
「入学のときから。櫛も持ってないってばよ。なくても困らないし」
髪をいじる手が、少しのあいだ止まる。
「……信じらんない」
ぼそりと言ってから、櫛が通された。引っかかってはほどき、また通す。潮風で傷んだ髪が櫛の歯に絡んで、ぶちりと何本か切れる。
「ほら、切れた。だから輪ゴムはだめなの。……あんた、もうちょっと自分の髪、大事にしなさいよ」
ぶつぶつ言いながら、サクラはまた毛先からやり直していく。
うなじに触れる指が、震えていた。
櫛を持つ手はぶれていないのに、髪に触れるたび、指先が一度止まって、それからまた触れてくる。
「……ねえ。あんた、寝てるとき、誰に――」
「いででっ! 痛いってばよ、サクラちゃん! 引っぱりすぎ!」
「……うるさい。動かないの」
櫛がまた通される。サクラはそれきり、聞いてこなかった。
「鏡、ある?」
「……ある」
鞄の底から、三代目にもらった丸い手鏡を出す。
後ろで、サクラが髪を一つにまとめていく。高いところできゅっと結んで、細い紐を二重に巻き、最後に前髪を櫛で横へ流す。
そこで、サクラの手が止まった。
横へ回りこんできて、こちらの顔をのぞきこむ。何か言うのかと思ったら、黙ったまま、じっと見ている。
「……なに」
「……べつに」
サクラは口をとがらせて、また背中に回った。
「ふーん。……まあ、いいんじゃない」
なんだか、面白くなさそうな声だった。似合わないなら、そう言えばいいのに。
手鏡を持ち上げる。
鏡の中に、知らない女の子がいた。
高い位置で結んだ金髪の下に、小さな顔がある。前髪がないだけで、青い目がずいぶん大きく見えた。まつ毛が長くて、細い眉の下で目尻が少し上がっている。
――誰、これ。
目をそらしたいのに、そらせなかった。
「……なんで」
やっと出てきたのは、それだけだった。
「なんで、こんなこと」
すぐには答えが返ってこない。結び目が指で整えられて、余った紐の端がくるりと巻きこまれる。
「輪ゴム。見てて、気になってたから」
それから、声が小さくなった。
「……それと。この何日か、あんたとまともに口きいてなかったから」
櫛が、縁側の板に置かれる。
「お礼くらい、言いなさいよ」
「……あり、がと」
声が、うまく出なかった。
ふん、と鼻を鳴らして、サクラが立ち上がる。縁側に落ちていた輪ゴムを拾うと、少し迷ってから自分のポケットにしまった。
「その紐、あげる。予備だから。……輪ゴムで結んできたら、怒るからね」
背中を向けたまま言い捨てて、サクラは荷物を取りに家の中へ戻っていく。
橋は、向こう岸まで届いていた。
欄干はまだ半分しかついていなくて、ところどころ板の色も違う。それでも、舟を使わずに大陸まで歩いて渡れる道が、海の上に一本延びている。
橋のたもとには、村の人たちが集まっていた。ツナミに、名前も知らない漁師たち。一緒に丸太を運んだ大人たちの顔もある。
その中から、タズナが出てきて頭を下げた。七班の四人に、端から順に。
ナルコの前まで来たところで、足が止まる。目をそらされると思ったのに、タズナはまっすぐこちらを見ている。
「……嬢ちゃんが毎日運んでくれた丸太のぶん、橋は早うできた。礼を言うのが、遅うなったな」
深く下げられた頭に、ナルコは何も返せない。
「この橋を渡るたびに、お前らのことを思い出すわい。……超、寂しくなるのォ」
「ま、次は橋ができあがったころにでも。そのときは一杯くらい付き合いますよ」
カカシがのんびり返すと、タズナがやっと口元をゆるめた。先生、任務中ですよ、とサクラがあきれている。
「……行くぞ」
先に歩き出したのは、サスケだった。
橋をしばらく歩いたところで、背中から声が飛んでくる。
「ねーちゃーん!」
振り返ると、集まった人たちの一番前で、イナリが両手を振っていた。帽子が落ちそうなくらい、大きく。
「釣り! 約束だからなー!」
ナルコは、片手を上げて振り返した。
「……何、にやにやしてんのよ」
隣を歩くサクラが、こちらを見ている。
「してないってばよ」
ふん、とサクラが前を向く。歩くたびに、結んでもらったばかりの髪の先が首の後ろをくすぐった。
これにて波の国編終了です。閑話を挟んだ後、新章に入ります。