雄英高校の校舎には、放課後を迎えた生徒たちの賑やかな余韻が漂っていた。
部活動へ向かう者、寮へ戻る者、教室に残って友人と話している者。
三年生の教室にも、まだ何人かの生徒が残っている。
その一角では、通形ミリオと波動ねじれが机を挟んで話していた。
「それでね、それでね! 先生がすっごく変な顔してたの!」
「ハハハ! それは見たかったなぁ!」
「でしょ? 環もそう思わない?」
突然話を振られ、隣で頬杖をついていた天喰環が顔を上げる。
「……何の話?」
「先生の話だよ?」
「最初、違う話してなかった……?」
「してたっけ?」
「してたよ……」
「何の話?」
「……もういい」
環は諦めたように視線を落とした。
「えー、気になる! 何の話してた?」
「波動が忘れてるのに、俺が覚えてるわけないだろ……」
「そっか!」
「納得するんだ……」
ミリオが堪えきれず笑い出した。
「ハハハ! 環、気にしたら負けだぞ!」
「……ミリオは気にならないの?」
「俺は面白いからいいかな!」
「……やっぱりミリオはすごいな」
「何が?」
「何でもない……」
その時だった。
「おやおや」
教室の入口から、聞き慣れた声が飛んできた。
「相変わらず賑やかですね、皆さん」
白い車椅子が静かに教室へ入ってくる。
明星ヒマリは、いつも通り背筋を伸ばして座っていた。
「ヒマリちゃん!」
ねじれが真っ先に反応する。
「遅かったね! 今日ずっとサポート科にいたの? 何してたの? また何か作ってた?」
「波動さん」
ヒマリが片手を上げた。
「一度にいくつ聞くつもりですか。順番に答えますから、少し落ち着きなさい」
「はーい。じゃあ、今日は何してたの?」
「装備の調整です」
「誰の?」
「二年生から依頼されたものと、教師用の装備を少々。それから――」
ヒマリの視線が環へ向く。
「天喰さんの装備も」
「……俺の?」
環が顔を上げた。
「ええ。先日提出された使用データを確認しましたが、まだ改善できる箇所がありましたので」
「俺、別に使いにくいとは思ってないけど……」
「天喰さん」
「……何?」
「使えることと、最適であることは別問題です」
ヒマリは当然のように言い切った。
「この私が手掛けた以上、『問題なく使える』程度で満足されては困ります」
「……明星らしいな」
「褒め言葉として受け取っておきましょう」
環は少し黙ってから、ヒマリを見た。
「でも、この前直してもらったところは動きやすくなった。タコの吸盤も引っかからなくなったし」
「そうでしょうとも」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ヒマリはそれだけ答えて、何事もなかったように髪を耳へ掛けた。
ねじれが二人を見比べていたが、すぐ別のところへ目を向ける。
「ねえ、ヒマリちゃん」
「今度は何です?」
「今日、髪いつもと違う?」
ヒマリの眉がわずかに上がった。
「ほう。分かりますか?」
「やっぱり! なんかいつもよりつやつやしてる!」
「昨日からトリートメントを変えたのですよ。以前のものも悪くありませんでしたが、こちらの方が私の髪質には合っているようですね」
「どこの?」
「知りたいですか?」
「知りたい!」
「仕方ありませんね。後で教えてあげましょう」
「やった!」
ねじれは椅子をヒマリの方へ寄せ、白い髪を眺める。
「でもヒマリちゃんって、元々すっごくサラサラだよね。何で?」
「それについては簡単です」
ヒマリが胸を張った。
「生まれ持った素材が良いからですね」
「……出た」
環が小さく呟いた。
「何か?」
「何でもない……」
「髪にも素材ってあるの?」
「もちろんです。もっとも、素材だけに甘えていては美しさは維持できません。日頃の手入れも――」
「じゃあ今度一緒に買いに行こうよ!」
ヒマリの説明を待たず、ねじれが身を乗り出した。
「買いに?」
「うん! トリートメントも見たいし、服も見たい!」
「構いませんが、波動さん。人の話は最後まで――」
「あと、どこかでケーキも食べよう!」
「ハァ……ケーキですか?」
「うん! ヒマリちゃんも甘いもの好きでしょ?」
