水星の魔女 ~もう一輪の百合の花~ 作:一般通過クルーゼさん
その日は、仕事を切り上げることになった。
正確には、セセリアが私の予定を確認し、残っていた仕事の引き継ぎと、急ぎの連絡を受ける窓口まで手配してしまったのだ。
「本日の業務は終了です、代表代理様」
「ですが、まだ確認する資料が――」
「明日で大丈夫。今日じゃないと困るものは、担当の人にお願いしたから」
そう言って、彼女は各部門へ一斉に連絡を送った。代表代理は休養に入るため、以後の連絡は秘書を通すようにという、簡潔な内容だった。
程なくして、返信が届き始めた。
承知したという返事に交じり、体調を案じる言葉が並ぶ。医務室への連絡は必要か、迎えを手配するか、代表へ知らせた方がよいか。中には、明日の予定も調整しておくという申し出まであった。
セセリアが画面を眺め、呆れたように笑う。
「少し休みますってだけで、この反応。どれだけ仕事人間だと思われてたのかねぇ」
「急に予定を変えましたから、ご心配をおかけしたのでしょう」
「普段から休んでたら、休暇の連絡で医務室の話は出ないと思うけど?」
私は返す言葉を失った。
彼女は、大事はないことと、明日の予定については改めて連絡する旨を返信した。それを見届けて端末へ手を伸ばすと、先に画面を伏せられる。
「返事のお礼は明日でいいよ。休むって連絡した直後に、本人が働き始めないでくれる?」
「……承知しました」
「よろしい」
セセリアは満足そうに頷き、端末を片づけた。
「さて、と」
そう言って立ち上がった彼女の袖を、私は掴んでいた。
意識してしたことではなかった。椅子が動き、隣の温もりが離れた瞬間に、指が伸びていたのだ。
セセリアが袖へ目を落とす。私も自分の手を見て、慌てて離そうとした。
「申し訳ありません。これは……」
けれど、指が布から離れなかった。
彼女は私の顔を見て、困ったように眉を下げた。
「もー、捨てられる子犬みたいな仕草と顔、やめてよぉ」
「そっ、そんなことは……」
「じゃ、その手は何?」
答えられずにいると、彼女は小さく息を吐いた。
「帰ろうと思っただけ。一人でどこか行こうとしてたわけじゃないよ」
「……はい」
「アンタも連れてくつもりだったんだけど」
その言葉に安堵してしまい、ますます顔を上げづらくなった。
セセリアは少し屈み、私と目を合わせた。
「立てる?」
「ええ。もちろん――」
「じゃ、ちょっと手、離して」
今度こそ袖を放すと、彼女は私の背中へ腕を回した。立ち上がるのを手伝ってくれるのだと思った、その直後、もう片方の腕が膝の裏へ差し込まれる。
「よいしょっと」
身体が椅子から浮いた。
「……せ、セセリア!?」
驚いて、反射的に彼女の肩へしがみついた。横抱きにされていると理解した途端、頬へ熱が集まる。
すぐ近くで、彼女が少し得意そうに笑った。
「思ったとおり、軽いねぇ。食事管理も必要かなぁ」
「食事は、きちんと取っています。それより、下ろしていただけますか。自分で歩けますので……!」
「うん。でも、これなら置いていかれる心配、ないでしょ?」
返事に詰まった。
彼女の腕は背中と膝をしっかり支えていて、怖くはない。ただ、あまりに顔が近く、目を合わせることができなかった。
「近いし、あたしの部屋でいい? お姫様」
「……その呼び方は、おやめください」
「行き先の返事、まだなんだけど」
私は彼女の肩へ置いた手に、少し力を込めた。
「……貴女のお部屋へ、伺いたいです」
「ん。じゃ、決まり」
セセリアは私を抱え直し、扉へ向かった。端末も荷物も、既に彼女の鞄へ収められている。私が仕事へ戻ろうとすることまで、見越していたらしかった。
廊下へ出る前に、彼女が外の様子を確かめる。私は熱くなった顔を隠すように、その肩へ額を寄せた。
「その顔、他の人に見せられないねぇ」
「……誰のせいだと、お思いですか」
「元気出てきたじゃん」
