水星の魔女 ~もう一輪の百合の花~   作:一般通過クルーゼさん

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第5話

 セセリア・ドートは、いつもより少し早く目を覚ました。

 

 アスティカシア高等専門学園の居住区には、人工の朝日が差し込み始めている。カーテンの隙間から漏れる柔らかな光が、見慣れた家具を淡く照らしていた。

 

 休日ではないものの、決闘委員会の仕事が始まるまでは、まだ時間がある。もう少し眠っていても差し支えないだろう。

 

 そう考えて寝返りを打ったセセリアは、すぐ隣に銀白色の髪を見つけた。

 

「…………」

 

 アイリスだった。

 

 昨夜、結局そのまま泊まっていった親友である。

 

 今まで何度も帰るように言ったはずなのに、気づけばこうして同じベッドで眠っている。しかも、当の本人は何の遠慮もなく、気持ちよさそうに寝息を立てていた。

 

 まったく、図々しいにもほどがある。

 

 もっとも、最終的に泊まることを許したのは自分なのだから、あまり強くは言えないのだけれど。

 

「……ほんっと」

 

 セセリアは小さく息を吐き、隣で眠る少女へ目を向けた。

 

 さらりと流れる銀白色の髪。長い睫毛に縁取られた瞼と、すっと通った鼻筋。薄く色づいた唇は静かに閉じられ、普段のように余計なことを喋る気配もない。

 

 こうして眠っている姿だけを見れば、誰もが息を呑むほど美しい少女だった。

 

 いや、起きていても美しいことに変わりはない。

 

 むしろ、起きているときの方が、その美しさは際立つかもしれない。

 

 アイリス・シード。ベネリットグループ所属企業、コズミック・シードの代表代理。

 

 アスティカシア高等専門学園の経営戦略科に在籍する、才色兼備の令嬢。

 

 その立ち居振る舞いは洗練され、誰に対しても礼儀正しく、決して取り乱すことがない。柔らかな微笑みを絶やさず、相手の立場を尊重しながらも、必要な場面では自分の意見を明確に述べる。

 

 教師からの評価は高く、学園内には男女を問わず彼女を慕う生徒がいる。企業経営においても、その若さを侮る者は少なくなかったが、実際に交渉の席につけば、彼女の能力を認めざるを得なくなる。

 

 完璧な令嬢。

 

 その評価は、決して大袈裟ではなかった。

 

 セセリア自身、アイリスが人前で失態を演じるところなど、ほとんど見たことがない。

 

 どれほど不愉快な相手であっても、表情を変えずに応対する。どれほど無礼な言葉を投げかけられても、穏やかな笑みを崩さない。相手の意図を理解し、必要な言葉を選び、会話を自分の望む方向へ導いていく。

 

 その姿は、昔から変わらなかった。

 

 ただし。

 

 セセリアは、隣で眠る少女を眺めながら口元を緩めた。

 

 自分の前では、少しだけ違う。

 

 もちろん、アイリスはセセリアに対しても丁寧に話す。幼い頃から身についた礼儀作法は、今さら変えようがないのだろう。

 

 けれど、言葉の選び方が違った。

 

 人前では決して口にしないような皮肉を言うこともあれば、わざと意地の悪い冗談を仕掛けてくることもある。時折、何とも子供っぽい表情を見せることさえあった。

 

 それを知っている人間は、決して多くない。

 

 少なくとも、セセリアの知る限りでは、自分と彼女の養父くらいのものだろう。

 

「……お人形さん、ねぇ」

 

 セセリアは、懐かしい言葉を呟いた。

 

 初めて出会った頃のアイリスは、本当に人形のようだった。綺麗で、礼儀正しく、誰に対しても優しい。

 

 そして、何を考えているのか、まるで分からない。

 

 あの頃のセセリアには、それがひどく気に入らなかった。

 

 だから、からかった。

 

 皮肉を言い、意地の悪い質問を重ね、どうにかして綺麗な笑顔の下に隠れているものを見ようとした。

 

 今にして思えば、随分と子供じみたことをしたものだ。

 

 もっとも、後悔はしていない。あの頃のアイリスが、困り果てた末に見せた顔。

 

