水星の魔女 ~もう一輪の百合の花~ 作:一般通過クルーゼさん
襲撃機の活動停止が確認されても、学園の警報は鳴り続けていた。
私は避難経路を塞がない場所へパンドラを止め、救援部隊へ周辺の状況を伝えた。負傷者を運ぶ機体が建物の角を曲がり、後を引き継ぐという返答が届いてから、ようやく帰投経路を表示する。
パンドラには、まだ余力があった。私自身も、操縦を続けられないほど消耗しているわけではない。それでも、対応を引き継げる方々が到着したのなら、ここに留まり続けるべきではなかった。
画面の片隅には、損傷した施設と、救助を待つ方々が映っている。私が守ったのは、その中の限られた場所だった。別の場所へ向かっていれば、助けられた方もいたかもしれない。反対に、守ると決めた方々のもとへ戻れなくなっていた可能性もある。
その答えを確かめることは、もうできなかった。
私はしばらく映像を見つめ、それからパンドラの向きを変えた。帰った後で説明すると、約束している。今は、その約束を守りたかった。
ブリオン寮の格納庫では、退避していた技術者の皆さんが整備架台の周囲へ集まっていた。
パンドラを固定し、停止を確認してからコックピットを開く。格納庫の空気を吸った途端、ようやく身体の重さを感じた。
「代表代理、お怪我はありませんか!」
「ええ。問題ありません」
昇降設備を降りた私へ、主任が駆け寄ってきた。
「戦闘記録は、機体の状態を変更する前に保全してください。複合兵装防盾への被弾と、大型ドラグーンの冷却系についても――」
「承知しています。まずは身体を休んでください」
「先に共有しておいた方がよいことも」
「代表からも、帰還したら休ませるようにと言われています」
父上の名前を出され、私は口を閉じた。その隙を見計らったように、背後から聞き慣れた声がする。
「おっかえりぃ」
振り向くと、セセリアが立っていた。
制服にも顔にも、目立った傷はない。通信で無事だと聞いていたはずなのに、その姿を見た途端、胸の奥が緩んだ。
「セセリア、無事ですか?」
「はいはい。無事ですよ、代表代理様」
彼女は腕を組み、私を上から下まで眺めた。
「そっちも、本当に怪我はない?」
「はい」
「そう。じゃ、聞きたいことがあるんだけど」
私は姿勢を正した。
「実戦の直前に、都合よく最終確認が終わる機体って、どこに頼めば作ってもらえるのかなぁ?」
主任が、そっと視線を逸らした。ほかの方々も、それぞれの仕事へ戻っていく。皆さん、随分と察しがよろしい。
「……場所を変えても、よろしいでしょうか」
「いいよ。あたしも、社員の前で代表代理様を困らせるほど意地悪じゃないし」
「ありがとうございます」
「二人なら、ゆっくり聞けるでしょ」
私は、今からでも主任の隣へ戻りたくなった。
格納庫に併設された休憩室へ入ると、セセリアが水を差し出してくださった。
彼女は向かいの席へ座り、私が一口飲むのを待ってから口を開く。
「いつ、終わってたの?」
「お披露目した時には、必要な確認を終えていました」
「じゃ、今日になって何か終わったわけじゃないんだ」
「はい」
セセリアは短く息を吐いた。
「動いたから嘘だって言ってるんじゃないよ。確認が済んでても、別の理由で出せないことくらいあるでしょ」
私はカップから顔を上げた。
「あたしが聞いてるのは、何で、まだ確認が済んでないように言ったのかってこと」
用意できる説明は、いくつもあった。機体情報の管理、緊急時の備え、企業としての判断。そのどれもが、まったくの嘘ではない。
けれど、それを並べて彼女に納得していただこうとすれば、また同じことをしてしまう気がした。
「何かが起きた時、すぐに動けるよう、待機するつもりでした」
「何かが起きると思ってた?」
「……その理由については、今はお話しできません」
「そっか」
彼女は、それ以上を尋ねなかった。だからといって、納得してくださったのだとは思わなかった。
「だったら、そう言いなよ」
「はい」