言い返せたことまで喜ばれ、私は口を閉じた。
歩けるのは本当だった。下ろしていただけば、自分の足で彼女の隣を歩ける。それでも、もう一度頼むことはできなかった。
「……重くなったら、仰ってください」
「さっき軽いって言ったでしょ」
「ですが」
「じゃ、着くまでは大人しく運ばれてて。お姫様」
からかう声に、ますます顔が熱くなる。
それでも今度は呼び方へ抗議せず、小さく頷いた。彼女の歩みに揺られながら、私は肩へ回した腕をそっと抱き直した。
セセリアの部屋へ着くと、ようやくソファへ下ろしてもらえた。
彼女は私が腰を落ち着けたことを確かめてから、鞄を机へ置いた。何か手伝おうと立ち上がりかけたが、振り返った彼女に見つかり、座り直すことになった。
「今日のアンタの仕事、休むことなんで」
「何もしないというのも、落ち着かなくて」
「知ってる。だから端末、預かってるんでしょ」
飲み物を用意してくれる間、私は膝の上へ手を置いて待っていた。
いつもなら、空いた時間に確認できることを探していた。けれど今は、彼女が同じ部屋にいることを確かめるだけで、少しずつ身体の力が抜けていった。
差し出されたカップを受け取り、両手で包む。
「……ありがとうございます」
「ん」
隣へ座ったセセリアの袖に、また触れたくなった。
今度は伸ばす前に手を止めたが、その動きまで見られていたらしい。彼女が少しだけ身体を寄せる。
「いるよ。そんなに何回も確かめなくても」
「……はい」
私はカップへ視線を落とした。
知られたくなかったものを話し、受け入れてもらえた。それでも、少し離れるだけで、彼女の答えが変わってしまわないかと怖くなる。
そんな心配をしていることまで知られるのは恥ずかしかったが、彼女は何も問い詰めず、隣で自分の飲み物へ口をつけた。
夕食を終えた後も、私は帰り支度を始められなかった。
時刻を確かめたセセリアが、こちらを見る。
「……今日は、泊まってく?」
私は顔を上げた。
「よろしいのですか」
「帰したら、また同じ顔しそうだし」
「そのようなつもりでは……」
「じゃあ、帰りたい?」
答えるまでに、少しだけ勇気が必要だった。
「……まだ、一緒にいていただきたいです」
セセリアは小さく息を吐いたが、口元は笑っていた。
「着替え、借り物でいい? 自分の部屋まで取りに戻ったら、仕事まで拾ってきそうだから」
「……お借りします」
「よろしい」
それ以上、帰るようには言われなかった。
顔を洗い、借りた寝間着へ着替えて戻ると、セセリアはベッドの端へ腰を下ろしていた。
髪を解いた私を見て、彼女が奥へ寄る。
「ほら、早く寝なよ。明日も予定、あるんだから」
「……はい」
並んで横になると、思っていた以上に距離が近かった。腕を動かせば触れてしまいそうで、どこへ手を置けばよいのか分からない。
仰向けのまま動けずにいると、隣から声がした。
「総裁選が落ち着いたら、ミオリネのお嬢様に、ちゃんと謝りなよ」
私は天井を見つめたまま頷いた。
「はい」
「契約の話を聞いてもらえるかどうかとは別だからね。さっき、わざと傷つけた分」
「……ええ。分かっています」
謝っても、許していただけるとは限らない。それでも、私が何をしたのかを、ほかの誰かの性質へ置き換えずに伝える必要があった。
「あと、明日にはロウジの誤解を解くこと」
「はい」
「あのままだと、あたし、ずっと変な気を遣われるんだけど」
「私から、お話しします」
「説明、長くしないでね。余計なことまで話して、もっとややこしくしないように」
「……気をつけます」
彼女がこちらへ顔を向けたので、私も横を向いた。落とした照明の中に、少し笑っている顔が見える。
「それと、添い寝は今日だけだからね」
「もう一日くらいは……」
「アイリス?」
「はい」
反射的に返事をしてから、口を閉じた。
セセリアが小さく吹き出す。その笑いにつられて、私も少しだけ笑った。
