「ヒマリ!」
肩に触れても、反応がない。
「ヒマリ、聞こえるか?」
返事はなかった,
閉じられた瞼は動かず、少し前まで動いていた指も完全に力を失っている。
いつものとは違う。
「……ヒマリ」
ミリオは一度だけ、展開されたモニターへ目を向けた。
個性破壊弾についての資料。
何日もかけて組み上げられたらしい、大量の記録。
そして、その中心にあるのは――自分だった。
ミリオは口を結ぶ。
今は、それを問いただしている場合ではない。
すぐにヒマリの身体へ腕を回した。
慎重に力を入れ、車椅子から抱き上げる。
ヒマリの身体は抵抗することなく、ミリオの腕の中へ収まる。
白い髪が腕からさらりと垂れた。
それでも、目を覚ます気配はない。
ミリオはヒマリを胸元へ抱き寄せるように支え直した。
…普段ならこんな抱き上げ方をすれば、目を吊り上げて文句の一つや二つは飛んでくる。
『私を誰だと思っているのです?』
あるいは。
『もう少し淑女の扱いというものを学んではいかがです?』
「…………」
ミリオの表情から、完全に笑みが消える。
ミリオはヒマリを抱えたまま、部屋を出た。
腕の中の身体を揺らさないよう気をつけながら、足早に廊下を進んでいく。
「ヒマリ、もう少しだからな」
ミリオは腕の中のヒマリを一度だけ見下ろし、そのまま医務室へ向かった。
◇
どれほど経ったのか。
ヒマリの瞼が僅かに動き、ゆっくりと目を開ける。
ぼんやりとした視界に最初に映ったのは、見慣れない白い天井だった。何度か瞬きをするうちに視界が少しずつはっきりし、消毒液の匂いと周囲に並ぶ医療器具から、そこが雄英の医務室だと気づく。
「……ここは」
掠れた声が漏れる。
「ヒマリ」
そして、聞き慣れた声がした。
顔を向けると、ベッドの傍らに置かれた椅子へミリオが座っていた。
「……ミリオ」
「気分はどうだ?」
ヒマリは数秒黙り、自分の状態を確かめるように目を閉じる。
頭が重い。
身体にも力が入りにくい。
それでも、意識は先ほどよりはっきりしている。
「……少々、計算を誤りました」
「…………」
「まさか、この程度で意識を失うとは。どうやら睡眠時間と作業効率の配分に多少の――」
そこで言葉が止まる。
ミリオは笑っていなかった。
いつもなら呆れながらでも笑うはずの彼が、今はただ静かにヒマリを見ている。
「……ミリオ?」
「ヒマリ」
ミリオは静かに呼びかける。
「それはダメだ」
ヒマリが僅かに目を見開いた。
「……何がでしょう?」
「分かってるだろ?」
「私はただ、少々作業時間の見積もりを誤っただけです。それに、今回の解析で得られたものもあります。完全な無駄だったわけでは――」
「そういう話をしてるんじゃないよ」
ヒマリは言葉を失った。
「ここ何日、ちゃんと寝てなかったんだ?」
「寝てはいました」
「何時間?」
「…………」
昼間にも聞かれた質問だった。
その時と同じように、答えは返らなかった。
「飯もちゃんと食べてなかっただろ?」
「最低限は摂取しています」
「足りないから倒れたんじゃないのか?」
「それは……」
「ヒマリ」
名前を呼ばれ、言葉が続かなくなる。
「俺が病院に行ってる間も、ずっとやってたんだろ?」
「…………」
ヒマリは視線を逸らす。
「……時間は有限です」
ようやく出てきたのは、それだった。
「今ある資料だけでは分からないことが多すぎる。だからこそ、少しでも早く可能性を絞る必要があります」
「うん」
「今の段階では、できる保証などありません。そもそも可能なのかどうかさえ分からない」
「うん」
「ですが、不可能だとも決まっていません」
ヒマリはミリオを見る。
「なら、調べる価値はあるでしょう」
「それは分かるよ」
「でしたら――」
「でも」
その一言で止められる。
「俺のためなら、ヒマリが倒れてもいいってことにはならないよ」
「…………」
ヒマリの唇が僅かに開く。
何かを言おうとして。
閉じる。
もう一度、口を開きかけるが言葉は出なかった。
普段なら、いくらでも理屈を並べられる。
けれど今の言葉に対して、何を返せばいいのか分からなかった。
ミリオは続ける。
「俺の個性が戻る方法を探してくれてたことは、嬉しいよ」
ヒマリの指先が動く。
「でもさ」
ミリオの表情は変わらない。
「そのためにヒマリが何日も寝ないで、飯もまともに食べないで、それで最後に倒れるなら……俺は喜べないよ」
「…………」
「ヒマリが自分でやりたいと思って調べることまで、やめろとは言わない」
「でも、自分がどうなってもいいみたいなやり方はダメだ」