「まあ、嫌いではありませんね」
「じゃあ決まり!」
「まったく、気が早いですね」
そう言いながらも、ヒマリに断る様子はない。
「いつ行く?」
「まずは予定を合わせないといけませんね」
「今度のお休みは?」
「私は構いませんが――」
ねじれがぱっとミリオの方を向いた。
「あ、ミリオも来る?」
「俺?」
話を聞いていたミリオが自分を指差した。
「うん! あと、環も!」
「……俺も?」
環まで顔を上げる。
「四人で行こうよ!」
「予定は空いてるけど、俺はいい……。女子の買い物についていって、店の中でどこにいればいいのか分からなくなるから……」
「俺は大丈夫! 行けるよ!」
ミリオが笑顔で親指を立てる。
「ほら、ミリオは行くって!」
「……じゃあ、考える」
「そこまで悩むことですか?」
ヒマリが呆れたように言う。
「明星には分からないよ……」
「分かりたくもありませんね」
「ヒマリちゃんは行くよね?」
「ええ、もちろんです」
「やった!」
ねじれが嬉しそうに笑う。
「ハハハ! じゃあ荷物は俺が持つよ! せっかくだし四人で行こう!」
「…………」
ヒマリがミリオを見る。
「ヒマリ?」
「いえ。通形さんがそこまで言うのであれば、止める理由もありませんね」
「俺、止められそうだったの?」
「さあ?」
ヒマリは涼しい顔で答えた。
「お昼もみんなで食べようよ!」
ねじれはもう次の話を始めていた。
「いいね! 環は何食べたい?」
「……人が少ないところ」
「料理を聞いているのですが」
「静かなところなら何でもいい……」
ヒマリは少し考える。
「では、個室のある店にしましょう」
環が顔を上げた。
「……いいのか?」
「天喰さんが人混みで沈んでいくのを見るのも面倒ですから」
「沈まないよ……」
「本当ですか?」
「……多分」
「自信ないんだね!」
ねじれが笑った。
それからも話題はころころと変わった。
授業の話から訓練の話になり、訓練の話から食堂の新メニューへ飛び、そこからなぜかねじれが昼休みに見つけた妙な形の雲の話へ戻ってきた。
「だからね、絶対タコだったの!」
「雲が?」
ミリオが聞き返す。
「うん! こう、足みたいなのがいっぱい伸びてて!」
ねじれが両手を広げてみせる。
「……それだけでタコなのか?」
環がぼそりと返す。
「見たら分かるよ! ほんとにタコだったんだから!」
「そうなのか……」
ねじれはそのままヒマリへ顔を向けた。
「ヒマリちゃんも見たら絶対気になったと思う!」
「私なら雲の形より、その時点の気象条件を――」
「嘘だ……」
環がぼそりと言った。
ヒマリが振り向く。
「何がです?」
「明星も絶対見るよ。タコに見えるって言われたら……」
「見ません」
「見ると思うよ!」
ねじれも即座に乗ってきた。
「見ません」
「俺も見ると思うなぁ」
「通形さんまで!?」
「ヒマリ、こういうの意外と気にするじゃないか」
「しません!」
「じゃあ今度見つけたら呼ぶね!」
「呼ばなくて結構です!」
ねじれは「絶対呼ぶ」と楽しそうに笑っていた。
しばらくして、ミリオが時計を見た。
「そういえばヒマリ、今日はずっと工房にいたのか?」
「ええ」
「朝から?」
「そうですが」
「お昼は?」
「食べましたよ」
「何食べたの?」
ねじれが聞く。
ヒマリの返事が少し遅れた。
「……栄養補助ゼリーを」
環が顔を上げた。
「それだけ?」
「必要な栄養は摂取しています」
「また作業に集中してたんだろ……」
「忘れていたわけではありませんよ」
「じゃあ、なんでゼリーだけなの?」
「時間効率を考えた結果です」
ミリオが苦笑した。
「前もそれで寝落ちしてなかったか?」
「記憶にありませんね」
「俺は覚えてるぞ!」
「通形さんは余計なことばかり覚えていますね」
「ヒマリちゃん、お腹空いてない?」
「この程度、どうということは――」
そこで言葉が止まった。
「ヒマリ?」
「どうという……ことは……」
瞼がゆっくりと落ちる。
頭が少し傾き、
「すやぁ……」
と、小さな寝息が聞こえた。
「あ、寝た」
ねじれが言った。
「寝たなぁ」
「……朝から工房にいたなら、そりゃ寝るよ」
