水星の魔女 ~もう一輪の百合の花~ 作:一般通過クルーゼさん
クール途中で挟まる過去回的なもの。実際には当初設定の使い回し。
人類が宇宙へ進出したとき、その前に立ちはだかったものの一つは、人間自身の肉体だった。
真空、宇宙線、微小重力。地球という揺り籠の中で進化した生物にとって、宇宙はあまりにも過酷だった。人類は宇宙服を作り、居住施設を建設し、機械によって脆弱な肉体を保護することで、その生存領域を広げていった。
しかし、ある科学者は別の可能性を考えた。人間を守るために環境を変えるのではなく、人間そのものを宇宙に適応させればよいのではないか。その科学者は、遺伝学の権威だった。彼が目指したのは、遺伝子編集によって強靭な肉体と優れた頭脳を備えた、新たな人類を生み出すことだった。
強化された骨格と筋肉。神経網を太く柔軟に。優れた免疫機能。宇宙環境下でも高い能力を発揮できる、人類の次なる可能性。後天的に機械によって身体を補うGUND技術とは、根本から異なる発想である。人間を補うのではない。人間そのものを作り変える。
研究は一時期、宇宙開発の新たな可能性として注目された。しかし、進展するにつれて、技術的な問題以上に深刻な課題が浮かび上がった。
生まれてくる子供の人権は、誰が保障するのか。その子供は、自らの遺伝子が設計されることに同意できない。望まれた能力を発揮できなかった場合、誰が責任を負うのか。そもそも、優れた能力を持つ人間を人工的に生み出せるようになったとき、人間社会は、その技術を正しく扱えるのか。
生命倫理、莫大な費用、未解決の技術的課題。そしてGUND技術をはじめとする身体拡張技術の発展。それらが重なり、研究は凍結された。科学者自身も、その決定を受け入れた。人類には、まだ早すぎる。彼はそう結論づけたのである。
少なくとも、この世界の人類は、そのとき一つの道を選ばなかった。生まれながらの能力によって人間を区別し、互いを憎み、ついには絶滅戦争へと向かうような未来を。研究は封印された。その成果も、手法も、やがて歴史の片隅へ追いやられていった。
しかし、男は研究設備と技術資料を密かに手元へ残していた。凍結を受け入れたと公には表明しながら、そのすべてを手放すことはできなかった。それが、一人の少女を生み出すことになる。
科学者には、妻がいた。柔らかな銀色の髪と紫色の瞳を持つ、美しい女性だった。音楽を愛し、穏やかに笑う女性だったという。しかし、その身体は生まれつき弱かった。科学者は妻を深く愛していた。病に苦しむ彼女を救うため、あらゆる手段を尽くした。
それでも、彼女は死んだ。人類の未来を変えようとした男が、たった一人の女性を救うことはできなかった。その事実が、彼を壊した。最初は、ただの願いだった。
もう一度、会いたい。
もう一度、声を聞きたい。
もう一度、笑ってほしい。
彼には、その願いを実現するための知識があった。妻が残した細胞。凍結後も秘密裏に保管していた遺伝子編集技術と、試作段階の人工子宮。それらを組み合わせれば、妻と同じ姿をした人間を生み出せるかもしれない。
けれど、単なるクローンでは不十分だった。同じ病を患うかもしれない。また同じように苦しみ、死んでしまうかもしれない。
だから、彼は遺伝子を編集した。病への耐性を高めた。肉体を強靭にした。知能を高めた。愛する妻が二度と苦しまないように。何一つ不自由しないように。誰よりも健康で、誰よりも優れた存在であるように。
いつしか、彼が作ろうとしていたものは妻の再現ではなく、彼自身が理想とする妻になっていた。
遺伝学の権威である彼が、その矛盾に気付かないはずがなかった。同じ遺伝子を持っていても、同じ人間にはならない。ましてや、これほど遺伝子を編集してしまえば、もはや完全な別人である。しかし、彼はその事実から目を背けた。
そして、人工子宮の中で、一人の少女が生まれた。銀色の髪。紫色の瞳。亡き妻によく似た顔立ち。強靭な肉体と、優れた頭脳。彼の理想を形にした、たった一人の人間。その少女には、名前がなかった。男は、彼女を死んだ妻の名前で呼んだからだ。
少女にとって、世界とは一軒の家だった。広い居間。長い廊下。白い壁。そして、黒いグランドピアノ。外の世界については、本で学んだ。街があり、人が暮らし、学校という場所へ子供が通うことも知っていた。けれど、それらは知識でしかなかった。
少女にとって現実だったのは、男と暮らす家の中だけだった。男は、最初の頃は優しかった。少女が言葉を覚えれば喜び、歩けば褒め、初めてピアノに触れたときには涙さえ流した。しかし、その喜びは少女自身へ向けられたものではなかった。
