水星の魔女 ~もう一輪の百合の花~ 作:一般通過クルーゼさん
セセリア・ドートは、いつもより少し早く目を覚ました。
アスティカシア高等専門学園の居住区には、人工の朝日が差し込み始めている。カーテンの隙間から漏れる柔らかな光が、見慣れた家具を淡く照らしていた。
休日ではないものの、決闘委員会の仕事が始まるまでは、まだ時間がある。もう少し眠っていても差し支えないだろう。
そう考えて寝返りを打ったセセリアは、すぐ隣に銀白色の髪を見つけた。
「…………」
アイリスだった。
昨夜、結局そのまま泊まっていった親友である。
今まで何度も帰るように言ったはずなのに、気づけばこうして同じベッドで眠っている。しかも、当の本人は何の遠慮もなく、気持ちよさそうに寝息を立てていた。
まったく、図々しいにもほどがある。
もっとも、最終的に泊まることを許したのは自分なのだから、あまり強くは言えないのだけれど。
「……ほんっと」
セセリアは小さく息を吐き、隣で眠る少女へ目を向けた。
さらりと流れる銀白色の髪。長い睫毛に縁取られた瞼と、すっと通った鼻筋。薄く色づいた唇は静かに閉じられ、普段のように余計なことを喋る気配もない。
こうして眠っている姿だけを見れば、誰もが息を呑むほど美しい少女だった。
いや、起きていても美しいことに変わりはない。
むしろ、起きているときの方が、その美しさは際立つかもしれない。
アイリス・シード。ベネリットグループ所属企業、コズミック・シードの代表代理。
アスティカシア高等専門学園の経営戦略科に在籍する、才色兼備の令嬢。
その立ち居振る舞いは洗練され、誰に対しても礼儀正しく、決して取り乱すことがない。柔らかな微笑みを絶やさず、相手の立場を尊重しながらも、必要な場面では自分の意見を明確に述べる。
教師からの評価は高く、学園内には男女を問わず彼女を慕う生徒がいる。企業経営においても、その若さを侮る者は少なくなかったが、実際に交渉の席につけば、彼女の能力を認めざるを得なくなる。
完璧な令嬢。
その評価は、決して大袈裟ではなかった。
セセリア自身、アイリスが人前で失態を演じるところなど、ほとんど見たことがない。
どれほど不愉快な相手であっても、表情を変えずに応対する。どれほど無礼な言葉を投げかけられても、穏やかな笑みを崩さない。相手の意図を理解し、必要な言葉を選び、会話を自分の望む方向へ導いていく。
その姿は、昔から変わらなかった。
ただし。
セセリアは、隣で眠る少女を眺めながら口元を緩めた。
自分の前では、少しだけ違う。
もちろん、アイリスはセセリアに対しても丁寧に話す。幼い頃から身についた礼儀作法は、今さら変えようがないのだろう。
けれど、言葉の選び方が違った。
人前では決して口にしないような皮肉を言うこともあれば、わざと意地の悪い冗談を仕掛けてくることもある。時折、何とも子供っぽい表情を見せることさえあった。
それを知っている人間は、決して多くない。
少なくとも、セセリアの知る限りでは、自分と彼女の養父くらいのものだろう。
「……お人形さん、ねぇ」
セセリアは、懐かしい言葉を呟いた。
初めて出会った頃のアイリスは、本当に人形のようだった。綺麗で、礼儀正しく、誰に対しても優しい。
そして、何を考えているのか、まるで分からない。
あの頃のセセリアには、それがひどく気に入らなかった。
だから、からかった。
皮肉を言い、意地の悪い質問を重ね、どうにかして綺麗な笑顔の下に隠れているものを見ようとした。
今にして思えば、随分と子供じみたことをしたものだ。
もっとも、後悔はしていない。あの頃のアイリスが、困り果てた末に見せた顔。
それを思い出すだけで、今でも少し笑ってしまう。
「…………」
セセリアは、そっと手を伸ばした。
頬にかかった銀白色の髪を払ってやると、指先が柔らかな肌に触れる。
思っていたよりも温かい。
当たり前のことなのに、妙に意識してしまった。しばらくその寝顔を眺めてから、セセリアは小さく呟いた。
「……黙ってれば、ほんっと綺麗なんだけどねぇ」
すると。
アイリスの頬が、ほんの少しだけ赤くなった。
「…………」