 それを思い出すだけで、今でも少し笑ってしまう。

 

「…………」

 

 セセリアは、そっと手を伸ばした。

 

 頬にかかった銀白色の髪を払ってやると、指先が柔らかな肌に触れる。

 

 思っていたよりも温かい。

 

 当たり前のことなのに、妙に意識してしまった。しばらくその寝顔を眺めてから、セセリアは小さく呟いた。

 

「……黙ってれば、ほんっと綺麗なんだけどねぇ」

 

 すると。

 

 アイリスの頬が、ほんの少しだけ赤くなった。

 

「…………」

 

 セセリアは目を細めた。

 

 呼吸は穏やかで、瞼も閉じたまま。いかにも気持ちよさそうに眠っているが、よく見れば耳までうっすら赤くなっている。

 

……起きてるじゃん。

 

 セセリアの口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。

 

「……アイリス」

 

 呼びかけても、返事はない。

 

「ねえ、聞こえてる?」

 

「……すぅ……」

 

 わざとらしい寝息が返ってきた。

 

 セセリアは、静かに枕を手に取った。

 

「起きないなら、もう一回褒めてあげようか?」

 

「…………」

 

「それとも、昨日の不法侵入の話をしようか」

 

 アイリスの眉が、わずかに動いた。

 

「……おはようございます、セセリア」

 

「おはよ。よく眠れた?」

 

「ええ。大変快適でした」

 

「そりゃよかった。で、いつから起きてたわけ?」

 

「……つい先ほどです」

 

「ふうん。寝ながら照れるなんて、器用なことするんだねぇ」

 

「…………」

 

 アイリスは視線を逸らした。

 

 その反応を見て、セセリアは小さく笑った。

 

「何その顔。いつもはあんなに余裕ぶってるのに」

 

「……不意打ちは卑怯です」

 

「寝たふりして聞いてた人に言われてもねぇ」

 

 アイリスは、返す言葉を失ったらしい。セセリアは満足げに微笑んだ。

 

 こういうところは、昔から変わらない。

 

 いくら賢くなっても、どれほど立派な肩書きを持つようになっても、時折こうして簡単に素顔を見せる。

 

 そして、その顔を知っている人間は、決して多くない。

 

「……さて」

 

 セセリアは身体を起こし、ベッドの上に座り直した。

 

「昨日のこと、まだ話が終わってないんだけど」

 

「…………」

 

 アイリスは、ゆっくりと布団を引き上げた。

 

「……もう少し眠ってもよろしいでしょうか」

 

「駄目。逃げないの」

 

 セセリアは、布団の端を掴んで引き下ろした。

 

 朝の柔らかな光の中で、アイリスは何とも困った顔をしていた。

 

 それが少し面白くて、セセリアはまた笑った。

 

 

 

 

 

 朝から散々な目に遭ってしまった。

 

 私は乱れた髪を整え、ベッドの上で正座していた。目の前には腕を組んだセセリアが座っており、どうやら昨日の一件について正式な事情聴取が行われるらしい。

 

「……で、何か言うことは?」

 

「今日も可愛らしいですね」

 

「それはどうも。で?」

 

 軽く受け流されてしまった。どうやら、今回は簡単に話題を逸らせそうにない。

 

「……昨日は、申し訳ありませんでした」

 

「うん。何が悪かったと思う?」

 

「入室権限の変更に気づいた時点で、まず連絡を取るべきでした」

 

「そうだねぇ」

 

「あるいは、室内のシステムへアクセスして、遠隔から安否を確認する方法も――」

 

「それ、もっと怒られるやつだけど?」

 

「……失礼しました」

 

 セセリアは呆れたように息を吐いた。

 

 しかし、すぐに笑みを消し、私をまっすぐに見つめてきた。

 

「ねえ、アイリス。あたしが合鍵を渡した理由、分かってる?」

 

「……緊急時に備えるため、でしょうか」

 

「それもあるけどさ」

 

 彼女は少しだけ目を細めた。

 

「あんたなら、勝手なことはしないと思ってたからなんだけど」

 

 その言葉に、私は口を閉じた。セセリアは、私を信用してくれていた。だからこそ、権限を渡してくれたのだ。

 