環は時計を見てから呟いた。
ミリオは席を立つと、ヒマリの車椅子の横へ回った。
操作部へ手を伸ばし、背もたれをゆっくり倒す。途中で一度止め、ヒマリの頭の位置を見てから、ほんの少しだけ角度を戻した。
「これくらいだったよな?」
「うん。それ以上だと髪が崩れるって怒るよ」
「前にずっと文句言ってた……」
「当然です……」
かすかな声に、三人の視線がヒマリへ向く。
目は閉じたままだった。
「私の……完璧な髪型を……崩すなど……」
そこまで言って、また静かになる。
「……寝た?」
ねじれが小声で聞く。
ミリオがヒマリの顔を覗き込み、少し笑った。
「寝たみたいだね」
ミリオはずれていた膝掛けを直し、ねじれはヒマリの前に置かれていた端末を閉じた。環も床へ落ちそうになっていたペンを拾い、車椅子の収納へ戻す。
「起こす?」
「いや、もう少し寝かせておこう」
「教室閉める時間になったら?」
「その時に起こせばいいさ」
「うん」
ねじれは頷くと、声を少し落として話を続けた。
しばらくして、ヒマリの指先が動いた。
「……ん」
ゆっくり目を開き、何度か瞬きをし、三人を見る。
「おはよう、ヒマリ!」
ミリオが声をかけた。
「…………」
ヒマリは無言で背もたれを起こす。
乱れていないか確かめるように白髪を手で整えてから、ミリオを見た。
「通形さん」
「ん?」
「どのくらい経ちました?」
「そんなに長くないよ」
「そうですか」
それだけ答えると、ヒマリは閉じられていた端末へ手を伸ばす。
「ヒマリちゃん、よく寝てたね!」
その手が止まった。
「…………」
「ヒマリ?」
「何のことでしょう?」
「寝てたこと!」
「寝ていません」
「寝てたよ?」
「寝ていません」
「……やっぱり言うんだ」
環が小さく呟いた。
「天喰さん?」
「何でもない……」
ミリオが吹き出した。
「ハハハ!」
「通形さんまで何がおかしいのです?」
「ごめんごめん!」
「まったく……」
ヒマリはまだ何か言いたそうだったが、ミリオは鞄を持って立ち上がった。
「そろそろ行こうか。腹も減ったしね!」
「賛成!」
ねじれも立ち上がる。
環も鞄を肩に掛けた。
「……俺も帰る」
「では行きましょうか」
ヒマリが車椅子を教室の出口へ向ける。
「あ、そうだ!」
「今度は何です?」
「さっきの買い物!」
「忘れていませんよ」
「ケーキのお店、私が探していい?」
「構いませんが、勝手に予約しないでくださいよ」
「分かった!」
「その返事、信用していいのでしょうね?」
「ねえ環、何ケーキが好き?」
「……俺も行くことになってるのか?」
「行くよ!」
「まだ考えるって……」
ミリオが環の肩へ腕を回した。
「四人で行こう!」
「ミリオ……近い……」
「久しぶりだしいいじゃないか!」
「それは……そうだけど」
「諦めなさい、天喰さん」
ヒマリが横から口を挟む。
「こうなったお二人から逃げるのは不可能ですよ」
「明星は助けてくれないのか……」
「私も行きますので」
「……そうだった」
「忘れていたのですか?」
「違う……そういう意味じゃない……」
教室を出て、四人で廊下を進む。
「そうだ、ヒマリ」
「何です?」
「今日、晩飯はちゃんと食べるんだぞ!」
「子供扱いしないでいただけますか?」
「昼がゼリーだけだっただろ?」
「それとこれとは別問題です」
「じゃあ、これからみんなで食堂行こうよ!」
ねじれがヒマリの横から声をかける。
「そうですね……」
ヒマリは少し考え、
「仕方ありません。付き合ってあげましょう」
「やった!」
「ヒマリも腹減ってるんじゃないのか?」
ミリオが笑う。
「通形さん」
「ん?」
「余計なことを言わない」
「ハハハ!」
「何がおかしいのです!」
「明星、廊下で大声出すと目立つぞ……」
「誰のせいだと思っているのですか、天喰さん!」
「俺じゃないだろ……」
「環、逃げろ!」
「なんでそうなるんだよ……!」
「通形さん!?」
ミリオが笑いながら環の背中を押す。
「待って待って、私も行く!」
ねじれがその後を追う。
「まったく、あなたたちは……!」
ヒマリも車椅子を加速させた。