「私は、自分がどうなってもいいなどとは――」
そこまで言って、ヒマリは黙る。
睡眠を削り、食事を後回しにし、頭痛がしても作業をやめなかった。
そして最後には、ミリオの目の前で意識を失っている。
それでは、自分の身体を大切にしていたとは言えない。
「…………」
ヒマリは視線を落とす。
ミリオの顔から、まだ笑みは戻っていない。
ヒマリはその表情を見て、ほんの僅かに眉を寄せる。
「……そんな顔を、しないでください」
ミリオは真っ直ぐと視線を向ける。。
ヒマリは目を逸らした。
「似合いませんよ」
声はいつもより小さい。
「あなたは……いつも、馬鹿みたいに笑っている方が似合っています」
少しだけ間があった。
「じゃあ」
ミリオが答える。
「もうこんな無茶はしないでくれ」
「…………」
ヒマリは何も言わない。
「今日はもう終わりだよ」
「ですが、まだ途中の――」
「ヒマリ」
「…………」
ヒマリはしばらく黙ったあと、小さく息を吐く。
「……分かりました」
「うん。じゃあ、今日は休もう」
◇
翌日。
ヒマリの身体は、朝から熱を持っていた。
ベッドへ横になったまま、ほとんど身体を動かさない。眠っているように見えても呼吸は浅く、時折眉を寄せては、うっすらと目を開ける。
ミリオはベッドの傍らに座り、そんなヒマリの看病をしていた。
「ヒマリ」
呼びかけると、少し遅れて瞼が持ち上がる。
「……何です?」
声にはいつものような張りがない。
「大丈夫か?」
「……見れば分かるでしょう。熱があるだけですよ」
「だけって……」
「この程度で大袈裟に騒ぐ必要はありません」
そう言って、ヒマリは再び目を閉じる。
普段なら、多少の体調不良程度で弱音を吐くような人物ではない。熱があろうが咳が出ようが、
『この程度、超天才清楚系病弱美少女たる私にとっては些細なことです』
などと言って平然としている。
いつものように強がってはいるが、その声にはもう余裕がなかった。
「今日は何もしないで休むんだぞ」
「……分かっています」
「ならいいけど」
「さすがに今の状態で作業をするつもりはありませんよ」
そこまで言うと、ヒマリは小さく息を吐いた。
少ししてミリオが水を差し出すと、ヒマリはゆっくりと身体を起こそうとする。
「無理しなくていいよ」
「水くらい、自分で――」
身体を起こそうとするが、腕に思うような力が入らず僅かに傾いたところを、ミリオがすぐに背中から支える。
「ほら」
「…………」
ヒマリは何も言わず、そのまま支えを受け入れた。
数口だけ水を飲むと、再び枕へ身体を預ける。目を閉じるまでに、そう時間はかからなかった。
◇
昼を過ぎた頃。
眠っている時間は増えていたが、眠りは浅く、時折苦しそうに眉を寄せて目を覚ます。
「……暑いですね」
掠れた声が聞こえ、ミリオが顔を上げる。
「朝より熱、上がってるみたいだな」
「そう、ですか……」
ヒマリはぼんやりと天井を見つめた。
「水、飲むか?」
「……少し」
朝とは違い、自分で身体を起こそうとする気力も残っていなかった。
ミリオが身体を支えながら水を渡すと、ヒマリは僅かに口をつける。二口ほど飲んだところで顔を背けた。
「もういいかい?」
「……ええ」
それだけ答えて、再び横になる。
額にかかった白い髪を気にする様子もない。
ミリオが冷やしていたものを替えて戻ってきても、ヒマリは目を閉じたままだった。
しばらくすると呼吸が少し落ち着き、そのまま再び浅い眠りへ落ちていく。
◇
日が傾く頃には、起きている時間の方が短くなっていた。
ヒマリは目を閉じたまま、浅い呼吸を繰り返している。
少しして、ゆっくりと瞼が開いた。
「水、飲めそうか?」
「…………」
少し間を置いて、僅かに頷く。
昼よりも飲める量は少なかった。
口をつけても一口、二口で止まり、そのまま力を抜いて枕へ戻る。
「もういいかい?」
「……ええ」
掠れた声でそれだけ答えると、ヒマリは再び目を閉じる。
しばらくして、呼吸がゆっくりと浅いものへ戻っていく。
◇
夜になる頃には、熱は三十八度台後半まで上がっていた。
ヒマリはほとんど目を覚まさなくなっている。
眠り続けているというより、目を開けてもすぐに意識が沈んでしまうようだった。
ミリオはベッドの傍らから離れず、時折ヒマリの様子を確かめていた。
「…………」
浅い呼吸が続いている。
額へ浮いた汗で、白い前髪が僅かに肌へ張りついていた。
冷やしていたものを替えようとミリオが立ち上がる。
その時だった。
「……ミリオ」
小さな声に、足を止める。