 私は、その信頼を自分の都合で軽んじてしまった。

 

「……申し訳ありません」

 

 今度は、きちんと頭を下げた。

 

「セセリアの信頼を裏切るつもりはありませんでした。ですが、結果として、そのような行動を取ってしまいました」

 

「……ん」

 

「今後、許可なく認証システムへ介入することはいたしません。約束いたします」

 

 セセリアは、しばらく私を見つめていた。やがて、やたら満足そうに頷く。

 

「なら、いいよ」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、しばらく合鍵はお預けね」

 

「……それは、寂しいですね」

 

「自業自得でしょ」

 

「では、毎日ノックいたします」

 

「毎日は来るんだ……」

 

「もちろんです。セセリアにお会いできない日が続くと、仕事の効率が低下してしまいますので。会社存続の危機です」

 

 彼女は一瞬だけ黙り、それから呆れたように笑った。

 

「ほんっと、あんたって面倒くさい女だよねぇ」

 

「ふふ。よく存じております」

 

「自覚あるなら、もうちょっと何とかしなよ」

 

「努力はいたします」

 

「期待しないでおく」

 

 そう言いながらも、彼女の口元には笑みが残っていた。

 

 まったく。

 

 朝から厳しい方である。

 

 

 

 

 

 

 

 身支度を整えた後、私たちは朝食を取ることにした。

 

 セセリアが端末でメニューを眺めながら、こちらへ問いかけてくる。

 

「で、何食べたい?」

 

「そうですね。今日は、甘いものがいいです」

 

「じゃあ、フレンチトースト?」

 

「ええ。ぜひ」

 

「……ふうん」

 

 彼女が、少しだけ意外そうな顔をした。

 

「どうかなさいました?」

 

「いや。昔は、そういうこと全然言わなかったなって」

 

「……昔?」

 

「そう。何食べたいって聞いても、どこ行きたいって聞いても、全部『セセリアのお好きな方で』だったじゃん」

 

 私は、目を瞬かせた。そして、思わず笑みを零した。

 

「……懐かしいですね」

 

「でしょ?」

 

「ええ。そういえば、昔はセセリアのことが苦手でした」

 

「今もでしょ?」

 

「いいえ。今は随分と慣れました」

 

「……それ、褒めてる?」

 

「もちろんです」

 

 セセリアは、胡散臭そうにこちらを見つめた。私は、何食わぬ顔で紅茶を口に運ぶ。

 

 あの頃の私は、彼女と会話をするたびに頭を悩ませていた。何を言っても、期待した反応が返ってこない。

 

 どれほど丁寧に答えても、彼女は満足しない。

 

 むしろ、こちらが困れば困るほど、楽しそうに笑うのである。今でこそ、そんな彼女の振る舞いを好ましく思える。

 

 けれど、幼い頃の私にとっては、まったく理解できない相手だった。

 

 あれは、まだ父上に引き取られて間もない頃。

 

 私が、他人との付き合い方をよく理解していなかった頃のことだ。

 

 

 

 

 

 

 初めてセセリア・ドートと出会ったのは、企業関係者が集まるパーティーの席だった。

 

 煌びやかな照明に照らされた会場では、上等な衣服を身につけた大人たちが、笑顔で言葉を交わしていた。

 

 私は父上の傍らで、いつものように微笑んでいた。

 

 誰かに褒められれば、礼を述べる。話しかけられれば、丁寧に答える。相手の望む言葉を選び、期待されている表情を作る。

 

 これが、私にとっての普通だった。そして私は、それが容易にできるだけの性能を持っていた。

 

 相手が何を望んでいるのかを考え、その期待に応える。余計なことは言わず、求められた役割を果たす。

 

 そうしていれば、誰も不機嫌にはならない。

 

 少なくとも、私はそう信じていた。

 

『まあ、可愛らしいお嬢さんね』

 

『ありがとうございます』

 

『本当にお人形さんみたい。お父様も自慢でしょう?』

 

『恐れ入ります。父も、そのように思ってくださっているのであれば嬉しいです』

 

 女性は満足そうに笑い、私の頭を軽く撫でてから去っていった。

 