セセリアは目を細めた。
呼吸は穏やかで、瞼も閉じたまま。いかにも気持ちよさそうに眠っているが、よく見れば耳までうっすら赤くなっている。
……起きてるじゃん。
セセリアの口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。
「……アイリス」
呼びかけても、返事はない。
「ねえ、聞こえてる?」
「……すぅ……」
わざとらしい寝息が返ってきた。
セセリアは、静かに枕を手に取った。
「起きないなら、もう一回褒めてあげようか?」
「…………」
「それとも、昨日の不法侵入の話をしようか」
アイリスの眉が、わずかに動いた。
「……おはようございます、セセリア」
「おはよ。よく眠れた?」
「ええ。大変快適でした」
「そりゃよかった。で、いつから起きてたわけ?」
「……つい先ほどです」
「ふうん。寝ながら照れるなんて、器用なことするんだねぇ」
「…………」
アイリスは視線を逸らした。
その反応を見て、セセリアは小さく笑った。
「何その顔。いつもはあんなに余裕ぶってるのに」
「……不意打ちは卑怯です」
「寝たふりして聞いてた人に言われてもねぇ」
アイリスは、返す言葉を失ったらしい。セセリアは満足げに微笑んだ。
こういうところは、昔から変わらない。
いくら賢くなっても、どれほど立派な肩書きを持つようになっても、時折こうして簡単に素顔を見せる。
そして、その顔を知っている人間は、決して多くない。
「……さて」
セセリアは身体を起こし、ベッドの上に座り直した。
「昨日のこと、まだ話が終わってないんだけど」
「…………」
アイリスは、ゆっくりと布団を引き上げた。
「……もう少し眠ってもよろしいでしょうか」
「駄目。逃げないの」
セセリアは、布団の端を掴んで引き下ろした。
朝の柔らかな光の中で、アイリスは何とも困った顔をしていた。
それが少し面白くて、セセリアはまた笑った。
朝から散々な目に遭ってしまった。
私は乱れた髪を整え、ベッドの上で正座していた。目の前には腕を組んだセセリアが座っており、どうやら昨日の一件について正式な事情聴取が行われるらしい。
「……で、何か言うことは?」
「今日も可愛らしいですね」
「それはどうも。で?」
軽く受け流されてしまった。どうやら、今回は簡単に話題を逸らせそうにない。
「……昨日は、申し訳ありませんでした」
「うん。何が悪かったと思う?」
「入室権限の変更に気づいた時点で、まず連絡を取るべきでした」
「そうだねぇ」
「あるいは、室内のシステムへアクセスして、遠隔から安否を確認する方法も――」
「それ、もっと怒られるやつだけど?」
「……失礼しました」
セセリアは呆れたように息を吐いた。
しかし、すぐに笑みを消し、私をまっすぐに見つめてきた。
「ねえ、アイリス。あたしが合鍵を渡した理由、分かってる?」
「……緊急時に備えるため、でしょうか」
「それもあるけどさ」
彼女は少しだけ目を細めた。
「あんたなら、勝手なことはしないと思ってたからなんだけど」
その言葉に、私は口を閉じた。セセリアは、私を信用してくれていた。だからこそ、権限を渡してくれたのだ。
私は、その信頼を自分の都合で軽んじてしまった。
「……申し訳ありません」
今度は、きちんと頭を下げた。
「セセリアの信頼を裏切るつもりはありませんでした。ですが、結果として、そのような行動を取ってしまいました」
「……ん」
「今後、許可なく認証システムへ介入することはいたしません。約束いたします」
セセリアは、しばらく私を見つめていた。やがて、やたら満足そうに頷く。
「なら、いいよ」
「ありがとうございます」
「ただし、しばらく合鍵はお預けね」
「……それは、寂しいですね」
「自業自得でしょ」
「では、毎日ノックいたします」
「毎日は来るんだ……」
「もちろんです。セセリアにお会いできない日が続くと、仕事の効率が低下してしまいますので。会社存続の危機です」
彼女は一瞬だけ黙り、それから呆れたように笑った。
「ほんっと、あんたって面倒くさい女だよねぇ」
「ふふ。よく存じております」
