闇ナルコ 習作 作:ナルコスキー
「今日は変化の術の試験だ。一人ずつ前に出て、オレに化けてもらう」
イルカがそう告げると、教室のあちこちでどよめきが上がった。あれほどやかましかった蝉の声は、気づけばもう聞こえない。窓から入る朝の風にも、秋の匂いが混じりはじめていた。
変化の術は、分身の術と並ぶ基本中の基本だ。とはいえ、基本だから簡単というわけでもない。他人の姿を寸分違わず写すには、相手をよく見ていなければならないし、チャクラの加減をしくじれば、どこかしらがおかしなことになる。
実際、前に出た連中は、誰もがどこかしらずれていた。髪は合っているのに背が低すぎたり、顔はそれっぽいのにベストが違ったり。キバに至っては、イルカの顔に犬の耳が生えていて、教室中の笑いをさらった。
サスケの番になると、教室はしんとなった。
印。煙。晴れた先に、どこから見てもうみのイルカその人が立っている。背丈も、髪の結び方も、額当ての位置もぴたりと合っている。ただ、顔だけは本物よりずっと硬い。口元をきつく引き結んで、にこりともしない。
「……よし、合格だ」
イルカが名簿に丸をつけると、女子たちからまた黄色い声が上がった。
「次、うずまきナルコ」
いつものように、のろのろと教壇の前へ出る。
夏のあいだに伸びた髪は、相変わらず輪ゴムで適当に縛ったまま。古着の袖はさらにくたびれて、折り返したところの糸がほつれかけている。前の席の女子たちが、またひそひそと顔を寄せ合った。
何も言わずに印を結ぶ。
ぼん。
煙が晴れても、誰も、すぐには声を出さなかった。
うみのイルカが、そこに立っていた。
背丈も、髪の結び方も、鼻を横切る古い傷の位置も、同じ。額当ての結び目がちょっと左へ寄っているところも、ベストの右の胸ポケットだけ擦り切れて白っぽくなっているところも、そっくりそのままだ。
ただ、その顔には何の表情もなかった。
誰かが息を呑んだ。
窓際の席で、サスケが頬杖をついていた手を机に下ろす。黒い目が見開かれて、教壇のもう一人のイルカを、瞬きもせずに見ている。
名簿を手にしたまま、イルカは自分と同じ顔を見つめた。鏡を見ているようだった。表情だけがすっぽり抜け落ちた鏡を。
「……合格だ」
ようやくそう言ってから、迷うように付け足す。
「ナルコ。そのポケット、よく気づいたな」
「先生、いつもそこに名簿挟んでるから」
イルカの姿のまま、イルカの声で、表情ひとつ変えずに答えた。
別に、気づこうとして気づいたわけじゃない。見てれば分かる。すれ違う大人がどのくらい手前で目を逸らすか、店の主人がどんな顔で値段を言うか。そういうのを見てないと、いつ怒鳴られるか分からないんだから。ポケットくらい、ついでに目に入る。
イルカは、それ以上何も聞かなかった。
術を解く。いつものぼさぼさ頭に戻った途端、前の席の女子たちが、思い出したようにまた囁きはじめた。
……あれ?