 私は、その背中を見送りながら微笑みを保っていた。

 

 何の問題もない。

 

 相手は喜んでいたし、私も失礼なことは言わなかった。これで正解だったはずだ。

 

 そう思っていたところへ、不意に声がかかった。

 

『……へえ。すごいねぇ、あんた』

 

 振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。

 

 白い髪に褐色の肌。少し眠たげな目をしているのに、こちらを見つめる視線には妙な鋭さがあった。

 

 彼女は手にした飲み物を一口飲み、それから私の顔を眺めて笑った。

 

『今の、何点くらいだった?』

 

『……はい?』

 

『さっきのおばさんとの会話。あんた、すっごく上手に答えてたじゃん』

 

『……ありがとうございます?』

 

『あはっ』

 

 何が面白いのだろう。

 

 私は少し戸惑いながらも、穏やかな笑みを浮かべた。

 

『失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?』

 

『セセリア・ドート。あんたは?』

 

『アイリス・シードと申します。お会いできて光栄です、セセリア様』

 

『……様?』

 

少女は一瞬だけ目を丸くし、それから可笑しそうに笑った。

 

『何それ。あたし、そんな偉そうに見える?』

 

『いえ。そのようなつもりでは……』

 

『じゃあ、普通に呼べばいいじゃん。アイリス』

 

『……承知しました。セセリア』

 

『うん。そっちの方がいいね』

 

 彼女は満足そうに頷いた。私は少しだけ安堵した。どうやら、相手の希望に沿うことができたらしい。

 

 しかし、その考えはすぐに覆されることになった。

 

『それにしても、あんたって変わってるねぇ』

 

『そうでしょうか?』

 

『うん。さっきからずっと笑ってるじゃん。顔、疲れないの?』

 

『ご心配には及びません。楽しく過ごしておりますので』

 

『へえ。何が楽しいの?』

 

『皆様とお話しできることは、大変勉強になります』

 

『ふーん。さっきのおばさんの話も?』

 

『ええ。もちろんです』

 

『何の話してたっけ?』

 

『……それは』

 

 私は、先ほどの会話を思い返した。

 

 容姿を褒められたこと。父上の話をされたこと。そして、私が礼を述べたこと。

 

 それ以外に、特筆すべき内容はなかった。

 

『……皆様と交流を深めることには、意義があると思います』

 

『へえ。上手に逃げるんだねぇ』

 

『……はい?』

 

『いや、何でもない。あんた、ほんっと器用だなって』

 

 彼女は楽しそうに笑っていた。私は困惑した。何がそんなに面白いのだろう。

 

 私の返答は、決して間違っていないはずだ。

 

 相手を否定せず、長所を見つけ、好意的な言葉を返した。それなのに、彼女は私の答えを聞くたびに笑うのである。

 

『……何か、おかしなことを申し上げましたか?』

 

『ううん。すっごく上手だったよ』

 

『……ありがとうございます』

 

『でもさぁ』

 

 セセリアは、にやりと笑った。

 

『中身、空っぽだねぇ』

 

『…………』

 

 私は、思わず目を瞬かせた。

 

『……はい?』

 

『だって、あんたが何考えてるか、全然分かんないんだもん。こっちが何言っても、繕われた喜びそうな答えが返ってくるだけ』

 

 彼女は私を上から下まで眺めた。

 

『見た目も綺麗だし、喋り方も丁寧だし、笑顔も完璧。ほんっと、よくできたお人形みたい』

 

『……それは』

 

『でも、お人形ってさ。何聞いても、自分のことは教えてくれないじゃん?』

 

 私は、返す言葉を見つけられなかった。

 

 人形。

 

 その言葉自体は、何度も聞いたことがある。

 

 大人たちは私を褒めるとき、決まってそう言った。美しく、礼儀正しく、手のかからない少女。

 

 私は、その評価を好意的に受け取るべきだと思っていた。

 

 しかし、目の前の少女は違った。彼女は、私が人形のようだと笑っている。それも、明らかに褒めているわけではない。

 

 では、何と答えるべきなのだろう。

 

 謙遜すればよいのか。否定すればよいのか。それとも、彼女の観察眼を褒めるべきなのか。

 

