闇ナルコ 習作 作:ナルコスキー
布団の上で、跳ね起きた。
……自分の部屋だ。路地じゃない。あの男たちもいない。なのに心臓は、胸を突き破りそうなほど鳴っている。息がうまく吸えない。着古したシャツの背中が、冷たい汗でべったりと張りついている。
両腕が、頭をかばうように抱え込んでいた。
まだ、靴の音が鳴りやまない。
――憎め。
そのまま膝を抱えて、窓の外が白むまで、うずくまっていた。
あの夜から、家々の裏手を抜ける細い路地を通れなくなった。どこへ行くにも一番の近道なのに、角の手前まで来ると、足が止まる。止まったまま、どうしても前へ出ない。行けってば。……行けない。結局いつも、表通りをぐるっと回って帰る。日が落ちてからは、もう外を歩かない。
一度だけ、商店街で酒屋の前を通りかかったことがある。
知らない女の子の顔を借りて、いつものように買い物を済ませた帰りだった。開け放した店先から、むっとする匂いが流れてきた。
酒の匂い。
気がつくと、店と店のあいだの暗がりにしゃがみ込んでいた。
土の匂い。落ちてくる靴の底。
『お前さえ、いなけりゃ』
胃の中のものが、喉元までせり上がる。地面に手をついて吐いているうちに、変化が解けていた。通りを行く誰かが足を止める。それが誰なのかに気づくと、何も言わずに離れた。
一楽には、それからも通っている。
ある晩のことだった。食べ終えた丼を置いて、小銭を取り出そうとしたとき、隣でイルカが笑った。
「お前、最近ちょっと痩せたんじゃないか。ちゃんと食って――」
言いながら、イルカの手がこっちへ伸びた。頭に、ぽんと置こうとしたんだろう。
大きな手のひらが、視界を覆う。
椅子が、がたんと鳴った。
転げ落ちるように身を引いて、両腕で頭を抱えていた。
「ご、ごめ……ごめんなさい、ごめんなさい」
声が勝手に震える。また、靴の音が鳴っている。
「ナルコ?」
イルカの手は、宙で止まっている。
「……悪い。驚かせたな」
その手が、引っ込められた。イルカは両方の手のひらを開いて、ナルコに見えるように膝の上に置いた。
「何もしない。何もしないから」
腕の隙間から、その手を見た。殴るための手じゃない。分かってる。先生は、殴らない。分かってるのに、腕が下りない。なんで。
どれくらいそうしていたのか、分からない。のろのろと腕を下ろして、床に散らばった小銭を拾い集めて台に置く。テウチは鍋の前で手を止めたまま、何も言わなかった。
「……なんでもない」
それだけ言って、暖簾をくぐった。後ろでイルカが何か言いかける気配がしたけど、振り返らない。
指の震えは、家に着くまで止まらなかった。
それからというもの、イルカは時おりナルコの顔を見ては何か言いかけ、そのたびに口をつぐむ。
月に一度の執務室でも、三代目は封筒を渡すたびに何か言いたげな顔をする。もう、前髪の隙間から見上げることさえしなかった。
道ですれ違った大人が、いつものように目を逸らす。
――憎い。
じわりと、熱が上がる。
――憎め。
その背中が角の向こうへ消えてから、自分の手を見下ろした。爪が食い込むほど、固く握りしめられていた。
年が明けて、ひと月ほど経った朝。
窓際の席が、空いていた。
入学してから、サスケが学校を休んだことなんて一度もない。いつもならその席のまわりに集まっている女子たちも、今朝は自分の席から離れようとせず、顔を寄せ合ってひそひそと話し込んでいる。
「ねえ、聞いた? うちはの……」
「うん。お母さんが、しばらくあっちの方には近づいちゃだめって」
「一晩で、みんなだって」
「サスケくんだけ、助かったんでしょ」
「……お兄さんがやったって、ほんと?」
「しっ」
