水星の魔女 ~もう一輪の百合の花~ 作:一般通過クルーゼさん
ミオリネさんの足音が聞こえなくなってから、私は襟元へ指をかけた。
引かれた布を整えるだけのことなのに、何度触れても皺が残っている気がした。扉から目を離せずにいると、隣でセセリアが息を吐いた。
「いやぁ、皆、重たいねぇ」
思わず、指が止まった。
「守るためです、嫌われても構いませんって。大事な相手のことなのに、本人のいないところで、どんどん話が進むんだもん」
「……そうですね」
「珍しいねぇ。アイリスがそんなに感情を出すなんてぇ」
声はいつもと変わらなかった。会議が長引いた時や、私が機体の説明に夢中になった時と同じ、少し呆れた調子だった。
「お見苦しいところを、お見せしました」
「声は静かなままだったけどね。あんなに意地になって言い返すところ、初めて見た」
私は襟元から手を下ろした。彼女の方へ向こうとして、できなかった。
「セセリアには、見られたくありませんでした。私のこんな暗い情念など」
「私は面白かったけどねぇ。白銀のお嬢様から、こんな黒くてドロドロしたものが出てくるなんて」
その言葉に傷ついたのか、普段どおりに扱われて安心したのか、自分でも分からなかった。ただ、口にせずにはいられなかった。
「……軽蔑しましたか?醜いでしょう?」
少しの沈黙があった。顔を上げると、セセリアは眉を寄せて私を見ていた。
「んー。アイリスって、なんで自分自身のことになると、そう卑屈になるかなぁ」
「卑屈なのではありません。今、貴女がご覧になったとおりです」
「見てたよ。でも、ミオリネ社長に嫌なことを言ったって話から、何でアンタ全部の評価を決める話になるわけ?」
「私が、あのようなことを考える人間だと――」
「アイリスほどの人が自虐してるの、凡人に対する嫌味なんですけどぉ」
私は言葉に詰まった。
「能力のお話をしているのでは……」
「うん。でも、仕事で頼りになるアンタも、今そこで困ってるアンタも、同じ人でしょ」
セセリアは机に伏せていた端末を脇へ寄せ、こちらへ向き直った。
「さっきの言い方、ひどかったと思うよ。ミオリネ社長が怒るのも分かる。だからって、今までアンタと一緒にいた時間まで、全部なかったことにはならないんだけど」
否定してほしかったのだと、その時になって気づいた。
醜くなどないと、悪いことはしていないと、彼女に言ってほしかった。ミオリネさんへあれほどのことを言った後で、まだ、私は許されようとしていた。
「私や、アイリスのお父様、それに社員の人たちが好きな人を、否定しないでくれる?」
セセリアの声が、少し低くなった。
「……腹立つんだけど」
「そのようなつもりでは」
「知ってる。でも、あたしたちが好きで一緒にいる相手のこと、本人がそんなふうに言うんだもん。見る目がないって言われてるみたいじゃん」
私は何も返せなかった。
彼女は少し待ってから、隣の椅子を示した。
「とりあえず、座ったら? 襟、もう直ってるよ」
言われて手元を見る。いつの間にか、また制服へ指をかけていた。
私は手を離し、腰を下ろした。
「……私は、自分を正当化するためだけに、ミオリネさんに、あんなことを」
座ってしまうと、先ほどまで保っていた姿勢まで崩れそうだった。膝へ手を置き、彼女を見ずに続けた。
「初めは、忠告のつもりでした。守るために秘密を抱えれば、後から明かすことも難しくなる。それは、私自身が知っていることですから」
「うん」
「ですが、途中からは違いました。彼女だけが私を責める側にいることが、堪らなくなったのです。貴女も同じことをするのだと、認めさせたかった」
言葉にすると、胸の奥にあったものが、いっそう浅ましく思えた。
「彼女が間違っていたとしても、私がしたことは変わりません。それなのに、似ているところを見つけるたび、少しずつ楽になりました」
「だから、あんなに続けたんだ」
「……はい」
セセリアは慰めてはくれなかった。それでも席を立たず、私が次の言葉を探すのを待っていた。
「私は、同じ状況に戻っても会社を守ります。ですが、その選択を責められることには、耐えられなかった」
