水星の魔女 ~もう一輪の百合の花~ 作:一般通過クルーゼさん
未来を知っているというのは、存外、不便なものである。
何しろ、知っているからといって、何でもできるわけではない。むしろ、これから起こることを知っているからこそ、何もできなかったときの後味が悪くなることさえある。
たとえば、先日行われたスレッタ・マーキュリーさんとエラン・ケレスさんの決闘がそうだった。
私は、その結末を知っていた。ファラクトという機体の存在も、エアリアルが見せる驚異的な性能も、そして決闘の裏側で何が起きているのかも。
もっとも、知っていることと、証明できることは別問題だ。
ペイル社の内部事情に首を突っ込むには、それ相応の根拠が必要になる。コズミック・シードの代表代理という肩書は、他社の機密情報を勝手に調べる免罪符ではない。
ましてや、私が知っている物語は、既に私という異物が存在する世界において、必ずしもそのまま再現されるとは限らないものだった。
確証のない未来を根拠に企業を動かすことはできない。それによって不利益を被るのは、私一人ではないのだから。
そうして理由を並べれば、何もしなかったことにも、いくらでも説明はつけられる。
結局、私は今回も決闘を見届けることしかできなかった。
エアリアルは勝利した。
そして、エラン・ケレスという名前を持つ少年の一人が、姿を消した。
正確には、彼がどうなったのかを、この世界の事実として確認したわけではない。けれど、私の知る物語が正しければ、あの少年が再びスレッタさんの前に現れることはない。
そのことを考えるたび、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚が残る。
私にできることは、本当になかったのだろうか。
もちろん、全くなかったわけではない。
何かが起こる前に、匿名で情報を流すことはできたかもしれない。ペイル社の動向を探らせることも、多少の危険を承知で、あの少年に接触することも考えられた。
だが、そのどれもが別の問題を生む。
そして私は、その危険を引き受けてまで彼を救おうとはしなかった。
結局のところ、そういうことなのだ。
できなかったことと、しなかったこと。その境界は、思っていたよりも曖昧で、私に都合よく引き直せるものだった。
私は、自分の選択を後悔していない。
少なくとも、コズミック・シードや父上、そして私の大切な人たちを危険に晒すような行動を取るつもりはなかった。彼らの平穏を守るためなら、これからも同じ選択をするだろう。
それでも、後味が悪いことに変わりはない。
……まったく。知っているというのは、厄介なことである。
そんな私の感傷とは無関係に、世界は動いていく。
そして本日、私の端末には、ベネリットグループ主催のインキュベーション・パーティーへの招待状が届いていた。
私はしばらくその案内を眺め、やがて一人の少女の顔を思い浮かべた。
せっかくの機会である。一人で参加するのは、少々もったいない。
「というわけで、セセリア」
「……嫌な予感しかしないんだけど」
「まあ。まだ何も申し上げておりませんよ?」
「その笑顔で近づいてくるとき、大体ろくなこと言わないじゃん」
決闘委員会のラウンジ。
いつものソファに腰掛けたセセリアは、こちらを見ることもなく端末を操作していた。
私は空いている隣の席へ腰を下ろし、招待状を表示した端末を差し出す。
「今度のパーティーですが、私の同伴者になっていただけませんか?」
「……パーティー?」
「ええ。ベネリットグループのインキュベーション・パーティーです」
「あー、あれね」
セセリアはようやく顔を上げ、画面を一瞥した。
「コズミック・シードも呼ばれてるんだ?」
「もちろんです。これでもグループ所属企業ですので」
「都合のいいときだけ、ちゃんとグループ所属なんだねぇ」
