戦闘描写難しい
まだ、明星ヒマリが中学一年生だった頃。
彼女は、他人というものにほとんど興味を持っていなかった。
「明星さんって、親いないんだって」
「孤児院で育ったんでしょ?」
「個性はすごいらしいけど……あの足じゃね」
――聞こえていないとでも思っているのでしょうか。
だからといって、わざわざ振り返る気にもならない。
ヒマリは膝の上に開いた本から目を上げることもなく、静かに次のページをめくる。
両親がいないこと。
歩けないこと。
どちらも事実だ。
だから何だというのだろう。
それで自分が劣る理由にも、哀れまれる理由にもならない。
ヒマリは何事もなかったように、また本へ視線を戻す。
やがて休み時間になると、教室のあちこちで机が動き始める。
昨日見たテレビの話や、放課後にどこへ寄るかといった話で笑い声が上がるなか、ヒマリはその輪に加わることなく、本へ視線を落としたままだった。
誰かの家へ遊びに行く約束。
休日に一緒に出かける予定。
帰り道にどこへ寄るかという相談。
そんな話が、すぐ近くを行き交っている。
ヒマリには、そのどれも縁のないものだった。
放課後も休日も、ヒマリはほとんどの時間を一人で過ごしていた。
それを特別なことだと思ったことはない。
誰かが傍にいることを前提にしなければ、困ることもない。
教室の喧騒をよそに、ヒマリはまた一枚、ページをめくる。
誰かと親しくなろうとも、自分から誰かを求めようとも思わない。
ヒマリにとって、他人との関わりは必要のないものだった。
少なくとも、その日までは。
◇
放課後。
ヒマリはいつものように、一人で帰路についていた。
学校を出てからしばらく進み、商店の並ぶ通りへ差しかかる。
ふと、道の脇から子供の泣き声が聞こえた。
見ると、小さな男の子が一人で立っている。
周囲に保護者らしい姿はない。
迷子だろう。
そう判断したところで、ヒマリは前へ視線を戻しかけた。
その時だった。
「どうしたんだ?」
別の声が聞こえた。
ヒマリが視線を向けると、見覚えのない制服を着た少年が、男の子の前へしゃがみ込んでいた。
金色の髪。
歳はヒマリとそれほど変わらないように見える。
「お母さんとはぐれたのか?」
男の子は泣きながら頷いた。
「そっか。大丈夫だよ。一緒に探そう」
少年はそう言って笑った。
けれど、周囲を見回している様子を見る限り、どこへ連れていけばいいのかまでは分かっていないらしい。
ヒマリは数秒眺めたあと、口を開いた。
「この先へ連れていくより、反対方向へ戻った方がいいですよ」
少年が振り返る。
「え?」
「三百メートルほど戻ったところに交番があります」
ヒマリは来た道を指した。
「この辺りで保護者を探し回るより、そちらへ連れていく方が確実でしょう」
「交番か」
少年は男の子へ目を戻した。
「そこまで一緒に行けそうか?」
男の子が小さく頷く。
少年は立ち上がると、ヒマリへ笑顔を向けた。
「ありがとう。助かったよ」
「私は場所を教えただけですが」
「それでも助かったことには変わらないだろ?」
あまりにも素直に返され、ヒマリは一瞬だけ黙る。
「……そうですか」
ヒマリがそう返すと、少年はもう一度男の子へ向き直った。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
少年は男の子に歩調を合わせ、ゆっくりと歩き出す。
数歩進んだところで、ふと足を止める。
「あ、そうだ」
「俺、通形ミリオ。君は?」
なぜ今、名前を聞く必要があるのだろう。
そう思いながらも、ヒマリは答えた。
「……明星ヒマリです」
「ヒマリか」
一度確かめるように名前を呼ぶ。
「ありがとう、ヒマリ」
「ですから、私は場所を教えただけです」
「そうだったね」
そう言ってミリオは笑った。
「じゃあ、またどこかで」
「……また会うとは限りませんが」
「それもそうか」