「自分で決めたけど、悪く思われたくはなかった?」
「ええ。身勝手な話です」
「そうだね」
短い返事が、静かな部屋へ落ちた。
私は膝の上で手を組んだ。このまま私一人の話として置いておくことが、ひどく心許なかった。
「ですが、大切なものを守ろうとすれば、誰であっても、ほかの何かを後回しにするのではありませんか。失いたくない相手のためなら、人は――」
「何?アンタ、自分が人類代表とでも思ってんの?」
言葉が止まった。セセリアは、呆れた目でこちらを見ていた。
「思い上がりも甚だしいよ」
「……そのようなつもりではありません」
「じゃあ、何でアンタのしたことが、そのまま人間全員の話になるわけ?ミオリネ社長にしたことは、アンタがしたことでしょ。あたしもロウジも、お父様も、勝手に一緒にしないでくれる?」
「私だけが、特別に醜いと?」
「ほら、すぐそうなる」
彼女が眉を寄せた。
「特別に立派か、特別に醜いかしかないの?どっちにしても、自分だけ随分と大げさな場所に置くんだねぇ」
私は口を閉じた。
「アンタは何でもできるけどさぁ。ただ、それだけ。何でもできる、ただの人」
人より早く考え、多くの情報を扱い、いくつもの仕事を同時に進められる。その能力を使って父上を助け、会社を守り、社員たちから頼られてきた。
そうして役に立っていれば、ここにいてもよいと思えた。
「会社のことは上手に考えるのに、自分のことになると全然じゃん。腹が立ったら言い返すし、嫌われるのは怖いし。隣にいてほしいくせに、出ていけって言うし」
「……私は」
「ねぇ、アイリス。なんで、そんなに自分が嫌いなの? 自虐もそこまでいくと、怖いんだけど」
静かな問いに、顔を背けた。
「自虐ではありません。したことを認めているだけです」
「そう? 認めてるようで、別の話にしてる気がするんだけど」
組んだ手に力が入った。
セセリアは少し考えてから、言葉を続けた。
「監視してたことは、はっきり答えてた。会社を守る方を選んだとも言った。そこは分かったよ。でも、相手のためだと言って、相手の望みを奪うって話になると、急に皆そうです、人間はそんなものですって」
「それは、人間の性質について――」
「決めてやったのはアイリスでしょ」
強い声ではなかった。それなのに、用意しかけた説明が途切れた。
「何を、そんなに怖がってるの?」
怖がってなど、いません。そう答えればよかった。
けれど、彼女を見ていると、その一言が出てこなかった。沈黙から逃れるように、私は別の言葉を探した。
「愛する相手に、自分の望む姿を求めることは、特別なことではありません。相手のためだと信じ、その意見を退けることも――」
「誰かに、そうされたの?」
息が止まった。
白い部屋と、こちらを見つめる男の顔が浮かんだ。違うと言って髪へ触れる手。笑い方を直されたこと。好きでもないものを、好きだと答えたこと。
「……違います」
「アイリス」
私のこの黒い心が見抜かれているかもしれないと思うと、背筋が冷えた。
私は椅子から立ち上がり、机の縁へ手を置いた。彼女に顔を見られないよう、扉の方を向く。
「……出ていってください」
声を整えたつもりだった。けれど、最後が震えた。
「お願いです。一人に、してください」
今ならまだ、終わりにできる。少し休み、顔を洗い、落ち着いてから呼び戻せばよい。そう思って口元を緩めようとしたが、頬がうまく動かなかった。
「今の私を、貴女に見せたくないのです」
背後で椅子が動いた。
頼んだのは私なのに、彼女が立ち上がった気配だけで胸が冷えた。引き止めたいと思った自分を、また嫌になった。
足音が近づき、扉へは向かわずに止まる。
次の瞬間、背中へそっと温もりが触れた。両脇から回された腕が、私を優しく抱き留める。
「一人にしたくないんだよね、今のアンタ」
「……セセリア」
「話せなくてもいいよ。今は、何も聞かないから」
肩の近くで声がした。
「こっち向かなくてもいい。これなら、顔も見えないでしょ」
その言葉に、張り詰めていた息が漏れた。
離れてほしくなかった。
