闇ナルコ 習作 作:ナルコスキー
八つの誕生日も、白い提灯の灯る一日だった。
朝から、布団を出なかった。窓の外を喪服の列がゆるゆると流れる。遠くで鐘が鳴るたび、薄い硝子がかすかに震えた。日が落ちると、軒先という軒先に白い光がともる。夜が更けると、それがひとつ、またひとつと消えた。
去年と、寸分違わない。
夜明け前、扉の向こうで、ことりと何かを床に置く音がした。階段を下りる足音。今年は、一度も止まらない。朝になって扉を開けると、敷居の脇に、去年と同じような小さな包みがあった。
拾って、押し入れに放り込む。去年のの、隣に。
九つの夏の朝、森へ向かう途中の表通りで、荷車を引いた男とすれ違った。男はナルコの顔を見るなり舌打ちをして、荷車ごと道の端へ寄る。車輪が石を噛んで、がたんと跳ねた。
――憎め。
いつもの声が這い上がる。歩く速さを変えずに、角を曲がった。背中で、車輪の軋みが遠ざかる。
家々の裏手を抜ける細い路地。その入り口で、足は今でも勝手に止まる。黙って、爪先を表通りへ向け直した。もう、止まるのにも慣れた。慣れたって、通れるようにはならないけど。
変わるものがあるとすれば、床下の缶の重さくらいか。
その年の暮れ、執務室から封筒を持って戻った晩も、部屋の隅で床板がきしんだ。押し入れの奥には、紐の掛かったままの包みがいくつか、埃をかぶって重なっている。そっちには目もくれない。はがした板の下へ手を差し入れると、錆の浮いた古い缶が出てくる。
蓋を開けて、封筒から抜いた小銭を一枚ずつ落とす。ひと月ぶんのパン代と、一楽の代金。それだけ残して、あとは全部。
ちゃり、ちゃり。
蓋の裏には、古本屋の棚の隅で見つけた地図が貼ってある。木の葉の里を示す小さな丸から、細い街道が四方へ何本も延びている。その先の地名は、ひとつも知らない。知らなくていい。ここじゃなければ、どこでもいい。
ひとりで門を出ようとしたって、三代目が許すわけない。でも、忍になれば話は別だ。任務だって言えば、あの門を堂々とくぐれる。だから、忍になる。それだけ。
蓋を閉めて持ち上げる。缶はまた少し、重くなった。
十歳の春も、教室の窓際と一番後ろの席だけは静かだった。
手裏剣の授業の日、的の前に並んだ列の先頭で、サスケが無造作に腕を振る。とん、と乾いた音。刃は的の真ん中に吸い込まれた。女子たちの歓声が上がるより早く、その手はもう次の一枚を抜いている。とん。とん。三枚目が二枚目の柄をかすめて並んでも、的を見返しもしない。
列の一番後ろから、その横顔を眺めた。あの夕暮れ、桟橋で振り返ったときと同じ目だ。何も映していない。
サスケがこっちを振り返ることはない。ナルコの方も、わざわざ声をかけたりはしなかった。
その日の午後は、組手の授業だった。
白線で囲った土の上で、キバと向かい合う。始め、というイルカの声と同時に、キバが地面を蹴って拳を大きく振りかぶった。
その拳の向こうに、あの路地が見えた。
力が抜ける。息が上がる。膝が崩れて、乾いた土の上にへたり込んだ。
「……は?」
振りかぶった腕を宙に止めたまま、キバが拍子抜けした顔で見下ろしている。
「なんだよ、それ。張り合いねえな」
輪の外から、くすくす笑う声。黙って起き上がり、膝の土を払った。指先が、まだ細かく震えている。
今朝の森では、どんな高い木の天辺にだって、誰より先に手が届いたのに。走るのだって、キバより速いのに。拳ひとつで、これだ。
組手で転がされた日の帰りも、一楽の暖簾はくぐる。
湯気の向こうで、今夜もイルカが丼を抱えていた。ナルコが腰を下ろすと、黙ってひとつ横の椅子へ尻をずらす。あの晩から、ふたりのあいだには椅子が二つ空いている。箸を持たない方の手は、食べているあいだじゅう、膝の上に置いたままだ。
「…今日の組手、見てたぞ」
「……」
丼から顔を上げなかった。イルカは何度か口を開きかけて、そのたびに麺をすすってごまかす。汁を飲み干して勘定を台に置くまで、とうとう続きは出てこなかった。
言えないなら、来なきゃいいのに。それでも、イルカはここへ来るのをやめない。
部屋に戻ってからが、本当の稽古の時間だ。
十一の秋になっても、夜ごとの稽古は続いた。狭い部屋で印を結ぶ。ぼん、と煙が上がって、輪郭の滲んだ自分が立つ。もう少し、と力を込めた途端、その輪郭が墨を落とした水みたいにぐにゃりと崩れる。加減すれば、今度は煙さえ立たない。
もう一度。崩れる。もう一度。