「所属企業としての責任は、果たしておりますよ」
「うんうん。口出しはされたくないけど、ご挨拶には来てあげますって?」
「随分と悪意のある解釈ですね」
「違うんだ?」
「……全面的には、否定いたしません」
セセリアが、鼻で笑った。
コズミック・シードは、ベネリットグループに所属する企業である。
ただし、デリング・レンブラン総裁との特別な取り決めによって、経営の独立性を保証された、少々特殊な立場にあった。
もっとも、何でも自由にできるわけではない。グループ所属企業として守るべき規則は存在するし、事業上の責任から逃れられるわけでもない。
その立場を手に入れるまでには、それなりの苦労もあった。
何しろ、交渉相手はデリング・レンブラン。あの御仁に、ただお願いしたところで聞き入れてもらえるはずがない。
十二歳の子供がグループ総裁を相手に交渉するなど、今思い返しても随分と無茶をしたものである。
……まあ、その話はまた別の機会に。
「で、何であたし?」
「信頼できる方に、隣にいていただきたいので」
「秘書の勧誘?」
「今回は純粋なお誘いですよ」
「今回は、ねぇ。便利だね、その言い方」
彼女は私の顔を眺め、胡散臭そうに笑った。
「で、同伴者ってことは、あたしもそれなりに格好しなきゃいけないわけ?」
「そうですね。せっかくですから、ドレスでいかがでしょう?」
「……面倒くさ」
「もちろん、無理にとは申しません。セセリアがお嫌でしたら、別の方を――」
「別に嫌とは言ってないけど」
思いのほか早い返事だった。
私は目を瞬かせる。
「では?」
「予定もないし、付き合ってあげる。ただし、仕事の手伝いとかはしないからね」
「承知しました。私の隣にいていただければ、それで十分です」
セセリアは一瞬だけこちらを見た。
「……ふうん。ずいぶん簡単なお仕事で」
「お仕事ではありませんよ」
「はいはい。純粋なお誘いでしたねぇ」
「ありがとうございます。では、早速ドレスを用意いたしましょう」
「待って。あたしの服くらい自分で選ぶから」
「もちろんです。選ぶのはセセリアですよ」
「……何、その言い方」
「お手伝いの方には、こちらへ来ていただきますので」
彼女が、端末を操作する手を止めた。
「……誰を?」
私は微笑んだ。
「本日は、お招きいただき光栄にございます」
数日後。
学園内で借りた一室に、有名服飾ブランドの出張フィッティングチームが到着した。
挨拶をしてくださったのは、同ブランドで長年、顧客の装いを担当している着付け師だった。
彼女の後ろからは、ドレスを収めた衣装ケースと、靴や装飾品の箱が次々と運び込まれてくる。
「ねえ、アイリス」
「はい?」
「何着あるの?」
「選択肢は多い方がよろしいかと」
「質問に答えてくれる?」
「途中で追加をお願いしましたので、正確な数は」
「へえ。服の数も数えられない人が、会社のお金は管理してるんだ?」
「私費ですので、ご安心ください」
「安心するところ、そこなんだねぇ」
セセリアが額に手を当てた。
着付け師は、そんな彼女へにこやかに一礼する。
「どうぞ、ご安心くださいませ。お疲れにならないよう、こちらでお手伝いさせていただきます」
「疲れるまで着せる前提じゃん」
「まずは、お顔映りから拝見いたしましょう」
実に頼もしい方である。
セセリアは私を一瞥したが、私は笑顔で見送った。
ほどなくして、最初のドレスに着替えた彼女が、仕切りの向こうから現れた。
深い青を基調とした、落ち着いた装いだった。
褐色の肌との対比が美しく、普段よりも少し凛々しい印象になる。
「……大変、よくお似合いです」
「はいはい」
私は端末を構えた。
撮影音が鳴る。
もう一枚。
さらに、角度を変えてもう一枚。
「何枚撮るわけ?」
「比較のために、正面と横、それから後ろ姿を」
「さっきから正面だけで五枚くらい撮ってない?」