「答えられないからって、別の理由を作って、こっちが納得するようにしないで。あんたが何を隠してるか分からなくても、嘘をつかれたかどうかは分かるんだから」
「申し訳ありません」
セセリアは机へ視線を落とし、それから私を見た。
「で、何で出てきたわけ?」
その問いには、答えられた。
「貴女が、あの場所にいたからです」
彼女の指が止まった。
「セセリアが傷つくかもしれないと思ったら、待っていることを選べませんでした」
「……それ言えば、怒れなくなると思った?」
「いいえ。貴女を守りたかったことと、嘘をついたことは別です。理由を聞かれて、答えられることを申し上げました」
セセリアはしばらく黙っていたが、やがて背もたれへ身体を預けた。
「助けてくれたことは、感謝してる。あたしもロウジも、あんたが来なかったら危なかったかも」
「はい」
「でも、何も知らないまま、あんたが撃たれるところを見るのが楽だと思う?」
複合兵装防盾へ射撃を受けた時の衝撃が、遅れて身体へ戻ってきた気がした。
「帰ってきてから、大丈夫でしたって言われてもさ。それまで、こっちは分かんないんだけど」
「……おっしゃるとおりです」
「全部話せとは言ってない。話せないなら、話せないって言って。それを聞いて、あたしがどうするかまで、あんたが決めないでよ」
私は、ゆっくり頷いた。
「約束します」
「うん」
ようやく、彼女の肩から少し力が抜けた。
私は水をもう一口飲んでから、両手でカップを持ったまま彼女を見る。
「セセリア」
「何?」
「ただいま戻りました」
彼女は一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
「……おかえり、アイリス」
その言葉を聞いて、初めて、本当に帰ってこられたと思った。
翌日から、コズミック・シードには大量の問い合わせが届いた。
パンドラの戦闘記録、技術提供、共同研究。襲撃への対応について説明を求める連絡もあれば、まだ何を聞きたいのか定まっていない打診もある。
その窓口を引き受けていたのが、セセリアだった。
「随分と、整理されましたね」
学園内事務室で、私は自分へ回ってきた一覧を眺めた。届いている連絡の総数に比べ、判断を求められているものが少ない。
「代表代理に確認するまでもないものは、全部突き返しておいた」
「少々厳しいのでは」
彼女は隣で端末を開き、営業部門へ送った返信を見せた。
『先方の連絡を、そのまま転送しないでください。営業としてどのような提案を行うべきと考えるのか、その根拠と併せてお送りください。確認事項がある場合は、何を判断するために必要なのかを明記願います。転送のみであれば、営業を経由する必要がありません』
私は最後の一文を、しばらく見つめた。
「……もう少し、優しくお伝えしても」
「優しく受け取ったら、次もそのまま来るでしょ。あたしが整理して、あんたが考えて、営業は先方へお返事。便利だねぇ」
「営業の皆さんにも、ご事情があるでしょうから」
「じゃ、それも書いてもらえばいいじゃん。考えた上で困ってるなら、あんたも答えられるんだから」
反論の余地は、あまりなかった。
次に表示されたのは、社内会議への出席依頼だった。
『その会議に、代表代理の出席は必要でしょうか。まず担当部門で検討し、結論と根拠、未解決の論点をまとめた上で、後日ご説明ください。その内容について代表代理へ確認を取ります。議論を始めるための出席依頼は、お受けできません』
「私が出た方が、早く整理できることもあるのですが」
「それ、あんたが出ないと状況を整理できない理由になる?」
「いえ。ただ、論点を揃えるまでに時間がかかる場合は」
「そのための人、いるんでしょ?」
「……はい」
「よかった。代表代理がいないと会議も始められない会社じゃなくて」
私が苦笑している間に、彼女は次の連絡を開いた。
「技術的な方針の確認は、代表に回したよ」
「父上は、研究室にいらっしゃるのでは?」