「交渉する元気は、戻ったんだ」
「貴女に関することですので」
「そういうこと言うから、困るんだけど」
彼女は仰向けに戻った。その手が二人の間へ置かれる。
私は少し迷ってから、指先へ触れた。
「手を、繋いでも?」
「もう触ってるじゃん」
「……失礼しました」
「いいよ」
離そうとした指を、彼女が捕まえた。
その手を握ると、ようやく肩から力が抜けた。けれど、目を閉じても、今日の会話が何度も頭の中へ戻ってきた。
まだ、話していないことがある。
出生を明かすことより、その先に自分が何を考えていたかを伝える方が、怖かった。これ以上聞かせれば、今度こそ、その手が離れてしまうかもしれない。
それでも、彼女に知っていてほしいと思った。
「……ねぇ、セセリア。もう一つ、聞いていただいてもよろしいですか?」
「うん?」
「私が、以前、考えていたことについてです」
セセリアが横を向いた。私は繋いだ手を見つめながら、言葉を選んだ。
「私は、人間と社会を憎んでいました」
彼女は口を挟まなかった。続きを待ってくれていると分かり、私は話し始めた。
「身勝手に生み出し、身勝手に愛し、その愛への答えが望んだものと違えば、捨てる。実父がしたことを、人間という生き物の本性だと考えていました」
今日、ミオリネさんへ語った言葉は、その場で生まれたものばかりではなかった。長い間、胸の底へ置いてきたものが、彼女を傷つけるための言葉として出てきたのだ。
「父上は、私を大切にしてくださいました。何を望むかを尋ね、選ぶことを教えてくださった。あの方に救われたことを、疑ったことはありません」
「……うん」
「ですが、それで、人間に対する憎しみまで消えたわけではありませんでした」
父上は違う。
そう考えれば、父上から受け取ったものを大切にしたまま、ほかの人間を憎み続けることができた。
「会社に関わるようになってからも、人の欲や、立場の弱い者へ向けられる身勝手さを見ました。私は、そうしたものばかり、覚えてしまったのだと思います」
「嫌な方ばっかり、残ったんだ」
「ええ。それで、やはり人間とはこういうものだと、納得しようとしていました。戦争シェアリングの仕組みを知った時も、そうです」
争いによって傷つく人がいる。その一方で、兵器が売れ、利益を得る人がいる。
会社を経営する立場になった私は、その利益を受け取る側にいた。
「争いを終わらせるより、続くことで得られる利益を選ぶ方がいる。その争いで大切なものを奪われた方は、相手を憎み、武器を取る。そして、そのための武器を、また私たちが売るのです」
セセリアは黙っていた。
「憎む側にも、売る側にも、それぞれ理由があるのでしょう。ですが、その理由をいくら聞いても、次に傷つく方がいなくなるわけではありません」
私は繋いだ手へ目を落とした。
「他者へ向けるものが、憎しみの目と、引き金を引く指しかない。そんな人間ばかりの世界に見えていました。兵器を売る私自身も、その外にはいないと理解したうえで」
「……皆、そうだと思ってたんだ」
「はい。誰か一人の優しさを信じることはできても、人間という種そのものには、もう期待できなくなっていたのです」
自分に親切にしてくださった方々のことを、忘れていたわけではない。
ただ、その優しさを、人間を信じ直す理由にはしなかった。そうすれば、実父から始まった憎しみを抱えたままでいられた。
「その頃、私は、あることを企てていました」
「何を?」
「私を生み出した、遺伝子編集技術の公開です」
セセリアの目が、僅かに細くなった。
「研究の成果として、発表するってこと?」
「それだけではありません。再現に必要な情報まで、広く渡すことを考えていました。受け取る相手も、使う目的も、選ばずに」
計画を組み立てていた頃は、どの情報を含めればよいか、どのように配れば回収を防げるか、そうしたことばかり考えていた。