なんで。変化なら、誰にだってなれるのに。自分ひとり、まともに出せない。
額から落ちた汗が、すり切れた畳に染みをいくつもつくった。
何十度目かの煙が晴れても、そこにいるのは顔のない子供だけだ。印をほどいて、仰向けに倒れ込んだ。裸電球の明かりが天井に滲む。行き場のない熱が、腹の中でぐらぐら煮え立っていた。
そのまま眠り込んだ夜には、ときどき、あの路地の夢を見る。跳ね起きると、両腕が勝手に頭を抱え込んでいる。窓の外はまだ暗い。汗の冷えた背中を丸めたまま、動けない。
やがてのろのろと体を起こして、もう一度、印を結ぶ。
術はちっとも上達しない。そのくせ体だけは、年ごとに大きくなる。
十二の冬、灰色の古着はとうとう体に合わなくなった。折り返していた袖が、今では手首の上で寸足らずだ。あの夜に裂けて結んだ右の肘も、何度も結び直したせいでほつれて、指でつまめば千切れそうだった。
同じ年頃の、知らない女の子の顔を借りて、古着屋の暖簾をくぐった。
「いらっしゃい。お嬢ちゃん、ひとりかい」
店の主人は愛想よく笑って、棚の上から次々と服を下ろす。
「これなんかどうだい。生地もしっかりしてるし、色も落ち着いてる。お嬢ちゃんくらいの子には、よく似合うと思うがね」
差し出された服を、目が素通りした。店の隅の籠。値札に線が何本も重ねて引かれた、売れ残りの山。その一番上に、目の痛くなるような橙色の上着が丸めて突っ込まれている。
「……これ」
「それかい? そりゃあ、派手すぎて誰も手に取らなかったやつだよ。もっといいのがあるってのに」
「これでいい」
主人は首をかしげたが、それ以上は何も言わずに包んでくれた。店でいちばん安い服だった。浮いた釣り銭は、その夜のうちに缶の底で、ちゃりんと鳴った。
新しい上着に袖を通して迎えた、最初の封筒の日。執務室の扉を叩くと、封筒を差し出しかけた三代目の手が、宙で止まった。
「……ずいぶんと、思い切った色じゃな」
「いちばん安かったってばよ」
三代目は息をついて封筒を渡すと、思い出したように引き出しの奥を探って、その上に重ねた。手のひらに収まるくらいの、丸い手鏡。
「いらないってばよ」
「身だしなみも、忍の務めのうちじゃ。春には卒業試験じゃろう」
小さな鏡を、見下ろした。磨かれた鏡面に、窓の光が跳ねている。黙って、封筒ごとポケットに押し込んだ。三代目は何か言いたげに口を開きかけて、結局また閉じる。
ナルコは最後まで、顔を上げなかった。
執務室を出たその足で、路地の陰で知らない女の子の顔を借りて、夕暮れの商店街に紛れ込む。ひと月ぶんのパンを買っておかないといけない。
八百屋の店先に、柿が山と積まれていた。その前を通りかかったときだ。
「こら、待て坊主!」
怒鳴り声が、背中を打った。
体が、びくりと固まる。店先から柿をひとつ掴んだ男の子が転がるように飛び出してきて、三歩も行かないうちに、追いすがった主人の太い腕に襟首を鷲掴みにされた。
「また、お前か。この悪ガキが!」
吊り上げられた小さな体から、目が離せない。息が止まる。あの夜の靴の音が、鳴りはじめる。
けれど男の子は、首をすくめて、へへっと笑った。前歯が一本、抜けている。
「だって、うまそうだったんだもん」
主人は男の子を睨みつけていたが、堪えきれずに噴き出して、その額を指で弾いた。
「しょうがねえなあ。今日だけだぞ」
「やった!」
柿を抱えて駆けていく男の子を、買い物客たちがやれやれという顔で見送る。笑っていない者は、ひとりもいない。
ナルコだけが、籠の持ち手を握りしめて立ち尽くしていた。男の子の背中が人混みに紛れて見えなくなっても、まだ、そっちを見ていた。
なんで。
その夜、ポケットから、昼間渡された手鏡を取り出した。
裸電球の頼りない明かりの下、小さな丸い鏡の中に、子供がひとり映っている。ぼさぼさの金髪の隙間から頬の三本線がのぞく。目の下には、薄い隈。
自分の顔をこんなふうに正面から見たのは、いつ以来だろう。最後に笑ったのがいつだったかも、もう思い出せない。……笑ったこと、あったっけ。
鏡の中の子供が、何も映していない目で、じっとこっちを見返す。
毎日のように誰かの顔を借りて歩いて、いつの間にか、いちばん見慣れない顔になっていたのはこれだった。
手鏡を伏せて、裸電球の紐を引いた。
部屋が闇に沈むと、もう誰の顔も見えない。借りた顔も、自分の顔も。その暗がりの中で、ナルコはやっと、息を吐いた。