こんな私を見ても、まだ触れてくれることに、どうしようもなく安堵した。その安堵を覚えることまで身勝手に思えて、目の奥が熱くなる。
出ていってほしいと言いながら、残ってくれた彼女の優しさへ縋っている。自分の都合ばかりだと分かっていても、その腕から離れることができなかった。
「……申し訳、ありません」
「うん。今は、返事もしなくていいから」
彼女の袖を掴むと、涙が落ちた。一度こぼれると止められず、俯いたまま、何度も息を吸い直した。
「少し……落ち着くまで、待っていただけますか」
「いいよ」
返事は、すぐに届いた。
セセリアはそれ以上何も尋ねず、私の呼吸が落ち着くまで、背後から抱いていてくれた。
「……座れる?」
頷くと、彼女はゆっくり腕を解いた。その手が離れることを寂しく思いながら、勧められた椅子へ腰を下ろす。
隣に座ったセセリアが、ハンカチを差し出してくれた。
「ありがとうございます。汚してしまいますが――」
「洗えばいいでしょ。返却方法まで説明しなくていいよ」
私は頷き、目元を押さえた。
少しして顔を上げると、セセリアが柔らかく笑った。
「あーあ。お嬢様のメイク、ぐちゃぐちゃ」
「……それほど、ひどいですか」
「このまま社員の人に見られたら、あたし、何したのか聞かれそう」
「貴女のせいではありません」
彼女は私の頬を指し、そこも、と教えてくれた。
「擦らないでね。もっとひどくなるから」
言われたとおり、そっと押さえる。
まともな顔もできず、仕事の話へ戻ることもできない。それでも彼女は、困った雇い主を眺めるような顔で隣にいた。
こんな私を見ても、微笑んでくれる。
ならば、まだ話せるかもしれなかった。私が自分の生まれについて語っても、今までどおりに接してくれるかもしれない。
そう願いながらも、その答えを先に決めてはいけないと思った。
「……セセリア。聞いていただきたいことが、あります」
彼女の表情が、静かになった。
「無理して、今話さなくてもいいよ」
「はい。ですが、今は、貴女に聞いてほしいのです」
セセリアは私を見つめ、やがて頷いた。
「今の父上が、私を引き取ってくださったことは、ご存じですね」
「実のお父さんの弟さんなんでしょ」
「はい。亡くなった実父は、遺伝子に関わる研究をしていました。私は、その研究によって生まれました」
口に出すと、ひどく事務的な説明だった。自社の技術について話す時と、同じ声になっていた。
「身体も、認識能力も、情報を処理する力も、そうなるように調整されたものです。偶然、優れた能力を持って生まれたわけではありません」
「……へえ」
セセリアは私を見た後、小さく肩をすくめた。
「道理で、普通に張り合っても勝てないわけだ。今までの分、何回か無効にしてくれない?」
「そのようなお話では……」
「うん。続けて」
軽口を挟んでも、彼女の目は逸れなかった。
私は膝に置いたハンカチへ視線を落とし、続きを話した。
「実父には、亡くした妻がいました。病弱な方だったそうです。あの人は、残されていた細胞と自分の研究を使い、その方によく似た、丈夫で、優れた身体を作ろうとした。人工子宮を用いて生まれたのが、私です」
「亡くなった奥さんを、作り直そうとしたんだ」
「……はい」
「でも、似た顔で生まれたからって、同じ人にはならないでしょ」
「ええ。好きなものも、感じることも、私自身のものです。研究者であった実父が、それを理解できなかったはずはありません」
「頭がよくても、認めたくないことは認めない人、いるからねぇ」
その言葉に、指先が僅かに動いた。
私も、先ほどまでそうしていた。
「食事も、服も、弾く曲も、話し方も、笑い方も。あの人の覚えている、その方の姿へ直されました。違うものを好きだと答えると、そんなはずはないと」
「だから、相手の欲しい答えを言うようになったの?」
「ええ。その方が、早く終わりましたから」
実父が求めるものを読み取り、そのとおりに振る舞う。表情や声の変化を見分ける力は、そのためにも役立った。
間違えなければ、怒られずに済んだ。