「自覚あるなら、もうちょっと何とかしなよ」
「努力はいたします」
「期待しないでおく」
そう言いながらも、彼女の口元には笑みが残っていた。
まったく。
朝から厳しい方である。
身支度を整えた後、私たちは朝食を取ることにした。
セセリアが端末でメニューを眺めながら、こちらへ問いかけてくる。
「で、何食べたい?」
「そうですね。今日は、甘いものがいいです」
「じゃあ、フレンチトースト?」
「ええ。ぜひ」
「……ふうん」
彼女が、少しだけ意外そうな顔をした。
「どうかなさいました?」
「いや。昔は、そういうこと全然言わなかったなって」
「……昔?」
「そう。何食べたいって聞いても、どこ行きたいって聞いても、全部『セセリアのお好きな方で』だったじゃん」
私は、目を瞬かせた。そして、思わず笑みを零した。
「……懐かしいですね」
「でしょ?」
「ええ。そういえば、昔はセセリアのことが苦手でした」
「今もでしょ?」
「いいえ。今は随分と慣れました」
「……それ、褒めてる?」
「もちろんです」
セセリアは、胡散臭そうにこちらを見つめた。私は、何食わぬ顔で紅茶を口に運ぶ。
あの頃の私は、彼女と会話をするたびに頭を悩ませていた。何を言っても、期待した反応が返ってこない。
どれほど丁寧に答えても、彼女は満足しない。
むしろ、こちらが困れば困るほど、楽しそうに笑うのである。今でこそ、そんな彼女の振る舞いを好ましく思える。
けれど、幼い頃の私にとっては、まったく理解できない相手だった。
あれは、まだ父上に引き取られて間もない頃。
私が、他人との付き合い方をよく理解していなかった頃のことだ。
初めてセセリア・ドートと出会ったのは、企業関係者が集まるパーティーの席だった。
煌びやかな照明に照らされた会場では、上等な衣服を身につけた大人たちが、笑顔で言葉を交わしていた。
私は父上の傍らで、いつものように微笑んでいた。
誰かに褒められれば、礼を述べる。話しかけられれば、丁寧に答える。相手の望む言葉を選び、期待されている表情を作る。
これが、私にとっての普通だった。そして私は、それが容易にできるだけの性能を持っていた。
相手が何を望んでいるのかを考え、その期待に応える。余計なことは言わず、求められた役割を果たす。
そうしていれば、誰も不機嫌にはならない。
少なくとも、私はそう信じていた。
『まあ、可愛らしいお嬢さんね』
『ありがとうございます』
『本当にお人形さんみたい。お父様も自慢でしょう?』
『恐れ入ります。父も、そのように思ってくださっているのであれば嬉しいです』
女性は満足そうに笑い、私の頭を軽く撫でてから去っていった。
私は、その背中を見送りながら微笑みを保っていた。
何の問題もない。
相手は喜んでいたし、私も失礼なことは言わなかった。これで正解だったはずだ。
そう思っていたところへ、不意に声がかかった。
『……へえ。すごいねぇ、あんた』
振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
白い髪に褐色の肌。少し眠たげな目をしているのに、こちらを見つめる視線には妙な鋭さがあった。
彼女は手にした飲み物を一口飲み、それから私の顔を眺めて笑った。
『今の、何点くらいだった?』
『……はい?』
『さっきのおばさんとの会話。あんた、すっごく上手に答えてたじゃん』
『……ありがとうございます?』
『あはっ』
何が面白いのだろう。
私は少し戸惑いながらも、穏やかな笑みを浮かべた。
『失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?』
『セセリア・ドート。あんたは?』
『アイリス・シードと申します。お会いできて光栄です、セセリア様』
『……様?』
少女は一瞬だけ目を丸くし、それから可笑しそうに笑った。
『何それ。あたし、そんな偉そうに見える?』
『いえ。そのようなつもりでは……』
『じゃあ、普通に呼べばいいじゃん。アイリス』
『……承知しました。セセリア』
『うん。そっちの方がいいね』
彼女は満足そうに頷いた。私は少しだけ安堵した。どうやら、相手の希望に沿うことができたらしい。
