水星の魔女 ~もう一輪の百合の花~ 作:一般通過クルーゼさん
「これはこれは、アイリス代表代理」
少し低い声に、私は振り返った。
恰幅のよい中年の男性が立っている。ヴァーデン重工の幹部、ハインツ氏だった。
「ハインツ様。ご無沙汰しております」
「いやいや。相変わらずお美しい」
「ありがとうございます」
彼は満足そうに頷き、それから、私をエスコートするセセリアへ視線を向けた。
「ほう。これはまた、随分とお美しい同伴者をお連れで」
「私の大切な友人です」
「なるほど。華やかで、大変結構ですな」
ハインツ氏は、セセリアの顔からドレスへ、そして私の腕に添えられた手へと視線を移した。
その目つきに、わずかな引っかかりを覚える。
彼は再び私を見ると、親しげに声を落とした。
「ですが、アイリス代表代理ほどの方ともなれば、お隣に立つ相手を選ぶのも一苦労でしょう。釣り合うのは、御三家の御曹司くらいですかな」
冗談めかした笑いが添えられた。
私を持ち上げたつもりなのだろう。
けれど、彼はそのために、今、私の隣にいるセセリアを見た。
見て、値をつけた。
彼女の名前すら尋ねないまま、自分の知る肩書と家柄の尺度に当てはめ、私の隣に立つには足りないと結論づけたのである。
「……釣り合う、ですか」
「ええ。やはり、企業の規模も立場も近い方が、何かとよろしいでしょう。お付き合いにも、それぞれ相応しい相手というものがございますからな」
セセリアの指が、私の腕の上でわずかに動いた。
「へえ。ご親切に――」
「ハインツ様」
私は、彼女が言い終える前に声をかけた。
笑みは、そのままに。
「一つ、確認してもよろしいでしょうか?」
「何でしょう?」
「御社の精密駆動系に関する品質是正報告ですが、直近二四半期にわたって、不具合が継続していると承知しております」
ハインツ氏の笑顔が、わずかに強張った。
「……それが、何か?」
「是正措置の報告にも遅延が見られますね。前回、御社からお示しいただいた改善予定では、既に対策の有効性を確認する段階に入っていたはずですが」
「その件は、担当者から説明を――」
「ええ。報告は受けております。ただ、対策を実施したというご説明と、不具合の再発を抑えられたというご報告は、別ですので」
私は穏やかに続けた。
「現時点では、後者を判断するための資料が不足しております。追加の提出をお願いしている件は、ご承知でしょうか?」
「……もちろん、承知しております」
「それは何よりです。では、ご提出の時期についても、ご回答いただけますね」
彼が口を開きかけ、閉じた。
私は微笑んだまま返答を待つ。その間が長くなるほど、彼の表情から余裕が失われていった。
「……社内で確認のうえ、改めて」
「承知しました。では、担当部門を通じて、確認結果と提出日をご連絡ください」
ここで終えてもよかった。
必要な確認は済んだ。後は、実務を担当する者同士に任せればよい。
それでも、私は続けた。
「加えて、先ほど新規の取引拡大について打診をいただいたと、報告を受けております」
「ええ。その件については、ぜひ前向きに――」
「現在の品質保証体制に、追加の受注へ対応できる余力はございますか?」
ハインツ氏の口が止まった。
「既存の問題が継続し、是正報告も遅れている。その状態で取引を拡大すれば、御社にとっても負担になるのではないかと懸念しております」
「それは、ご心配には及びません」
「でしたら、その根拠も併せてお示しください。生産能力だけでなく、検査と品質保証に必要な人員についても」
「アイリス代表代理。このような席で、そこまで細かな話をなさらずとも」
「失礼いたしました」
私は軽く頭を下げた。
「御社からのご提案でしたので、関心を持って伺ってしまいました」
彼は何とも言い難い顔をした。
私は笑みを崩さなかった。
どれも、確認する理由のある事柄だった。しかし、それを今ここで、彼が答えに窮するまで重ねる必要はない。彼一人が、その場で回答できる内容ではないことも分かっていた。
分かっていて、私は尋ねた。
随分と、大人げないことである。
けれど、あの視線を見た後では、いつものように話を終える気になれなかった。
「……先ほどは、少々踏み込んだ話をしてしまいましたな」
ハインツ氏が、笑顔を取り戻そうとする。
「いや、あくまで軽い世間話のつもりでして。代表代理ほどの方には、それ相応のお相手が――」
「私も、一つお伝えしておきますね」
私は彼を見つめた。
「私の隣に立っている方を、名前もお聞きにならないうちから、格が釣り合うかどうかでお量りになる。そのような品定めは、不愉快です」
その瞬間だった。
近くで談笑していた男性が、こちらを向いた。
展示資料へ目を落としていた女性が顔を上げる。少し離れた輪の中でも、会話を続けていた二人が、ほとんど同時に視線を寄越した。
こちらの話が聞こえる位置にいながら、関心などないように振る舞っていた方々。
その目が、一斉に私たちへ向けられた。
……皆様、随分と耳がよろしいことで。
私は変わらぬ笑みを浮かべた。