振り返ると、ヒマリの目が薄く開いていた。
「どうした?」
「…………」
焦点の合わない視線が、ゆっくりとミリオを探す。
「……ミリオ?」
「うん」
「…………」
しばらく見つめたあと、ヒマリがもう一度口を開く。
「……本当に?」
ミリオの表情が僅かに変わる。
「本当だよ。ここにいる」
「…………」
それでもヒマリの視線は離れなかった。
本当にそこにいるのか確かめるように、ぼんやりとミリオを見つめている。
やがて瞼がゆっくりと落ちていく。
ミリオが再び動こうとした、その時。
布団の上にあったヒマリの手が僅かに動いた。
何かを探すように指先が伸びるが、思うように力が入らない。
ミリオが気づいて身体を寄せると、指先が服の端へ触れた。
そのまま、弱く掴む。
「ヒマリ?」
「…………」
だが返事はない。
ミリオが僅かに身体を動かすと、服を掴んだ指に力が入る。
しかしそれは、ほんの僅かな力だった。
「……ミリオ」
「うん」
「…………」
唇が動く。
一度目は、声にならなかった。
浅く息をしてから、もう一度。
「……私を、一人にしないで……」
ミリオの目が僅かに見開かれる。
ヒマリは目を閉じたままだった。
服の端を掴んだ指だけが離れない。
「うん」
ミリオは椅子へ座り直した。
「ここにいるよ」
「…………」
返事はない。
それでも、安心したのか、掴んでいた指から少しずつ力が抜けていく。
やがて呼吸も先ほどより穏やかになり、そのまま眠りへ落ちていった。
ミリオは服の端を握ったままの手を外さず、静かにその傍へ座っていた。
◇
翌朝。
窓から差し込む光に、ヒマリはゆっくりと目を開ける。
「…………」
数度瞬きをし、視線を横へ向けると、そこにミリオがいた。
「おはよう、ヒマリ」
「……おはようございます」
声はまだ掠れている。
「気分は?」
「最悪ですね」
ミリオが僅かに笑う。
「そりゃよかった」
「どこを聞いてそう判断したのです?」
「ちゃんと文句言えるくらいには元気になったってことさ」
「……随分と雑な判断ですね」
ヒマリは呆れたように息を吐き、それから少しだけ黙った。
意識を失う直前のことを思い返す。
モニターに並んでいた解析結果。途中で途切れた仮説。そして、身体から力が抜けていった感覚。
目を覚ましたあとに見た、笑っていないミリオの顔まで思い出し、ヒマリは僅かに視線を落とした。
「…………」
しばらくして、ヒマリが口を開く。
「ミリオ」
「ん?」
「…………」
声が続かない。
ヒマリは一度口を閉じ、僅かに視線を逸らす。
それから。
「…………申し訳、ありませんでした」
ミリオが黙る。
ヒマリは続けた。
「あなたに心配をかけたことも……」
一度、言葉を切る。
「あんな顔をさせてしまったことも」
昨日の、笑っていないミリオが頭に残っている。
「私が間違っていました」
静かな声だった。
少しの間を置いて、ヒマリが顔を上げる。
「ただ、一つだけ訂正しておきます」
「うん」
「あなたの個性を取り戻す方法を調べたことそのものを、間違いだったとは思っていません」
ミリオは何も言わず聞く。
「方法がある可能性を知りながら、何もしないという選択を私はできません」
声には、いつもの芯が戻っていた。
「今後も調べます」
「……そっか」
「ええ」
ヒマリは一度目を伏せる。
「ですが」
布団の上で、自分の手を見る。
「そのために、自分の身体を使い潰そうとしたことは……間違いでした」
ミリオの表情が少しだけ和らぐ。
「昨日ちゃんと怒ったからね」
「……ええ。十分すぎるほど理解しました」
「ヒマリが分かってくれたなら、それでいいよ」
そう言って。
ミリオが笑った。
いつもの笑顔だった。
ヒマリはその顔を見つめる。
数秒。
「……何だい?」
「いいえ」
ヒマリは僅かに肩の力を抜いた。
「やはり、そちらの方が似合っていますね」
「何が?」
「こちらの話です」
「そうか?」
「そうなのです」
それ以上は説明しなかった。
ミリオも追及しない。
昨夜。
高熱に浮かされながら、ミリオの服の端を弱く掴んだことも。
何度もそこにいるのか確かめたことも。
そして。
――私を、一人にしないで。
そう口にしたことも。
ミリオは、昨夜のことを何も話さなかった。
今のヒマリの反応を見る限り、昨夜のことは覚えていないらしい。
ヒマリはそんなことも知らず、いつもの笑顔に戻ったミリオへ目を向ける。
この笑顔だけは、昔からどうにも調子が狂う。
まだ二人が今より幼かった頃から。
ずっと。
感想お待ちしてます。