否定することもなく、ミリオは男の子と一緒に歩いていく。
ヒマリは離れていく背中をしばらく眺める。
妙な人だとは思ったが、それ以上に気に留める理由もない。
ヒマリは前へ向き直り、再び車椅子を進める。
しばらくすれば忘れる、その程度の出来事のはずだった。
◇
大通りを外れ、住宅と小さな店舗が並ぶ道へ入ると、先ほどまでより人通りが少なくなっていく。
車椅子を進めていると、前方に一台の車が停まっているのが見えた。
歩道へ半分ほど乗り上げた、不自然な停め方であり、運転席にも助手席にも人影はない。
ヒマリが僅かに速度を落とした、その時。
車の陰から一人の男が姿を現した。
男は周囲を一度見回すと、こちらへ視線を向け、そのまま真っ直ぐに距離を詰めてくる。
ヒマリの指が携帯へ動いた。
「そこで止まってください」
男は足を止めない。
「警察へ連絡しますよ」
ヒマリが携帯を操作しようとした、その瞬間だった。
男が一気に距離を詰める。
「騒ぐな」
伸びてきた手が、携帯を持つヒマリの手首を強く掴んだ。
「っ……」
反対の手で口元を塞がれ、身体が背もたれへ押しつけられる。
ヒマリは掴まれた手を引こうとするが、力の差は明らかだった。
男はそのまま携帯を払い落とすと、ヒマリの身体へ腕を回す。
ヒマリも反射的に男の腕へ手をかけるが、押し返せるほどの力はなく、僅かに身をよじる程度の抵抗も簡単に抑え込まれた。
そのまま身体を持ち上げられ、足が地面から離れる。
車椅子だけが、その場に残された。
男はヒマリを抱えたまま、停めてある車へ歩き出した。
その時だった。
「ヒマリ!」
聞き覚えのある声に、ヒマリが顔を上げる。
道の向こうから、つい先ほど別れたばかりの金髪の少年――通形ミリオが走って来ていた。
「その子から離れろ!」
男が振り返った。
「なんだ、てめ――」
ミリオは速度を落とすことなく、そのまま男へ体当たりした。
「ぐっ……!」
不意を突かれた男の身体がよろめき、ヒマリを抱えていた腕が緩む。
そのままヒマリの身体が宙へ投げ出された。
「っ……!」
地面へ落ちる寸前、駆け込んできたミリオがヒマリを抱き留める。
そのまま勢いを殺しきれず、二人は道路へ倒れ込んだ。
鈍い音が響く。
だが、ヒマリに強い衝撃はなかった。
ミリオが彼女を抱え込むようにして、地面との間に身体を入れていたからだ。
「大丈夫か、ヒマリ?」
「……あなたは」
ミリオはすぐに身体を起こし、ヒマリを地面へ座らせると、男との間へ立った。
「なぜ戻ってきたのですか」
「男の子を交番まで連れていって、戻る途中で大きな音が聞こえたんだ」
ミリオが一瞬だけこちらを見る。
「念のため警察にも伝えてきた。大丈夫か?」
「この状況がそう見えるのでしたら、あなたの観察力には問題がありますね」
「確かにそうだね」
あまりにも素直な返答に、ヒマリは僅かに眉を寄せた。
「ともかく、あなたは離れてください」
「それはできないな」
男が苛立ったように声を上げる。
「ガキが。邪魔すんじゃねえ!」
膨れ上がった腕が振るわれ、ミリオが咄嗟に身体を動かす。
その瞬間、拳が触れる寸前で身体の一部が透けたが、完全には間に合わず、肩口を掠めた勢いで大きく体勢を崩した。
「っ……!」
それでも踏みとどまると、そのまま男の懐へ飛び込み、腹へ拳を叩き込む。
「ぐっ……!」
男が後ろへよろめいた。
「ヒマリ、動けるか?」
「足が動きませんので、自力では無理です」
「分かった」
ミリオが近くに残された車椅子へ視線を向けた隙を逃さず、男が踏み込む。
「前を見なさい!」
咄嗟に振り返るが遅く、拳をまともに受けたミリオの身体が道路へ転がった。
「……っ」
頬を擦り、口元から血を滲ませながらも、ミリオはすぐに身体を起こす。
「もうすぐ来るはずだ」
先ほど伝えてきた警察のことだろう。
「それまで、俺が何とかする」
「その必要はありません」