男は、少女の中に亡き妻の面影を見つけていたのだ。少女が妻に似た仕草をすれば褒めた。妻が好んだ食べ物を口にすれば喜んだ。妻が愛した曲を弾けば、満足そうに目を閉じた。反対に、少女が自分の好みを示すと、男は困惑した。
やがて、その困惑は苛立ちへ変わっていった。
「違う」
少女の指が止まった。グランドピアノの前で、少女は振り返った。男が立っていた。
「その曲じゃないだろう」
少女は、譜面台を見た。そこには、男が用意した楽譜が置かれていた。静かで、物悲しい曲。亡き妻が好んで弾いていた曲だった。しかし、少女は別の曲が好きだった。明るく、軽やかで、少しだけ騒がしい曲。弾いていると、自然に胸が弾むような旋律だった。
「……でも、私は」
「君が好きなのは、この曲だろう?」
男は楽譜を指さした。
「こっちが好き」
少女は、小さく答えた。男の表情が変わった。
「……何を言っている?」
「こっちの曲が、好き」
「違うよ」
男は、優しく言い聞かせるように首を横に振った。
「君は、この曲が好きだったんだ」
「……でも」
「思い出してごらん」
少女は困惑した。思い出す。何を。自分が好きなのは、今弾いていた曲だ。どうして、違うと言われるのだろう。
「私は――」
「違うと言っているだろう!」
男が譜面台を叩いた。大きな音とともに、楽譜が床へ散らばった。少女は肩を震わせた。男は荒い息を吐き、しばらく少女を睨んでいた。やがて、我に返ったように顔を歪めた。
「……すまない」
彼は膝をつき、少女の肩へ手を置いた。
「怒鳴るつもりはなかったんだ」
少女は動かなかった。
「でも、君が忘れているから」
男の手に、力がこもった。
「僕が正してあげないと。そうだろう?」
少女は、男を見上げた。
「……はい」
「もう一度、弾いてくれるね?」
少女は鍵盤へ向き直った。好きでもない曲を弾いた。男は満足そうに目を閉じた。演奏を終えると、頭を撫でてくれた。
「そうだ。それでいい」
少女は、褒められた。だから、次の日からは、その曲だけを弾いた。
食事にも決まりがあった。服装にも決まりがあった。話し方にも、笑い方にも、椅子へ腰掛ける姿勢にも。男は、少女が何かを間違えるたびに訂正した。
それは違う。君はそんなことを言わない。君はそんなふうに笑わない。君は、それが好きだったはずだ。
最初、少女は反論していた。けれど、反論すると男は怒った。泣けば、なぜ泣くのかと責められた。黙れば、どうして何も言わないのかと問い詰められた。そして、男の望む答えを口にすると、ようやく許された。少女は、すぐに学習した。
この男が求めているのは、正しい答えではない。男が聞きたい答えだ。少女の頭脳は優秀だった。相手の表情を読み、声の変化を聞き取り、何を言えば怒られずに済むのかを予測することは難しくなかった。だから、少女は間違えなくなった。
自分の意見を口にしなくなった。好きなものを尋ねられれば、男が期待するものを答えた。男が笑えば笑った。男が悲しめば、悲しそうな顔をした。男は、そんな少女を見て喜んだ。そして、その喜びが、少女をますます追い詰めていった。
「お父さん」
ある日のことだった。少女は、男をそう呼んだ。何気ない言葉だった。自分を生み出し、一緒に暮らしている大人。それは父親なのだと、少女は考えた。だから、呼んだ。男の手が止まった。
「……何だって?」
少女は、男を見上げた。
「お父さん」
次の瞬間、頬に衝撃が走った。少女は床へ倒れた。何が起きたのか、すぐには理解できなかった。頬が熱い。口の中に、鉄の味がした。男が、少女を見下ろしていた。
「二度と、そう呼ぶな」
声が震えていた。
「僕は君の父親じゃない」
少女は、男を見つめた。
「……でも」
「違う!」
男は少女の腕を掴み、無理やり立たせた。
「君は僕の妻なんだ!」
少女は、目を見開いた。妻。その言葉の意味は知っていた。結婚した相手。愛し合う男女。男が少女に教えてきた、死んだ女性の役割。
「僕を愛しているだろう?」
男は少女の肩を掴んだ。
「そうだろう?!」
少女は答えられなかった。愛している。その言葉が何を意味するのか、まだ分からなかった。男の顔が歪んだ。
「どうして黙っているんだ!」
「……ごめんなさい」
「謝ってほしいんじゃない!」
肩を掴む指が食い込んだ。
「愛していると言ってくれ」
少女は、震える唇を開いた。
「……愛しています」
男の表情が、たちまち和らいだ。
「ああ……」
彼は少女を抱きしめた。
「そうだ。そうだよ」
少女は、身体を強張らせたまま動かなかった。
「君は僕を愛している。僕も君を愛している」
男は涙を流していた。
「もう、どこにも行かないでくれ」