「本日は、私がお誘いし、彼女にご一緒していただいております。おかげさまで、大変よい時間を過ごしておりました」
ハインツ氏は、何も言わなかった。
「私をお褒めになるために、彼女を引き下げていただく必要はございません。今後は、お控えください」
私の容姿をどう評価しようと、御三家との縁をどう考えようと、そのこと自体は構わない。
けれど、その話のためにセセリアを眺め、値踏みし、足りないものとして扱うのならば、話は別だった。
「……失礼いたしました」
やがて、ハインツ氏はそう答えた。
「配慮に欠ける発言でした。お詫びいたします」
彼は私だけでなく、セセリアへも頭を下げた。
彼女は、薄い笑みでそれを受けた。
「お気遣い、どうも。お相手選びのお話は、よく存じ上げてからの方が楽しいと思いますよ」
ハインツ氏の口元が引きつった。
私は軽く会釈する。
「品質是正の件につきましては、改めて担当部門へご連絡をお願いいたします」
「……承知しました」
彼はそれ以上何も言わずに立ち去った。
周囲の視線は、既に外されていた。
談笑は続いている。展示の説明も、投資の相談も、何事もなかったかのように。
けれど、聞こえていなかったことにはならない。
「……アイリス」
セセリアが、私の腕へ軽く力を込めた。
「はい?」
「こっち」
私は促されるままに歩き、少し離れた場所で足を止めた。
セセリアは私の顔を見て、それから、ハインツ氏が去った方向を一瞥した。
「ずいぶん熱心に確認してたねぇ。声かけたら、宿題増えちゃった」
「必要なことを伺っただけですよ」
「うん。必要なことを、今ここで、全部ね」
私は答えなかった。
彼女が小さく息を吐く。
「別に、あたしなら自分で言い返せたんだけど?」
「ええ。存じております」
「じゃあ、何で? あたしの台詞まで取らなくていいでしょ。今日はもう十分喋ってるんだから」
私は彼女へ向き直った。
「セセリアが、あのように扱われるのを見て、不愉快だったからです」
彼女の指が、私の腕の上で止まった。
「私を持ち上げるために、貴女を見下してよいことにはならないでしょう」
「……御三家と釣り合うって話が、嫌だったんじゃなくて?」
「そちらは、どうでもよいお話です」
私は微笑んだ。
「あの方が誰を勧めようと、私が従う理由はありませんから」
セセリアは、しばらく私を見つめていた。
「……あんた、怒ると話が長くなるんだね」
「そうでしたか?」
「うん。あの人、途中から一個も答えられてなかったじゃん」
「お仕事の件は、後ほどきちんとご回答いただければ結構です」
「逃がしてあげたわけじゃないんだ?」
「確認すべきことは、確認いたしますよ」
彼女が、呆れたように笑った。
私は小さく息を吐く。
「セセリアがどう対応するかとは、別の話です。もちろん、余計なお世話でしたら謝罪いたしますが」
「……いや。そういうわけじゃないけど」
「そうですか。それなら、よかった」
セセリアはしばらく黙っていた。
やがて、小さく呟く。
「……ほんっと、面倒くさい女」
「今さらですね」
「……そうだね」
彼女も笑った。
ただ、その視線は私ではなく、周囲の人々へ向けられていた。
◇
セセリア・ドートは、ひどく落ち着かない気分だった。
先ほどの男の軽口など、どうでもいい。
アイリスに釣り合うのは、御三家の御曹司くらい。そう言いたければ、勝手に言えばいい。
ただ、その前に自分を眺めた目は、感じが悪かった。
名前も知らない。何をしている人間かも尋ねない。それでも、アイリスの隣にいるには物足りないと判断する材料だけは、見つかったらしい。
ずいぶん、便利な目をお持ちのことで。
言い返すことくらい、できた。
だから、問題はそちらではない。
アイリスが、怒っていた。
笑顔は一度も崩していない。声も穏やかなままだった。
それでも、普段を知るセセリアには分かった。
必要な確認を終えても、あの子は話をやめなかった。相手が言葉を濁すたびに、答えるべきことを一つずつ明確にし、逃げ道を塞いでいた。
仕事の話をしている。
その形を守ったまま、明らかに、いつもより深く踏み込んでいた。
……何してんの、ほんと。
嬉しくないはずがなかった。
アイリスが腹を立てたのは、自分に縁談めいた話をされたからではない。そのためにセセリアが値踏みされ、見下されたからだ。
本人が言い返せることも分かっていて、それでも自分が黙っていられなかった。
そんなことを、あっさり言う。
けれど、喜ぶだけで済ませるには、セセリアは周囲を見すぎていた。
アイリスが、不愉快だと口にした瞬間。
それまで聞いていないふりをしていた者たちが、一斉にこちらを見た。
彼らは、品質是正の話にも耳を傾けていたはずだ。それでも、顔を上げたのはあの一言の後だった。
コズミック・シードの代表代理が、個人的な感情を言葉にした。
何に対して。誰のために。
その答えを、目で確かめにきたのだ。
実際、視線の幾つかは、アイリスではなくセセリアへ向けられていた。
……あたし、あんたの弱点になってない?