「一度、実父を、お父さんと呼んだことがあります」
私は頬へ触れかけた手を、膝へ戻した。
「叩かれました。僕は君の父親ではないと。私は、あの人の妻なのだと言われました」
セセリアの顔から、笑みが消えた。
「……自分で生まれるようにしておいて?」
「はい」
「勝手にも程があるんだけど」
私は返事をせず、ハンカチを畳み直した。端が揃わず、もう一度折り直す。
「愛していると答えると、あの人は安心しました。泣きながら抱きしめられたこともあります。もう、どこへも行かないでほしいと」
その時に見えていた肖像画を、今も覚えている。
私とよく似た、私ではない女性だった。
「私は、あの人に愛されたかったのではありません。ただ、怒らせずに済ませたかった。愛していると答えれば優しくなりましたから、怖くなくなるために、その言葉を使いました」
「答えまで用意して、それで満足してたんだ」
セセリアは低く息を吐いた。
「アンタの話、聞く気がなかったんだね」
「……ええ」
それがどれほど嫌だったか、私は知っていた。
知っていたのに、今日、ミオリネさんへ言葉を重ねた。彼女が違うと言うたび、その返事を退け、自分の欲しい答えへ近づけようとした。
私は一度息を整えてから、続きを話した。
「ですが、ずっと従っていたわけではありません。ある夜、私から拒絶しました」
セセリアが顔を上げた。
「……言えたんだ」
「はい。私は、あなたの妻ではない。あの方とは別の人間で、好きなものも違う。あなたを愛していない。怖かったと、伝えました」
実父は、そんなことを言うはずがないと繰り返していた。
あの方なら、私を拒むはずがない。
その言葉を聞き、私はもう一度、自分はあなたの妻ではないと告げた。
「いつものように謝り、望まれる言葉を返すこともできました。ですが、私は、そうしませんでした」
そこまで話して、少し間を置いた。
「……その後、実父は、自ら命を絶ちました」
セセリアは何も言わなかった。
私はハンカチを握り、続きを話せるだけの息を吸った。
「私が拒絶しなければ、死ななかったのかもしれません。そう考えることはあります。ですが、拒まなければよかったとは、思えないのです」
「……うん」
「もう怒鳴られない。叩かれない。あの方を演じなくてもよい。そのことに、安心しました。それから、腹が立ちました」
あの男を生き返らせて、もう一度従いたいと思ったわけではなかった。
ただ、私が何者なのかを決めた人間が、私の答えを受け入れないまま、いなくなったことが許せなかった。
「自分の望むものを作り、そのとおりであることを求め、違うと告げられれば、それを残して死んでしまった。最後まで、私が何を望むかは、聞いてもらえませんでした」
セセリアの手が、膝の上で握られた。
「……それで、今もアンタが、その人のしたことを考え続けてるんだ」
「はい」
私は彼女の手を見つめた。
「そして私は先ほど、ミオリネさんに、似たことをしました」
セセリアはすぐには答えなかった。
私は、彼女が口を開く前に続けた。
「彼女が違うと仰っているのに、私は聞こうとしませんでした。私と同じだと認めるまで、言葉を重ねようとした。彼女のためだと忠告しながら、途中からは、自分が楽になるために傷つけていました」
「……うん」
「貴女へも、何も知らせずに決めました。危険から遠ざけるためだと言って、私が安全だと思う場所へいてほしいと願った。貴女がどう思うのかを、尋ねる前に」
喉の奥が痛んだ。
「私は、自分が嫌悪した男と似たことをしている。それが、耐えられないのです」
セセリアが私を見た。
「……だから、皆そうだって?」
私は頷いた。
「人類すべてがそうなのだと考えれば、私だけが、あの男に近づいたわけではなくなります。愛する相手のためなら、人は誰でもその望みを踏みにじる。そういうものなのだから、仕方がないと」
言い終え、深く息を吐いた。
「自分の醜さを認めているつもりで、認めたくないことから逃げていました。ミオリネさんに同じだと言った時、少し、楽になったのです」
「迷惑な巻き込み方だねぇ」
セセリアが、呆れたように言った。