少女は、男の肩越しに壁を見つめた。そこには、銀髪の女性の肖像画が飾られていた。優しく微笑む、美しい女性。少女とよく似た顔。しかし、少女ではない誰か。男が愛しているのは、その女性だった。少女は、まだ幼かった。けれど、そのことだけは理解していた。
少女が前世の記憶を取り戻したのは、ある夜のことだった。その日も、少女はピアノを弾いていた。男が望む曲。男が愛した女性の曲。何度も、何度も弾かされた曲。機械のように男の望むほほ笑みを貼り付けて。しかし、その途中で突然、頭の中へ大量の記憶が流れ込んできた。
見知らぬ街。見知らぬ人々。テレビ。漫画。アニメ。そして、自分が別の世界で生きていたという記憶。それは、あまりにも唐突だった。少女は、鍵盤から手を離した。頭が痛かった。しかし、それ以上に、胸の奥が熱かった。今まで当たり前だと思っていたことが、一つずつ崩れていく。
自分が好きなものを好きだと言うこと。嫌なことを嫌だと言うこと。誰かを愛さないこと。誰かの期待に応えないこと。そんな当たり前の自由が、自分には一つも与えられていなかった。少女は、ゆっくりと振り返った。男が椅子に座っていた。
「どうしたんだい?」
いつもの声。いつもの表情。いつものように、少女が死んだ妻を演じることを期待している顔。少女は、初めて思った。
――気持ち悪い。
――気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
――気持ち悪い!!
その感情に、少女自身が驚いた。今まで、恐怖はあった。不安もあった。けれど、目の前の男を明確に拒絶する感情は、どこかへ押し込めていた。それが、堰を切って溢れ出した。
「……どうした?」
男が立ち上がった。少女は、口を開いた。
「私は、あなたの妻じゃない」
男の動きが止まった。
「……何を言っている?」
「私は、あの人じゃない」
少女は、壁の肖像画を見た。
「私は、別の人間」
男の表情が強張った。
「……また、そんなことを」
「あなただって、わかっているでしょう?」
少女は、男を見つめた。
「同じ遺伝子でも、同じ人間にはならないって」
「やめなさい」
「私は、あの人の記憶なんて持っていない。好きな曲も違う。好きな食べ物も違う」
「やめろ」
「あなたを、愛していない」
男の顔から、血の気が引いた。少女は、そこで言葉を止めることもできた。謝ればよかった。いつものように笑って、愛していると言えば、男は許してくれただろう。しかし、もうできなかった。自分がどれほど酷い扱いを受けていたのか、理解してしまったから。
「私は、あなたが怖い」
少女の声が震えた。
「毎日、怖かった」
男は、何も言わなかった。
「好きな曲を弾いただけで怒られた。お父さんって呼んだら叩かれた。知らない人の思い出を、思い出せって言われた」
涙が溢れた。
「どうして?」
少女は、初めて男へ問いかけた。
「どうして、私じゃ駄目なの?」
男の唇が震えた。
「……違う」
「私は、ここにいるのに」
少女は、自分の胸へ手を当てた。
「私は、生きているのに」
声が掠れた。
「どうして、私を見てくれないの?」
男は、少女を見つめていた。その顔から、少しずつ表情が消えていった。
「……君は」
男が呟いた。
「君は、そんなことを言わない」
少女は、涙を拭った。
「私は、言う」
「違う」
「私は、あなたの妻じゃない」
「違う!」
男は、後ずさった。椅子に足が当たり、大きな音を立てて倒れた。男は、その音にも反応しなかった。ただ、少女を見つめていた。まるで、初めて見る生き物のように。
「……ああ」
男の顔が、ゆっくりと歪んだ。
「そうか……」
少女は、息を止めた。男は、泣きながら。
「こんな……」
彼は、少女の顔を見つめた。銀色の髪。紫色の瞳。死んだ妻に似た、美しい顔。しかし、その表情は妻のものではなかった。少女自身の怒りと悲しみに歪んだ顔だった。
「……違う」
男は、首を横に振った。
「こんなのは……」
その声に、少女は身を縮めた。
「こんなのは、僕の妻じゃない……!」
男は、書斎へ向かった。男の足音が遠ざかる。扉が開く。引き出しを開ける音がする。少女は、何が起こるのか分からなかった。けれど、何か恐ろしいことが起ころうとしていると感じた。
男が戻ってきた。手には、小さな銃があった。少女は、それを見た。そして、身体が凍りついた。
男は、何も言わなかった。少女は、ゆっくりと後ずさった。撃たれる。そう思った。自分が、妻ではないと告げたから。自分が、男を愛していないと言ったから。自分が、彼の望みを壊したから。男は、銃を見つめていた。
「……何も、残っていない」
彼は、呟いた。
「君まで、いなくなった」
