「明星。少しいいか」
サポート科の開発工房で作業をしていたヒマリは、聞き慣れた声に手を止める。
入口に立っていたのは相澤だった。
「おや、相澤先生ではありませんか。わざわざこの私の工房まで足を運ぶとは、ついにサポート科の技術力の重要性を――」
「話がある」
「最後まで言わせてください」
ヒマリは不満そうに眉を寄せたが、相澤の表情を見て口を閉じた。
いつもの作業時間についての説教ではないらしい。
車椅子を操作し、展開していたモニターとキーボードを収納する。
「それで、何でしょうか?」
「ここでは話せない」
相澤はそれだけ言って廊下へ出た。
ヒマリは一度だけ首を傾げながらも、車椅子を動かして後に続く。
案内されたのは普段使っている教室でも、教師たちの職員室でもなかった。
人通りの少ない場所にある小さな会議室の前で相澤が足を止める。
「今から話す内容には、外部に漏らせない情報が含まれている」
「なるほど」
ヒマリの表情から、先ほどまでの軽さが少し消えた。
「守秘義務というわけですね」
「ああ」
「でしたら問題ありません。この私を誰だと――」
言いかけて、ヒマリは止める。
「……随分と深刻そうですね」
「入れば分かる」
相澤が扉を開ける。
ヒマリは車椅子を進めた。
会議室の机には、いくつかの資料が置かれおり、今の彼女に必要な情報だけが選ばれているらしい。
ヒマリはそれを一瞥してから相澤を見る。
「私を呼んだということは、サポート科関連での依頼ですか?」
「その可能性がある」
「可能性?」
「ああ。まだ作戦の全容が決まったわけじゃない。だが、必要になった時にすぐ動けるよう、お前には先に話しておく」
相澤が椅子を引いた。
ヒマリはその向かいに車椅子を止める。
「指定敵団体、死穢八斎會については知ってるか」
「名前程度なら」
ヒマリは即答した。
「極道組織。現在では勢力を大きく縮小しているはずですが」
「ああ。今、警察と複数のヒーロー事務所が合同でそいつらを調べている」
「……なるほど」
そこまでなら、ヒマリを呼ぶ理由としては弱い。
彼女は続きを待った。
相澤も余計な前置きはしなかった。
「インターンに出ているうちの生徒も、この件に関わっている」
ヒマリの指が、アームレストの上で止まる。
「うちの生徒?」
「緑谷。それと――」
一拍置かれ
「通形だ」
ヒマリは何も言わなかった。
ただ、相澤を見ていた目が僅かに細くなる。
数日前の工房。
いつもと違うミリオ。
返事をするまでの僅かな間。
『……ちょっと、インターンで色々あってね』
「続けてください」
相澤が頷いた。
「二人はインターン中、一人の少女と接触した」
机の上に一枚の資料が置かれる。
ヒマリは視線を落とした。
記載されている情報は少ない。
名前。
壊理。
年齢も、詳しい素性も分からない。
「壊理……」
ヒマリが小さく読み上げる。
「通称はエリ。死穢八斎會の若頭、治崎廻と一緒にいた」
「治崎廻」
その名前は知っていた。
死穢八斎會若頭。
オーバーホール。
ヒマリは資料から顔を上げる。
「その少女は、死穢八斎會の関係者なのですか?」
「少なくとも治崎は、自分の娘だと説明した」
「……説明?」
相澤の言葉の選び方に、ヒマリが反応する。
「事
ヒマリは再び資料へ目を落とした。
「ミリオと緑谷さんは、その子とどのように接触を?」
「路地で突然、緑谷にしがみついてきたらしい」
ヒマリの視線が止まる。
「……しがみついた?」
「ああ。その直後に治崎が現れた」
「その子の様子は?」
「治崎を明らかに怖がっていたそうだ」
ヒマリから返事はない。
「身体には複数の傷があり腕には包帯も巻かれていたそうだ」
「…………」
「治崎は娘がよく怪我をすると説明していたそうだが、緑谷も通形も不自然だと感じている」
ヒマリの指先が、膝掛けの上で僅かに動いた。
「……その少女と接触したのは、いつですか?」
相澤が日時を答える。
ヒマリは黙った。
数秒。
壁に掛けられた時計の秒針だけが進む。
「…………なるほど」
小さな声だった。