胸の奥が、少し冷えた。
アイリスは、大切な相手のためなら利益だけでは動かない。それ自体は昔から知っている。
けれど、企業の代表代理として立つ場所で、それを見せることには別の意味があった。
普段なら受け流すような軽口でも、その相手がセセリアなら、あの子は引っかかる。仕事として確認すべき範囲を超えて、相手を追及する。
今夜の出来事を、そう覚える者もいるかもしれない。
守ってもらって嬉しい、で済ませるのは簡単だ。
その代わり、次に誰かが同じことをすれば、またアイリスが前へ出るかもしれない。
それは、少々まずかった。
セセリアは、隣の少女を盗み見た。
銀白色の長い髪、淡い紫色の瞳。その顔には、先ほどと同じ、上品な笑みが浮かんでいる。
たった今、自分がどれほど分かりやすいものを見せたのか。分かっていないはずはないのに、後悔している様子もない。
……ほんっと、よくできたお嬢様だこと。
あれだけ理屈を並べられるくせに、最後は、不愉快だから。
そんな相手を見て、嬉しいと思ってしまう自分も大概だった。
どこからどう見ても、非の打ち所のない美少女である。試着のとき、あの着付け師が熱くなった気持ちも分からなくはない。
……性格は、結構ひどいけど。
人をからかうことが大好きで、妙に腹黒くて、思いついたらすぐに行動する。そのくせ、時々こちらが驚くほど真っ直ぐなことを言う。
そんな女のどこがいいのか。
考えかけて、内心でため息を吐いた。
そんなこと、今さらだった。
最初は、ただの気に入らないお嬢様だった。
誰に対しても完璧な笑顔を浮かべ、相手が望む言葉を選び、自分の感情など存在しないかのように振る舞う。
あまりにもよくできた人形だったから、つい意地悪を言いたくなった。
皮肉を言って、困らせて、答えに詰まらせて。そうしてようやく見せた、不機嫌そうな顔が妙に面白かった。
以来、何かにつけてからかってきた。
アイリスは困ったように眉を寄せ、時には本気で腹を立て、それでもセセリアを遠ざけようとはしなかった。
気づけば、誰よりも近くにいるのが当たり前になっていた。
「……セセリア?」
アイリスがこちらを向いた。
「どうかなさいました?」
いつもの声。いつもの笑顔。
それだけで、胸が落ち着かなくなる。
……最悪。
どうやら、自分はこの面倒くさい女に特殊な思いを抱いているらしい。
認めてしまえば、ひどく単純な話だった。
けれど、認めたからといって、今ここで何かを変えるつもりはない。自分の気持ちを優先するより先に、考えるべきことができてしまったのだから。
「……何でもない」
いつものように笑ってみせる。
「次、あっちに挨拶するんでしょ?」
「ええ」
「じゃ、行こ。今度は、穏やかなお話で済ませてよね」
「もちろんです」
セセリアは腕を差し出した。
アイリスの手が、ためらいなく添えられる。
その重みを確かめてから、彼女は歩き出した。
パーティーも、いよいよ佳境である。
幾人かとの挨拶を終えた私は、会場の一角でスレッタさんとミオリネさんを見つけた。
「スレッタさん、ミオリネさん」
「あっ、アイリスさん! こんばんは!」
「ええ。こんばんは。お二人とも、大変お似合いですね」
「えっ!?」
スレッタさんが目を丸くし、ミオリネさんは少しだけ眉をひそめた。
「……あんた、また何か企んでるでしょ」
「心外ですね。純粋な賛辞ですよ?」
「信用できないんだけど」
私は微笑み、スレッタさんへ視線を向けた。
「こういった場では、エスコートも大切ですよ」
「え、えすこーと……ですか?」
「ええ。ミオリネさんも、きっとスレッタさんにリードしていただきたいのでは?」
「ちょっと! 余計なこと言わないで!」
「違いましたか?」
「そういう話じゃない!」
しかし、スレッタさんは真剣な表情になっていた。
「わ、私が! ミオリネさんを、リ、リードします!」
「だから、そういう意味じゃ――!」
私は思わず笑ってしまった。
「……ほんっと腹黒」
セセリアが呟く。
「私は少し助言をしただけですよ?」
「親切だねぇ。水星ちゃん、すっかりその気になっちゃった」
「良いことではありませんか」
「ミオリネの顔、見てから言ったら?」
確かに、何とも不満そうな顔をしている。
もっとも、スレッタさんを突き放すつもりはないらしく、慣れない手つきで差し出された腕を見つめながら、何かを言いかけては飲み込んでいた。
ミオリネさんが、こちらを見る。
「……あんたたちも、大概よね」
「何がでしょう?」
「……別に」
