水星の魔女 ~もう一輪の百合の花~ 作:一般通過クルーゼさん
人間とは、実に不思議な生き物である。
合理性を重んじ、利益を追求し、損失を避けようとする。それでいて、ときには驚くほど非合理的な選択をするのだから、いくら観察していても飽きることがない。
自らの立場を危うくしてまで他人を助けようとする者がいれば、勝算の乏しい勝負にあえて挑む者もいる。本人にとっては譲れない理由があるのだろうが、傍から見れば愚かとしか思えない行動が、思いもよらない結果を生むこともある。
今回の審問会は、まさにその好例だった。
ミオリネ・レンブランが会場へ乗り込んできたとき、居並ぶ企業代表者たちの間には明らかな動揺が走った。ベネリットグループ総裁の一人娘が、父親の決定へ異議を唱えるために現れたのだから当然だろう。
しかも、彼女はただ感情に任せて抗議したわけではなかった。
エアリアルの廃棄を撤回させるため、ミオリネが持ち出したのは、アスティカシア高等専門学園の決闘制度だったのである。
学園において、決闘は単なる学生同士の競争ではない。勝敗によってホルダーの地位が移動し、ときには企業間の利害さえ左右される。
実に馬鹿馬鹿しい制度だと思うが、それを作り上げたのがデリング・レンブラン自身である以上、娘の提案を頭ごなしに否定するのも難しい。
ミオリネは、父親が作ったルールを利用して、父親の決定を覆そうとしたのだ。
もっとも、決闘で勝利したからといって、エアリアルがガンダムではなくなるわけではない。技術的な疑惑と決闘の勝敗には、本来何の関係もないのである。
しかし、ベネリットグループという組織において、必ずしも技術的な正しさが最優先されるわけではない。今回の審問会を見ていれば、その程度のことは嫌でも理解できるだろう。
そして、再決闘の相手として指名されたのが、先日ホルダーの座を失ったグエル・ジェタークだった。
ジェターク社にとっても、今回の提案は無視できないものだったはずだ。無敗を誇っていた御曹司が編入したばかりの少女に敗れ、しかも相手の機体にはガンダムの疑惑がある。再決闘で勝利すれば失墜した評価を取り戻せるが、拒否すれば、疑惑の機体を恐れて逃げたと受け取られかねない。
ヴィム・ジェタークとしては、受け入れざるを得なかったのだろう。
かくして、エアリアルの存続を賭けた再決闘が決定した。
その結論を聞きながら、私は思わず微笑んでしまった。
まったく、予定調和というものは、実際に目の当たりにすると何とも奇妙な気分になる。
ミオリネはスレッタを助けるために行動し、デリングは娘の要求を認めた。結果としてエアリアルは廃棄を免れ、再びグエルとの決闘へ臨むことになったわけだが、その一連の流れは私が記憶している物語とおおむね一致していた。
ただし、今後も同じ展開が続くとは限らない。
私が知っているのは、あくまでも別の世界で描かれた物語である。この世界には私が存在し、コズミック・シードという企業があり、父上が開発した技術も存在している。
私自身が積極的に何かを変えようとしなくても、そうした違いが積み重なれば、いずれは私の知らない結果が生まれるかもしれない。
だからこそ、自分の知識を過信するつもりはなかった。
審問会の終了が告げられ、企業代表者たちが席を立ち始める。私も端末を閉じて必要な資料をまとめると、周囲の様子を確認してから立ち上がった。
「さて、これでひとまずお仕事は終わりですね」
コズミック・シードとしては、特に問題のない結果だった。エアリアルが即座に廃棄される事態は避けられたし、我が社が余計な責任を負わされることもなかった。父上への報告は必要だが、それも帰りの移動中に済ませれば十分だろう。
ならば、これ以上ここに留まる理由はない。
早く帰って、セセリアの顔でも見に行こう。
そう考えて会場を出ようとしたところで、背後から声をかけられた。
「アイリス」