「うん。だから、研究室から引っ張り出して聞いてくださいって」
「お忙しいと思いますが」
「あんたも忙しいよね?」
すぐに返され、私は口を閉じた。
「代表が研究してる時は遠慮するのに、代表代理が仕事してる時は、次の仕事入れていいんだ。不思議な会社だねぇ」
「おっしゃるとおりです」
「でしょ。このくらい言わないと、どんどん来るんだから。これでいいの」
彼女の指が動き、私の予定表から会議が二つ消えた。
空いた時間を見て、先に済ませられる仕事を考えかけたところで、横から端末を覗き込まれる。
「今、何入れようとした?」
「……まだ、何も」
「考えたでしょ」
私は返事の代わりに、画面を閉じた。
その日の夕食後、私はセセリアの部屋でソファへ腰を下ろしていた。
彼女が食器を片づけている間に、持参した端末へ目を通す。先ほど確認した案件について返答が一つ届いていた。内容を読み、関連する資料を開こうとしたところで、端末が視界から消えた。
「……セセリア?」
「本日のお仕事、終わりです」
彼女は取り上げた端末を机へ置き、その上へ自分の端末まで重ねた。
「今の返事、急がないよ。あたしも見たから」
「確認だけでも済ませておけば、明日が」
「明日、確認する時間取ってあるよ」
「ですが」
「あたしが空けた時間、何であんたが埋めるわけ?」
私は口を閉じた。
セセリアは隣へ座ると、私の顔を眺めた。
「ちゃんと寝てる?」
「仮眠は取っていますよ」
「聞いたことに答えてないねぇ。そういうの、今日も何件か突き返したんだけど」
「……少々、立て込んでおりまして」
「だから休むんでしょ」
彼女は身体の向きを変え、自分の膝を軽く叩いた。
「ほら」
私はその手元を見てから、彼女の顔を見た。
「こちらで、ですか?」
「他に、どこに見える?」
「いえ。その、よろしいのですか?」
「勧めた本人に、何回確認するつもり?」
言い方は、いつもどおりだった。ただ、視線は時折、私から机や壁へ逸れている。耳の辺りが赤いことに気づき、私まで顔が熱くなった。
「では、お言葉に甘えて」
「うん」
靴を脱ぎ、身体を横たえる。けれど、頭を預ける直前になって、どの辺りへ置けばよいのか分からなくなった。
動きを止めた私へ、セセリアが小さく息を吐く。
「そんな慎重にならなくても、壊れないって」
「貴女が痛くないようにと思いまして」
「重かったら言うから。いいから、力抜いて」
後頭部を支えられ、そっと膝へ導かれた。
布越しの柔らかさと、彼女の体温が伝わってくる。思っていたより顔が近い。見上げた先で目が合った途端、二人とも黙ってしまった。
セセリアの手が一度宙を迷い、それから私の髪へ触れた。
「……こうでもしないと休まないでしょ、代表代理様」
「これは、仕事に戻れないですね」
自分でも驚くほど、素直な言葉が出た。
彼女が私を見下ろし、口元を緩める。
「その顔は、他の人に見せられないねぇ」
「セセリアも、随分と」
「こっちは見なくていいの」
「この姿勢では、難しいのですが」
「じゃ、目を閉じれば?」
もっともな提案だった。けれど、今すぐ従うのは惜しかった。
こんな近くから彼女を見上げる機会など、そうあるものではない。私へ向けられる眼差しも、照れたように逸れる視線も、もう少し見ていたかった。
「少し、もったいなくて」
「何が?」
「眠ってしまうのが、です」
セセリアの指が止まった。
彼女も私と同じくらい赤くなっている。そのことが嬉しくて、余計に顔を逸らせなかった。
「せっかくですから、もう少し」
「休ませるために寝かせたんだけど」
「はい。分かっております」
「分かってる人の目じゃないね、それ」
彼女の手が、私の目元へそっと重ねられた。
視界が塞がれると、髪に触れるもう片方の手を、先ほどよりはっきり感じた。撫で方は少しぎこちない。それでも、指先がゆっくり動くたびに、首や肩へ残っていた力が抜けていった。
「観察の時間じゃないの。寝る時間」
「……はい」
あまりに心地よく、返事をするのも遅くなった。