彼女はため息を吐いた。
スレッタさんは私たちを交互に見つめ、嬉しそうに笑う。
「お二人、とっても仲がいいんですね!」
「ええ。幼い頃からの親友ですので」
私が答えると、セセリアは一瞬だけ黙った。
そして、普段と変わらない笑顔を浮かべる。
「そうそう。腐れ縁ってやつ」
「まあ。随分な言い方ですね」
「間違ってないでしょ?」
「否定はいたしませんが」
私は小さく笑った。
セセリアはその後、少しだけ口数が少なくなった。
彼女の様子を気にしながらも、私は会場へ目を向ける。
そろそろ、始まる頃だ。
ペイル社によるガンダム・ファラクトの公表。
そして、エアリアルにもGUNDフォーマットが使用されているという指摘。
華やかな談笑に満ちていた会場の空気が、一変した。
ガンダム。
その名前が持つ意味を、ここにいる誰もが知っている。
危険な技術として否定され、開発を禁じられた存在。その禁止を主導したのは、ベネリットグループ総裁、デリング・レンブランである。
「……へえ。ペイル社、自分のところの機体まで巻き込むんだ」
セセリアが声を漏らした。
「ええ。随分と思い切ったことをなさいますね」
「あんた、あんまり驚いてないね」
「そう見えますか?」
「うん。いつもどおり余裕そう。さっきの方が、よっぽど熱心だったじゃん」
「困りましたね」
私はグラスを置き、会場の中央へ視線を向けた。
スレッタさんにとって、エアリアルは単なるモビルスーツではない。家族同然の、かけがえのない存在だ。
それを奪われることが、どれほど恐ろしいのか、想像することしかできない。
だが、ここで彼女たちがどのような行動を取るのかは知っていた。
少なくとも、私が知る物語では。
やがて、ミオリネさんが前へ出た。
彼女が打ち出したのは、ペイル社とシン・セー開発公社のGUND-ARM開発部門を買収し、新たな企業として統合する構想だった。
自分たちの管理下で安全性を検証し、技術の開発を継続する。
その名は、株式会社ガンダム。
「……すごい名前」
セセリアが小さく笑った。
「ええ。実に分かりやすいですね」
「隠す気、全然なくなっちゃったねぇ」
「何を扱う会社なのかは、一目瞭然です」
「説明する前に、嫌な顔されそうだけど」
私は、ミオリネさんの説明に耳を傾けた。
着想そのものは悪くない。
既存の開発部門を取得できれば、研究設備や技術者を一から揃える必要はない。エアリアルとファラクトという実機が存在する点も評価できる。
しかし、それと事業として成立するかどうかは別問題だった。
買収後の開発費用はどうするのか。安全性の検証に、どれだけの期間を要するのか。そもそも、何を商品として、誰に売るつもりなのか。
技術の可能性だけでは、投資家は動かない。ましてや、長年否定してきた技術である。政治的な危険性も小さくなかった。
……甘いですね。
彼女が必死なのは分かる。
けれど、企業経営は善意だけで成立するものではない。
説明が終わり、投資受付の表示が浮かんだ。
数字は、一向に動かなかった。
「……ねえ、アイリス。あんたはどうするわけ?」
「何をでしょう?」
「出資だよ。水星ちゃん、あんたのお気に入りでしょ?」
「否定はいたしませんが」
私は壇上へ視線を戻した。
「あれで出資していては、経営者として笑われてしまいますよ」
「……きっびしー」
セセリアが楽しそうに笑った。
「水星ちゃんには甘いくせに、あのお嬢様には厳しいねぇ」
「人柄と、事業性は別問題ですから。会社の資金を動かす以上、説明できる判断でなければなりません」
「じゃあ、見てるだけ?」
「少しだけ、質問をしてみましょうか」
「……あんたが?」
「ええ。気になることがございますので」
私は壇上へ向き直った。
「ミオリネ・レンブランさん」
声をかけると、彼女がこちらを見た。
「コズミック・シード代表代理のアイリス・シードです。一つ、よろしいでしょうか」
ミオリネさんの表情が、わずかに変わった。
先ほどまでの、学友へ向ける顔ではない。
「……はい。どうぞ」
「率直に申し上げます。今のご説明では、エアリアルとスレッタさんを守りたいというお気持ちは伝わってきました。しかし、事業としての説明が不足しています」
彼女の唇が引き結ばれる。
「買収した技術をどの市場へ投入するのか。開発費をどう回収するのか。安全性の検証に、どれほどの期間と費用を要するのか。今のご説明からは、判断できませんでした」
「事業計画の詳細については、買収後の技術精査と併せて――」