男は、もう一度少女を見た。だがその瞳には、もはや何も映っていないようだった。
「……さようなら」
少女は、目を見開いた。
「待っ――」
男の側頭部で乾いた銃声が響いた。少女の声は、その音に掻き消された。男の身体が崩れ落ちた。銃が床へ落ちる。少女は、しばらく何も理解できなかった。目の前で、男が倒れている。動かない。呼吸をしていない。少女の頭脳は、瞬時に状況を理解した。男は自ら命を絶った。
それらの事実が、次々と頭の中に並んだ部屋が静かになった。あまりにも、静かだった。少女は、ゆっくりと男へ近付いた。床に膝をつく。男の顔を覗き込む。
「……起きて」
当然返事はない。
「……私」
少女は、唇を震わせた。
「……私、まだ……」
まだ、何も聞いていない。どうして私を作ったのか。どうして私を愛してくれなかったのか。どうして、私では駄目だったのか。どうして、最後まで私を見てくれなかったのか。何一つ、答えてもらっていない。それなのに。
男は、死んでしまった。
少女は、男の服を掴んだ。
「……ずるい」
小さな声だった。
「……ずるい!」
男は、何も答えない。
「私を作ったくせに」
涙が、頬を伝った。
「私に、あんなことをしたくせに」
少女は、男の服を強く握りしめた。
「……どうして」
声が震えた。
「どうして、あなただけ……!」
言葉が続かなかった。
少女は、泣いた。
悲しかったのか、悔しかったのか、自分でも分からなかった。男が死んだことを喜んでいる自分がいた。もう怒鳴られない。もう叩かれない。もう妻を演じなくていい。そう思って安心している自分がいた。
同時に、男を呼び戻したい自分もいた。
もう一度、名前を呼んでほしい。もう一度、頭を撫でてほしい。
今度こそ、自分を見てほしい。
その矛盾した感情が、少女の胸を引き裂いた。そして、最後に残ったのは。
怒りだった。
――私は、何のために生まれたのだろう。
少女は、男の死体を見つめていた。床へ座り込み、膝を抱え、ただ考えていた。男は、妻を取り戻すために少女を作った。それは、知っている。けれど、少女は妻ではなかった。男が求めた女性とは、まったく別の人間だった。だから、男は絶望した。
そして、死んだ。では。私は、何のために生まれたのだろう。妻の代わりになるため?男を愛するため?男の望む人生を生きるため?それができなかった私は、何なのだろう。失敗作。その言葉が、頭に浮かんだ。少女は、首を横に振った。
違う。私は、失敗作なんかじゃない。そう思いたかった。しかし、では何なのかと問われると、答えられなかった。少女には、名前がなかった。死んだ女性の名前で呼ばれていた。少女には、自分だけの思い出がほとんどなかった。男が語る、死んだ女性の思い出を覚えさせられていた。
少女には、自分だけの好きなものがなかった。好きだと言えば、違うと否定された。少女には、自分の人生がなかった。男の望む人生を、演じさせられていた。そして、その男は、もういない。ならば。私は、何なのだろう。何のために、生きているのだろう。
少女は、男の死体へ問いかけた。
「……ねえ」
返事はない。
「……教えてよ」
男は、何も答えない。
「……私は、何?」
沈黙。少女は、男の服を掴んだ。
「……どうして、私を作ったの?」
答えは、知っている。妻を取り戻すため。それだけだ。けれど、その答えを受け入れることはできなかった。少女は、男の死体を見つめた。この男は、優れた科学者だった。人類の未来を切り開こうとした天才だった。多くの人間から尊敬され、優れた頭脳を持つと評価されていた。
その男が、少女を作った。自分の願いを叶えるために。自分の欲望を満たすために。そして、その願いが叶わないと知ると、少女を残して死んだ。少女は、唇を噛んだ。人間は、こんなことをしてもいいのか。優れた頭脳を持っていれば。
立派な理想を掲げていれば。愛していると言えば。誰かの人生を、勝手に作ってもいいのか。少女は、自分の手を見つめた。白く、小さな手。遺伝子を設計され、人類最高峰の能力を与えられた身体。少女は、自分の身体が嫌いだった。
銀色の髪も。紫色の瞳も。整いすぎた顔立ちも。何もかもが、男の望みによって作られたものだったから。少女は、男の死体へ視線を戻した。
「……どうして」
声が震えた。
「どうして、私なの?」
答えはない。少女は、拳を握りしめた。
「……どうして、私が生まれたの?」
その問いは、やがて形を変えていった。なぜ、自分は生まれたのか。なぜ、自分は作られたのか。なぜ、人間は、こんなことをするのか。なぜ、人間は、自分の欲望のために、他者を生み出し、傷つけ、捨てることができるのか。
なぜ!なぜ!