まだ、この時間を味わっていたかった。彼女がどんな顔をしているのか、もう一度見たかった。
「セセリア」
「何?」
「起きましたら、もう少し……」
続きを口にする前に、意識が遠のいた。
「……何。もう寝たの?」
返事はなかった。
目元から手を退けると、アイリスは既に穏やかな寝息を立てていた。眠るのはもったいないと言っていたくせに、数分も持たなかったらしい。
セセリアは呆れ、小さく息を吐いた。
けれど、起こすつもりはなかった。
膝へ預けられた頭は、起きていた時より少し重く感じる。髪を払って覗き込むと、眉間にも口元にも、もう力は入っていなかった。
会社で見る顔とは、随分違う。
相手が話し終えるのを待つ微笑みも、次に何を求められるかを考えているような眼差しもない。ただ、安心したように眠っている。
「仮眠は取ってます、ねぇ」
今なら、どれだけ言っても反論は返ってこなかった。
セセリアは手の届く場所へ置いていた上着を引き寄せ、アイリスの身体へ掛けた。その寝顔を眺めているうちに、少し前に会った彼女の父親を思い出した。
コズミック・シード本社を訪れたのは、秘書の仕事を引き受けて間もない頃だった。
応接室へ現れた代表は、研究室から出てきたばかりだと一目で分かる姿をしていた。髪は乱れ、白衣の袖口には汚れがある。胸のポケットには筆記具と小さな工具が詰まり、歩くたびに触れ合っていた。
「お待たせしましたねえ。ちょっと、手が離せなくて」
「お忙しいところ、どうも。呼びに行かないと研究室から出てこない方だって、よく伺ってます」
「アイリスに言われました?」
「ええ」
「少々、大げさですねえ」
そう笑ってから、彼は自分の袖口へ目を落とした。
「……今日は、あまり反論できませんが」
挨拶を交わし、席へ着くと、彼は改めて頭を下げた。
「アイリスの秘書を引き受けてくださったそうで。ありがとうございます」
「まだ、お試しですけどね。代表代理様のお気に召すかどうか」
「君なら、大丈夫でしょう」
「ずいぶん簡単に決めますねぇ」
「昔から、君のことは見ていましたし、あの子からも聞いていますから」
何を聞かされているのか、詳しく確かめるのはやめておいた。
彼は気にした様子もなく、言葉を続ける。
「今日は代表として、それから父親としても、お願いしたいことがありましてね」
「何でしょう?」
「アイリスが、甘えられる相手になってほしいんです」
予想していた業務の説明とは、少し違った。
セセリアが黙っていると、彼は困ったように笑った。
「会社にいると、格好いい代表代理になってしまいますからねえ。僕らも、つい頼ってしまうんですよ。お願いすれば、何とかしてくれるものですから」
「で、仕事がどんどん集まるんだ」
「ええ。あの子自身、頼られることに存在意義を見いだしているところもありますからねえ」
セセリアは、少し目を細めた。
思い当たることはあった。
アイリスは何かを頼むと嬉しそうにする。手間のかかることでも嫌な顔をせず、調べた結果を説明する時には、こちらが喜ぶかどうかをよく見ていた。
「僕たちから、仕事量を減らそうと提案したこともあるんですよ」
「あるんですね?」
「その疑い方は、少々つらいですねえ」
「今のお姿で研究室から出ていらした代表に、信用しろって言われましても」
彼は白衣を見下ろし、苦笑した。
「最初に提案した時は、すごく悲しそうな顔をされましてね。それから、仕事の一覧を持ってこられたんです」
セセリアは黙って続きを待った。
「誰に何を移すと、どの判断が遅れるか。引き継ぐために何が必要で、当面どれほど負担が増えるか。それはもう懇切丁寧に、反論のしようがないくらい説明されました」
「……想像つくなぁ」
「最後には、好きなだけ頼ってください、私なら大丈夫ですから、と。その後も皆で、三回ほど調整を提案したのですが、全部跳ね返されてしまいましてねえ。あはは」
「わー。見事なワンマン企業ー」
「……笑っている場合では、ありませんね」
「今の、褒めてませんからね」