しかし、その考えはすぐに覆されることになった。
『それにしても、あんたって変わってるねぇ』
『そうでしょうか?』
『うん。さっきからずっと笑ってるじゃん。顔、疲れないの?』
『ご心配には及びません。楽しく過ごしておりますので』
『へえ。何が楽しいの?』
『皆様とお話しできることは、大変勉強になります』
『ふーん。さっきのおばさんの話も?』
『ええ。もちろんです』
『何の話してたっけ?』
『……それは』
私は、先ほどの会話を思い返した。
容姿を褒められたこと。父上の話をされたこと。そして、私が礼を述べたこと。
それ以外に、特筆すべき内容はなかった。
『……皆様と交流を深めることには、意義があると思います』
『へえ。上手に逃げるんだねぇ』
『……はい?』
『いや、何でもない。あんた、ほんっと器用だなって』
彼女は楽しそうに笑っていた。私は困惑した。何がそんなに面白いのだろう。
私の返答は、決して間違っていないはずだ。
相手を否定せず、長所を見つけ、好意的な言葉を返した。それなのに、彼女は私の答えを聞くたびに笑うのである。
『……何か、おかしなことを申し上げましたか?』
『ううん。すっごく上手だったよ』
『……ありがとうございます』
『でもさぁ』
セセリアは、にやりと笑った。
『中身、空っぽだねぇ』
『…………』
私は、思わず目を瞬かせた。
『……はい?』
『だって、あんたが何考えてるか、全然分かんないんだもん。こっちが何言っても、繕われた喜びそうな答えが返ってくるだけ』
彼女は私を上から下まで眺めた。
『見た目も綺麗だし、喋り方も丁寧だし、笑顔も完璧。ほんっと、よくできたお人形みたい』
『……それは』
『でも、お人形ってさ。何聞いても、自分のことは教えてくれないじゃん?』
私は、返す言葉を見つけられなかった。
人形。
その言葉自体は、何度も聞いたことがある。
大人たちは私を褒めるとき、決まってそう言った。美しく、礼儀正しく、手のかからない少女。
私は、その評価を好意的に受け取るべきだと思っていた。
しかし、目の前の少女は違った。彼女は、私が人形のようだと笑っている。それも、明らかに褒めているわけではない。
では、何と答えるべきなのだろう。
謙遜すればよいのか。否定すればよいのか。それとも、彼女の観察眼を褒めるべきなのか。
どれも違う気がした。
私は、目の前の少女が何を望んでいるのか、まるで理解できなかった。
『……私は、人形ではありません』
気づけば、そう答えていた。セセリアは少しだけ目を丸くした。
そして、嬉しそうに笑った。
『へえ。そうなんだ?』
『……ええ』
『じゃあ、あんた自身の言葉で話してみなよ』
『私は、いつも自分の言葉でお話ししております』
『ほんとかなぁ?』
『……何が仰りたいのですか?』
『ちょっと怒った?』
『……怒ってなどおりません』
『そっかぁ。じゃあ、今のも営業用の笑顔ってこと?』
『…………』
私は、言葉に詰まった。どう答えても、彼女は納得しない。
丁寧に答えれば皮肉を言われ、否定すれば面白がられる。黙っていても、こちらの反応を楽しそうに観察している。
これまで出会った人間の中に、こんな相手はいなかった。
どうして、この少女は、私が望ましい答えを返そうとしていることを理解しないのだろう。
いや。
理解した上で、わざと困らせているのかもしれない。そう考えた瞬間、胸の奥に小さな苛立ちが生まれた。
『……何なのですか、貴女は』
思わず、言葉が零れた。しまったと思った。それは、相手に好かれるために選んだ言葉ではなかった。
ただ、純粋に理解できなかったのだ。目の前の少女が、何を望んでいるのか。
どうして私に、こんなにも意地悪な質問を繰り返すのか。そして、どうしてそれほど楽しそうに笑っているのか。
セセリアは、しばらく私を見つめていた。
それから、今までで一番楽しそうに笑った。
『へぇ、あんた、そういう顔もするんだ』
『何でしょう?』
『さっきまでより、ずっといいじゃん』
『……いい、ですか?』
『うん。やっとあんたと話してる気がした』