 どれも違う気がした。

 

 私は、目の前の少女が何を望んでいるのか、まるで理解できなかった。

 

『……私は、人形ではありません』

 

 気づけば、そう答えていた。セセリアは少しだけ目を丸くした。

 

 そして、嬉しそうに笑った。

 

『へえ。そうなんだ?』

 

『……ええ』

 

『じゃあ、あんた自身の言葉で話してみなよ』

 

『私は、いつも自分の言葉でお話ししております』

 

『ほんとかなぁ?』

 

『……何が仰りたいのですか?』

 

『ちょっと怒った?』

 

『……怒ってなどおりません』

 

『そっかぁ。じゃあ、今のも営業用の笑顔ってこと?』

 

『…………』

 

 私は、言葉に詰まった。どう答えても、彼女は納得しない。

 

 丁寧に答えれば皮肉を言われ、否定すれば面白がられる。黙っていても、こちらの反応を楽しそうに観察している。

 

 これまで出会った人間の中に、こんな相手はいなかった。

 

 どうして、この少女は、私が望ましい答えを返そうとしていることを理解しないのだろう。

 

 いや。

 

 理解した上で、わざと困らせているのかもしれない。そう考えた瞬間、胸の奥に小さな苛立ちが生まれた。

 

『……何なのですか、貴女は』

 

 思わず、言葉が零れた。しまったと思った。それは、相手に好かれるために選んだ言葉ではなかった。

 

 ただ、純粋に理解できなかったのだ。目の前の少女が、何を望んでいるのか。

 

 どうして私に、こんなにも意地悪な質問を繰り返すのか。そして、どうしてそれほど楽しそうに笑っているのか。

 

 セセリアは、しばらく私を見つめていた。

 

 それから、今までで一番楽しそうに笑った。

 

『へぇ、あんた、そういう顔もするんだ』

 

『何でしょう?』

 

『さっきまでより、ずっといいじゃん』

 

『……いい、ですか?』

 

『うん。やっとあんたと話してる気がした』

 

 私は、彼女の言葉を理解できなかった。先ほどまでの会話も、確かに私自身が行っていたものだ。それなのに、彼女は今になって、ようやく私と話している気がしたと言う。

 

 意味が分からない。

 

 私は、困惑を隠せないまま彼女を見つめていた。すると、セセリアは満足したのか、軽く手を振った。

 

『じゃ、またね。アイリス』

 

『……え?』

 

『何? まだ話したい?』

 

『い、いえ。そのようなことは……引き留めてしまい申し訳ありません』

 

『そっかぁ。じゃあ、また今度ね』

 

 そう言って、彼女はあっさりと去っていった。私は、その背中を呆然と見送った。結局、彼女が何を望んでいたのか、最後まで分からなかった。

 

 ただ一つだけ、確かなことがある。

 

 私は、その日初めて、他人との会話で相手の意図が読み取れなかった。この身体の性能をもってしても。

 

 

 

 

 

 

 それで終わりなら、よかったのかもしれない。

 

 しかし、セセリア・ドートという少女は、私が思っていた以上にしつこい人間だった。

 

 次に顔を合わせたのは、それから数日後のことだった。

 

 父上に連れられて訪れた企業関係者の集まりで、私は再び彼女の姿を見つけた。

 

 いや、正確には、向こうが私を見つけたのである。

 

『あ、いたいた。お人形さん』

 

『…………』

 

 私は、笑顔を浮かべた。

 

『ごきげんよう、セセリア』

 

『今日も完璧だねぇ』

 

『ありがとうございます』

 

『褒めてないって、前も言わなかった?』

 

『……そうでしたね』

 

 私は、微笑みを保った。今度こそ、彼女の皮肉に振り回されるつもりはなかった。相手が何を言っても、冷静に対応する。

 

 そのように決めていたのである。

 

『ねえ、アイリス。今日のパーティー、楽しい?』

 

『ええ。皆様と交流できる貴重な機会ですので』

 

『へえ。じゃあ、あたしがいても楽しいんだ?』

 

『……もちろん、セセリアとお話しできることも嬉しく思っております』

 

『ふうん。じゃあ、あたしが帰ったら寂しい?』

 