席へ戻りながら、気づいた。イルカの姿をしているあいだ、あの子たちは一言も囁かなかった。気味悪そうな顔はしていたけど、服のことも、髪のことも、誰も何も言わなかった。なのに、術を解いたら元どおり。
その日の午後の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
昼休み、校舎裏の人気のない物置の陰で、もう一度イルカに化けた。
その姿のまま校舎に戻って、廊下を歩いてみる。
「あ、イルカ先生。こんにちは」
向こうから来た上級生が、ぺこりと頭を下げた。黙って片手を上げると、何の疑いもなく通り過ぎていく。
階段の踊り場では、別の教師に呼び止められた。
「イルカ、午後の演習場の件だけどな。あとで職員室に寄ってくれるか」
「……ああ」
それだけ答えると、教師は満足そうに頷いて、階段を下りた。
……ばれない。ほんとに、ばれない。
誰も、目を逸らさない。すれ違う生徒は道の端に寄らないし、ひそひそ囁きもしない。当たり前に挨拶して、当たり前に通り過ぎる。いつものナルコが歩けば、それだけで人垣が割れるのに。
廊下の端から端まで歩いた。突き当たりで向きを変えて、また反対の端へ。もう一往復。
窓硝子に映ったイルカの顔は、口の端が、ちょっとだけ上がっている。
ナルコは、そのことにまるで気づいていない。
次の日の朝は、家を出る前に変化の術を使った。
化けたのは、知らない女の子。昨日の帰り道、商店街で母親に手を引かれていた、同じ年頃の子だ。栗色の髪を二つに結んで、着物を着ていた。顔はなんとなくしか覚えていないので、そこは適当に自分で作った。たぶん、ばれない。
その姿のまま、いつものパン屋の暖簾をくぐる。
「いらっしゃい。あら、見ない顔ねえ。お使い?」
店のおばさんが、見たこともないような柔らかい顔で笑った。
「……うん。これ、一つ」
「はいはい。お代はこれだけね」
値札どおりの値段だった。昨日まで払っていた額の、ちょうど半分。
……半分。
小銭を差し出すと、おばさんはパンを包みながら、思い出したように棚の奥へ手を伸ばした。
「これ、おまけ。パンの耳だけど、お腹の足しにはなるでしょう」
紙袋の中に、パンの耳がひと掴み、ころころと転がり込む。
「……ありがと」
「いいのよ。また来てね」
店を出ても、術は解かなかった。
朝の商店街は、もう人通りが多い。八百屋の店先で威勢のいい呼び込みが飛び交い、魚屋の前には買い物籠を提げた女たちが並んでいる。その人混みの中を、わざと端じゃなく真ん中を歩いた。
誰も避けない。道を空けたり、子供の手を引いて離れたりもしない。肩がぶつかれば「あら、ごめんね」と謝られる。八百屋の前で立ち止まれば「お嬢ちゃん、柿が甘いよ」と声がかかる。
そのたびに、頷いてみせた。何て返せばいいのか、よく分からなかったから。
人混みのどこかで、黒髪の女の人が足を止めて振り返った。背中に、団扇の形の家紋。女の人は栗色の髪の女の子の後ろ姿を見つめていたが、何事もなかったように歩き出した。
紙袋を抱えたナルコは、一度も振り返らなかった。
学校からの帰り道、一楽の前で足を止めた。
里でひとつだけ、素顔のまま入れる店だ。店主のテウチは値段をふっかけないし、ナルコの顔を見ても目を逸らさない。なんでかは知らない。聞いたこともない。聞いて、やめられたら困るし。
暖簾の前で、動けなくなった。
指が、勝手に印の形を作りかけている。
化ける必要なんかない。この店なら、素顔で構わない。分かってる。分かってるのに、指がなかなかほどけない。
……ばかみたい。
手を下ろして、素顔のまま暖簾をくぐった。
「おう、いらっしゃい。いつものでいいか」
「うん」
湯気の立つ丼が置かれる。割り箸を割ったところで、背中の暖簾がまた揺れた。
「親父さん、味噌ひとつ」
聞き覚えのある声。横目で見ると、昼間に教壇の前で見たのと同じ顔が――今度は本物のイルカが、一つ席を空けた隣に腰を下ろすところだった。
「……先生」
「お、ナルコか。奇遇だな」
奇遇、と言うわりに、イルカの目はこっちを向いていない。暖簾の外へちらりと流れて、テウチの手元に落ちる。
麺を啜る音だけが続いた。
「今日の変化、見事だったな」
「……別に」
イルカはそれ以上、その話を続けなかった。テウチと天気のことや、近ごろの野菜の値段のことを、ぽつりぽつりと話している。汁を丼の底まで飲み干して、懐から小銭を出した。
「ああ、いいって。今日はオレが――」
「いい。自分で払う」
伸ばしかけたイルカの手が、宙で止まる。勘定を台に置いて、椅子から降りた。
おごってもらう理由なんか、ない。あとで何か言われるくらいなら、自分で払った方がずっといい。
「……ナルコ」
暖簾に手をかけたところで、後ろから呼ばれた。
「また、来るか」