「微妙に表情が違いますので」
「服の比較でしょ?」
「もちろんです」
「研究熱心だねぇ。会社の資料にも、そのくらい嬉しそうな顔してるわけ?」
「興味深い資料でしたら」
「じゃあ、あたしは随分と興味深い資料なんだ?」
「ええ。大変」
セセリアが、呆れたように目を細める。
私は、その表情も記録した。
着付け師は満足そうに頷いていた。
「こちらのお色ですと、銀の装飾がよく映えますね。次は、もう少し柔らかな印象のものを」
次は、淡いクリーム色のドレスだった。
先ほどとは違い、軽やかで優美な印象になる。
私は再び端末を構えた。
「せっかくですので、少しだけこちらを向いていただけますか?」
「……ほんっと、楽しそうだねぇ」
「ええ。実際、楽しいですから」
セセリアが笑う。
私はその瞬間も逃さず撮影した。
三着目は、黒。
四着目は、柔らかな緑。
それぞれに違った魅力があり、甲乙つけがたい。
着付け師が装飾品を替えれば、また印象が変わる。髪を少しまとめるだけでも見え方が違うのだから、記録を残さないわけにはいかなかった。
「……アイリス」
「はい?」
「あたし、着せ替え人形じゃないんだけど」
「お疲れでしたら、休憩いたしましょう」
「疲れたっていうか、あんたの写真の数に引いてる」
「記念ですので」
「さっき比較って言ったじゃん。ずいぶん用途が増える写真だねぇ」
おや。
覚えていらっしゃいましたか。
やがてセセリアが選んだのは、ダスティローズのドレスだった。
肩の線を柔らかく見せる意匠に、控えめな装飾。華やかさがありながら、彼女の普段の雰囲気を損なわない。
鏡の前で全体を確かめ、セセリアが頷く。
「うん。これにする」
「ええ。とても素敵です」
「……全部に言ってたけどね。あんたの審査、全員合格じゃん」
「すべて、お似合いでしたので」
「役に立つご意見、どーも」
彼女は肩をすくめた。
着付け師が仕上げの調整箇所を記録し、それから、晴れやかな顔でこちらを向く。
「では、次はアイリス様ですね」
「……はい?」
私は首を傾げた。
「いえ。本日はセセリアの分だけで結構です。私は、いつものものを着る予定ですので」
着付け師が、ぴたりと動きを止めた。
「……いつもの?」
「ええ。こういった席で使っているドレスがございますから」
「そちらのお写真を、拝見しても?」
「構いませんが」
端末の写真をお見せすると、彼女はしばらく画面を見つめた。
「大変、よいお品でございます」
「ありがとうございます」
「ですが」
顔が上がる。その目が、妙に輝いていた。
「今回のアイリス様には、今回だけの装いをご用意すべきかと」
「いえ。お気遣いは――」
「アイリス様の美と、我が社のデザイナーたちの総力をもって、我がブランドの名を銀河に轟かすのです!」
…………。
私は少しだけ後ろへ下がった。
「そこまで壮大なお話でしたか?」
「もちろんでございます」
「宣伝への使用は、別途ご相談いただくことになりますが……」
「承知しております。今は、ただお召しになっていただくだけで結構です」
着付け師は、私の背後へ視線を向けた。いつの間にか、別の衣装ケースが開かれている。
「……用意していらしたのですね」
「念のために」
実に、用意周到な方だった。
私が助けを求めて親友へ顔を向けると、セセリアは楽しそうに笑っていた。
「いいじゃん。せっかくだし」
「セセリア?」
「選択肢は多い方がいいんでしょ?」
「……それは」
「よかったねぇ。皆さん、あんたの意見に賛成だって」
彼女が端末を持ち上げる。
「ほら。今度はあたしが撮ってあげる」
……なるほど。
逃げ道は、既に塞がれているらしい。
それから、随分と時間が経った。
いえ。時計を確認したわけではないので、体感にすぎませんが。
「次はこちらを」
「先ほどので、十分ではないでしょうか?」