振り返ると、シャディク・ゼネリがこちらへ歩いてくるところだった。相変わらず人当たりのよい笑みを浮かべているが、その視線には、審問会が始まる前とは少し異なる色がある。
「シャディク先輩。お疲れ様でした」
「君もね。少し、話せるかな?」
「ええ、もちろんです。何かございましたか?」
私が足を止めると、シャディクは隣へ並び、会場から出てくる企業関係者たちに軽く会釈をした。彼らが通り過ぎるのを待ってから、こちらへ顔を向ける。
「単刀直入に聞くけど、君は今回の展開を予想していたのかい?」
「おや。随分と唐突ですね」
「そうでもないさ。君は先日の決闘映像に並々ならぬ興味を示していたし、今日も審問会の途中で、まるで何かが起こると分かっていたような発言をしていたからね」
なるほど。どうやら、先ほどの私の言葉が気になっていたらしい。
確かに、少々不用意だったかもしれない。ミオリネが会場へやって来ることを知っていたからこそ、あんなことを口にしてしまったのだが、第三者から見れば不自然に映ったとしてもおかしくない。
もっとも、だからといって素直に事情を説明するわけにもいかない。
「ふふ。偶然ですよ」
「偶然?」
「ええ。まさか、総裁のご令嬢が審問会へ乗り込んでくるなんて、私に分かるはずがないでしょう?」
「そうかな。君は随分と楽しそうだったけど」
「それはもちろん。あの場でデリング総裁に正面から異議を唱える方など、そうそうお目にかかれませんから」
私はにこりと微笑んだ。嘘は言っていない。実際、ミオリネの行動は見ていて実に愉快だった。知っていた展開であっても、現実に目の前で起これば、また違った面白さがある。
シャディクはしばらく私を見つめていたが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
「君は本当に、食えない人だね」
「まあ。私は食用ではありませんよ?」
「そういう意味じゃないんだけど」
「ふふ。存じております」
わざとらしく答えると、彼は苦笑しながら壁に軽く背を預けた。
「それじゃあ、もう一つ。君はエアリアルの再決闘をどう見ている?」
「非常に興味深い展開だと思いますよ。少なくとも、あの機体が即座に廃棄される事態は避けられましたから」
「コズミック・シードとしても、その方が都合がいい?」
「技術的には、そうですね。父上も喜ぶでしょうし、私ももう少し詳しく調べてみたいと思っています」
「それだけかな?」
「おや、そんなに信用ありませんか?」
「それだけ、君の考えが気になるということさ」
なかなか熱心なことである。
グラスレー社の御曹司として、コズミック・シードの動向を把握しておきたいのだろう。父上が開発している独自技術と、突然現れたガンダム。その双方に関心を持つ企業が、何を考えているのか。警戒するのも無理はない。
ただし、今回に限って言えば、私が積極的に動くつもりは本当にないのだ。
「ご安心ください。我が社は今回の件へ積極的に介入する予定はありません。エアリアルの処遇は、あくまでも当事者の皆様がお決めになることですから」
「……本当かな?」
「ええ。少なくとも、今のところは」
「今のところ、ね」
シャディクは、その言葉を確かめるように繰り返した。もちろん、将来まで約束するつもりはない。状況が変われば判断も変わる。それは企業経営に限らず、あらゆる選択において当然のことだろう。
彼もそれ以上追及することはなく、代わりに話題を変えた。
「ところで、君はこれからどうするんだい? 会社に戻るのかな」
「いえ、セセリアのところへ帰ります」
即答すると、シャディクは一瞬だけ言葉に詰まった。
「君、本当にセセリアが好きなんだね」
「ええ。大好きですよ」
「はは、そこまで迷いなく答えられると、こっちが驚くよ」
「好きな方を好きだと申し上げるのに、迷う理由がありませんので」
そう言って微笑むと、彼は何とも言えない顔をした後、小さく肩をすくめた。