『……ええ。残念に思います』

 

『ほんと?』

 

『もちろんです』

 

『じゃあ、あたしがずっとここにいたら?』

 

『……それは、大変嬉しく思います』

 

『へえ。あたしがずっと喋ってても?』

 

『……ええ』

 

『あんたが困り果てるまで?』

 

『…………』

 

 私は、言葉に詰まった。セセリアは楽しそうに笑った。

 

『なに?もう困った?』

 

『……そのようなことはありません』

 

『ほんとかなぁ?』

 

『……ええ』

 

『じゃあ、明日も会いに来てあげようか?』

 

『……お気遣いなく』

 

『あれ? さっきは嬉しいって言ってたのに』

 

『…………』

 

 私は、笑顔を保ったまま固まった。

 

 まただ。

 

 また、答えが見つからない。

 

 この少女は、こちらが丁寧に答えようとするほど、次の質問を重ねてくる。

 

 しかも、その質問はどれも意地が悪い。

 

 相手を喜ばせる答えを選べば、そこからさらに踏み込んでくる。否定すれば、その否定を面白がる。

 

 私は、どうすればよいのだろう。

 

 このまま彼女の質問に答え続けていれば、いずれ矛盾が生じる。それは分かっている。

 

 しかし、答えないという選択も、相手を不快にさせる可能性がある。

 

 私は、何を選ぶべきなのか。

 

『……セセリア』

 

『ん?』

 

『少々、お伺いしてもよろしいでしょうか?』

 

『いいよ。何?』

 

『……貴女は、私を困らせたいのですか?』

 

 セセリアは、少しだけ目を丸くした。

 

 そして、にやりと笑った。

 

『へえ。分かってるじゃん』

 

『…………』

 

『そんなに嫌だった?』

 

『……いえ。そのようなことは』

 

『じゃあ、もっと困らせてもいい?』

 

『…………』

 

 私は、思わず唇を噛んだ。

 

 この少女は、何なのだろう。

 

 どうして、こうも人をからかうことが好きなのだろう。

 

 そして、どうして私は、彼女の言葉にこれほど振り回されてしまうのだろう。

 

『……貴女は、本当に意地の悪い方ですね』

 

気づけば、そんな言葉が零れていた。また、しまったと思い、口元を手をで隠した。

 

 セセリアは、その私に姿を見て、やはり笑った。

 

『そうそう、そういうの』

 

『……何がでしょう?』

 

『そういう顔。さっきより、ずっといいじゃん』

 

『……私は、褒められているのでしょうか?』

 

『さあ、どうだろうねぇ』

 

 彼女は、けらけらと楽しそうに笑っていた。

 

 私は、その笑顔を見つめながら、深くため息を吐きたくなるのを必死に堪えていた。

 

 

 

 

 

 それからも、セセリアは何度も私に会いに来た。

 

 パーティーの会場で。企業関係者の集まりで。ときには、父上の仕事に付き添って訪れた施設で。

 

 彼女は私を見つけるたびに、当然のように声をかけてきた。

 

『あ、アイリス。今日もお人形さんやってる?』

 

『ごきげんよう、セセリア』

 

『ほんっと、懲りないねぇ』

 

『……何がでしょう?』

 

『その笑顔。そろそろ飽きない?』

 

『私は、別に』

 

『はいはい。楽しく過ごしてるんだよねぇ。よかったよかった』

 

『…………』

 

 私は、何度も彼女の皮肉に言葉を詰まらせた。そして、そのたびに、セセリアは楽しそうに笑った。

 

 最初の頃、私は彼女を理解しようとしていた。

 

 何を望んでいるのか。どう答えれば満足するのか。どのような言葉を選べば、彼女は私をからかわなくなるのか。

 

 しかし、いくら考えても答えは見つからなかった。

 

 彼女は、私が困れば笑う。

 

 私が丁寧に答えれば、さらに皮肉を重ねる。

 

 そして、私が苛立ちを隠せなくなると、今度は嬉しそうに笑うのである。

 

 まったく、理解できない。

 

 それでも、不思議なことに、私は彼女を嫌いにはなれなかった。

 