少女は、男の死体を見つめた。そこに、答えはなかった。ただ、一つの事実だけがあった。人間は、自分の欲望のために、他者の人生を作り変えることができる。そして、その結果に責任を取らず、逃げることさえできる。少女は、ゆっくりと笑った。
それは、子供らしい笑顔ではなかった。乾いた、歪んだ笑みだった。
「……そう」
少女は、呟いた。
「……そういうものなんだ」
人間とは、そういう生き物なのだ。愛していると言いながら、誰かを傷つける。幸福を願いながら、誰かの人生を奪う。未来を語りながら、目の前の人間を見ようとしない。そして、都合が悪くなれば、すべてを捨てる。少女は、男の死体から目を逸らさなかった。
その顔を、記憶へ刻み込んだ。自分を生み出した人間。自分を愛していると言った人間。自分を否定した人間。そして、自分の目の前で死んだ人間。少女は、心の奥底で思った。
――許さない。
誰を。何を。その答えは、まだ分からなかった。ただ、自分を生み出した男だけではない。男を天才と呼び、その研究を称賛した人々。人間を作り変える技術を求めた社会。そして、その技術によって生み出された自分を、何の意味もない存在として残した世界。
そのすべてが、憎かった。少女は、何度も問いかけた。私は、何のために生まれたのか。私は、何のために生きているのか。私は、何なのか。答えはなかった。そして、答えがないことそのものが、少女の憎悪を育てていった。
男が死んで、四日目の朝だった。少女は、まだ居間にいた。床に倒れた男の身体は、もう動かない。少女は、その傍らに座り続けていた。食事は、ほとんど取っていない。
眠ることもできなかった。ただ、考えていた。自分が何者なのか。何のために生まれたのか。そして、なぜ、この世界に存在しているのか。
そんなとき、玄関の扉が開いた。
「おぉい、兄さーん?生きてるー?」
随分と気の抜けた声だった。
「連絡くらい返してよね。僕だって暇じゃないんだからさあ。せっかく面白い制御系の理論ができたのに、誰も話を聞いてくれなくて――」
足音が近付いてくる。やがて、一人の男性が居間へ姿を現した。よれた上着。寝癖の残った髪。片手には大きな鞄。もう片方には、飲みかけのコーヒー。その顔は、死んだ男によく似ていた。少女は、身体を強張らせた。男性は、床に倒れた兄を見つけた。
そして、足を止めた。
「んん〜?」
しばらく、何も言わなかった。それから、大きく息を吐いた。
「あぁ~……やっちゃったかぁ、兄さん」
少女は、目を見開いた。男性はコーヒーを置き、兄の傍らにしゃがみ込んだ。脈を確認する。呼吸を確認する。そして、ゆっくりと首を横に振った。
「うん。駄目だね」
彼は、しばらく兄を見つめていた。
「だから一人で抱え込むなって言ったのに」
小さく呟く。
「本当に、最後まで人の話を聞かない人だったなあ。……さてぇ?」
男性は、少女の前にしゃがみ込んだ。
「君は、誰かな?」
少女は答えなかった。彼の顔が、死んだ男によく似ていたから。男性は少女の銀髪と紫色の瞳を見つめ、少し首を傾げた。
「おやぁ?」
もう一度、少女を見る。そして、兄を見る。
「ああ、なるほど!そういうことかあ」
少女は、男性を睨んだ。彼は、その視線に気付いて目を瞬かせた。
「……あれ、嫌われちゃった?」
少女は、何も言わなかった。
「まあ、仕方ないか」
彼は、困ったように笑った。
「僕は彼の弟だよ」
少女は、彼を見つめた。弟。あの男の弟。同じ血を引く人間。少女の胸の奥で、黒い感情が蠢いた。また、同じことが起こるのだろうか。また、誰かの望みを押しつけられるのだろうか。また、自分ではない誰かになれと言われるのだろうか。
少女は、唇を噛んだ。
「……来ないで」
男性は、足を止めた。
「……うん?」
「……近付かないで」
少女の声は震えていた。男性は、少しだけ目を見開いた。そして。
「うん、分かった」
男性は、兄の研究室を調べ始めた。地下に広がる研究設備。培養装置。遺伝子編集設備。そして、膨大な研究記録。男性は、それらを見渡した。
「……うわあ」
それが、最初の感想だった。
「本当にやっちゃってるよ、この人」
端末を起動し、研究資料を開く。画面をスクロールする。
