闇ナルコ 習作 作:ナルコスキー
分身の術の試験がある日の朝は、いつもより早く目が覚めた。
顔を洗って居間へ行くと、父さんはとっくに身支度を済ませて、湯呑みを片手に朝刊を広げていた。庭の松の枝で、雀がやかましく鳴いている。
「おはよう、父さん」
「ああ」
それだけ。目は紙面の文字を追ったまま、こっちへは動かない。
今日、試験なんだ。喉まで出かかったのを飲み込んだ。どうせ「そうか」で終わる。それより、結果を持って帰ってから言った方がいいに決まってる。三人出せた、って言えば、さすがの父さんも新聞から顔くらい上げるはずだ。……上げる、と思う。
「サスケ、お弁当忘れないでね」
台所から母さんの声がして、振り返ると包みを差し出された。手のひらに、まだ温かさが残っている。横にはもうひとつ、兄さんの分の包みもあった。肝心の兄さんはいない。昨夜から任務に出たきり、まだ帰ってこないらしい。
「次、うちはサスケ」
イルカ先生に呼ばれて、席を立った。
教壇の前に立つと、教室中の視線が背中に刺さる。そんなのはいつものことだ。どうでもいい。気になるのはひとつだけ――ちゃんと三人出せるかどうか。
家の裏で、もう何十回も練習してきた術だ。失敗なんかするわけない。チャクラを練って、印を結ぶ。
ぼん、ぼん、ぼん。
煙が晴れる。自分と同じ顔が三つ、ちゃんと並んでいる。そこでやっと、詰めていた息を吐いた。
「……よし。合格だ」
女子たちがきゃあきゃあ騒いでいたけど、正直それどころじゃなかった。帰ったら父さんにどう切り出すか。頭の中はそればっかりだ。三人。兄さんはオレくらいの頃、何人出せたんだろう。
席に戻ってからも、ほかのやつの術はほとんど目に入らなかった。二人出せれば上出来で、一人がやっとのやつもいる。オレの三人には、誰も届かない。当然だ。
「次、うずまきナルコ」
その名前が出た途端、教室の空気が変わった。肌でわかる。
うずまきナルコ。一番後ろの席の、髪がぼさぼさの女子だ。前髪で顔が半分隠れていて、いつ見ても同じ灰色の服を着ている。誰かと口を利いているところなんて、見たことがない。名前は知ってる。知ってるのは、それくらいだ。
前の席で、女子たちが顔を寄せてこそこそ囁き合う。当のうずまきはそっちへ顔ひとつ向けずに教壇へ出てきて、黙って印を結んだ。
出てきた分身は、ぼやけていた。
輪郭が水に溶けかけたみたいに滲んでいて、顔なんか、どこが目なのかもわからない。よっぽどチャクラの練り方がなってないんだろう。あれじゃ、出してないのとたいして変わらない。
「うわ、なんだそれ! 幽霊じゃん!」
キバの馬鹿でかい声に、教室がどっと沸いた。……オレも、ちょっとだけ口の端が緩んだかもしれない。
なのに、その笑い声の中で、本人だけが笑っていなかった。
怒ってるふうでもないし、恥ずかしがって俯くわけでもない。自分の分身が笑いものにされてるってのに、横目でちらっと見ただけで、あとは何もなかったみたいな顔で先生の話を聞いてやがる。
変なやつ。
思ったのはそれだけで、次のやつの名前が呼ばれる頃には、もう忘れていた。
昼休みになると、いのを先頭に、何人かの女子がオレの机を囲んだ。
「ねえサスケくん、さっきの分身どうやったの?」
「どうって、普通にやっただけだ」
「えー、教えてよー」
「……そのうちな」
いのはしつこいし、声もでかい。その後ろには、いつもいのにくっついてる桜色の髪の女子もいる。うるさい。うるさいけど……さっきの術を褒められて、悪い気はしなかった。
人垣の後ろで、とん、と誰かがぶつかる音がした。
「あっ、ごめんなさ……」
後ずさりした春野が、誰かの背中にぶつかったところだった。
相手は、あのうずまきだ。丸めた包み紙を持っている。屑籠に捨てに来たんだろう。春野は相手の顔を見るなり言いかけた言葉を飲み込んで、いのに腕を引かれるまま、輪の向こうへ逃げた。
なんとなく、うずまきの方を見た。
伸び放題の前髪の隙間から、青い目がのぞいている。正面から、目が合った。
何も映っていない目だった。
春野に避けられたことも、さっき教室中に笑われたことも、目の前にオレが立っていることさえ、全部その目の表面を素通りする。怒ってもいないし、気まずそうでもない。そこにはただ、青い目だけがあった。
気味が悪い、ってほどじゃない。ただ、いくら見ても何も読み取れない。だんだん見ているのが馬鹿らしくなって、いのの方へ向き直った。
うずまきが席へ戻るのを、オレはもう見ていなかった。
放課後は、ひとり校庭の隅に残って手裏剣を投げた。
的の真ん中に当たったって、まだ足りない。兄さんなら、同じ一点に十本続けて当てる。岩の陰に隠れた的にだって当ててみせる。だから一本投げるごとに息を整えて、次の一本を構えた。