「それで、あの日ミリオは……」
相澤がヒマリを見る。
ヒマリはそれ以上何も言わず、資料へ視線を戻した。
あの日。
ミリオは何かを隠していた。
けれど、話せない事情があるのなら無理に聞かないと、自分で決めた。
『それはまだ言えないかな』
その意味が、ようやく繋がった。
「通形が何も話さなかったことは――」
「分かっています」
ヒマリが静かに遮った。
「話せる内容ではなかったのでしょう?」
「ああ」
「でしたら、それだけです」
話せなかった。
それ以上でも、それ以下でもない。
「続けてください」
相澤は僅かに目を細めた後、次の資料を手に取った。
「死穢八斎會を調べる中で、別の問題が出てきた」
「別の問題?」
「個性に作用する薬物だ」
ヒマリの目が資料へ向く。
「個性に?」
「ああ。まだ調査中だが、通常の違法薬物とは性質が違う」
「効果は?」
「個性そのものに影響を与える可能性がある」
ヒマリの表情が変わる。
今までより深く資料へ目を落とした。
「現物は?」
「お前には渡せない」
「でしょうね」
捜査中の証拠物を、いくら雄英のサポート科とはいえ学生へ渡せるはずがない。
「それで、私にはどこまで開示できますか?」
「現時点では概要だけだ」
「十分です。続けてください」
相澤は資料を一枚めくった。
「調査の結果、その薬物とエリの個性に関連がある可能性が出てきた」
その直後ヒマリの顔から、最後まで残っていた普段の余裕が消えた。
「……確認します」
「ああ」
「その薬物は、エリという少女の個性を利用して製造されている可能性がある、と?」
「その可能性が高いと見られている」
「個性を、ですか?」
「それだけじゃない」
相澤の声が低くなる。
「少女自身の身体が、製造に利用されている可能性がある」
「…………」
先ほどまで資料を追っていた目が、一点で止まっている。
「……身体を」
「ああ」
「利用している?」
「現時点ではそう見られている」
ヒマリはゆっくりと顔を上げた。
「身体に複数の傷があった、と言いましたね」
「ああ」
「治崎を恐れていたと」
「ああ」
「緑谷さんへしがみついた」
相澤は頷いた。
ヒマリは口を閉ざす。
机の上の資料に書かれていることは多くない。
それでも、エリがどんな状況に置かれているのかは察せられた。
「……そうですか」
それだけ言って、ヒマリは資料から目を離した。
普段のヒマリなら、分からないことをそのままにはしない。
だが今は、資料を前に黙り込んでいた。
「明星」
「続けてください」
「今話せるのはここまでだ」
ヒマリが相澤を見る。
「具体的な製造方法や、エリの個性についての詳細は?」
「不明だ。それに、まだ確定していない情報も多い」
ヒマリは数秒考えた後、頷いた。
「分かりました」
「警察とプロヒーロー側が調査を続けている。今はそっちに任せろ」
「ええ」
相澤はヒマリへ向き直る。
「今後、作戦に参加するヒーローや生徒の装備について、急な調整が必要になる可能性がある。現時点では確定じゃないが、準備だけはしておきたい」
ヒマリは静かに聞いていた。
「お前なら短時間でも対応できる範囲が広い」
「なるほど。だから私を呼んだのですね」
「ああ」
ヒマリは机の上の資料へ目を向けた。
「その子は、今も治崎のところに?」
「そうだ」
短い返答だった。
ヒマリの手が膝掛けの上で止まる。
「保護は?」
「まだできていない」
「居場所は?」
「調査中だ」
「……そうですか」
ヒマリは目を伏せた。
エリはまだ治崎のもとにいる。
それでも今は、警察とプロヒーローの調査を待つしかない。
ヒマリはゆっくり息を吐いた。
「……許し難いですね」
相澤は何も言わなかった。
「子供一人を自分たちの目的のために利用する。しかも、身体まで」
ヒマリの声は静かなままだった。
「随分と品性に欠けた方々のようで」
いつものような芝居がかった調子は消え、声から普段の軽さも消えていた。
相澤はその様子をしばらく見てから口を開く。
「だからこそ、慎重に動く必要がある」
「ええ」