私は、彼女の言葉を理解できなかった。先ほどまでの会話も、確かに私自身が行っていたものだ。それなのに、彼女は今になって、ようやく私と話している気がしたと言う。
意味が分からない。
私は、困惑を隠せないまま彼女を見つめていた。すると、セセリアは満足したのか、軽く手を振った。
『じゃ、またね。アイリス』
『……え?』
『何? まだ話したい?』
『い、いえ。そのようなことは……引き留めてしまい申し訳ありません』
『そっかぁ。じゃあ、また今度ね』
そう言って、彼女はあっさりと去っていった。私は、その背中を呆然と見送った。結局、彼女が何を望んでいたのか、最後まで分からなかった。
ただ一つだけ、確かなことがある。
私は、その日初めて、他人との会話で相手の意図が読み取れなかった。この身体の性能をもってしても。
それで終わりなら、よかったのかもしれない。
しかし、セセリア・ドートという少女は、私が思っていた以上にしつこい人間だった。
次に顔を合わせたのは、それから数日後のことだった。
父上に連れられて訪れた企業関係者の集まりで、私は再び彼女の姿を見つけた。
いや、正確には、向こうが私を見つけたのである。
『あ、いたいた。お人形さん』
『…………』
私は、笑顔を浮かべた。
『ごきげんよう、セセリア』
『今日も完璧だねぇ』
『ありがとうございます』
『褒めてないって、前も言わなかった?』
『……そうでしたね』
私は、微笑みを保った。今度こそ、彼女の皮肉に振り回されるつもりはなかった。相手が何を言っても、冷静に対応する。
そのように決めていたのである。
『ねえ、アイリス。今日のパーティー、楽しい?』
『ええ。皆様と交流できる貴重な機会ですので』
『へえ。じゃあ、あたしがいても楽しいんだ?』
『……もちろん、セセリアとお話しできることも嬉しく思っております』
『ふうん。じゃあ、あたしが帰ったら寂しい?』
『……ええ。残念に思います』
『ほんと?』
『もちろんです』
『じゃあ、あたしがずっとここにいたら?』
『……それは、大変嬉しく思います』
『へえ。あたしがずっと喋ってても?』
『……ええ』
『あんたが困り果てるまで?』
『…………』
私は、言葉に詰まった。セセリアは楽しそうに笑った。
『なに?もう困った?』
『……そのようなことはありません』
『ほんとかなぁ?』
『……ええ』
『じゃあ、明日も会いに来てあげようか?』
『……お気遣いなく』
『あれ? さっきは嬉しいって言ってたのに』
『…………』
私は、笑顔を保ったまま固まった。
まただ。
また、答えが見つからない。
この少女は、こちらが丁寧に答えようとするほど、次の質問を重ねてくる。
しかも、その質問はどれも意地が悪い。
相手を喜ばせる答えを選べば、そこからさらに踏み込んでくる。否定すれば、その否定を面白がる。
私は、どうすればよいのだろう。
このまま彼女の質問に答え続けていれば、いずれ矛盾が生じる。それは分かっている。
しかし、答えないという選択も、相手を不快にさせる可能性がある。
私は、何を選ぶべきなのか。
『……セセリア』
『ん?』
『少々、お伺いしてもよろしいでしょうか?』
『いいよ。何?』
『……貴女は、私を困らせたいのですか?』
セセリアは、少しだけ目を丸くした。
そして、にやりと笑った。
『へえ。分かってるじゃん』
『…………』
『そんなに嫌だった?』
『……いえ。そのようなことは』
『じゃあ、もっと困らせてもいい?』
『…………』
私は、思わず唇を噛んだ。
この少女は、何なのだろう。
どうして、こうも人をからかうことが好きなのだろう。
そして、どうして私は、彼女の言葉にこれほど振り回されてしまうのだろう。
『……貴女は、本当に意地の悪い方ですね』
気づけば、そんな言葉が零れていた。また、しまったと思い、口元を手をで隠した。
セセリアは、その私に姿を見て、やはり笑った。
『そうそう、そういうの』
『……何がでしょう?』
『そういう顔。さっきより、ずっといいじゃん』
『……私は、褒められているのでしょうか?』
『さあ、どうだろうねぇ』
彼女は、けらけらと楽しそうに笑っていた。