何本目かを放ったところで、正門の方に人影が見えた。
柱に背を預けた、黒い髪を後ろで束ねた姿。見間違えるわけがない。
「兄さん!」
足元の手裏剣を拾うのも忘れて、駆け出していた。
「今日、分身の術の試験だったんだ。オレ、一回で三人出せた」
「そうか。すごいな、サスケ」
その一言だけで、今日一日、全部いい日だった気がしてくる。我ながら単純だ。
「兄さんは、最初のとき何人出せた?」
「……五人だったかな」
五人。オレより二人も多い。悔しい――より先に、やっぱり兄さんはすごい、が込み上げてきた。
「……じゃあオレ、次は六人出す」
「そうか」
兄さんは目を細めて、オレの頭にぽんと手を置いた。それから柱から背を離して歩き出す。すぐ隣に並んで、試験のことも、キバが騒いだことも、イルカ先生がどんな顔をしてたかも、思いつくまま全部しゃべった。
途中で、兄さんが首だけで後ろを振り返った。
つられてオレも振り返る。少し離れた木の陰に、誰か立っていた。ぼさぼさの金髪に、灰色の服。うずまきだ。
兄さんは何も言わずに、そいつを見ていた。オレの話の途中だったのに。
「兄さん?」
「……いや。帰ろう」
すぐに前へ向き直って、兄さんは歩き出した。慌てて追いかける。
「知り合い?」
「いや」
「同じクラスのやつだよ。変なやつなんだ。分身もぼやけててさ」
「……そうか」
兄さんはそれきり黙った。夕日に照らされた横顔が何を考えているのか、オレにはよくわからなかった。
その日の夕飯は、珍しく四人揃った。
ちゃぶ台には母さんの煮物と焼き魚。上座の父さんは、いつものように黙々と箸を動かしている。
言うなら、今だ。
「父さん。今日、分身の術の試験だったんだ」
「そうか」
「一回で三人出せた。クラスで一番」
箸が、一瞬だけ止まった。
「……そうか」
それだけ言って、父さんはまた焼き魚に箸を伸ばした。そのまま兄さんの方を向いて、今日の任務のことを二言三言聞く。兄さんが短く答えると、満足そうにひとつ頷いた。
自分の茶碗に目を落とした。
わかってた。兄さんはオレくらいの歳の頃、もっとずっとすごかった。三人くらいで褒めてもらえるわけがない。でも、もうちょっと何か言ってもらえるんじゃないかって――どこかで、期待してた。
……新聞からは、顔を上げてくれたけど。
「サスケ、すごいじゃない。三人も出せたのね」
オレの茶碗にご飯をよそい足しながら、母さんがにこにこ言ってくれた。
「……別に。普通だよ」
「クラスのお友達はどうだったの?」
「みんな一人か二人。あと、すげー変なのがいた」
ちょっとでも食卓を明るくしたくて、昼間のことを話した。
「うずまきってやつの分身、ぼやけてて、顔がなかったんだ。キバが幽霊じゃんって言って、みんな笑ってた」
母さんの手が、ぴたりと止まった。
「……うずまき?」
「うずまきナルコ。いっつも一人でいる女子」
父さんの箸の音が、ふっと途切れる。兄さんは茶碗を持ったまま、黙ってそれを見下ろしている。
母さんは、何も言わなかった。
「……その子、お昼はちゃんと食べてた?」
「え? ……パン食ってた。一人で」
「そう……」
それだけ言って、母さんは目を伏せた。
そのときの母さんの顔を、なんて言えばいいのかわからない。怒ってるのとも、困ってるのとも違う。ただ、ひどく悲しそうだった。何かまずいこと言ったかな、と思った。何がまずかったのかは、いくら考えてもわからなかった。
「ミコト」
父さんが低い声で呼ぶと、母さんは首を振って、いつもの顔に戻った。
「ごめんなさい。さ、冷めないうちに食べちゃって」
それから、うずまきの話をする者は誰もいなかった。父さんは兄さんと任務の話を続けて、母さんは時々オレの皿に煮物を取り分けてくれる。いつもどおりの、うちの食卓だ。
布団に入っても、なかなか寝つけなかった。
六人。次は六人出すって兄さんに言ったんだから、明日から練習を増やさないと。三人じゃなくて六人なら、今度こそ父さんも、何か言ってくれるだろうか。言ってくれなかったら、七人だ。
そんなことを考えていたはずなのに、気がつくと、昼間のあの目を思い出していた。
前髪の隙間からのぞいていた、何も映していない青い目。それから、あいつの名前を聞いたときの、母さんの顔。
どうして母さんがあんな顔をしたのか。兄さんがどうしてあいつを振り返ったのか。父さんがどうして黙ったのか。……わからない。何も。
まあ、いいか。どうせ、口を利くこともないやつだ。
オレは寝返りを打って、分身の改善点だけを考えようとした。障子の向こうでは、夏の虫がいつまでも鳴いていた。