「まあ、君らしいね。セセリアも大変そうだ」
「おや。私ほど素直で愛情深い友人など、そうそういないと思いますが」
「そこは否定しないよ。ただ、君の愛情を受け止める側にも、いろいろ苦労がありそうだなってね」
「ふふ。セセリアなら、きっと大丈夫ですよ」
「その自信はどこから来るんだろうね」
シャディクが苦笑する。私としては至極当然のことを申し上げているつもりなのだが、どうにも理解していただけないらしい。
まあ、構わない。セセリアの可愛らしさは、私が一番よく知っていればよいのだから。
「それでは、私は失礼いたしますね」
「ああ。また学園で」
軽く会釈して歩き出すと、背後から再び声がかかった。
「アイリス」
「はい?」
「君の言う偶然が、これからも続くといいね」
振り返った先で、シャディクは穏やかに微笑んでいた。しかし、その言葉には、単なる世間話以上の意味が込められているようにも思える。
私が本当に偶然で動いているのか。それとも、何かを知ったうえで行動しているのか。彼はまだ、判断を保留しているのだろう。
「ええ。私も、そう願っております」
今度こそ彼に背を向け、廊下を歩き始めた。
偶然が続くといい。その願いについては、私も同感だった。少なくとも、今はまだ。
ブリオン寮へ戻る頃には、すっかり夜になっていた。
審問会そのものは予定どおりに始まったものの、ミオリネの乱入によって議論が長引き、終了後にもいくつかの事務的な確認が必要になった。おかげで、学園へ戻る頃には夕食の時間も過ぎてしまっている。
父上への報告は、帰りの移動中に済ませておいた。
エアリアルの再決闘が決まったと伝えたところ、父上は予想どおり大喜びしていた。どうやら、再決闘で得られる戦闘データに期待しているらしい。ついでに我が社の試作機との模擬戦についても話を持ち出されたが、そちらは丁重にお断りしておいた。
まったく、あの方は研究以外のことになると、驚くほど聞き分けがよいのに。
私は端末をしまい、人気の少なくなった寮の廊下を歩いた。
セセリアは、もう夕食を済ませただろうか。明日も授業があるのだから、あまり遅くまで邪魔をするのはよくない。それでも、せめて顔くらいは見ておきたいと思う。
審問会での出来事を話せば、きっと面白がってくれるだろう。
そんなことを考えながら、慣れた足取りで彼女の部屋へ向かい、扉の前で立ち止まった。
認証パネルに手を伸ばし、いつものように登録済みの認証情報を入力する。ところが、返ってきたのは聞き慣れない警告音だった。
『認証失敗』
「……おや?」
首を傾げ、もう一度試してみる。しかし、結果は同じだった。どうやら、認証情報が変更されているらしい。
私は端末を取り出して登録状況を確認し、ほどなくして原因に思い至った。
なるほど。セセリアが部屋の認証設定を変更したのだろう。
思い当たる理由なら、いくつもある。
例えば、今日の昼間。私が彼女のクローゼットからスーツを取り出した際、セセリアは随分と驚いていた。合鍵の用途についても、なかなか熱心なご指導をいただいた記憶がある。
つまり、これは私に対する抗議なのかもしれない。
「……ふむ」
私はしばらく扉を眺めた。
しかし、ここで一つの疑問が生じる。
もし、セセリアが何者かに脅されて認証情報を変更したのだとしたら。あるいは、室内で倒れており、助けを求めることもできない状態だったとしたら。
もちろん、そんな可能性が極めて低いことくらいは分かっている。だが、可能性がゼロではない以上、確認する必要があるのではないだろうか。
そう。これは緊急事態である。私には大義がある。
私は自分の結論に満足して頷くと、端末を操作して認証システムの仕様を確認した。学園内で広く使われている規格であり、以前から構造は把握している。
通常の利用者が触れる必要のない領域へアクセスし、認証処理に少々手を加える。
数秒後、パネルの表示が切り替わった。