「承知しました。では、現段階では、それらをこれから詰めていく方針なのですね」
「……はい」
答えた後、ミオリネさんは顔を上げた。
「ですが、技術そのものの価値は、実機によって示されています。安全性の検証を続けるためにも、開発を止めるべきではないと考えています」
「私も、技術的な可能性までは否定いたしません」
私は頷いた。
「だからこそ、お尋ねします」
会場が静まる。
「貴女の何を、私どもは信用すればよろしいのですか?」
ミオリネさんが言葉を詰まらせた。
私は、それ以上追及しなかった。
やがて、低い声が沈黙を破った。
「コズミック・シード代表代理の言うとおりだ」
デリング総裁だった。
周囲の視線が、そちらへ向く。
彼は娘を見据え、続けた。
「どんなに大言壮語を吐こうとも、それを裏付ける信用が、お前にはない」
ミオリネさんの表情が強張った。
実績のない者が、実現の道筋を示さないまま、巨額の資金を求める。
ここにいる投資家たちが判断できないのは、技術の価値だけではなかった。その技術を、この少女へ任せてよいのかということだ。
ミオリネさんは、しばらく俯いていた。
「……ちょっと」
隣から、小さな声がした。
「はい?」
「キラーパスすぎるでしょ」
セセリアが呆れたように私を見ていた。
「そうでしょうか?」
「総裁まで続いたじゃん。答えられないって分かってて、ずいぶん親切な質問するねぇ」
「ですが、答えを探すことはできるはずです」
「……あのお嬢様が?」
私は、黙って彼女を見つめた。
やがてミオリネさんが顔を上げる。
壇上を離れ、父親のもとへと歩き出した。
自分には、投資家を動かすだけの信用がない。
それを認めたうえで、総裁の信用を借りるため、彼女は頭を下げた。
会場の視線が、二人へ集まる。
「……へえ」
セセリアが、小さく声を漏らした。
「本当に、行った」
「ええ。立派ですね」
「さっきまで厳しいこと言ってたのに?」
「事業計画への評価は変わっておりませんよ」
「じゃあ、何が?」
「ミオリネさん自身です」
私は彼女を見つめた。
「自分に足りないものを認め、それを補うために頭を下げる。簡単なことではありません。ましてや、あの方にとっては」
父親への反発よりも、守りたいものを優先した。
その選択には、敬意を払いたい。
「自分の意思で、何かを選ぶ方は好きですよ」
「……あんた、そういうの好きだよね」
「ええ」
セセリアは少しだけ黙り、小さく呟いた。
「……知ってる」
「何かおっしゃいました?」
「別に。ほら、続き」
私は会場へ目を戻した。
やがて、投資受付の表示が動く。
目標額の三パーセント。
出資者の名前は、デリング・レンブラン。
会場がざわめいた。
「……三パーセントか」
セセリアが画面を見つめた。
「頭下げたからって、全部はくれないんだねぇ」
「自分で集めるように、ということでしょうか」
「うん。自分で作らせる気なんだ」
信用は貸す。
けれど、その信用を使って人を集め、企業を形にするのは、彼女自身の仕事なのだろう。
数字が、さらに増えていく。
総裁の出資をきっかけに、ほかの投資家たちも動き始めていた。
セセリアが、そっと私へ身を寄せる。
「向こうの人、いったん出した端末、まだ閉じてない」
「様子を見ていらっしゃるのでしょうね」
「うん。隣が入れるのを待ってる。慎重だねぇ。さっきまで、ずいぶん偉そうに聞いてたのに」
彼女が言い終える頃、一人が入力を終え、もう一人も画面へ指を滑らせた。
私は小さく笑い、自分の端末を取り出した。
「では、私も少しだけ出しましょうか」
「……は? 入れないって言ったじゃん」
「コズミック・シードとしては、です」
「あー……個人で?」
「はい。先日の決闘で得た払戻金を、そのまま」
「オッズ落ちたって言ってたのに、ちゃんと賭けてたんだ?」
「もちろんです」
「水星ちゃんに稼がせて、水星ちゃんのために使うんだ。抜け目ないねぇ」
「そのように申し上げると、少々聞こえが悪いですね」
「じゃ、綺麗に言い換えていいよ。得意でしょ?」
私は笑って、金額を入力した。
事業計画が未成熟であるという評価は変わらない。
それでも、彼女がこれから何を成し遂げるのかには興味があった。
私が知っている未来が、そのまま訪れるとは限らない。
だからこそ、自分の意思で何を選び、どのような結果へ辿り着くのかを見てみたかった。
手続きを終えてしばらくすると、投資受付の数字が目標額へ到達した。
会場に、拍手が起こる。
株式会社ガンダム。
その設立に必要な資金が、集まったのだ。