 むしろ、彼女が現れない日には、少しだけ物足りなさを感じるようになっていた。

 

 今日は来ないのだろうか。

 

 また、あの意地の悪い笑顔を浮かべて、何か言ってくるのだろうか。

 

 そんなことを考えている自分に気づくたび、私は首を傾げたものだ。

 

 そして、ある休日。

 

 私たちは、初めて二人きりで出掛けることになった。

 

 

 

 

 

 

『……で、どこ行く?』

 

 待ち合わせ場所で、セセリアが尋ねた。

 

『私は、どちらでも構いませんよ』

 

『へえ。じゃあ、買い物でも行く?』

 

『ええ。よろしいかと』

 

『何か見たいものある?』

 

『セセリアのお好きなもので』

 

セセリアは、少しだけ眉をひそめた。

 

『ねぇ、またそれ?』

 

『……何がでしょう?』

 

『いやぁ、あんたってほんっと変わんないねぇ』

 

 彼女は、呆れたように笑った。

 

 私は、その言葉の意味が分からなかった。相手の希望を尊重することは、決して悪いことではないはずだ。

 

 それなのに、セセリアは不満そうだった。

 

『……では、セセリアはどちらへ行きたいのですか?』

 

『あたし? 別に、どこでもいいけど』

 

『……そうですか』

 

『うん。あんたが決めてよ』

 

『……いえ。私は』

 

『ほら、また』

 

『…………』

 

 私は、思わず口を閉じた。

 

 セセリアは楽しそうに笑っていた。

 

『あんたさぁ、何でも人に決めさせるよねぇ』

 

『……そのようなつもりでは』

 

『じゃあ、何か決めてみなよ』

 

『……私は、セセリアが楽しめるのであれば、それで構いません』

 

『へえ。じゃあ、あたしが一日中あんたをからかっててもいいわけ?』

 

『…………』

 

 私は、言葉に詰まった。セセリアは、にやりと笑った。

 

『困った?』

 

『……貴女は、本当に意地の悪い方ですね』

 

 私は今、人に向けるべきではない表情をしていると思う。いつもの笑顔に困惑と僅かながらの苛立ち。表情筋が制御できない。

 

『そうそう。その顔が見たかったの。で、どうする?』

 

『……どうする、とは?』

 

『だから、どこ行きたいの?』

 

 私は、答えられなかった。自分の希望を口にすることが、怖かったからだ。

 

 もし、私の望みが彼女の望みと違っていたら。

 

 もし、彼女を不快にさせてしまったら。

 

 もし、嫌われてしまったら。

 

 そんな考えが頭をよぎり、どうしても言葉が出てこなかった。

 

 セセリアは、しばらく私を見つめていた。

 

 そして、小さく息を吐いた。

 

『……ねえ、アイリス』

 

『……はい?』

 

『あんた、あたしといて楽しい?』

 

『……もちろんです』

 

『じゃあ、何で自分のこと何にも言わないわけ?』

 

『…………』

 

『あたしが何聞いても、全部あたしに合わせるじゃん』

 

『……それは』

 

『あたしと遊んでるんでしょ? だったら、あんたが何したいかも聞きたいんだけど』

 

 私は、唇を噛んだ。

 

 どうして。

 

 どうして、この少女は。

 

 こんなにも、私の答えを求めるのだろう。

 

 私は、ちゃんと笑っている。ちゃんと相手に合わせている。相手の望む言葉を返している。

 

 それなのに。

 

 どうして。

 

『……私は』

 

 気づけば、言葉が零れていた。

 

『……私は、あなたが苦手です』

 

 言ってしまった。

 

 その瞬間、私は身体を強張らせた。

 

 嫌われる。

 

 怒られる。

 

 もう、一緒に遊んでもらえないかもしれない。

 

 そんな考えが、頭をよぎった。

 

 しかし。

 

『……へえ』

 

 セセリアは、少しだけ目を丸くした。

 

 そして、笑った。

 

『やっと本音言った』

 

『…………』

 

 私は、呆然と彼女を見つめた。

 

『……怒らないのですか?』

 

『何で?』

 

『……私は、あなたが苦手だと』

 

『うん。聞いたけど?』

 

『…………』

 