「自分を納得させるための集まりに、人類全員、勝手に出席させないでよ。呼ばれてもないんだけど」
「……おっしゃるとおりです」
「お父様だって、同じことをするって決めつけられたら、文句くらい言うんじゃない?」
父上の顔が浮かんだ。
私の返事を待ってくださる方。望んだものが予想と違っていても、そうかと頷いてくださる方。
私はその方まで、同じだと言った。
「人は皆そうだと申し上げながら、父上や貴女がそうだとは、思いたくありませんでした」
「ずいぶん便利に使ってるね、人間って言葉」
「はい」
返す言葉はなかった。
セセリアは少し黙ってから、私の顔を覗いた。
「でも、嫌だったって言われるたびに、その人と同じになったかどうかの話になるのは、困るよ」
私は彼女を見た。
「パンドラのことを黙ってたのは嫌だった。今日、追い出そうとされたのも嫌。それを言いたいのに、アンタがその人になっちゃったかどうかを、あたしが答えることになるじゃん」
「……はい」
「文句、言えなくなるでしょ。怖がらせるかもしれないからって、何でも平気なふりをするのは嫌だよ」
私は膝の上へ視線を落とした。
望まれた答えを返してほしくない。けれど、望まない答えが返ってくることは怖い。
その矛盾を、彼女に引き受けさせようとしていた。
「私に、何も言わないでほしいわけではありません」
「だったら、聞いてよ。あたしが何を嫌だったか。それだけで、アンタが何者かまで決めようとしなくていいから」
「……分かりました」
すぐにできるとは、言えなかった。
それでも、彼女の言葉を聞くことはできる。怖くなった時に、その気持ちを隠すため、ほかの誰かを同じ場所へ引き込まずにいられるようになりたいと思った。
「その時には、教えてください。嫌だと仰ったことを、別のお話へ変えないように、気をつけます」
「うん。そうして」
セセリアはそう答え、机の上へ手を置いた。
私はその手を見つめ、少し迷ってから尋ねた。
「……手を、握っても?」
「いいよ」
差し出された指へ触れると、彼女の方からも握り返してくれた。
その温もりに、ようやく肩から力が抜けた。けれど、彼女の顔を見ると、まだ尋ねられずにいることが胸へ残っていた。
「……これで、私がどのように生まれ、育ったのかも、知っていただきました」
「うん」
「能力のことも、実父のことも、今までお話しできませんでした。知ってしまえば、貴女が私を見る目も、変わるのではないかと思って」
セセリアは、私の言葉が終わるのを待ってから、小さく首を傾げた。
「ふーん。それで、あたしがアンタを嫌いになると思ったんだ?」
私はすぐには答えられなかった。繋いだ手へ目を落とすと、彼女が少し身を寄せた。
「仮にアンタの生まれがそうだったとして、あたしとの関係、何か変わる?」
「……私が決められることでは、ありません」
「そうだね。あたしが決めることだね」
セセリアは頷き、私の手を握り直した。
「で、あたしは、変わんないと思ってる」
あまりに簡単に言われて、顔を上げた。
「生まれで悩むのって、そんなに珍しいことでもないでしょ。親ガチャ、なんて言葉もあるくらいだし」
「……その一言で、よいのでしょうか」
「アンタがされたことを、それで済ませるつもりはないよ。腹も立ってる。でも、その人に腹が立つのと、アンタをどう思うかは、別でしょ」
私は彼女を見つめた。
誰かの望みに合わせて作られた身体も、その能力も、それを使って人の望みを読んできたことも。明かしてしまえば、今までどおりには見てもらえないかもしれない。
ずっと恐れていたことに、彼女は迷わず答えた。
「もしかして、そんな生まれだから、あたしに嫌われるー、とか思ったわけぇ?」
「……少しは」
「ひっどいなぁ」
彼女が空いている手で目元を覆った。
「そんなことくらいで、今さら嫌うわけないじゃん。私たち、そこまでの関係だったんだね」
「セセリア、そのような意味では……!」
慌てて身を乗り出すと、指の隙間から、笑っている目が見えた。
「じゃあ、どういう意味?」
からかわれていると分かっても、うまく答えられなかった。