『認証成功』
「ふふ。これで一安心ですね」
扉が開く。
もちろん、連絡を入れてから訪ねるという方法もあるにはある。しかし、今回は緊急事態なのだ。多少の手順の省略は、やむを得ないだろう。
「ただいま戻りました」
そう言って部屋へ入ると、ソファに腰掛けていたセセリアと目が合った。
彼女は部屋着姿で、片手には端末、テーブルには飲みかけの飲み物が置かれている。特に怪我をしている様子もなく、体調が悪そうにも見えない。
どうやら、無事らしい。
「セセリア。ご無事でしたか」
返事はなかった。
代わりに、彼女は私の顔と開いた扉を交互に見つめ、それからゆっくりと目を細めた。
「……アイリス」
「はい?」
「何で、入ってこれたわけ?」
「扉を開けましたので」
「……へえ。入室権限、変えたはずなんだけどなぁ」
「ええ。存じております」
「……は?」
「ですから、少々認証システムを弄りまして」
セセリアはしばらく私を見つめ、それから手元の端末へ視線を落とした。どうやら、私の言葉の意味を理解するのに少し時間が必要だったらしい。
「……ちょっと待って。あんた、もしかしてハッキングした?」
「ええ。認証情報が突然変更されていたものですから、何かあったのではないかと心配になりまして」
「なるほどねぇ」
セセリアは感心したように頷いた。
「それで、心配だからって人の部屋のセキュリティを突破してきたわけだ。いやぁ、さすがコズミック・シードの代表代理様。発想が違うねぇ」
「ふふ。お褒めにあずかり光栄です」
「褒めてないんだけど?」
半眼でこちらを見つめるセセリアに、私はにこりと微笑み返した。
「ですが、ご無事で何よりです。少々心配してしまいましたので」
「心配してくれるのはありがたいけどさぁ、普通は連絡するんじゃない?」
「……ああ」
私は納得して頷いた。
「確かに、その方法がありましたね」
「あんた、今の本気で言ってる?」
「ふふ。どうでしょう?」
「はいはい。どうせ分かっててやったんでしょ」
セセリアは呆れたように笑い、手元の端末をテーブルへ置いた。
「まったく、認証を変えた意味がないじゃん。あんたのためにわざわざ変更したっていうのに」
「まあ。私のために?」
「そういう意味じゃないからね?」
「ふふ。残念です」
私は笑いながら彼女の隣へ腰掛けた。セセリアは特に追い払おうともせず、代わりに私の顔を覗き込んでくる。
「で、どうだった? 審問会。随分と遅かったみたいだけど」
「ええ。少々長引いてしまいまして」
「へえ。あの総裁相手じゃ、そう簡単には終わんないか」
「ふふ。なかなか興味深いお話が聞けましたよ」
私はそう答えながら、テーブルに置かれたカップへ視線を向けた。セセリアはそれに気付くと、何も言わずに食器棚を指さす。
「いつものところ。勝手に淹れてきなよ」
「ありがとうございます。さすがセセリア、私の考えていることはお見通しですね」
「そりゃ、ね」
あっさりと返された言葉に、私は思わず笑みを深くした。
こういうところが、好きなのだ。
セセリアは私が何を考えているのか、驚くほどよく分かっている。私が何かを頼むより先に察してくれることもあれば、わざと気付かないふりをしてからかってくることもある。
その距離感が、何とも心地よかった。
私は立ち上がり、慣れた手つきで食器棚からカップを取り出すと、紅茶を淹れて彼女の隣へ戻った。
「それで、審問会はどうなったわけ?」
「エアリアルの再決闘が決まりました。対戦相手は、グエル先輩です」
「……へえ。また、ジェターク社も懲りないねぇ」
セセリアは少しだけ眉を上げたが、すぐに面白そうな笑みを浮かべた。
「いやぁ、あの人も大変だねぇ。水星ちゃんに負けたと思ったら、もう一回ガンダム疑惑の機体と再戦だなんて」
「ふふ。ジェターク社としては、名誉挽回の機会でもありますから」
「まあねぇ。あの親父さんなら、黙って引き下がるわけないか」