「大変よくお似合いでした。ですが、こちらもお確かめいただきたく」
そう言われて着替えると、別の方から、さらに候補を差し出される。
セセリアは、すっかり観客に回っていた。
私が仕切りから出るたびに、彼女の端末から撮影音が鳴る。
「……随分とお撮りになりますね」
「記念でしょ?」
「比較ではなかったのですか?」
「どっちにも使えるんだって。さっき教わったけど?」
先ほどの言葉を、そのまま返されてしまった。
おのれ。
「……そろそろ、お決めになってもよろしいのでは?」
「えー? まだ四着くらいしか見てないじゃん。あたしには、もっと着せてたよねぇ」
「大変、参考になったのではないかと」
「うん。あんたが困った顔するの、服によって結構違うんだね」
「比較するところが違いませんか?」
「微妙に表情が違いますので、って?」
実に、よく覚えていらっしゃる。
もっとも、着付け師たちの仕事は見事だった。
ドレスだけではない。
靴、耳飾り、髪の流し方。それぞれを少しずつ変えながら、全体を整えていく。
私自身、途中からは感心して、その仕事を眺めていた。
最終的に決まったのは、白銀を基調としたドレスだった。
首元は上品に閉じ、肩から腰にかけて淡い紫色の刺繍が施されている。身体の線を過度に強調するものではないが、立ったときにも歩いたときにも、美しく見えるように整えられていた。
腰近くまで伸びた髪は、まとめずに背中へ流す。
耳元の銀の飾りが、小さく揺れた。
私は鏡へ目を向ける。
「……なるほど」
確かに、よくできていた。
隣へ来たセセリアのドレスとも、色が喧嘩していない。二人で並ぶことまで考えた仕上がりだった。
「……綺麗じゃん」
セセリアが、ぽつりと言った。
「ありがとうございます」
「何、その顔」
「いえ。セセリアに言われると、嬉しいものですね」
「……審査の参考になるでしょ。あんたみたいに、全部は褒めてないし」
「ええ。大変、貴重なご意見です」
「はいはい」
彼女が顔を逸らした、その向こうで。
着付け師が、静かに両手を組んでいた。
「美しい……神よ。私は、やりきりました」
深い満足を湛えた声だった。
そのまま彼女は椅子へ腰を下ろし、スタッフの一人から差し出された水を受け取る。
実に、晴れやかなお顔である。
セセリアが、とうとう吹き出した。
「……あははっ。よかったね、アイリス。銀河に轟くらしいよ?」
「そのようですね」
「先に、こっちが静かになっちゃったけど」
「十分に休んでいただきましょう」
私は鏡の中の自分を眺め、小さく息を吐いた。
どうやら、こちらにも、仕事に妥協できない方がいらしたらしい。
パーティー当日。
鏡の前で最後の身支度を整えた私は、ふと、生物学上の父親のことを思い出した。
彼が何を思ってこの容姿を設計したのか、その答えは既に知っている。かつては、この姿に込められた意味を考えるだけで、ひどく不快な気分になったものだった。
けれど、今は違う。
父上は、私が好きな服を着ることを喜んでくださる。
セセリアは、私が何を着ていても遠慮なく感想を述べてくれる。
そして、あの着付け師は、どうやら私の容姿に職業上の情熱を見いだしてくださったらしい。
それは少々、熱烈にすぎた気もするが。
少なくとも、今日この装いで出かけることを決めたのは、私自身だった。
それで十分である。
端末が震えた。
『着いた。どこ?』
私はすぐに返信し、待ち合わせ場所へ向かった。
セセリアの姿を見つけ、自然と足が緩む。
一度、拝見している。
写真も、随分と撮らせていただいた。
それでも、こうして改めて見ると、思わず見入ってしまうのだから困ったものだ。
「……アイリス?」
彼女がこちらに気づいた。
「何。また見惚れてんの?」
「はい」
「写真、あんなに撮ったのに? 予習が足りなかったんじゃない?」
「実物には、敵いませんので」