「うん!ここ、燃やした方がよさそうだね!」
少女は、思わず顔を上げた。
「……燃やす?」
「そう。まあ、実際に火をつけるわけじゃないけどね。設備は全部解体して、使えないようにする」
男性は、あっさりと言った。少女は、研究室を見渡した。自分が生まれた場所。自分が、作られた場所。男の夢と狂気が形になった場所。それを、壊す。少女の胸の奥で、何かが揺れた。
「……どうして?」
「人間を設計して生み出す設備なんて、残しておいたら、まぁ、ろくなことにならないよ」
彼は、研究資料を眺めた。
「それにしても、兄さんは本当にすごいなあ。こんなものを完成させるなんて」
声には、純粋な感嘆があった。少女は、身体を強張らせた。研究を褒めている。自分を作った技術を素晴らしいと言っている。男性は、少女の反応に気付いた。
「ごめんごめん。悪い癖だね」
端末から手を離す。
「僕も、兄さんと同じ研究バカなんだ」
少女は、彼を睨んだ。
「……同じ?」
「うん。面白い技術を見ると、つい夢中になっちゃう」
彼は、悪びれもせずに笑った。少女は、拳を握りしめた。同じ。この人も、同じなのだ。ならば、きっと。また、同じことをする。
「……嫌い」
少女は、小さく呟いた。男性は、目を瞬かせた。
「うん?」
「……研究者なんて、嫌い」
声が震えた。
「……人間なんて、嫌い」
男性は、しばらく少女を見つめていた。そして。
「そっか」
静かに頷いた。少女は、驚いた。
「……それだけ?」
「うん?」
「……怒らないの?」
男性は、首を傾げた。
「どうして?」
「……だって」
少女は、言葉に詰まった。自分が嫌いだと言ったのに。研究者が嫌いだと言ったのに。人間が嫌いだと言ったのに。この人は、怒らない。
「嫌いなものは、嫌いなんでしょう?」
男性は、何でもないことのように言った。
「それを無理に好きになる必要はないよ」
少女は、何も言えなかった。男性は、端末へ視線を戻した。
「ただね」
彼は、少しだけ真面目な顔になった。
「悪いけど、君の身体についての資料は、残しておこうと思うんだ」
少女は、顔を上げた。
「……どうして?」
「君が、これからどう成長するか分からないから」
男性は、画面に表示された遺伝子設計を指さした。
「普通の子供とは違う部分が、たくさんある。今は健康でも、将来どんな問題が起きるか分からない。だから、君の身体についての資料は、厳重に保管しておこう」
少女は、唇を噛んだ。
「……また、実験するの?」
男性は、目を瞬かせた。
「実験?」
「……私を、調べる?」
彼は、しばらく考えた。そして。
「まあ、健康診断くらいは受けてもらいたいかな」
少女は、身体を強張らせた。
「でも、それは君が病気にならないようにするためだよ」
男性は、静かに続けた。
「嫌なら受けなくてもいい」
少女は、彼を見つめた。
「本当?」
「本当」
「どうして?」
男性は、少しだけ首を傾げた。
「どうしてって言われてもねぇ」
そして、不思議そうに言った。
「本人が嫌がることを無理やりするのは駄目じゃないか」
あまりにも、当たり前のように。彼は、そう言った。
研究室を出ると、男性は大きく伸びをした。
「いやあ、参った参った。兄さん、最後にとんでもない置き土産を残してくれたなあ」
「……置き土産って、私?」
男性は、きょとんとした。それから、慌てて手を振った。
「ああ、違う違う! 研究設備の方!」
彼は、地下室の扉を指さした。
「君は置き土産じゃないよ。あんな危ないものと一緒にしたら失礼でしょう」
少女は、少しだけ首を傾げた。この人は、何を言っているのだろう。危険な研究設備よりも、私の方が厄介な存在なのではないか。そう思ったが、口にはしなかった。
「さて」
男性は、少女の前にしゃがみ込んだ。
「君のことなんだけど」
少女は、身構えた。何を命じられるのだろう。どんな役割を与えられるのだろう。しかし、彼の言葉は予想と違っていた。
「君は、どうする?」
少女は、瞬きをした。
「……どうする?」
「うん。ここに残るのは難しいだろうし、君の出自も隠した方がいいと思うんだ」
彼は、少しだけ考える。