彼女は紅茶を一口飲み、少し考えるように視線を落とした。
「それにしても、エアリアルが残ったってことは、あのお嬢様が何かやったんでしょ?」
「おや。よくお分かりですね」
「だって、黙って見てるわけないじゃん。水星ちゃんのこと、随分気に入ってるみたいだし」
私は感心してしまった。
セセリアは、決して他人に無関心なわけではない。むしろ、周囲の人間をよく観察している。普段は面倒くさそうに振る舞っているが、その実、人間関係の機微にはなかなか鋭いのだ。
「ご明察です。ミオリネさんが審問会へ乗り込んでこられまして、デリング総裁へ直接交渉を持ちかけたのですよ」
「へえ」
セセリアは楽しそうに笑った。
「それはまた、派手にやったねぇ。あの総裁の前でそんなことできるの、あのお嬢様くらいじゃない?」
「ええ。私も少々驚きました」
「嘘くさぁい。あんた、絶対楽しんでたでしょ」
「ふふ。否定はいたしません」
私が微笑むと、セセリアは呆れたように肩をすくめた。
「ほんっと、性格悪いよねぇ」
「まあ。セセリアに言われてしまいました」
「何それ。あたしが性格悪いみたいじゃん」
「ふふ。そんなことは申し上げておりませんよ?」
「はいはい。そういうことにしといてあげる」
私たちは顔を見合わせて笑った。
このような会話をしていると、審問会で感じていた緊張も、企業代表者たちとの腹の探り合いも、すべて遠い出来事のように思えてくる。
コズミック・シードの代表代理として過ごす時間は、決して嫌いではない。むしろ、私は自分の仕事に誇りを持っているし、父上が研究へ専念できる環境を守ることにも大きなやりがいを感じている。
それでも、こうしてセセリアの隣に座っているときだけは、企業のことも、ベネリットグループの思惑も、ひとまず脇へ置いておけるのだ。
「それで、アイリスはどっちが勝つと思ってるわけ?」
セセリアが何気なく尋ねてきた。
私はカップを置き、少しだけ首を傾げる。
「そうですね。では、今度は賭けてみましょうか」
「……あー、そう来たかぁ」
セセリアは苦笑しながらソファの背もたれへ身体を預けた。
「私は何も聞いてないよー。コズミック・シードのお嬢様が、非合法賭博に関与するなんて」
「ふふ。では、そう言うことで」
「いや、止めなさいよ」
「わかりきったチャンスを逃すのは、経営者としてちょっと抵抗があるので」
「グエル先輩かわいそー。腹黒お嬢様におもちゃにされて」
随分な言われようである。
彼女はからかうように笑いながら、手元の端末で予定を確認した。
「あっ、次の休みどうするの?今のところ空いてるけど」
「まあ、本当ですか。どこでデートしましょうか?」
「……デート?」
「ええ。そうですよ?」
「……いや、まあ、二人で出掛けるんだから、そう言えなくもないけどさぁ」
セセリアは視線を逸らし、少しだけ頬を掻いた。普段ならすぐに皮肉の一つでも返してくるところだが、どうやら今回は言葉が見つからないらしい。
私はそんな彼女を眺めながら、自然と笑みを深くした。
「楽しみにしておりますね。セセリアと二人で過ごせるのですから、きっと素敵な休日になると思います」
「……あんたってさぁ」
「はい?」
「ほんっと、そういうこと平気で言うよね」
「おや。何かおかしなことを申し上げましたか?」
「……別に」
彼女は小さく息を吐き、端末へ視線を戻した。
「まあ、あたしも楽しみにしとくよ」
その声がいつもより少しだけ小さかったことには、気付かないふりをしておいた。
ふふ。実に可愛らしい。
私は端末を開き、次の休日の予定を登録する。セセリアと出掛ける。ただそれだけの予定だが、今の私にとっては、審問会で下された決定よりも、エアリアルの次の戦闘よりも、ずっと楽しみな出来事だった。
企業経営の観点から見れば、何の利益も生まない時間なのかもしれない。しかし、人間の幸福を利益だけで測ることなど、できるはずもないのだ。