今は、それを口にするために、息を整えなければならなかった。
「技術そのものに、罪があるとは思っていません。生まれつきの病気を避け、丈夫な身体を得られる。認識や学習の能力を高められる可能性もあります。多くの方の望みを叶えるために使える、価値のある研究です」
「でも、それを役立てたかっただけじゃないんだ」
「はい」
私は彼女の顔を見て、続きを話した。
「これが人類の発展へ繋がるのなら、世界は、まだ捨てたものではない。そう思うこともできるでしょう。ですが、実父と同じことを考える人間も、現れるかもしれません」
亡くした相手に似た子供を作る人。優れた能力を期待し、そのために生まれたのだと教える人。
生まれてきた本人の望みよりも、費やした金や、与えた能力を優先する人。
「私のような子供が、ほかにも生まれるかもしれません。能力の差が、人の価値を決める理由にされるかもしれない。技術を使える人と使えない人の間に、新たな分断も生まれるでしょう」
セセリアは黙って聞いていた。
「やがて、調整されて生まれた人と、自然に生まれた人とで争うようになるかもしれません。今の地球と宇宙のように、生まれた場所や、生まれ方を理由にして」
記憶にある、あの世界のように。
与えられた能力を誇り、あるいは恐れ、互いの存在を許せなくなる。相手から受けた仕打ちを、次の誰かを傷つける理由にして、憎しみの連鎖がこの世界でも廻り始める。
私は、その可能性を危険として理解しながら、同時に、そこへ至る人間を見ようとしていた。
「人間が、また身勝手な願いで誰かを生み、傷つけ、その違いを憎むのであれば……」
一度、言葉を切った。
「自ら育てた闇に喰われ、滅びてしまえと。そう、本気で思っていました」
言い終えても、彼女の手は離れなかった。
その温もりに甘えて話を曖昧にしないよう、私は続きを告げた。
「そのために、憎しみとともに基本設計を作り上げたのが、パンドラです」
セセリアの視線が止まった。
「……あの、自慢してた機体?」
「はい」
格納庫で、彼女とロウジさんへ説明した時のことを思い出した。
お見せしたかったのは本当だ。形になった機体を誇らしく思い、興味を持っていただけたことが嬉しかった。その気持ちまで、偽りだったわけではない。
ただ、作り始めた理由については話さなかった。
「本来は頭部に、地球圏の通信網へ侵入し、遺伝子編集技術の資料を無差別に送信するためのシステムを搭載する予定でした。一度広がれば、誰かが封印しようとしても、すべてを回収することはできない。その状態を作ろうとしていたのです。MSとすることで、自主防衛も自主移動もできる傍迷惑な機体として」
「……名前も、そのつもりで?」
「ええ」
私は頷いた。
「昔の神話に、神々によって作られ、人間の世界へ送られた、パンドラという女性が登場します。彼女のもとには、決して開けてはならないとされる容器がありました。
ですが、パンドラは中に何があるのかを知りたくなり、その蓋を開けてしまいます。すると、それまで閉じ込められていた病や苦しみ、さまざまな災いが外へ飛び出し、人々の間へ広がってしまった。
慌てて蓋を閉じたものの、災いは既に世界へ出てしまっていた。そして、容器の底には、希望だけが残っていたと伝えられています」
自分が何をしようとしていたのかを考えながら、私は続けた。
「一度放てば、元へは戻せない。機体の名を決めた時には、その部分が、自分の計画にふさわしいと思いました」
「それで、パンドラ」
「はい」
セセリアは少し考えるように黙り、それから眉を寄せた。
「でも、格納庫では、長い正式名称を説明してたよね。頭文字を取ったんだって」
「Prototype AI-assisted Network for Distributed Remote-armaments。人工知能支援分散遠隔兵装ネットワーク試験機です。主要な語の頭文字から、P-ANDRと」