前の方の席で、誰かが鼻をすする音がした。
頬杖をついて空いた席を眺めていると、正門の柱にもたれていた青年の姿が頭に浮かんだ。弟の頭に軽く手を置いて、夕方の道を肩を並べて帰っていった、あの背中。
兄弟というのは、ああいうものらしい。
あの日の帰り道、そう思ったのを覚えている。
噂が本当なら、その兄が、弟ひとりを残して一族を手にかけたことになる。
……じゃあ、あれは何だったんだろう。
がらりと教室の扉が開いて、イルカが入ってきた。いつもより重い足取りで教壇に立ち、名簿を開く前に一度だけ、窓際の席へ目をやる。それから何事もなかったように、出欠を取りはじめる。
うちはサスケの名前は、最後まで呼ばれなかった。
十日ほど経って、サスケは戻ってきた。
入ってきたその姿を見るなり、女子たちがいっせいに席を立つ。
「サスケくん!」
「大丈夫? もう平気なの?」
「何かあったら言ってね、わたしたち……」
サスケは返事をしなかった。誰の顔も見ないまま窓際の席に座り、机の木目に目を落としている。いのが何度か名前を呼んだが、その肩はぴくりとも動かない。女子たちは困ったように顔を見合わせて、一人、また一人と席へ戻った。
昼休みになっても、席を立とうとしない。
机の上に、弁当の包みはない。代わりに、どこかの店の包み紙にくるまったパンがひとつ。それを手に取って、黙ってかじる。窓の外を見ているようで、その目はどこも見ていない。
その横顔から目を逸らして、ナルコは手の中のパンをかじった。いつもより、ぱさついている気がした。
森からの帰り道は、湖のほとりをちょっとだけ通る。
風が止んでいるせいか、水はほとんど揺れていない。夕焼けをそっくり映した水面の手前、岸から突き出した古い桟橋の先に、小さな人影がひとつ、膝を抱えて座っている。
背中に染め抜かれた、団扇の家紋。
土手の道を通りかかったとき、その影が振り返った。
目が合う。
夕日を背にしたサスケの顔は、半分が影に沈んでいる。その中で、黒い目だけがまっすぐこちらを向いている。
泣き腫らした跡さえない。教室で女子に囲まれていたときも、兄の隣ではしゃいでいたときも、あの目にはいつも何かが映っていたのに。
ナルコは、その目を知っていた。
足は止めなかった。サスケも、何も言わない。そのまま桟橋の前を通り過ぎた。
背中に向いていた視線は、すぐに離れた。
ナルコも、一度も振り返らなかった。
水の上で、夕日が溶ける。
ここに座っていれば、帰らずに済む。帰ったところで、あの家にはもう、明かりをつける者がいない。
膝の上には、昼に食べきれなかったパンが、包み紙のまま載っている。食えと言う者もいない。だから、食わない。
あの夜のことは、目を閉じなくても勝手に戻ってくる。
静まり返った通り。
どの家にも灯っていない明かり。
重なるようにして倒れていた、父さんと母さん。
月を背にして立っていた、あの男の赤い目。
――憎め。
膝を抱える腕に、爪が食い込む。
土手の上で、足音がした。
振り返ったのは、ほとんど癖みたいなものだ。ぼさぼさの金髪が見える。うずまきだった。
目が合う。
何も映っていない、がらんどうの目。前に教室で見たときと、変わらない。
そう思いかけて、気づいた。
その底で、何かがじっと燃えている。見覚えのある火だった。
うずまきは足を止めずに、通り過ぎる。
すぐに、水面へ目を戻した。あいつが何を抱えていようと、知ったことじゃない。オレには、やることがある。
夕焼けを映した水の中から、もう一人のオレがこっちを見上げている。
その目の底でも、同じ火が燃えていた。
さすがに疲れました。もしかしたらもう1話今日中に書けるかも。