「ええ。分かっています」
笑みが薄くなった。
「挙げられた問題が、間違っていたわけではないんです。ただ、それを解決するまでの仕事も、本人が引き受けようとする。今は忙しいから落ち着いてからにしましょうと言われ、その間にも次の仕事が増えてしまう」
「落ち着く日は来ない、と」
「おっしゃるとおりです」
セセリアは椅子の背へ身体を預けた。
きっと、穏やかに説明したのだろう。
自分が続ければ皆の負担も少なく、問題なく処理できるのだと。相手の心配にも一つずつ答え、最後には安心させるように微笑んだはずだ。
「もう頼まなくていいって、聞こえちゃうんでしょうね」
彼が顔を上げた。
「仕事を減らそうって言われると。あの人」
「……僕も、そう思っています」
静かな返事だった。
「ただ、任せられない仕事が多いのは、僕らの責任でもあります。そこを変えずに休めとだけ言っても、あの子は気にするでしょうから」
「じゃ、ちゃんと変えてもらわないと」
「ええ。そのためにも、僕らへ遠慮はしないでください。僕に聞くべきことまでアイリスへ来ていたら、そのまま返してくださって構いません」
「研究室にいるから、では通らなくなりますよ」
「……はい。出てきます」
「その時だけじゃなくて、普段からお願いしますねぇ」
彼は苦笑したが、話を逸らさなかった。
「コズミック・シードの都合だけを優先する秘書ではなく、アイリス個人の秘書であってほしいんです。あの子が無理をしている時には、会社より先に、あの子を見てやってください」
「代表が、そんなこと言っていいんですか」
「父親として、お願いしています」
セセリアは何も言えなくなった。
彼は少し間を置き、柔らかく続けた。
「君の前では、あの子も困った顔をするでしょう。言い返したり、拗ねたりもする。僕は、君がアイリスにとって、唯一、弱さを出せる人なのだと思っています」
「……お父様には、出さないんですか」
「僕には、まだ安心させようとしますねえ」
答えるまでに、わずかな間があった。
「君には、仕事を頼む相手というだけではなく、パートナーとして、そばにいてほしいんです」
カップを持つ指へ、余計な力が入った。
彼は、その様子を見ていたのかどうか。深く頭を下げた。
「どうか、アイリスをよろしくお願いします」
――結婚の挨拶か何かと勘違いしてない、この人。
そう思ったせいで、ますます顔が熱くなった。
「……まだ、お試しの秘書なんですけど」
「はい。承知していますよ」
分かっているような顔をしているのが、かえって困った。
セセリアは一度息を吐き、カップを置く。
「じゃ、遠慮しませんからね。アイリスに頼めば早いってだけの仕事は返しますし、代表に聞く話なら、研究室まで持っていきます」
「ええ。お願いします」
「後から秘書が怖いって言わないでくださいねぇ」
「それは、言うかもしれませんねえ」
「そこは言わないって答えるところでしょ」
彼が声を上げて笑った。
その笑い方が少しアイリスに似ていて、セセリアも、つられて口元を緩めた。
◇
膝の上で、アイリスが小さく身じろぎした。
セセリアは思い出から戻り、ずれかけた上着を引き上げる。頬へかかった髪を払うと、アイリスは目を覚まさないまま、指先を追うように少し顔を寄せた。
「……起きてる時も、そのくらい素直ならいいのに」
返事の代わりに、穏やかな呼吸が続いた。
会話の途中で寝落ちするところなど、ほとんど見たことがない。疲れていそうでも、声をかければすぐに顔を上げ、何でもないように微笑む。今日も、端末を取り上げなければ仕事を続けていただろう。
髪を撫でる手を止めず、セセリアはソファの背へ身体を預けた。
最初は、どこへ触れてよいのか少し迷った。けれど、指が髪を梳くたびにアイリスの表情が緩むのを見ていると、手を離す方が難しくなった。
背中のクッションを片手で直し、姿勢を変える。起こしてしまうかと身構えたが、アイリスは眉をわずかに動かしただけだった。
その時、机の上で端末が震えた。