「それ。そっちが先じゃなかったんだ」
「……名前を先に決めました。正式名称は、遠隔兵装の仕組みに合わせて、後から整えたものです」
「ずいぶん手の込んだ後付けだねぇ」
「研究員の皆さんには、そちらの意味で説明しています」
彼女は繋いだ手へ一度目を落とし、再び私を見た。
「名前だけじゃ、そんなつもりで作り始めたなんて、分かんないもんね」
「はい。分からないようにしていました」
私は小さく息を吐いた。
「絶望をばらまいてやろうと思っていました。私だけが、人の身勝手さに苦しめられて終わるのは嫌だったのです」
口にすると、胸の奥が冷えた。
「ですが、その一方で、人間はそれだけではないはずだとも、思っていました。父上のような方がいる。あの技術を使い、誰かを幸せにできる方もいるかもしれない。そうであってほしいという気持ちまで、なくなっていたわけではありません」
「……期待もしてたんだ」
「ええ。それを認めるのは、嫌でしたが」
人間など、その程度のものだ。
そう言い切るための準備を進めながら、そうではないところも見せてほしかった。
「滅びてしまえばよいと思いながら、そうならないことも期待する。絶望をばらまく機体に、希望の残る神話の名をつける。ずいぶんと、捻くれた子供でした」
セセリアはしばらく私を見つめていた。
「その希望を確かめるために、ほかの人まで危ない目に遭わせようとしてたんでしょ」
「……はい」
「生まれてくる子供には、何も選べないじゃん。アンタが人間を嫌ってたことも、技術を渡した理由も、知らないままだよ」
「そのとおりです」
「捻くれてた、だけじゃ済まないね」
私は頷いた。
実父にされたことを憎みながら、まだ生まれてもいない誰かを、自分の憎しみのために使おうとしていた。
「責められれば、人類がそのように使ったのだと答えるつもりだったのでしょうね。私は技術を渡しただけだと。選んだのは、使った人間だと」
声が小さくなった。
「それで、私自身が何を望んで渡したのかを、問われずに済むと思っていました」
セセリアは長く息を吐いた。
「……ほんと、重たいねぇ」
彼女は少しの間、私の顔を見ていた。それから、確かめるように尋ねた。
「今、そのシステムは?」
「搭載していません。あの目的で使うことを、やめました」
「どうして?」
私は彼女の目を見た。
「貴女がいたからです」
セセリアが、僅かに瞬きをした。
「貴女と一緒にいる時間が、楽しみになりました。仕事が終われば会いたい。面白いものがあれば、お見せしたい。作っている機体の話を、聞いていただきたい。そうしたことを、考えるようになったのです」
「最後のは、結構聞かされてるね」
「……ええ。いつも、ありがとうございます」
少し緩んだ彼女の口元を見て、私も息をつくことができた。
「パンドラの設計を進めながら、貴女へ何から説明しようかと考えるようになりました。完成したら、真っ先に見てほしいと」
以前は、機体の完成を思うたび、世界へ何を放つかを考えていた。
いつからか、その場所に、機体を見上げる彼女の姿があった。
「貴女と、次の休みに何をするかを話している時、不意に思ったのです。私が起こそうとしていることで、この約束まで失われるかもしれないと」
それまでも、父上と会社は守りたいと思っていた。
それなのに、技術を公開した後の混乱にさえ、自分なら備えられると考えようとしていた。会社を残し、必要なものを用意すれば、父上たちは守れるのだと。
「争いは、私が選んだ相手だけを避けて通ってはくれません。どれほど備えても、貴女が歩く道も、暮らす場所も、笑って話せる時間も、私が保証することはできない」
明日も学校へ行き、仕事をし、誰かと会う。
私が計画を実行すれば失われるかもしれないものを、そうした日々の中に見つけるようになった。