「孤児ということにして、新しい身分を作ろう。普通の子供として暮らせるようにね」
「……できるの?」
「うーん。まあ、何とかするよ」
随分と頼りない返事だった。しかし、彼は気にした様子もない。
「それでね、僕としては君を引き取りたいと思ってる」
少女は、息を止めた。
「……引き取る?」
「そう。養子としてね」
彼は、にこりと笑った。
「ただ、先に言っておくけど、僕はあんまり立派な大人じゃないよ」
少女は、首を傾げた。
「さっきも言ったけど、研究バカだしね。ご飯を食べ忘れるし、部屋は散らかるし、仕事を始めると時間を忘れる」
彼は、指を折りながら数え始めた。
「料理も苦手だし、洗濯もよく忘れる。あ、でも掃除は業者さんに頼めば何とかなるかな」
少女は、思わず彼を見つめた。この人は、自分の欠点を何の躊躇もなく並べている。
「それに、子供を育てたこともないからねえ。正直、どうすればいいのかよく分からない」
彼は、困ったように笑った。
「でも、まあ、一緒に暮らすくらいなら、できると思うんだ」
少女は、何も言えなかった。
「君が何を好きなのかも、何をしたいのかも、僕は知らない。これから少しずつ教えてくれればいいよ」
彼は、そこで一度言葉を止めた。
「こんな僕だけど、一緒に来るかい?」
少女は、彼を見つめた。命令ではなかった。強制でもなかった。ただ、尋ねている。少女が、どうしたいのか。それだけを。
「……私が」
少女は、小さく口を開いた。
「……あなたの言うことを、聞かなくても?」
彼は、首を傾げた。
「うん?」
「……あなたの好きなものを、好きにならなくても?」
「もちろん」
「……あなたの望むような子供じゃなくても?」
彼は、少し考えた。そして。
「あはは!」
笑った。少女は、びくりと肩を震わせた。
「ああ、ごめんごめん」
彼は、笑いながら手を振った。
「いやあ、そんなの当たり前じゃないか」
少女は、目を見開いた。
「君は僕じゃないんだから、好きなものが違って当然でしょう?」
彼は、何でもないことのように続けた。
「それに、僕の望むような子供って何だろうね。研究が好きな子? モビルスーツが好きな子? いや、それだと僕と同じになっちゃうなあ」
彼は、少しだけ考え込んだ。
「うん。やっぱり、君の好きなように育つのが一番だよ」
少女は、唇を噛んだ。涙が、溢れそうだった。
「……本当に?」
「本当」
「ピアノを、弾かなくても?」
「いいよ」
「好きな曲を、好きって言っても?」
「当たり前じゃないか」
「あなたを、愛していなくても?」
彼は、少しだけ目を瞬かせた。そして。
「うん。それも君の自由だね」
あっさりと、そう答えた。
「まあ、仲良くなれたら嬉しいけどね」
少女は、とうとう泣いてしまった。彼は、少し慌てた。
「えっ、あれぇ?僕何か変なこと言ったかな?」
少女は、首を横に振った。
「……違う」
「うん?」
「……違うの」
涙が止まらなかった。少女は、ようやく理解した。この人は、自分に何も求めていない。誰かの代わりになることも。何かを成し遂げることも。愛することさえも。ただ、一緒に来るかと、尋ねているだけなのだ。
「……行きたい」
少女は、小さく答えた。
「……一緒に、行きたい」
彼は、ぱっと笑った。
「そっか!」
そして、嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、決まりだね!」
少女は、涙を拭った。彼は、少女へ手を差し出した。
「よろしくね」
少女は、その手を見つめた。そして、初めて、自分の意思で手を伸ばした。
「そういえば、君の名前は?」
彼が尋ねた。少女は、首を横に振った。
「……ない」
「ない?」
「あの人は、私を奥さんの名前で呼んでた」
「あー……」
彼は、天井を仰いだ。
「兄さん、本当にやっちゃってるなあ……」
それから、少女へ視線を戻した。
「じゃあ、決めようか」
「……決める?」
「うん。君の名前」
彼は、にこりと笑った。
「せっかく新しい身分を作るんだし、自分で好きな名前を決めたらいいよ」
少女は、しばらく考えた。名前。自分だけの名前。誰かから押しつけられたものではない。誰かの代わりとして与えられたものでもない。自分自身を表す名前。