「そういえば、あんたの着替えなんだけど」
しばらく他愛のない話を続けていると、セセリアがふと思い出したように口を開いた。
「はい?」
「まだ、あたしのクローゼットに入ってるんだよねぇ。そろそろ持って帰ってくんない?」
「まあ。どうしてでしょう?」
「いやぁ、どうしても何も、普通に邪魔なんだけど」
セセリアは面倒くさそうに笑いながら、私の方へ視線を向けた。
「今日だって、あたしの知らない間にスーツが増えてたし。あんた、いつからここを自分の部屋だと思ってたわけ?」
「ふふ。セセリアのお部屋であることは、もちろん存じておりますよ。ただ、こちらに着替えを置いておくと何かと便利ですので」
「便利ねぇ。まあ、あんたにとってはそうだろうけどさ」
彼女は呆れたように肩をすくめた。
「そのうち、あたしの服よりあんたの服の方が多くなってそうで怖いんだけど」
「それは大変ですね。では、私の部屋にもセセリアの着替えを置きませんか?」
「……へえ?」
セセリアは少しだけ眉を上げ、それから面白そうに笑った。
「ふふ。お互いの部屋に着替えがあれば、いつでも気軽に行き来できますから。合理的な提案だと思うのですが」
「いやぁ、あんたの合理性って、ほんっと都合よくできてるよねぇ」
「まあ。お褒めいただき光栄です」
「褒めてないって」
そう言いながらも、セセリアは楽しそうだった。
私たちは昔から、こんな調子で会話をしている。私が少々無茶な提案をすれば、彼女は呆れたように皮肉を返し、それでも完全には突き放さない。彼女が本当に嫌がっていることと、単にからかっているだけのことくらいは、長い付き合いの中で自然と分かるようになっていた。
もちろん、先ほどの認証システムの件については、少々やりすぎてしまったと思う。あれは私の方が悪かった。
しかし、着替えを置くことについては、まだ交渉の余地がありそうだ。
「では、今度の休みはセセリアのお洋服を選びに行きましょうか。私の部屋に置いていただくものを、一緒に探すのも楽しそうです」
「……あんた、ほんっと諦めないねぇ」
「ふふ。セセリアと一緒に過ごす時間が増えるのであれば、多少の努力は惜しみませんよ」
「……あー、もう」
セセリアは小さく笑い、困ったように視線を逸らした。
「そういう言い方、ずるいんだって」
「おや。そうでしょうか?」
「そうだよ。あんた、昔からそういうところ変わんないよねぇ」
何気なく口にされたその言葉に、私は少しだけ目を細めた。
昔から。
確かに、私たちは長い付き合いだ。今では互いの癖も、好みも、機嫌の良し悪しも、ある程度は分かるようになった。セセリアの部屋でこうしてくつろぐことも、特別な出来事ではなくなっている。
けれど、彼女と出会う前の私は、今とはまるで違っていた。
誰かの顔色を窺い、望まれる言葉だけを口にして、自分の意見をできるだけ表に出さないようにしていた。何かを望むことさえ、いつの間にか慎重になっていたのだ。
父上は、そんな私を救い出してくれた。
私を一人の人間として扱い、好きなことを学ばせ、やりたいことを選ばせてくれた。あの方がいなければ、私は今ここにいなかっただろう。
それでも、自由を与えられたからといって、すぐに自由に生きられるようになるわけではない。自分が何を望んでいるのか。それを口にしてもよいのか。誰かと意見が違っても、嫌われずにいられるのか。
そんな当たり前のことを、私は少しずつ学んでいく必要があった。そして、その時間を一緒に過ごしてくれた人がいる。
「アイリス?」
セセリアの声に、私は我に返った。
「はい?」
「何、ぼーっとしてんの?」
「いえ。少々、昔のことを思い出しておりました」
「へえ。何? あたしとの思い出?」
「ええ。初めてお会いした頃のことを」
「あー、懐かしいねぇ」
セセリアは面白そうに笑った。その表情を見ていると、私まで当時のことを思い出してしまう。
「初対面から、本当に失礼な方でしたね?」