「貴女との関係を、軽く考えていたわけではありません。ただ、知られた後に、何かが変わってしまうことが、怖くて」
「うん。それは、聞いた」
彼女は手を下ろし、柔らかく笑った。
「だから、あたしの答えも聞いてよ。生まれを聞いたくらいで、今までのアンタが消えるわけじゃない。面倒くさいところも、頑固なところも、前から知ってる」
目の奥が、また熱くなった。
何かを言おうとしたが、喉へ引っかかって出てこなかった。ようやく落ち着いたはずなのに、繋いだ手の温かさが、先ほどよりはっきりと分かった。
「……こんな私でも、貴女といても構いませんか?」
尋ねる声が震えた。
セセリアは、不思議そうに瞬きをした。
「え?何か問題ある?」
あまりに普段どおりの返事だった。
「……本当に、よいのですか」
「一緒にいたくなかったら、とっくに出ていってるよ。アンタ、何回も帰れって言ったじゃん」
そう言って、彼女は繋いだ手を軽く持ち上げた。
「あたしがここにいたいって決めたの。何か、文句ある?」
「……ありません」
「よろしい。で、アンタは?」
彼女が私の目を覗いた。
「あたしと、いたいの?」
今度は、答えを探す必要はなかった。
「はい。貴女と、一緒にいたいです」
「ん。じゃ、決まり」
口元を緩めた彼女を見て、涙が頬を伝った。
慌ててハンカチを当てても、次から次へと溢れてしまう。苦しくて泣いていた時とは違うのに、呼吸だけは、同じようにうまく整えられなかった。
「ちょっと。また泣くの?」
「申し訳、ありません……」
「もー、ほんっとに甘えん坊だねぇ」
呆れた声とともに、空いている腕が背中へ回った。
私は少し迷ってから、彼女の肩へ額を寄せた。セセリアは退かずに受け止め、ゆっくり背中を撫でてくれた。
役に立つことを、何もしていない。
声も表情も整えられず、返事すら満足にできない。それでも隣にいてよいのだと思うと、いっそう涙が止まらなくなった。
「……ありがとうございます」
「うん。もう何回も聞いた」
少し笑いを含んだ声が、すぐ近くでした。
控えめなノックが聞こえたのは、ようやく呼吸が落ち着き始めた頃だった。
「セセリア。委員会の仕事のことで、確認が――」
扉を開けたロウジさんが、そこで言葉を止めた。
ハロを抱えたまま、こちらを見ている。
私はセセリアの肩へ寄りかかり、彼女の手を握っていた。顔を上げた時には、泣いた跡も隠せていなかったと思う。
ロウジさんの視線が、私から、背中へ腕を回したセセリアへ移った。
見てはいけないものを見てしまった。
そうとしか読み取れない表情だった。
「……失礼しました」
「ちょっ、ロウジ!!」
セセリアが呼び止めるより早く、扉が静かに閉まった。
私たちは、しばらくその扉を見つめていた。
「あー、ほら、めんどくさくなったー」
「……私から、ご説明を」
「その顔で追いかけたら、もっとややこしくなるでしょ」
立ち上がろうとすると、繋いだ手を軽く引かれた。
「後で、あたしが話すから。今は、顔、何とかして」
「はい。申し訳ありません」
「それも、もう聞いた」
言われて、思わず小さく笑った。
セセリアがこちらを見て、僅かに目を細める。
「何?」
「いえ。いつもどおりに、お話をしてくださるのだなと」
「そんなに毎回、特別扱いしてほしいの?」
「……今は、少し」
正直に答えると、彼女は一瞬だけ言葉を止めた。それから、困ったように笑い、私の背中へ置いていた手を動かす。
「ほんと、今日はよく甘えるねぇ」
ミオリネさんとの間に起きたことは、何も解決していない。彼女へしたことも、言った言葉も、私が泣いたからといって変わらない。
自分が嫌悪したものを、自分の中に見つける怖さも、すぐには消えないのだろう。
それでも今は、私の話を聞いたうえで隣にいる人がいた。何を思うかを私に決めさせず、自分の言葉で答えてくれる人が。
「……もう少しだけ、甘えていても?」
「今さら聞くんだ。それ、ロウジが来る前に聞いてほしかったなぁ」
セセリアはそう言いながら、手を離さなかった。
私はその肩へ、もう一度、そっと額を寄せた。