足が、一瞬だけ止まる。でも振り返らない。何も答えないまま、暖簾をくぐった。
外は、すっかり夜の色だった。
その夜、アパートの部屋で、昼間に見かけた顔をひとつずつ試してみた。
八百屋の、声の大きいおじさん。魚屋の前で籠を提げていた、背の高い女の人。ぶつかって謝ってくれた、眼鏡のおばあさん。パン屋のおばさん。
裸電球の下で、次々と別の誰かになる。どの顔も、驚くほどうまくできた。見ていた顔なら、見ていたとおりに作れる。ちょっとした癖も、声の調子も。八百屋のおじさんの声を出してみたら、自分でもびっくりするくらいうるさかった。
最後に術を解く。煙の向こうから、いつものぼさぼさ頭が戻ってくる。
自分の手を見下ろした。絆創膏だらけの、小さな手。パン屋のおばさんが「また来てね」と紙袋を渡した、あの女の子の手じゃない。
残ったのは、みんなが嫌いなナルコの顔だった。値札の倍の値段を言われて、目を逸らされる顔。昨日までと、何も変わらない。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「振られちまったなあ、先生」
テウチに笑われて、うみのイルカは苦笑いを返すしかなかった。
暖簾の端が、まだ揺れている。隣の丼は、汁の一滴まできれいに空だ。テウチはそれを下げて、布巾で台をひと拭きした。
「あの子、よく来るんですか」
「ああ。週に何度かな。来て、いつものを頼んで、食って、払って帰る。もう二年くらいになるか」
「……一人で、ですか」
「いつも一人さ。誰かがあの子の隣に座ったのは、今日が初めてだよ」
何でもないことのように言って、テウチは湯切りの網を振った。
空いた隣の席に、イルカは目をやった。
「親父さんは、その……あの子に、他の客と同じ値段で出してるんですよね」
「当たり前だろう」
テウチは眉をひそめた。
「うちはラーメン屋だ。腹を空かせて暖簾をくぐってきた客に、ラーメンを出す。それ以外に何をするってんだ」
それきり、鍋の方へ向き直ってしまう。何も言い返せずに、イルカは半分残った自分の丼に目を落とした。
まったく、朝から妙な一日だった。
教壇の前に、自分が立っていた。背丈も髪も、鼻の傷の位置まで。自分でも気づいていなかったポケットの擦り切れまで写していた。なのに、顔にだけ何の表情もない。自分の顔があんなふうに空っぽになるところなんて、初めて見た。
いつもそこに名簿を挟んでいるから、とあの子は言った。……いつから、見ていたんだ。
入学式の日を思い出す。保護者席を端から順番に、一人ずつ眺めていたあの目。退屈しのぎなんかじゃなかった。そうやって人の顔色を窺わなきゃ、あの子は生きてこられなかったのだ。
分身はあれほどぼやけていたのに、変化だけは恐ろしく巧い。分身は細かいチャクラの調整が要るが、変化は見たものを写す術だ。誰よりも人を見てきた子が、誰よりもうまく化ける。考えてみれば、当たり前のことかもしれない。……当たり前であってほしくは、なかったが。
昼休みのことも、頭から離れない。
職員室に戻るなり、同僚に「さっき階段で頼んだ演習場の件な」と言われた。そんな話、聞いた覚えはない。窓から廊下を見下ろすと、自分と同じ顔が、廊下の端から端までを往復している。
その口元が、笑っていた。
あの子が笑ったところを、イルカは一度も見たことがない。初めて見たその笑顔は、借り物の、自分の顔の上にあった。
止めに行くべきだったのだろう。教師なら、きっとそうだ。けれど窓辺から一歩も動けなかった。
暖簾越しにあの金髪の背中を見つけて、気がついたら店に入っていたのも、たぶんそのせいだ。
おごると言ったのが、三代目に頼まれたからなのか、自分がそうしたかったからなのか。自分でもよく分からない。断られて、どこかほっとしている自分がいたことも、認めなきゃならなかった。情けない話だ。
六年前の九尾の夜に、両親を亡くした。あの子のせいじゃないと頭では分かっていても、まだ真正面からあの顔を見る勇気がない。隣に座っておきながら、結局ずっと、丼と親父さんの手元ばかり見ていた。
「親父さん」
「なんだ」
「明日も、来ていいですか」
テウチは振り返りもせずに、鼻を鳴らした。
「客に来るなって言う店があるかよ」
思わず笑って、イルカは伸びかけた麺を啜った。
また来るか、と聞いたとき、あの子は確かに一度だけ足を止めた。
返事はなかった。振り返りもしなかった。
それでも、何もかも諦めきった子供なら、足を止めることさえしないはずだ。あの小さな背中のどこかに、まだ誰かを信じてみたい気持ちが残っているんじゃないか。……都合のいい考えかもしれない。それでも、そう思いたかった。
――次は、ちゃんと顔を見よう。
すっかりぬるくなった汁を飲み干しながら、イルカは小さくそう思った。