ヒマリは即座に返した。
「もう警察には伝えてあるのでしょう。でしたら、これ以上あなたが傷つく理由はありません」
「でも、君を置いてはいけないだろ?」
ヒマリは僅かに言葉を詰まらせた。
少し前に偶然言葉を交わしただけの関係なのに、なぜ彼は当然のことのように自分の前へ立ち続けるのだろう。
男が再び距離を詰めると、ミリオもヒマリの前へ出た。
振り下ろされた拳を避けながら懐へ入り込もうとするが、その動きはまだ不安定で、わずかに体勢が崩れる。
その時、男の腕がミリオの死角へ回るのがヒマリの目に映った。
「……後ろです!」
ミリオが咄嗟に身を引き、直後、先ほどまで頭のあった場所を男の腕が薙いだ。
「助かった!」
だが、続けざまに放たれた拳までは避けきれない。
脇腹を打たれ、さらに腹へ蹴りを受けたミリオの身体が弾かれ、背中から壁へぶつかった。
「……っ」
ヒマリの指先に力が入る。
ミリオは苦しそうに息を吐きながら壁へ手をつき、それでも立ち上がった。
「もう十分です。聞こえていますか。これ以上続ける合理的な理由は――」
「大丈夫」
ミリオは口元の血を腕で拭いながら笑う。
「絶対助けるから!」
何を根拠に、と思う。
彼自身が傷だらけで、相手の方が明らかに強い。それなのに、ミリオは一度もヒマリへ背中を向けて逃げようとはしなかった。
苛立った男が今度はヒマリへ向かって踏み込み、ミリオもすぐにその前へ出る。
横薙ぎに振るわれた腕を避けようと身を引きかけたが、その先には地面へ座り込んだままのヒマリがいた。
ミリオは避けるのをやめた。
ヒマリを庇うように立ちはだかり、男の一撃を腕で受け止める。
鈍い音が響き、衝撃に押されて片膝が地面についた。
「……なぜ」
思わず声が漏れる。
それでもミリオは倒れず、片膝をついたままヒマリの前から退こうとしない。
ここまでする理由も、自分のために傷つく理由も、ヒマリにはどうしても理解できなかった。
その時、遠くからサイレンの音が響いた。
男の意識がそちらへ逸れた瞬間、ミリオはその隙を逃さず踏み込み、身体ごとぶつかって男をヒマリから遠ざける。
傷だらけのまま迷わず前へ出るその姿に、ヒマリは思わず息を呑んだ。
直後、道の向こうから複数の足音が響く。
「そこまでだ!」
駆けつけたプロヒーローの声だった。
男が取り押さえられるのを確認してから、ミリオはようやく肩の力を抜いた。
ヒマリは何も言えないまま、傷だらけになった少年の背中から目を離すことができなかった。
◇
事件が片付くまで、それほど時間はかからなかった。
ヴィランは拘束され、ヒマリも事情を聞かれていた。
幸い、ヒマリ自身に大きな怪我はない。
救急隊員に車椅子へ戻してもらったあとも、ヒマリの視線は少し離れた場所へ向いていた。
そこでは、ミリオが救急隊員に手当てを受けている。
頬にはガーゼ。
腕には包帯。
制服も汚れ、ところどころ破れている。
その姿を、ヒマリは何度目か分からないほど見ていた。
少し前まで、名前すら知らなかった人間だ。
道端で偶然会った。
ほんの数分、言葉を交わした。
それだけだったはずなのに。
「痛っ」
「動かさないでください」
救急隊員に注意される。
「すみません」
ミリオが困ったように笑った。
その表情を見て、ヒマリは眉を寄せる。
どうして笑っているのだろう。
「押そうか?」
顔を上げる。
いつの間にか、手当てを終えたミリオがすぐそばまで来ていた。
「あなたは何をしているのですか」
「何って?」
「治療中でしょう」
「もう終わったよ」
包帯の巻かれた腕を軽く上げる。
「終わったようには見えません」
そう返しながら、ヒマリは無意識に手首へ触れた。
男に手を押さえられ、携帯を払い落とされた際に捻ったらしく、そこにも簡単な処置が施されている。
ミリオの視線が、その手首へ向いた。
「ヒマリだって怪我してるだろ?」
「この程度なら問題ありません」