「おめでとうございます、ミオリネさん」
私は小さく呟いた。
「……儲かると思ってるわけ?」
セセリアが尋ねた。
「どうでしょう。収益化の見通しは、まだ不透明ですからね」
「なのに、入れたんだ?」
「個人として、少しばかり応援したくなりましたので」
「ふーん」
セセリアは私を眺め、それから画面へ視線を戻した。
「自分のお金なら、好きにすれば?」
「ええ。そのつもりです」
私は笑った。
ミオリネさんは、父親から信用を借りた。
けれど、借りた信用は、いつか返さなければならない。
経営者としての実績で。
次に事業計画を拝見する機会があれば、遠慮なく質問させていただきましょう。
何しろ、私も出資者の一人になってしまったのですから。
パーティーが終わる頃には、会場の熱気も少しずつ落ち着いていた。
セセリアにエスコートされながら、私は帰路についた。
人工の夜景が通路の窓に映り、華やかな会場とは違う静けさが、二人の間に流れている。
「楽しい夜でしたね」
「あんたはね」
セセリアが、少しだけ呆れたように笑った。
「セセリアは楽しくありませんでしたか?」
「別に。楽しかったけど。挨拶して、あの人に宿題出して、ミオリネ困らせて。あんた、忙しかったねぇ」
「随分と偏った振り返りではありませんか?」
「投資もしたね。忘れてた」
「そちらを加えればよい、というものではないのですが」
彼女が笑い、私もつられて笑った。
企業関係者との情報交換、新規事業の動向確認、株式会社ガンダムへの個人出資。
有意義な時間だった。
けれど、それ以上に、セセリアと同じものを見て、同じ時間を過ごせたことが嬉しかった。
そして、改めて確信したこともある。
「セセリア」
「何?」
「一つ、正式にお願いしたいことがございます」
彼女がこちらを見た。
私の顔から、何かを察したらしい。
「……嫌な予感」
「まだ何も申し上げておりませんが」
「その前置き、絶対面倒な話じゃん」
「私の秘書になっていただけませんか?」
セセリアは、わざとらしくため息を吐いた。
「はいはい。考えとくよ」
いつもの答えだった。
けれど、今日は、そこで終えるつもりはない。
「今回は、冗談として流さないでいただけると嬉しいのですが」
彼女の足が、わずかに遅くなった。
私も歩調を緩める。
「……本気?」
「以前から、本気ですよ。ただ、今日はきちんと理由をお伝えしたくなりまして」
セセリアは窓際で足を止めた。
私が立ち止まったのを確かめてから、腕を解く。
「理由ねぇ。今日は純粋なお誘いだったんじゃないの?」
「お誘いしたときには、そのつもりでした」
「便利だね。予定が変わったで済むんだ?」
「……お話だけでも、聞いていただけませんか?」
彼女は私を見つめ、やがて小さく肩をすくめた。
「どうぞ」
「今日、貴女は私をエスコートしながら、周囲の状況を把握していらっしゃいました」
「見えてたものを言っただけだけど」
「ええ。その内容を評価しております」
私は彼女を見つめた。
「私は誰かと話している間、その相手への対応に意識を向けます。ですが、貴女は隣で会話を聞きながら、周囲の人の動きまで見ていた」
彼女は黙っていた。
「どの方が誰の意向を受けて動いているのか。どこで交渉が滞っているのか。私が次の相手へ挨拶するには、いつがよいのか」
それらを、必要なときに、必要なだけ伝えてくれた。
会話を妨げず、相手に観察されていると意識させることもなく。
「ヴァーデン重工についても、私のもとには品質や利益率の報告がありました。けれど、それが今日の相手の動きにどう表れていたかは、貴女の方がよく見えていた」
「報告を読んでる方が、確かじゃない?」
「だからこそ、両方が必要なのです」
数字には、形になるまで時間がかかる。人の反応は早いが、読み違えることもある。
互いを確かめる材料として、両方を使いたかった。
「私が欲しいのは、ただ予定を管理し、指示を伝えるだけの方ではありません。私の見落としを拾い、判断に疑問があれば、遠慮なく指摘してくださる方です」
「……ずいぶん、注文が多いね。秘書一人で足りる?」
「ええ。ですから、貴女にお願いしております」
セセリアは小さく息を吐いた。
「買いかぶりすぎ。あたし、会社で働いたことなんかないんだけど」
「実務については、覚えていただく必要があります。こちらからも、十分に支援いたします」
「採る前提で話してない?」
「採用したいと思っておりますので」
「あのお嬢様には、信用がないって聞いてたくせにねぇ」