「……ほんっと、否定しないよねぇ」
「事実ですから」
セセリアは小さく息を吐き、私へ腕を差し出した。
「ほら。行くんでしょ?」
「……おや」
「何?」
「エスコートしてくださるのですか?」
「同伴者なんだから、それくらいするけど」
私は、差し出された腕へ手を添えた。
「ありがとうございます。では、お願いいたします」
「はいはい。銀河に轟く前に転ばないでよ」
「気をつけます」
セセリアは私が歩き出すのを待ち、自然に歩調を合わせてくれた。
普段、腕を組んで歩くことは珍しくない。
けれど、こうして彼女に導かれるのは、少しだけ新鮮だった。
インキュベーション・パーティー。
それは、ベネリットグループに所属する企業が、新たな事業や技術を披露し、投資を募る場である。
もっとも、実際にはそれだけではない。
企業間の駆け引き、政治的な思惑、人脈の形成。そして、次の利益を巡る競争。
華やかな会場の裏側では、そうしたものが複雑に絡み合っている。
私は、こういう場が嫌いではなかった。
むしろ、得意な方である。
「これは、コズミック・シードのアイリス代表代理」
「お久しぶりです」
会場へ入って間もなく、系列企業の幹部から声をかけられた。
セセリアは私の歩みが止まるのに合わせて足を止め、軽く会釈した。
「先日の審問会では、随分と興味深いご発言をなさったとか」
「少々、技術的な関心を申し上げただけですよ」
「GUND技術への投資を検討されているのでしょうか?」
「現時点では、そのような計画はございません。技術への関心と、事業としての投資判断は別ですので」
「……なるほど」
「もっとも、興味深い技術であることは確かです。今後の展開には注目しております」
相手は曖昧に頷き、別の話題へ移った。
続いて声をかけてきたのは、試作機の開発状況に関心を持つ企業関係者だった。
「例の独自制御システムについて、共同開発の可能性は?」
「ご提案はありがたいのですが、現在は社内での研究開発を優先しております」
「一部技術のライセンス供与だけでも――」
「技術ごとに検討いたします。具体的な用途と条件を、担当部門へお送りください」
私は笑顔を崩さず、必要な情報だけを渡した。
こうした場では、約束していないことを、約束したように聞こえさせないことが重要である。
それに、試作機に関わる技術は慎重に扱う必要があった。
相手がようやく引き下がると、セセリアが私の腕へ軽く手を添えた。
「ねえ、アイリス」
「はい?」
「そろそろ、あたしにも付き合ってくれない?」
「もちろんです。どちらへ?」
「あっち。おいしそうなの、さっきから気になってたんだけど」
彼女の視線の先には、料理を並べたテーブルがあった。
私は思わず笑う。
「それは失礼しました。すっかり、お待たせしてしまいましたね」
「ほんとだよ。ドレス着せるだけ着せて、後は立たせっぱなし? 展示品の扱いが雑じゃない?」
「お詫びに、何かお取りいたしましょうか?」
「いいよ。あんた、その袖で料理取るの大変でしょ。銀河に轟く染みとか、つけられても困るし」
「……随分と、お気に召しましたね。そのお話」
「しばらく使えるからねぇ」
セセリアに導かれてテーブルへ向かうと、聞き慣れた声がした。
「やあ、二人とも。今日は一段と華やかだね」
シャディク・ゼネリ先輩だった。
「こんばんは、シャディク先輩」
「どーも。先輩も、相変わらずお忙しそうで」
「そんなところ。今日は挨拶しておきたい相手が多くてね」
「さっきから、よく人の輪に呼ばれてますもんねぇ。料理、見てる暇ありました?」
「少しはね。こちらは評判がいいみたいだよ」
先輩は近くの料理へ手を向け、それから私たちの腕へ目を留めた。
「今日はセセリアがエスコート役なんだ?」
「ええ。おかげさまで、大変心強いです」
「放っておくと、ずっと挨拶してるんですよ。この人。食事まで資料で済ませそうだから、回収してきました」