「でも、少しは痛いんだろ?」
「……多少は」
「じゃあ、押すよ」
そう言いながら、ミリオは車椅子の後ろへ回ろうとする。
「結構です」
「そっか」
ミリオは素直に足を止めると、それ以上勧めることなくヒマリの隣に立った。
ヒマリはそんな彼を見上げる。
先ほどから、どうしても理解できないことがあった。
「……一つ、聞いてもよろしいですか」
「うん」
「なぜ、あそこまでしたのです?」
ミリオが瞬きをする。
「私たちは、今日初めて会ったばかりです」
「そうだね」
「私はあなたの友人でもなければ、家族でもありません」
「うん」
「助けたところで、あなたには何の利益もない」
ヒマリは包帯へ視線を向ける。
「それどころか、あなたはこれだけ怪我をした」
逃げる機会はいくらでもあった。
ヒーローが来るまで待つこともできた。
それなのに。
「わ、私はあの時、迷っていた子供を見て見ぬふりをしようとしていた人間ですよ」
自分でも、なぜそんなことまで口にしたのか分からない。
「それなのに、どうして……あそこまでしたのです?」
ミリオは少しだけ首を傾けた。
「助けたかったからだよ」
ヒマリは黙る。
「……それだけですか?」
「うん」
「理由になっていません」
「そうかな?」
ミリオは自分の包帯を見た。
「俺には、それで十分なんだけどなぁ」
理解できない。
冗談を言っているようには見えず、見返りを求めている様子もない。
ヒマリはじっと彼を見る。
「俺、ヒーローになりたいんだ」
ミリオが続けた。
「困ってる人をちゃんと助けられる、そういうヒーローに」
「……でしたら」
ヒマリは包帯の巻かれた腕を見る。
「もう少し、自分が怪我をしない方法を考えた方がよろしいのでは?」
「それは……そうだな」
否定するどころか、ミリオは少し困ったように笑った。
「でも、もっと練習すれば何とかなると思うんだ」
「随分と簡単に言いますね」
「できないなら、できるようになるまで頑張ればいいだろ?」
あまりにも迷いのない答えだった。
できなかったことを恥じるでも、落ち込むでもなく、次はできるようになればいい。本当に、それだけのことだと思っているらしい。
やはり変な人だ。
「それに、ヒマリにも助けてもらったしな」
「……私が?」
「さっき、後ろって教えてくれただろ?」
ヒマリは僅かに目を見開いた。
「あれがなかったら、まともに食らってたと思う」
「見えたから言っただけです」
「それでも、俺は助かったよ」
ミリオは当たり前のことのように笑った。
「それに、さっきの男の子だってそうだろ?」
「……あの子が何ですか」
「ヒマリが交番の場所を教えてくれたから、ちゃんと連れていけた」
「私は知っていることを教えただけです」
「うん。でも助かった」
「その程度のことなら、誰にでもできます」
「でも、俺は交番がどこにあるか知らなかったし、さっきも後ろから来るのに気づかなかった」
ヒマリは黙る。
「ヒマリにとっては大したことじゃなくても、俺は助かったんだ」
「……」
「そんなものを、助けたことに数えるのですか」
「数えるよ」
即答だった。
「俺が助かったんだから、それでいいだろ?」
ヒマリは返す言葉を失った。
迷子の男の子に交番の場所を伝えたことも、ミリオの背後から迫る攻撃を知らせたことも、ヒマリにとっては特別な行動ではない。
知っていたから教え、見えたから伝えた。ただ、それだけだ。
「……私には、その程度のことしかしていませんが」
「その程度かどうかは、助かった方が決めるんじゃないか?」
ヒマリは僅かに眉を寄せる。
「ずいぶん勝手な理屈ですね」
「そうかな?」
ミリオは笑った。
「でも、俺は本当に助かったよ」
まただ。
この少年は、ヒマリが何でもないと思っていることを、当然のように「助かった」と言う。
「俺、困ってる人を見たら、自分で何とかしなきゃって思ってたんだ」