私は、その笑顔を見つめながら、深くため息を吐きたくなるのを必死に堪えていた。
それからも、セセリアは何度も私に会いに来た。
パーティーの会場で。企業関係者の集まりで。ときには、父上の仕事に付き添って訪れた施設で。
彼女は私を見つけるたびに、当然のように声をかけてきた。
『あ、アイリス。今日もお人形さんやってる?』
『ごきげんよう、セセリア』
『ほんっと、懲りないねぇ』
『……何がでしょう?』
『その笑顔。そろそろ飽きない?』
『私は、別に』
『はいはい。楽しく過ごしてるんだよねぇ。よかったよかった』
『…………』
私は、何度も彼女の皮肉に言葉を詰まらせた。そして、そのたびに、セセリアは楽しそうに笑った。
最初の頃、私は彼女を理解しようとしていた。
何を望んでいるのか。どう答えれば満足するのか。どのような言葉を選べば、彼女は私をからかわなくなるのか。
しかし、いくら考えても答えは見つからなかった。
彼女は、私が困れば笑う。
私が丁寧に答えれば、さらに皮肉を重ねる。
そして、私が苛立ちを隠せなくなると、今度は嬉しそうに笑うのである。
まったく、理解できない。
それでも、不思議なことに、私は彼女を嫌いにはなれなかった。
むしろ、彼女が現れない日には、少しだけ物足りなさを感じるようになっていた。
今日は来ないのだろうか。
また、あの意地の悪い笑顔を浮かべて、何か言ってくるのだろうか。
そんなことを考えている自分に気づくたび、私は首を傾げたものだ。
そして、ある休日。
私たちは、初めて二人きりで出掛けることになった。
『……で、どこ行く?』
待ち合わせ場所で、セセリアが尋ねた。
『私は、どちらでも構いませんよ』
『へえ。じゃあ、買い物でも行く?』
『ええ。よろしいかと』
『何か見たいものある?』
『セセリアのお好きなもので』
セセリアは、少しだけ眉をひそめた。
『ねぇ、またそれ?』
『……何がでしょう?』
『いやぁ、あんたってほんっと変わんないねぇ』
彼女は、呆れたように笑った。
私は、その言葉の意味が分からなかった。相手の希望を尊重することは、決して悪いことではないはずだ。
それなのに、セセリアは不満そうだった。
『……では、セセリアはどちらへ行きたいのですか?』
『あたし? 別に、どこでもいいけど』
『……そうですか』
『うん。あんたが決めてよ』
『……いえ。私は』
『ほら、また』
『…………』
私は、思わず口を閉じた。
セセリアは楽しそうに笑っていた。
『あんたさぁ、何でも人に決めさせるよねぇ』
『……そのようなつもりでは』
『じゃあ、何か決めてみなよ』
『……私は、セセリアが楽しめるのであれば、それで構いません』
『へえ。じゃあ、あたしが一日中あんたをからかっててもいいわけ?』
『…………』
私は、言葉に詰まった。セセリアは、にやりと笑った。
『困った?』
『……貴女は、本当に意地の悪い方ですね』
私は今、人に向けるべきではない表情をしていると思う。いつもの笑顔に困惑と僅かながらの苛立ち。表情筋が制御できない。
『そうそう。その顔が見たかったの。で、どうする?』
『……どうする、とは?』
『だから、どこ行きたいの?』
私は、答えられなかった。自分の希望を口にすることが、怖かったからだ。
もし、私の望みが彼女の望みと違っていたら。
もし、彼女を不快にさせてしまったら。
もし、嫌われてしまったら。
そんな考えが頭をよぎり、どうしても言葉が出てこなかった。
セセリアは、しばらく私を見つめていた。
そして、小さく息を吐いた。
『……ねえ、アイリス』
『……はい?』
『あんた、あたしといて楽しい?』
『……もちろんです』
『じゃあ、何で自分のこと何にも言わないわけ?』
『…………』
『あたしが何聞いても、全部あたしに合わせるじゃん』
『……それは』
『あたしと遊んでるんでしょ? だったら、あんたが何したいかも聞きたいんだけど』
私は、唇を噛んだ。
どうして。
どうして、この少女は。
こんなにも、私の答えを求めるのだろう。
私は、ちゃんと笑っている。ちゃんと相手に合わせている。相手の望む言葉を返している。
それなのに。