画面には、一度断った会議への出席依頼が再び届いていた。結論を出す前に、代表代理との認識のすり合わせが必要なのだという。
セセリアは膝の上へ目を落とした。アイリスは上着の端を緩く握り、静かに眠っている。
返信欄を開き、片手で文字を打ち込んだ。
『代表代理は現在、休息中です。その認識のすり合わせが、代表代理を起こしてでも今行う必要のあるものでしたら、ぜひご説明ください。何を確認する必要があり、回答が明日になると、どの業務に、どのような支障が生じるのでしょうか。具体的な理由を添えてお願いいたします』
読み返し、もう一文を加える。
『皆様の間で認識が揃っていないのでしたら、まず、どこで意見が分かれているのかを整理してください。その整理まで代表代理へお願いする必要はないかと存じます』
送信してから、別の連絡も確かめた。
営業部門からは、差し戻した案件への回答が届いていた。先方の要望に加え、自社として提案したい内容と、そのために確認したい条件が整理されている。
これなら、明日アイリスへ渡せる。
必要なものだけをまとめ、端末を伏せた。
「ほら。あんたが寝てても、皆さん考えてくれるって」
小声で言ってみたが、当然、聞いてはいなかった。
起きてから同じことを言えば、皆さんのお力を疑っているわけではありませんよ、と返されるのだろう。自分が引き受けた方が早い理由も、丁寧に説明してくるはずだ。
それでも今日は、その説明を聞く前に休ませられた。
セセリアは小さく笑い、上着を掴む手へ視線を落とした。緩んだ指の間から布が落ちかけていたので、そっと掛け直す。
ついでに触れた手は温かかった。
つい先日まで、この手が操縦桿を握っていた。実戦用の射撃を受け、こちらには分からない判断を重ねながら戦っていたのだ。
帰ってきた本人は、機体の報告を始めた。怪我はないと答え、こちらの無事を喜び、自分のことは後へ回そうとした。
あの時も、今日も、放っておいたら同じだったのだろう。
「……大丈夫って言うの、少し休んでからにしなよ」
眠る相手へ言っても仕方がない。それでも、口にせずにはいられなかった。
アイリスは何も答えず、ただここにいる。
今は、それでよかった。
セセリアは髪を撫でる手を戻した。窓の外から復旧作業の車両の音が届き、時折、廊下を誰かが通る。それでも、この部屋の中は静かだった。
「もう少し、普通に甘えとけばいいのに」
口にした後で、顔が熱くなった。
聞かれていなくてよかったと思う。その一方で、聞いていてもよかったかもしれないと考え、ますます困った。
セセリアは返事を待つ代わりに、膝へ預けられた重みを受け直した。
目を開けた時、最初に見えたのは、私を見下ろすセセリアの顔だった。
何が起きていたのか思い出すまでに、少し時間がかかった。頭の下には彼女の膝があり、身体には見覚えのある上着が掛かっている。
髪へ触れていた指が止まり、セセリアの口元が緩んだ。
「おはよう、代表代理様」
「……おはようございます」
「よく寝たねぇ。もったいないって言ってたのに」
記憶が戻り、顔が熱くなった。
彼女へ何かをお願いしようとして、その途中から覚えていない。
「私、すぐに眠ってしまいましたか」
「うん。びっくりするくらい」
「失礼いたしました」
「寝かせたんだから、いいけど」
そう言って、彼女は私の額へかかった髪を払った。
起きているのに触れていただけるとは思わず、私は目を伏せた。その様子を見て、セセリアが少し笑う。
「まだ、その顔するんだ」
「どのような顔でしょう」
「他の人には見せられない顔」
「……貴女にしか、見せておりませんよ」
彼女の指が止まった。
見上げると、今度はセセリアが視線を逸らしている。
「起きたばっかりで、それ言えるんだ」
「事実ですので」
「はいはい。そうでしたね」
私は笑いかけ、そこでようやく、長い間この姿勢を取らせてしまったことに気づいた。
「足は、大丈夫ですか?」
「平気。動くなら、ゆっくりね」