「そこまで不精ではありませんよ?」
「じゃあ、さっき何食べた?」
「……これから、いただこうかと」
「ほらね」
シャディク先輩が笑った。
「それは、引き留めちゃ悪いかな」
「ええ。先輩を待ってる人もいるみたいですし」
セセリアの言葉に、彼が一瞬だけ背後へ視線を向ける。
会場の一角で、企業関係者らしい男性がこちらを窺っていた。
「……よく見てるね」
「目、合っちゃったんで」
彼女は、涼しい顔で答えた。
「では、また後ほど」
「うん。楽しんでいってよ」
軽く手を上げ、先輩は人の輪へ戻っていった。
私はその背中を見送り、セセリアへ顔を向けた。
「本当に、お忙しそうですね」
「だね。さっきから人を紹介して、今度はその人に別の人を紹介してる」
「ご自身の商談だけではないようですね」
「うん。でも、紹介して終わりにはしてないみたい。今も一緒に残ったでしょ」
視線だけで確かめる。
シャディク先輩は二人の男性を引き合わせ、そのまま自然に会話へ加わっていた。
「双方のお話を、把握しておきたいのでしょうか」
「かもね。親切な先輩だよねぇ。おかげで、どっちが困っても相談先は一緒」
私は小さく笑った。
「随分と、含みのあるおっしゃり方ですね」
「褒めてるんだけど?」
セセリアは私をテーブルの端へ導いた。
人の流れを外れた、少し落ち着ける場所だった。
彼女は通りかかった給仕へ私の空のグラスを渡し、代わりに水を受け取って差し出してくれる。
「はい。ずっと喋ってたし、喉、渇いたでしょ」
「ありがとうございます。随分とお気遣いいただいてしまいますね」
「倒れられたら困るし。せっかく着せたドレス、まだ会場で写真撮ってないから」
「試着の際に、十分お撮りになったと思いますが」
「あれは比較用でしょ?」
私は口を閉じた。
その言い方は、少々ずるいのではないだろうか。
セセリアが楽しそうに目を細める。
「ほら、そういう顔。あの人、撮りたかったんじゃない?」
「着付け師の方ですか?」
「うん。最後、ちょっと拝んでたし」
「……情熱的な方でしたね」
「お金払って拝まれるって、なかなかないよねぇ」
私は水を一口飲み、会場へ目を向けかけた。
すると、セセリアが私のグラスへ視線を落としたまま、小さく言った。
「まだ、こっち見てていいよ」
「……何か?」
「さっきの人、あんたが誰と話すか見たいみたいだから」
私は彼女へ視線を戻した。
セセリアは皿へ小さな料理を取りながら、何でもないことのように続ける。
「今、グラスレー系の人たちのところに戻った。そっち見たら、気づいたって分かっちゃうじゃん」
「ご報告に?」
「かもね。話しかける前も、あそこの人と目を合わせてたし」
小さな皿が、私の前へ差し出された。
「これ、食べられる?」
「ええ。ありがとうございます」
「さっきの共同開発の話、立派だったねぇ。何を作るかは、一個も出てこなかったけど」
「具体的な案件をお持ちでないことも、ございますから」
「まあね。でも、あんたが今はどことも組む予定ないって言ったら、そこで安心した顔してた」
私は先ほどの会話を思い返した。
共同開発の提案を断られたことよりも、その後の回答を気にしていた。
そう考えれば、確かに辻褄は合う。
「……提携方針の確認が目的だった可能性は、ございますね」
「本当に技術が欲しいなら、後で担当の人から連絡来るでしょ。挨拶だけで共同開発できたら、皆さん苦労しないし」
「ええ。そのとおりです」
「じゃ、今は食べたら? 断るお仕事は、もう十分したでしょ」
私は、ようやく手元の皿へ目を落とした。
綺麗に盛りつけられた一口大の料理が、二つ。
どちらも、立ったままでも食べやすいものだった。
「……セセリア」
「何?」
「本当に、よく見ていらっしゃいますね」
「食べたそうにしてたの、あんたも同じだったじゃん」