『別に、嫌いって言われたわけじゃないし』

 

 セセリアは、肩をすくめた。

 

『あたしだって、あんたのそういうところ苦手だし』

 

『……そう、ですか』

 

『うん』

 

 彼女は、あっさりと頷いた。

 

『でもさ』

 

 そして、私を見つめる。

 

『苦手なところがあるからって、一緒に遊んじゃ駄目なわけ?』

 

『…………』

 

 私は、答えられなかった。

 

 そんなことを、考えたことがなかったからだ。

 

 相手に嫌われること。相手の期待を裏切ること。それは、私にとって関係の終わりを意味していた。

 

 しかし、この少女は違った。

 

 私が彼女を苦手だと言っても。

 

 彼女も私を苦手だと言っても。

 

 それでも、一緒に遊ぶことができるのだと。

 

 何でもないことのように、言ってのけた。

 

『……で?』

 

 セセリアが、手を差し出した。

 

『結局、どこ行きたいの?』

 

『…………』

 

 私は、その手を見つめた。

 

 そして、恐る恐る口を開いた。

 

『……水族館へ』

 

『ん?』

 

『……水族館へ、行ってみたいです』

 

 初めて、自分の希望を口にした。セセリアは、目を瞬かせた。

 

 そして。

 

『いいじゃん』

 

笑った。

 

『じゃあ、行こ』

 

『…………』

 

私は、彼女を見つめた。

 

『……よろしいのですか?』

 

『何が?』

 

『……私の希望で』

 

『あたしが聞いたんじゃん』

 

セセリアは、呆れたように笑った。

 

『変なの』

 

そして、私の手を取った。

 

『ほら、行こ』

 

『……はい』

 

 私は、その手を握り返した。

 

 その日は、結局、水族館へ行くことはできなかった。

 

 時間が足りなかったのだ。

 

 けれど、セセリアは、次の休日に行こうと約束してくれた。

 

 私は、その約束が嬉しかった。

 

 自分の希望を口にしても、相手の期待に沿わなくても、それでも関係は終わらない。

 

 むしろ、そこから何かが始まることもある。

 

 私は、その日初めて、それを知った。

 

 そして、それからもセセリアは、何度も私に会いに来た。

 

 私が笑顔を作れば、皮肉を言う。丁寧に答えれば、からかう。苛立ちを見せれば、嬉しそうに笑う。

 

 そんなことを繰り返すうちに、私は少しずつ、彼女の前でだけは取り繕うことをやめていった。

 

 最初は、ほんの些細なことだった。

 

 彼女の皮肉に、皮肉で返す。意地の悪い質問に、呆れたようにため息を吐く。ときには、少しだけ声を荒げることもあった。

 

 そのたびに、セセリアは楽しそうに笑った。

 

 そして、決まってこう言うのだ。

 

『そっちの方がいいじゃん』

 

 私は、最後まで彼女を理解できなかった。

 

 どうして、私が丁寧に振る舞うと不満そうにするのに、失礼なことを言えば嬉しそうに笑うのか。

 

 どうして、私が苛立つほど、彼女は楽しそうになるのか。

 

 どうして、私が望ましい答えを返さなくても、彼女は何度も会いに来るのか。

 

 その理由が分からないまま、私は彼女と過ごす時間を重ねていった。

 

 そして、いつの間にか。

 

 私は、彼女の前でだけは、何も考えずに笑えるようになっていた。

 

 相手の望む言葉を選ぶ必要もない。期待されている表情を作る必要もない。ただ、自分が面白いと思ったことを話し、嫌だと思ったことを嫌だと言い、楽しいと思ったときに笑う。

 

 そんな当たり前のことが、できるようになっていた。

 

 セセリア・ドート。

 

 彼女は、私にとって初めての友人だった。

 

 そして、初めて、私自身を見てくれた人間だった。

 

 もっとも、本人はそんなことなど、これっぽっちも考えていなかったのだろう。

 

 ただ、私をからかうのが楽しかった。ただ、私の反応が面白かった。ただ、何度も会いに来た。

 

 それだけのこと。

 

 けれど、その何でもないことの積み重ねが、私を救ってくれたのだった。

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