支えられながら身体を起こし、ソファへ座り直す。頭を預けていた場所を見ると、それだけで名残惜しくなってしまった。
セセリアは膝を軽くさすり、私へ水を渡してくださった。
「飲んだら、今日はもう仕事しないこと」
「連絡は、何か」
「急ぎはない。営業からは、ちゃんと考えた返事が来たから、明日見て」
「そうですか。ありがとうございます」
「会議の方は、また認識のすり合わせが必要だって来たから、返しといた」
私はカップを持ったまま、彼女を見た。
「どのように?」
「代表代理を起こしてでも、今やる必要があるなら説明してください、って」
「……随分と、強くお伝えになったのですね」
「それまでの返事、読んでもらえてなさそうだったからねぇ」
「もう少し、優しく」
「寝起きでまで、皆さんの心配しなくていいから」
先回りされ、私は苦笑した。
身体は、先ほどより随分と軽い。頭の奥にあった鈍さも薄れ、目を開けていることが楽になっていた。
休む必要があったのだと、休んでから分かる。
「助かりました」
「知ってる」
「膝を貸してくださったことも、嬉しかったです」
「……そっちは、そんな真面目に言わなくていいよ」
彼女は私の手元へ目を落とした。
借りた上着を畳んで返すと、セセリアはそれを隣へ置いた。まだ席を立つつもりはないらしい。
私も、離れたくなかった。
「セセリア」
「何?」
「眠る前に何を申し上げようとしたのか、思い出しました」
「ああ。起きたら何か、って言ってたね」
「はい」
顔が熱くなる。
彼女の様子を見て、聞きたいと思っていらっしゃるか確かめようとしかけた。それから、やめた。
お願いしたいのは、私なのだから。
「休めている時にも、お願いすることはできますか」
セセリアが、こちらを見た。
すぐには返事がなかったので、私は続ける。
「疲れていなければ、今度こそ、もう少し起きていられると思いますので」
「……堪能するつもりなんだ」
「はい」
「そこ、否定しないんだねぇ」
彼女は片手で口元を隠し、顔を逸らした。見えている頬も耳も赤くなっている。
私は返事を待った。
仕事の相談なら、待つことには慣れている。けれど、今は少し落ち着かなかった。断られたら困るというより、彼女の口から、もう一度よいと言っていただきたかった。
「……あたしの予定にも、よるんじゃない?」
「では、先に伺います」
「そういうところだけ、ちゃんと調整するんだ」
セセリアが笑った。
断られなかったことが嬉しくて、私も口元が緩む。あまり隠せていないことは、自分でも分かっていた。
「今度は、寝不足になる前に休んでよ」
「はい」
「わざと仕事増やして、休ませてもらおうとか考えないこと」
「そこまでは、いたしませんよ」
「どうかなぁ。膝貸すって言ったら、急に素直になった人だし」
返す言葉に迷い、私は彼女の肩へそっと頭を寄せた。
セセリアが動きを止める。
「……今度は、そっち?」
「こちらも、よろしければ」
小さく息を吐く音がした。
けれど、肩は退かなかった。むしろ、私が寄りかかりやすいよう、少しだけ姿勢を変えてくださる。
「仕事の話、始めたら退かすからね」
「承知しました」
机の上には、二人の端末が伏せられていた。明日の仕事も、確かに残っている。
それでも、今すぐ手を伸ばそうとは思わなかった。
代わりに、隣へ置かれていたセセリアの手へ指を添える。彼女はこちらを見ずに、その指を緩く握り返した。
何かをして差し上げなくても、こうして隣にいられる。そのことを、今まで何度も教えていただいていたのだと思う。
「……セセリア」
「何?」
「もう少し、このままでいてもよろしいですか」
彼女の手へ、少し力がこもった。
「さっきから、そうしてるでしょ」
「ええ。ですが、お願いしたかったので」
セセリアがこちらを向き、しばらく私を見た。それから、困ったように笑う。
「ほんと、面倒くさい女」
そう言いながら、繋いだ手を引き寄せてくださる。
私はその肩へ頬を寄せ、今度は、何も言わずに目を閉じた。