彼女は涼しい顔で、私とは少し違う意味の返事をした。
私は小さく笑い、それ以上は尋ねずに料理を口へ運んだ。
「そういえば、写真、送っていただいておりませんね」
料理をいただきながら申し上げると、セセリアがこちらを見た。
「何の?」
「試着のときのものです」
「自分で見たいの?」
「ええ。あの方々へ、お礼をお伝えする際にも使えるかと思いまして」
「ふーん。都合の悪い顔、消したいだけじゃない?」
「そのようなことは」
「じゃ、全部残しとくね。代表代理の貴重なお姿だし」
「……確認してからでも、遅くはないのでは?」
セセリアが笑った。
その目が、私の肩越しへ一瞬だけ向く。
「あ。あの人、もう少しで空くよ」
「……どちらの方でしょう?」
「あんたが挨拶したがってた人」
さりげなく視線を向けると、目当ての企業責任者が、二人の男性と話していた。
「私が伺いたかった相手だと、ご存じでしたか?」
「招待状見てたとき、そこの資料を二回開いてたじゃん」
私は彼女へ顔を戻した。
セセリアは、皿に残った料理を口へ運んでいる。
「覚えていらしたのですか」
「あんた、気になるところだけ、ちょっと戻って読むから。普段の愛想笑いより分かりやすいよ」
「……それは、気をつけませんと」
「あたし相手にも?」
悪戯っぽく尋ねられ、私は少し考えた。
「いえ。セセリアでしたら、構いませんね」
「……ずいぶん信用されたことで」
彼女はグラスへ口をつけた。
「まだ行かなくていいよ。右の人は帰りたがってるけど、左の人が終わってくれない」
「そうなのですか?」
「さっきから、同じ資料を開き直してる。聞いてる方は、もう端末閉じたのに。熱意があって結構だねぇ」
私は、すぐにそちらを見ないようにした。
代わりに手元の皿を空にする。
少しして、セセリアが私の腕へ指を添えた。
「……今なら。こっち通ろ」
彼女に導かれて歩き出すと、目当ての相手は、ちょうど会話を終えて輪から離れたところだった。
私は自然に挨拶を交わした。
相手も、落ち着いて話せる機会を歓迎してくださったらしい。
会話は思いのほか実りの多いものになり、次回、担当者を交えて具体的な相談をする約束まで取りつけることができた。
その間、セセリアは静かに隣へ立っていた。
紹介すれば愛想よく挨拶をし、話を振られれば、場に合った言葉を返す。
それ以外は、私たちの会話を邪魔することもなく、穏やかな顔で耳を傾けていた。
「ありがとうございました」
相手を見送ってから申し上げると、彼女が首を傾げた。
「何が?」
「よい機会を作っていただきましたので」
「話したのは、あんたでしょ」
「それでも、です」
「じゃあ、今度の水族館、あたしがお土産見てる間も急かさないこと」
「おや。私が急かしたことなど、ございましたか?」
「水槽の前で時間使い切ったの、誰だっけ? 閉館時間に追い出させれば、自分で急かさなくて済むもんねぇ」
「……そのような意図は、ございませんでした」
「知ってる。だから厄介なんじゃん」
「次は、先にお土産屋へ寄りましょう」
「うん。それでいいよ」
セセリアは満足そうに頷き、私の腕を取った。
次の挨拶へ向かおうとしたところで、彼女が何気なく歩く向きを変える。
「あっち、ちょっと混んできたね」
「そうですね。別の方から伺いましょうか」
「うん。今は待った方がよさそう。納入の話、あんまりうまくいってなかったみたいだし」
「……先ほどの方々ですか?」
「端の人が『予定どおりに』って言ったとき、向こうの人、笑わなくなった」
彼女は前を向いたまま言った。
「その後、もう一人が入って、急に展示の話になったから。今、納期を聞きに行ったら、あんたにも展示の説明してくれるかもね」
私は、次の商談で確認しようとしていた内容を思い浮かべた。
確かに、予定どおりの供給が可能かどうかは、聞いておきたいことだった。