ヒマリは即答した。
「私が今から死穢八斎會のネットワークへ侵入し、情報を抜き出すこともできますが」
「やめろ」
「……やはりですか」
「侵入したことが向こうに気付かれれば、捜査を察知される。証拠を消されるだけならまだいい。エリを別の場所へ移される可能性もある」
ヒマリは僅かに目を細めた。
「それは困りますね」
「だから今は何もするな」
「分かりました」
相澤が資料をまとめ始めると、ヒマリの表情はまた静かになる。
「相澤先生」
「何だ」
「一つだけ」
ヒマリは机の上から相澤へ視線を移した。
「ミリオたちは、その子を助けるつもりなのですよね」
「ああ」
迷いのない返答だった。
「緑谷も、通形もな」
ヒマリは小さく頷いた。
あの日のミリオの姿が浮かぶ。
いつもと違うミリオ。
あの時、何があったのか。
何を見て、何を考えながら雄英へ戻ってきたのか。
今なら分かる。
『……無茶はしないでくださいね』
自分はそう言った。
事情も知らずに。
それでも、ミリオは最後に頷いてくれた。
『ああ。分かったよ、ヒマリ』
ヒマリは目を閉じ、短く息を吐く。
そして、再び相澤を見る。
「私にできることを教えてください」
相澤の手が止まった。
「明星」
「現場に同行させてほしいとは言いません。捜査資料をすべて開示してほしいとも言いません」
ヒマリはまっすぐ相澤を見る。
「必要な装備の点検、調整、解析。私に許可できる範囲で構いません」
一度だけ資料へ視線を落とす。
そこにある名前は一つ。
壊理。
まだ会ったこともない少女だった。
「その子を助けるために必要なことがあるのなら」
ヒマリは顔を上げた。
「私にできることを教えてください」
相澤はしばらくヒマリを見ていた。
「先に言っておくが、これは強制じゃない」
ヒマリが相澤を見る。
「お前はサポート科の生徒だ。この件に協力する義務があるわけじゃない。断っても構わない」
「承知しています」
ヒマリは迷わず答えた。
「その上で、引き受けます」
相澤は短く頷いた。
「分かった」
「では――」
「ただし条件がある」
ヒマリの眉が僅かに上がる。
「独断では動くな。開示されていない情報を勝手に探るな。作業時間もこっちの指示に従ってもらう」
「最後の一つだけ妙では?」
「お前には必要だ」
「この私の完璧な自己管理能力を信用していただきたいものですね」
「昨日何時まで作業してた」
「…………」
「明星」
「本件と無関係な質問には回答を差し控えます」
相澤がため息をつく。
ヒマリは少しだけ顔を逸らした後、もう一度机の上の資料を見た。
その表情から、笑みが消える。
「……分かりました」
今度の返事には、冗談は混じっていなかった。
「指示には従います」
「ああ」
「ですから」
ヒマリは資料に記された少女の名前を見つめる。
「必要になったら、すぐに呼んでください」
相澤は短く頷いた。
「そのつもりだ」
会議室の中が静かになる。
ヒマリはもう一度だけ、その名前を目で追った。
壊理。
昨日まで、存在すら知らなかった少女。
それでも今は、その少女がまだ治崎のもとにいるという事実だけが、妙に重く残っていた。
ヒマリはアームレストへ手を置く。
「では、戻ります」
「ああ」
車椅子が静かに動き出す。
扉の前まで進んだところで、ヒマリは一度だけ止まった。
振り返らないまま口を開く。
「相澤先生」
「何だ」
「必ず、助けるのでしょう?」
相澤は少しだけ間を置いた。
「そのために動いてる」
ヒマリはそれ以上何も言わなかった。
扉が開く。
「……そうですか」
小さく呟き、廊下へ出る。
扉が閉じる。
ヒマリはそのまま工房へ戻っていった。
廊下を進んでいても、頭から離れない名前がある。
壊理。
工房へ戻れば、やることはいくらでもある。
今はまだ直接手を出せない。それなら、呼ばれた時にすぐ動けるよう準備しておけばいい。
ヒマリはそう考えながら、工房へ向かった。
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