「えっ、まだ根に持ってんの?」
「もちろんです。あのときのことは、一生忘れないと思いますよ」
「うわ、しつこ」
「ふふ。お互い様でしょう?」
「はいはい。そういうことにしといてあげる」
セセリアが声を上げて笑い、私もつられて笑った。
彼女は、私の過去を知らない。私がどのように生まれ、どんな思いを抱えていたのか。今でも、何を考え、何を隠しているのか。それらを、私は話したことがない。
そして彼女も、無理に聞き出そうとはしなかった。
ただ、私が冗談を言えば呆れ、からかえば怒り、ときには遠慮なく言い返してくる。私が何者であるかなど関係なく、目の前にいる私を、当たり前のように相手にしてくれた。
その何気ない日々が、どれほど私を救ってくれたことか。彼女はこれっぽっちも知らないのだろう。
「……セセリア」
「ん?」
「ありがとうございます」
思わず口にすると、セセリアは目を瞬かせた。
「……は? 急に何?」
「いえ。何となく、お礼を申し上げたくなりまして」
「何それ。変なの」
彼女は首を傾げたが、それ以上は追及してこなかった。代わりに、少しだけ照れくさそうに笑う。
「まあ、どういたしまして?」
「ふふ。はい」
私は、その笑顔を見つめた。
ああ、本当に。彼女と出会えて、よかった。
私が今の人生を好きだと思える理由は、決して一つではない。父上がいて、研究があって、会社があって、学園で過ごす日々がある。そして、その日々の中には、いつも彼女がいた。
それだけで、十分だった。
結局、その夜も私はセセリアの部屋で長い時間を過ごすことになった。
審問会の資料を整理し、父上から届いた研究データに目を通し、エアリアルの再決闘について考える。その隣では、セセリアが端末を操作しながら、ときおり私へ話しかけてきた。
学園内で広がっている噂や、決闘委員会の仕事についての愚痴。明日の授業の話から、休日に食べに行く料理の話まで、話題は次から次へと移り変わっていく。
私たちは特別なことをしているわけではなかった。それぞれ好きなことをして、気が向けば話しかけ、面白いことがあれば笑う。ただ、それだけの時間だ。
けれど、不思議と退屈しない。
私が端末に表示された数値を眺めていると、セセリアが横から覗き込んできた。
「……ねえ、それ何?」
「父上から送られてきた研究データですよ。新しい制御系の検証結果です」
「うわ、数字ばっか。よくそんなの見てられるねぇ」
「ふふ。慣れると楽しいものですよ」
「絶対分かんないわ、その感覚」
「では、今度ゆっくりご説明しましょうか?」
「遠慮しとく」
即答である。
私は笑いながら端末を閉じた。
そろそろ時間も遅い。明日の授業に差し支える前に、自室へ戻るべきだろう。そう考えて立ち上がろうとしたところで、セセリアが口を開いた。
「……ねえ、アイリス」
「はい?」
「あんた、今日も泊まってく気?」
私は動きを止めた。
「……よろしいのですか?」
「聞いてるの、こっちなんだけど」
「ふふ。セセリアが望むのであれば、喜んで」
「いや、だから……」
「では、お言葉に甘えて」
「まだ許可してない!」
思わず笑ってしまうと、セセリアは呆れたように眉をひそめた。
「ほんっと、あんたって……。今日も勝手に入ってきたし、着替えまで置いてるし。あたしの部屋を何だと思ってんの?」
「大切な方のお部屋ですよ」
「……そういうことじゃなくて」
「それに、居心地がよいものですから。つい長居してしまいます」
私は素直に答えた。
もちろん、彼女が嫌だと言うのなら帰るつもりだった。自分の気持ちを押しつけてまで、ここに居座りたいわけではない。
だが、セセリアはしばらく私を見つめた後、何かを諦めたように大きく息を吐いた。
「……一泊だけだからね」
「よろしいのですか?」
「いいよ。どうせ今から追い出しても、また来るんでしょ?」
「ふふ。さすがセセリア。私のことをよく分かっていらっしゃいますね」