「貴女への信用でしたら、長年の実績がございますから」
彼女が口を閉じた。
その口元に薄く笑みが浮かんだものの、すぐには返事がなかった。
しばらく窓の外へ視線を向け、それから、思いがけないことを尋ねてきた。
「……今日、あの人に怒ったでしょ」
「ハインツ様ですか?」
「うん」
「少々、大人げなかったかもしれませんね」
「少々? ずいぶん控えめな自己評価で」
セセリアがこちらへ顔を戻した。
「笑ってたけど、普段なら、あそこまで聞かないじゃん。担当者に任せれば済む話まで、わざわざ答えさせようとしてた」
「……そうですね」
「最後には、不愉快だって言った。あのとき、周りが一斉にこっち見たの、気づいてたでしょ?」
「ええ」
「コズミック・シードの代表代理として、あそこまでする必要あった?」
私は、すぐには答えなかった。
別の対応はできた。
笑顔のまま話を打ち切ることも、紹介の仕方を変えて相手の非礼を浮き彫りにすることも。
もっと穏便に、同じ結果へ持っていく方法はあっただろう。
「……企業間の関係だけを考えるなら、ありませんでしたね」
「だよね」
セセリアは頷いた。
「じゃあ、あれ、あたしに何か言えば、あんたは動くって見せたことになるじゃん」
私は目を瞬かせた。
彼女は笑っていなかった。
「今日のあの人は、ただ嫌味を言っただけ。でも、次もそうとは限らないでしょ」
「……セセリア」
「あたしを困らせれば、あんたが折れるかもしれない。あたしに何か言えば、普段ならしない対応をするかもしれない。そう思う人がいたら?」
静かな声だった。
私は、彼女の言葉を受け止めた。
腹を立てたことに、後悔はない。
けれど、その態度が彼女へどのような目を向けさせるのかまでは、十分に考えていなかった。
「……ご心配をおかけしました」
「謝れって話じゃないんだけど」
「ええ」
セセリアは腕を組んだ。
「親友ってだけだと、あたしが何を言っていいのか、周りも分かんないじゃん。あんたに関わる話を振られても、仕事のことには口を出せない」
「そうですね」
「でも、正式に秘書なら違う」
私は彼女を見つめた。
「問い合わせをあたしに回してもらえるし、変な話をされたら会社の案件として報告できる。権限がないことは、ないって言える」
彼女は、一つずつ確かめるように続けた。
「ただの友達が余計な口を出してるんじゃなくて、担当者として断れる。その方が、あんたも対応しやすいでしょ」
「ええ」
「何より、あんたが余計なことで怒りそうになったら、その場で止められる。立派な代表代理様が、お友達の喧嘩に出ていく前にね」
「……それは、頼もしいですね」
「笑い事じゃないんだけど」
「承知しております」
私は表情を改めた。
「ただし、私の言動の責任を取るために、引き受けていただくつもりはありません。私は貴女の能力を評価して、お声がけしております」
「分かってる」
セセリアは少しだけ目を細めた。
「それでも、あたしは気になるの。あたしが原因で、あんたが変な判断するの」
短い沈黙が落ちた。
やがて彼女は、小さくため息を吐く。
「……だから、試すくらいなら、いいよ」
「試す、と申しますと?」
「学生の間は、試用期間」
私は思わず、彼女を見つめ直した。
「学業優先。委員会の仕事もあるから、いつでも付き合えるわけじゃない。できることから覚えるし、無理なことは無理って言う」
「ええ」
「それと、権限と責任は、ちゃんと決めて。親友だからって、その辺を曖昧にされるのは嫌」
「もちろんです」
「卒業した後どうするかは、そのとき改めて考える。あんたも、使えないと思ったら、ちゃんと言うこと」
そこで一度言葉を切り、彼女はいつものように口元を緩めた。
「……その条件でよければ。秘書、やってあげる」
すぐには、返事ができなかった。
何度もお願いしてきたことだった。
彼女と働くことを想像し、断られても、また折を見て尋ねようと思っていた。
けれど、実際に了承していただけると、こうも言葉が出てこなくなるものなのか。
「……アイリス?」
「はい」
「何か言いなよ。人にはあんなに喋らせといて」
「申し訳ありません。嬉しくて」
セセリアが、わずかに視線を逸らした。
「……そういうのはいいから」
「よくありません。大切なことです」
「はいはい」
私は一度息を整え、彼女へ向き直った。
「ありがとうございます。条件を整理したうえで、正式な契約をご用意いたします。業務の範囲と勤務時間、報酬、守秘義務についても、ご確認いただけるように」