「……覚えておきます」
「うん。それより、靴、大丈夫?」
「ええ。痛くはありませんよ」
「ならよかった。あの人、靴まで絶対これって顔してたからねぇ。歩けなかったら、あたしが運ぶことになるじゃん」
「お願いしたら、運んでくださるのですか?」
「すぐ給仕の人に椅子持ってきてもらうよ」
「まあ。残念です」
「そこ、残念がるところ?」
私は笑いながら、彼女に歩調を合わせた。
その後も、会話は途切れなかった。
料理の感想、試着の写真、次に出かける約束。
そうした話の合間に、セセリアは短く言葉を添える。
あの方は、融資の話になると、連れの方へ返事を任せていた。
先ほど紹介された二人は、同じ案件に関心がありそうだが、まだ互いの出方を窺っている。
今は声をかけず、帰り際に挨拶した方がよさそうな相手もいる。
彼女は、それを分析の成果として披露するつもりなどないらしかった。
私が必要とする少し前に、必要なことだけが、世間話の続きを装って渡される。
そのおかげで、私は次の相手と向き合うとき、目の前の会話へ集中できた。
「……あの着付け師の方、お帰りになる前にも写真を撮っていらっしゃいましたね」
「撮ってたねぇ。二人で並んでくださいって」
「私たちの分も、いただけるそうですよ」
「へえ。よかったじゃん」
「ええ。セセリアと並んだものは、私の端末には少ないので」
「そりゃ、自分であんなに撮ってたら、一緒には写れないでしょ。優秀な経営者なのに、分担するの忘れちゃった?」
「次は、どなたかにお願いしましょうか」
「……次も呼ぶ気? あの人、また燃え尽きるよ?」
私は思わず笑った。
そのとき、セセリアの視線が、私の向こうへ流れた。
「……そういえば、ヴァーデン重工って、何かあった?」
「どうしてでしょう?」
「さっき、あそこの人に『次もご一緒に』って言ってたの、聞こえたんだけど」
彼女は歩調を変えずに続けた。
「相手、返事しないで別の人を紹介してた。さっきも同じことされてたから。ずいぶん、お友達が増える夜だねぇ」
私は、コズミック・シードから上がってきた品質是正の報告を思い出した。
「確認すべき案件は、ございますね」
「じゃ、向こうから仕事の話が来ても、その場で次の約束しない方がよさそう」
「ええ。覚えておきます」
「……まあ、単に話が長いだけかもしれないけどー。どっちにしても、休憩中には来てほしくないね」
「それだけの理由でしたら、よいのですが」
「だね」
セセリアは、そこで話を終えた。
推測を事実のように扱わず、判断はこちらへ預ける。
それでいて、私が気づかなかった兆候は、確実に拾っていた。
私は隣の親友を見つめる。
「……何?」
「いえ。お誘いしてよかったと思いまして」
「今さら? あたし、来たときからずっといるんだけど」
「ええ。改めて」
セセリアは一瞬だけこちらを見た後、ふっと笑った。
「じゃあ、ちゃんとあたしにも付き合ってよね」
「もちろんです。次は、どちらへ?」
「もう一回、料理のところ」
「先ほども召し上がっていらっしゃいませんでしたか?」
「あんたが挨拶してる間に、デザート出てきた。お話だけでお腹いっぱいになるの、あんたくらいでしょ」
確かに、先ほどまでなかった小さな菓子が並べられている。
「そちらも、見逃していらっしゃらなかったのですね」
「当たり前じゃん。何のために来たと思ってんの?」
「私の同伴者では?」
「そうだったっけ?」
彼女が楽しそうに笑い、私を導いた。
こちらが仕事をしている間、彼女はただ待っていてくれたのではない。
私と話し、笑い、会場を楽しみながら、その場の動きを把握していた。
しかも、私に余計な負担を感じさせることなく。
……実に、困った方である。
こんなにも自然に隣を任せられてしまっては、ますます、手放したくなくなるではありませんか。