「私の憎しみを確かめるために、貴女が生きる世界を試すことは、できなくなりました」
そこで一度、言葉を切った。
ただ、失いたくなくなっただけではない。貴女を守るためだと言うだけでは、まだ伝えきれていなかった。
「それに……私自身も、その先を見たくなったのです」
「その先?」
「作ったものを貴女に見ていただいて、次は何を作ろうかと考える。仕事を終えて、一緒に食事をする。そうした日々が、明日も続いてほしくなりました」
繋いだ手を、そっと握り直した。
「こんな世界ですが、こんな私ですが……それでも、生きてみたいと、そう思えたのです」
セセリアは、しばらく何も言わなかった。それから、私の指へ自分の指を絡める。
「……そっか」
「はい」
「じゃあ、なおさら、ちゃんと休まないとね。明日も生きる予定なんでしょ、代表代理様」
少し遅れて、その言い方に笑いが漏れた。
「ええ。そのつもりです」
「あと、またこんな私って言ってる」
「……気をつけます」
彼女も少しだけ笑ったが、やがて真面目な顔に戻った。
「やめた理由に、あたしがいるのは分かった。でも、あたしが止め続けなきゃいけないのは、困るよ」
「……はい」
「喧嘩もするだろうし、ずっと隣にいられるわけでもないんだから。そのたびに、アイリス、大丈夫かなって考えたくない」
私は繋いだ手を見つめた。
貴女がいたから。
それは本当だった。けれど、その先まで彼女へ預けてはいけなかった。
「貴女に気づかせていただきました。ですが、やめると決めたのは私です。その責任まで、貴女に負っていただくつもりはありません」
顔を上げ、彼女の目を見た。
「技術を、誰かの役に立てる道は、あると思っています。ですが、人が破滅するかどうかを試すためには、使いません」
セセリアは私の顔を確かめるように見た後、ゆっくりと頷いた。
「うん。それならいい」
その返事を聞いて、ようやく息を吐いた。
「それに、箱を開けようとした哀れな子供は、ちゃんと希望に気づけましたから」
セセリアが、少しだけ目を細めた。
「また、自分のことを大げさに言う」
「今のも、駄目でしょうか」
「子供だったのは分かったよ。今は、あたしと一緒に学校行って、仕事してる人でしょ」
「……はい」
「あたしがいる世界だから大事にするっていうのも分かるけど、アンタも住んでるんだからね」
父上の研究室。社員の皆さんが働く場所。ブリオン寮の格納庫。
そして、今、横になっているこのベッドも。
私が憎んでいた世界の中にあった。
「自分だけ外から眺めてるみたいに話さないでよ。明日のご飯も、作りたい機体も、なくなったら困るでしょ」
「……ええ。困りますね」
「だったら、自分の分も大事にしなよ」
私は頷いた。
彼女はその返事を見届けると、少しだけ口元を緩めた。
「まあ、あたしのこと、ずいぶん大事に思ってるのは分かったけど?」
「それは、否定しません」
「そこは即答なんだ」
困ったような声に、私も笑えた。
安心すると、今度は少しだけ、困らせてみたい気持ちが浮かんできた。繋いだ手を胸元へ引き寄せ、彼女を見つめる。
「ですが、貴女がいなくなってしまったら、もう一度、箱を開けてしまうかも……」
「重いって、勘弁してぇ」
即座に返され、私は思わず笑った。
セセリアは呆れた顔でこちらを見ていたが、手は離さなかった。
「今、それ、冗談に聞こえにくいんだけど?」
「……申し訳ありません。冗談です」
「だったら、箱の見張りを頼むみたいな甘え方、やめてくれる? あたし、寝る時まで勤務したくないんで」
「はい」
「さっき話したばっかりでしょ」
「……ただ、明日も一緒にいてほしいと、申し上げたかったのです」
彼女は一度目を伏せ、もう一度私を見た。
「最初から、そう言えばいいじゃん」
「明日も、一緒にいていただけますか?」
「授業も委員会もあるから、一日中は無理だよ」
「お仕事の後で、構いません」