ミリオは少しだけ視線を落とした。
「でも今日、ヒマリに教えてもらって思ったんだ」
「……何をです?」
「自分で全部やらなくても、人を助けることってできるんだなって」
ヒマリは黙ってミリオを見る。
「助け方って、一つじゃないんだな」
「……助け方」
「うん」
ミリオは頷いた。
「だから、もしヒマリも誰かを助けたいって思うことがあったら、その時にできることをすればいいんじゃないかな」
「随分と曖昧ですね」
「そう?」
「ええ」
ミリオは少し考えてから、笑った。
「でも、それでその人が笑ってくれたら、俺は嬉しいけどな」
「……笑ってくれたら」
ヒマリは小さくその言葉を繰り返した。
大仰な言葉ではない。ただ、今まで聞いてきた言葉とは、まるで違った。
親がいないことも、歩けないことも、周囲の人間はいつも先にそこへ目を向けた。
ヒマリ自身は、そのたびにくだらないと思っていた。そんなもので自分の価値が決まるはずがないから、聞き流してきた。
けれど、目の前の少年はそんなことには何も触れず、ヒマリが大したことだと思っていなかった行動を、ただ「助かった」と言った。
「……おかしな人ですね、あなたは」
「そうかな?」
「ええ。かなり」
「そっか」
ミリオは笑った。
その笑顔を見ているとなぜか落ち着かず、ヒマリは理由も分からないまま僅かに視線を逸らした。
先ほどまでなら、理解できない相手だと判断して、それで終わっていたはずだった。けれど今は、あれほど傷ついてまで自分を助けたことも、何でもない行動を「助かった」と言ったことも、なぜか頭に残っている。
不思議と、もうどうでもいいとは思えなかった。
今まで誰か一人のことを、こんなにも考え続けたことはない。
少なくとも、その時はまだ、その感情が何かは分からなかった。
「明星さん」
少し離れた場所から声がかかった。迎えが到着したらしい。
ヒマリはそちらを確認してから、ミリオを見る。
「では」
「うん」
ミリオが軽く手を上げる。
「またね、ヒマリ」
「……先ほども言いましたが、私たちは別の学校でしょう。また会うとは限りませんよ」
「そうだね」
それでも、ミリオは笑ったままだった。
「でも、また会えたらいいじゃないか?」
ヒマリは答えなかった。
答える必要はないと思ったはずなのに、その言葉だけは妙に耳に残った。
車椅子を進めてその場を離れ、迎えの車へ移される。扉が閉まっても、窓の向こうにはまだミリオの姿があった。
救急隊員に何かを言われ、包帯の巻かれた腕を押さえながら困ったように笑っている。
やがて車が動き出し、その姿が少しずつ遠ざかっていく。
ヒマリは前を向こうとしたが、すぐには視線を戻せなかった。気づけば、ミリオの姿が見えなくなるまで窓の向こうを目で追っていた。
完全に見えなくなったところで、ようやく前へ向き直る。
いつもと同じ帰り道のはずなのに、静かな車内には先ほどの言葉が残っていた。
――助け方って、一つじゃないんだな。
――その時にできることをすればいいんじゃないかな。
――それでその人が笑ってくれたら、俺は嬉しいけどな。
今までなら、他人の言葉をここまで何度も思い返すことなどなかった。一度覚えたところで、それ以上気に留める理由もない。
けれど、通形ミリオという少年の言葉だけは、どうしても頭から離れなかった。
「……通形、ミリオ」
小さく名前を口にすると、先ほどの笑顔まで浮かんできた。
また会うことはあるのだろうか。
そんな考えが自然に浮かんだことに、ヒマリ自身が僅かに驚く。
誰かが傍にいることを前提にしなければ、困ることもない。
ずっと、そう思っていた。
それなのに今は、もう一度会うかもしれない少年の姿を思い浮かべている。
「……本当に、おかしな人です」
窓の外へ流れていく景色を眺めながら、その日初めて出会った少年の姿と言葉だけが、いつまでもヒマリの頭から離れなかった。
感想お待ちしてます。