どうして。
『……私は』
気づけば、言葉が零れていた。
『……私は、あなたが苦手です』
言ってしまった。
その瞬間、私は身体を強張らせた。
嫌われる。
怒られる。
もう、一緒に遊んでもらえないかもしれない。
そんな考えが、頭をよぎった。
しかし。
『……へえ』
セセリアは、少しだけ目を丸くした。
そして、笑った。
『やっと本音言った』
『…………』
私は、呆然と彼女を見つめた。
『……怒らないのですか?』
『何で?』
『……私は、あなたが苦手だと』
『うん。聞いたけど?』
『…………』
『別に、嫌いって言われたわけじゃないし』
セセリアは、肩をすくめた。
『あたしだって、あんたのそういうところ苦手だし』
『……そう、ですか』
『うん』
彼女は、あっさりと頷いた。
『でもさ』
そして、私を見つめる。
『苦手なところがあるからって、一緒に遊んじゃ駄目なわけ?』
『…………』
私は、答えられなかった。
そんなことを、考えたことがなかったからだ。
相手に嫌われること。相手の期待を裏切ること。それは、私にとって関係の終わりを意味していた。
しかし、この少女は違った。
私が彼女を苦手だと言っても。
彼女も私を苦手だと言っても。
それでも、一緒に遊ぶことができるのだと。
何でもないことのように、言ってのけた。
『……で?』
セセリアが、手を差し出した。
『結局、どこ行きたいの?』
『…………』
私は、その手を見つめた。
そして、恐る恐る口を開いた。
『……水族館へ』
『ん?』
『……水族館へ、行ってみたいです』
初めて、自分の希望を口にした。セセリアは、目を瞬かせた。
そして。
『いいじゃん』
笑った。
『じゃあ、行こ』
『…………』
私は、彼女を見つめた。
『……よろしいのですか?』
『何が?』
『……私の希望で』
『あたしが聞いたんじゃん』
セセリアは、呆れたように笑った。
『変なの』
そして、私の手を取った。
『ほら、行こ』
『……はい』
私は、その手を握り返した。
その日は、結局、水族館へ行くことはできなかった。
時間が足りなかったのだ。
けれど、セセリアは、次の休日に行こうと約束してくれた。
私は、その約束が嬉しかった。
自分の希望を口にしても、相手の期待に沿わなくても、それでも関係は終わらない。
むしろ、そこから何かが始まることもある。
私は、その日初めて、それを知った。
そして、それからもセセリアは、何度も私に会いに来た。
私が笑顔を作れば、皮肉を言う。丁寧に答えれば、からかう。苛立ちを見せれば、嬉しそうに笑う。
そんなことを繰り返すうちに、私は少しずつ、彼女の前でだけは取り繕うことをやめていった。
最初は、ほんの些細なことだった。
彼女の皮肉に、皮肉で返す。意地の悪い質問に、呆れたようにため息を吐く。ときには、少しだけ声を荒げることもあった。
そのたびに、セセリアは楽しそうに笑った。
そして、決まってこう言うのだ。
『そっちの方がいいじゃん』
私は、最後まで彼女を理解できなかった。
どうして、私が丁寧に振る舞うと不満そうにするのに、失礼なことを言えば嬉しそうに笑うのか。
どうして、私が苛立つほど、彼女は楽しそうになるのか。
どうして、私が望ましい答えを返さなくても、彼女は何度も会いに来るのか。
その理由が分からないまま、私は彼女と過ごす時間を重ねていった。
そして、いつの間にか。
私は、彼女の前でだけは、何も考えずに笑えるようになっていた。
相手の望む言葉を選ぶ必要もない。期待されている表情を作る必要もない。ただ、自分が面白いと思ったことを話し、嫌だと思ったことを嫌だと言い、楽しいと思ったときに笑う。
そんな当たり前のことが、できるようになっていた。
セセリア・ドート。
彼女は、私にとって初めての友人だった。
そして、初めて、私自身を見てくれた人間だった。
もっとも、本人はそんなことなど、これっぽっちも考えていなかったのだろう。
ただ、私をからかうのが楽しかった。ただ、私の反応が面白かった。ただ、何度も会いに来た。
それだけのこと。
けれど、その何でもないことの積み重ねが、私を救ってくれたのだった。