「褒めてない!」
「ありがとうございます」
「……はいはい」
彼女は呆れたように笑い、ソファの背もたれへ身体を預けた。私はその隣へ、ほんの少しだけ寄り添う。肩が触れそうな距離に、セセリアは一度だけこちらを見たが、何も言わなかった。
私は、その沈黙に甘えることにした。
ふと、今日の審問会を思い出す。
ミオリネ・レンブランは、スレッタ・マーキュリーを助けるために、ベネリットグループの総裁へ真っ向から立ち向かった。企業経営の常識からすれば、あまりにも危うい選択だ。
それでも、彼女は行動した。
そして私は今、ただ好きな人の隣にいたいという理由で、帰宅する予定を変更している。
規模も、意味も、背負っているものも、まるで違う。けれど、その根底にあるものは、案外似ているのかもしれない。
人間は合理性を求めながら、合理性だけでは説明できないものを大切にする。誰かと一緒にいたいと思うこと。笑顔を見たいと願うこと。その人のためなら、多少の面倒も苦にならないと感じること。そして、ときには、その願いのために大きな代償を支払うことさえ選んでしまう。
私は、そういう人間の在り方を愚かだと思う。
思うけれど。
隣にいるセセリアへ視線を向けると、彼女はちょうど端末を置いたところだった。私の視線に気付いたらしく、怪訝そうに眉をひそめる。
「……何?」
「いえ。今日も可愛らしいなと思いまして」
「……あーもう! あんた、ほんっとそればっか!」
「おや。褒め言葉はいくら申し上げてもよいと思うのですが」
「限度ってものがあるでしょ!」
セセリアが手近なクッションを投げてきた。
私はその軌道を目で追い、難なく受け止める。昼間にも似たようなことがあった気がするが、どうやら彼女は私へクッションを投げるのがお好きらしい。
「ふふ。ありがとうございます。こちらもお借りしますね」
「だから貸してないって!」
笑いながらクッションを抱えると、セセリアもとうとう堪えきれなくなったのか、小さく吹き出した。その笑顔を見て、私も笑う。
まったく、人間という生き物は、本当に面白い。
愛するがゆえに道を踏み外し、誰かを傷つけ、ときには取り返しのつかない過ちを犯す。それでも同じ愛情が、誰かを救い、生きる理由を与えることもある。
私は、その両方を知っている。そして、どちらも自分とは無関係だなどとは、到底言えなかった。
私は、自分の人生を愛している。
父上がいて、セセリアがいて、好きな研究に打ち込むことができる。明日もまた、こうして他愛のない会話を交わせるかもしれない。そんな日常を、何よりも大切に思っている。
だからこそ、私はきっと、これからも愚かな選択をするのだろう。
それでも構わない。
少なくとも今夜は、難しいことを考えるより、隣にいる彼女と笑っていたかった。
「……ねえ、アイリス」
「はい?」
「明日、ちゃんと起きてよね。あんた、泊まると朝までダラダラしてるんだから」
「ふふ。では、セセリアが起こしてくださいませんか?」
「何であたしが?」
「新婚夫婦の予行演習ということで」
「まだその話引っ張る!?」
「もちろんです。私としては、将来を見据えた重要な提案ですので」
「はいはい。寝言は寝てから言いなよ」
「まあ。では、眠るまで待っていただけますか?」
「もう黙って!」
彼女の声に、私は声を上げて笑った。
セセリアも呆れたように笑いながら、私の抱えるクッションを取り返そうと手を伸ばしてくる。私はそれを素直に返し、代わりに彼女の隣へもう少しだけ身体を寄せた。
今度は、追い払われなかった。それが嬉しくて、私はまた笑ってしまう。
合理性など、どこにもない。けれど、これ以上に幸福な時間を、私は知らなかった。
やはり私は、人間という生き物が好きなのだ。
その愚かさも、身勝手さも、どうしようもないほど非合理的なところも。
そして何より、そんな人間の一人として生きている、今の自分自身が。