「ん。じゃ、ご飯でも食べよ」
それだけの約束が、嬉しかった。
私は頷き、握っていた手の力を少し緩めた。
「パンドラって名前、変えようとは思わなかったの?」
セセリアに尋ねられ、私は少し考えた。
「思ったことはあります。ですが、今は、この名のままでよいと思っています」
「どうして?」
「何をするつもりで作り始めたのかを、忘れたくありません。それに、今のパンドラを作った理由は、もう、それだけではありませんから」
学園であの機体を動かした時、頭部から世界へ放とうとしていたものを、思い出すことはなかった。
避難する人たちを見て、その先へ銃口を向けさせないよう、射線を組み直した。セセリアから無事だと返事が届いた時には、ようやく息を吐けた。
憎しみとともに引いた基本設計を、研究員の皆さんと何度も見直し、使える機体へ作り上げた。
何をさせるかも、私が選び直していた。
「……そっか」
セセリアは小さく頷いた。
「じゃあ、次に見せる時も、ちゃんと自慢できるものにしなよ」
「はい」
「説明は短めでね。正式名称、もう一回最初から聞くのはいいから」
「覚えてくださっていたのですね」
「後付けだったって話の方は、忘れないと思う」
私は苦笑した。彼女も笑い、繋いだ手を二人の間へ戻す。
「もう、今日は寝よう。聞く方も、結構疲れるんだからね」
「申し訳ありません。遅くまで」
「謝る代わりに、明日ちゃんと起きて。あと、ロウジのこと、忘れないように」
「はい」
返事をして目を閉じかけたところで、セセリアの指が私の手からほどけた。
思わず目を開けると、彼女はこちらへ向き直っていた。
「……ほら。まだ、そんな顔する」
「いえ、今のは――」
言い終える前に、彼女の腕が背中へ回った。そっと引き寄せられ、私は横向きになったまま、彼女の胸元へ額を寄せることになった。
近さに驚いて顔を上げると、すぐ上にセセリアの顔があった。
その頬も、耳まで赤くなっていた。
「……セセリア?」
「何?」
「貴女も、お顔が……」
「アンタに言われたくないんだけど」
いつものように返されたが、視線は少し逸れていた。背中を支える手も、一度迷うように動いてから、落ち着く場所を見つける。
私まで恥ずかしくなり、顔を伏せた。けれど、そうすると、いっそう彼女へ近づいてしまう。
「……ここで、よろしいのですか」
「抱き寄せたの、あたしでしょ」
「ですが」
「今日は特別。もう、それでいいから」
少し早口の返事が届いた。
私は頷き、彼女の寝間着へそっと手を添えた。肩を縮めて遠慮していると、背中を撫でられる。
「変なところに力、入ってるよ」
「……緊張してしまって」
「あたしだって、慣れてないんだけど」
小さな声で言われ、胸の奥が温かくなった。
私だけが戸惑っているのではなかった。彼女も照れながら、それでも、こうして抱き寄せてくれたのだ。
「苦しくは、ありませんか」
「平気。アンタは?」
「……落ち着きます」
「そっか」
彼女の声が、少し柔らかくなった。
私は熱い顔を隠すように、その胸元へそっと埋めた。近くで呼吸の音がする。背中へ添えられた手が、ゆっくりと動いていた。
「……ありがとうございます」
「それも、明日また聞くから。今は寝て」
「はい」
彼女の腕の中で、目を閉じた。
明日になれば、向き合わなければならないことがある。ミオリネさんへ伝えるべき言葉も、まだ考えなければならなかった。
けれど今は、明日の夕食を約束した人が隣にいる。
その人が自分の意思で私を抱いてくれていることを、今夜は、疑わずに受け取りたかった。
背中を撫でる手に合わせて、少しずつ呼吸が落ち着いていく。寝間着へ添えていた指から力が抜けても、彼女の腕は離れなかった。
その温かさに包まれながら、私はいつの間にか眠っていた。
当初案では、セセリアストッパーが無く、高笑いで世界にぶちまける予定でした。
愛、愛ですよ、ナナチ。