「……アイリス」
少女は、小さく呟いた。
「アイリスが、いい」
彼は、目を瞬かせた。
「アイリス?」
「……うん」
「いい名前だね!」
即答だった。
「じゃあ、今日から君はアイリスだ」
彼は、少女の頭を撫でた。
「よろしく、アイリス」
少女は、彼を見つめた。そして、小さく笑った。
「……よろしく、お願いします」
その日の夜。少女は、テレビを見ていた。画面には、過去に起こった、GUND-ARM開発を巡る、問題を扱った報道番組が流れていた。資料映像の中で、まだ若いデリング・レンブランが演説している。少女は、画面へ目を向けた。
GUND-ARM。デリング・レンブラン。そして、開発の凍結。その名前を聞いた瞬間、前世の記憶が鮮明に繋がった。ここは、コズミック・イラではない。アド・ステラ。機動戦士ガンダム、水星の魔女、その世界だった。
「……アイリス?」
背後から、声がした。振り返ると、彼が立っていた。
「何を見ているんだい?」
「……ニュース」
「ああ、懐かしい。GUNDの件かあ」
彼は画面を覗き込んだ。
「難しい問題だよねえ。技術そのものは面白いんだけど。もったいなかったなぁ」
そして、少しだけ首を傾げた。
「まあ、人体に繋ぐものだからね。面白いだけじゃ駄目なんだろうなあ」
少女は、彼を見つめた。兄と同じ、研究バカ。優れた技術を見れば、目を輝かせる。しかし、その技術を、人間へどう使うべきなのか。少なくとも、この人は考えている。
「……ねえ」
「うん?」
少女は、少しだけ躊躇した。そして。
「……お父さん」
そう呼んだ。彼は、目を瞬かせた。
「……おやぁ?」
少女は、身体を強張らせた。かつて、その言葉を口にしたとき、少女は叩かれた。否定された。そして、二度と呼ぶなと言われた。だから、少しだけ、怖かった。しかし、彼は笑った。
「うん。何だい、アイリス?」
少女は、泣きそうになった。そして、小さく笑った。
「……ありがとう」
彼は、少しだけ首を傾げた。
「え?何が?」
少女は、首を横に振った。
「……何でもない」
彼は、それ以上聞かなかった。ただ、少女の頭を撫でた。その手は、温かかった。
それから、幾年もの月日が流れた。少女は、成長した。好きなものを好きだと言えるようになった。自分の意思で進む道を選べるようになった。誰かと笑い合い、冗談を交わし、ときには相手を困らせることさえ覚えた。養父は、そんな彼女を見て喜んだ。
ただし、子育ての腕前が上達したかと問われれば、疑問が残る。研究に没頭して食事を忘れる癖は治らず、部屋は相変わらず散らかっていた。会社の経営に至っては、いつしか娘の方が詳しくなっていた。それでも、彼は彼女の父親だった。
少女が自分で選んだ、最初の家族。その事実だけは、何があっても変わらなかった。ただ、彼女の心の奥底には、今も消えないものがあった。あの夜、死体の前で抱いた問い。なぜ、自分は生まれたのか。そして、なぜ人間は、他者の人生を自らの望みのために使おうとするのか。
養父の愛情は、彼女が人間を憎み尽くすことを許さなかった。けれど、憎悪そのものを消し去ることもできなかった。だから彼女は、考えるようになった。人間とは、何なのだろう。愛情と欲望の違いは、どこにあるのだろう。優れた技術を手にしたとき、人間は何を選ぶのだろう。
その答えを探すために。あるいは、いつか自分自身が答えを突きつけるために。彼女は、人間を見つめ続けることにした。その少女の名は、アイリス。
アイリス・シード。
そして、今。彼女は、アスティカシア高等専門学園にいた。
私という存在を言葉で表すのなら。
人の夢。人の望み。そして――人の業。
その果てに生まれた、本来ならばこの世界に生まれ落ちてはならなかった命。それが、私だ。だからといって、今さら死んでやるつもりもない。せっかく二度目の生を得たのだ。ならばせめて――この世界で私らしく生きる。
こんな呪われた私にだって、それくらいは許されてもいいと思うのだ。
当初設定
人の夢!人の望み!人の業!と叫びながら、エアリアルと戦う主人公を作りたかったんじゃ。ホントなんじゃ。
クルーゼの演説をクロスオーバーでやりたかったんじゃあぁ。