「うん。変な条項、入れないでよ?」
「変な条項とは?」
「卒業後もずっと隣にいること、とか」
「……なるほど」
「今、考えたでしょ」
「魅力的なご提案だと思いまして」
「却下」
即答だった。
私は笑い、右手を差し出した。
「では、改めまして。よろしくお願いいたします、セセリア」
彼女は差し出された手を見て、それから私の顔を見た。
「……こちらこそ。代表代理」
その呼び方が、少しだけくすぐったかった。
握手を終えてからも、セセリアの掌には、アイリスの手の感触が残っていた。
……まあ、これが一番いいでしょ。
自分に言い聞かせる。
親しい友人だからといって、会社の仕事に口を出せるわけではない。
けれど、正式な秘書になれば、できることが増える。
アイリスへ届く話を整理し、必要な情報を集める。あの子が誰かと向き合っている間、自分は周囲を見ていられる。
今日のように、穏やかな笑顔のまま相手を追い詰め始めたなら、必要な確認が終わったところで、横から話を引き取ることもできる。
十分に、筋の通った判断だった。
誰に説明しても困らない程度には。
……好きだから、そばにいたい。
そんな気持ちだけで、引き受けたわけではない。
仕事なのだ。試用期間も設けた。卒業後の進路まで約束したわけでもない。
あくまで、自分があの子の弱点になる危険を減らし、役に立てるかを確かめるため。
そう考えていれば、胸の奥で騒ぐものを、ひとまず黙らせておけた。
「セセリア」
「……何?」
隣の少女は、まだ嬉しそうな顔をしていた。
「明日、早速担当者と相談いたしますね」
「急がなくていいって」
「ですが、ご不安な点は早めに解消しておきたいので」
「今、一番不安なのは、あんたが張り切りすぎてることなんだけど」
「おや」
アイリスが笑う。
その笑顔に、セセリアは視線を外した。
やはり、少々まずい。
この調子で喜ばれると、もっと別の意味を期待してしまいそうになる。
けれど、アイリスが評価したのは、自分の観察力と判断力だ。
求められたのは、信頼できる秘書。
ならば、まずはその役目を果たせばいい。
気持ちの名前まで、伝える必要はない。
「それと」
セセリアは、ことさらに気怠げな声を出した。
「今日みたいなことで、いちいち仕事相手に喧嘩売らないでよ」
「喧嘩を売ったつもりはございませんが」
「無料で配ってたんだ? ずいぶん気前がいいねぇ」
「……善処いたします」
「それ、絶対またやるやつじゃん」
アイリスが、少し困ったように笑った。
セセリアはため息を吐き、もう一度、彼女へ腕を差し出す。
「そういうときは、先にあたしを見て」
「……はい?」
「言い返すにしても、黙るにしても。あたしがどうしたいかくらい、確認してよ」
アイリスは彼女を見つめ、真面目な顔で頷いた。
「承知しました」
「うん」
それで、今夜の話は終わりにした。
これ以上続ければ、もっと余計なことまで口にしてしまいそうだったから。
私はセセリアの腕へ手を添え、再び歩き始めた。
先ほどまでと同じ通路なのに、どこか違って見える。
彼女が秘書になる。
まだ条件の調整も、正式な契約も残っている。実際の仕事をどう分担するか、検討しなければならないことも多い。
それでも、彼女と働く約束ができたことが嬉しかった。
「……まだ笑ってる」
「申し訳ありません。しばらくは、このままかもしれません」
「ほんっと、面倒くさい女」
「今さらですね」
「そうだね」
セセリアは小さく笑った。
私は彼女の横顔を眺め、それから前へ向き直る。
今日、会場で感じた安心感を思い出した。
私が挨拶をしている間、彼女は周囲を見てくれていた。話が終われば、次の場所へ自然に導いてくれた。
彼女の隣では、自分の目の前にあることへ集中できた。
それがどれほど得難いことなのか、私は知っている。
「セセリア」
「今度は何?」
「本日は、ありがとうございました」
「……秘書の返事なら、もうしたでしょ。二回言ったら、二人分働かされる?」
「そちらではありません。エスコートしてくださったことです」
彼女がこちらを見た。
「とても、心強かったです」
セセリアは、しばらく何も言わなかった。
やがて前へ向き直り、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……それくらい、いつでもしてあげる」
「ええ。では、またお願いいたしますね」
「はいはい」
私は彼女と並んで歩き続けた。
仕事の話をするには、まだ惜しい夜だった。