相澤から死穢八斎會について聞かされてから、数日が経った。
その間に捜査は進み、突入作戦の日程も決まっている。
そして、作戦を翌日に控えた放課後。
サポート科の開発工房で、ヒマリは一人、モニターに表示された確認表へ目を通していた。
協力を引き受けて以来、自分に任された仕事は一つずつ片付けている。
必要な資料の整理。
技術面から確認するよう求められた情報の抽出。
装備に関する点検や調整。
自分に任された範囲を越えて、余計なことに手を出すつもりはない。
今は、自分にできることを確実に終わらせればいい。
ヒマリは確認表の最後まで目を通すと、指先で画面を閉じた。
残っているのは、あと一つだけだった。
ほどなくして、工房の外から足音が近づいてくる。
「ヒマリ、今いいか?」
聞き慣れた声に、ヒマリが顔を上げる。
入口に立っていたのはミリオだ。
片手には、ヒーローコスチュームを収めたケースを持っている。
「おや」
ヒマリは車椅子を回した。
「ようやく来ましたか、通形さん」
「遅かったかな?」
「いいえ。予定通りです。では、そちらを」
ミリオが持っていたケースを作業台へ置く。
ヒマリもその横へ車椅子を進めた。
ミリオが留め具を外す。
中に収められているのは、彼が現在使用しているヒーローコスチュームだ。
ヒマリはそれを受け取ると、作業台の上へ丁寧に広げる。
明日は実戦だ。
今必要なのは、使い慣れた装備を確実に使える状態にして送り出すことだ。
「では、始めます」
「頼むよ」
ヒマリが手元を操作すると、作業台の横に置かれていた測定器が起動する。
薄い光がコスチュームの表面をゆっくりと走り、読み取られた情報が車椅子のモニターへ表示されていく。
ヒマリは繊維の状態を確認しながら、過去の点検記録を呼び出す。今回の結果と照らし合わせ、以前から負荷のかかっていた箇所にも変化がないか、一つずつ確かめていく。
ミリオは作業台の向こうから、その様子を眺めている。
しばらくして、ヒマリの指が止まる。気になった箇所をもう一度拡大し、別の記録と照らし合わせたあと、再度測定器を走らせる。
「……問題ありませんね」
「そこ、何かあったのか?」
「念のため確認しただけです」
「そっか」
ヒマリは次へ進む。
少しして、また手が止まる。
今度はコスチュームの位置を僅かに変え、測定器を当て直す。
数秒。
「……こちらも問題なし」
「ヒマリ」
「何です?」
「今日、いつもより細かくないか?」
ヒマリの指がほんの一瞬だけ止まり、すぐに画面の操作を再開する。
「何を言っているのです」
「いや、同じところ何回か見てるからさ」
「実戦前の最終確認ですよ」
ヒマリはモニターから目を離さずに答える。
「普段より慎重になるのは当然でしょう」
「そういうもんか」
「そういうものです」
きっぱりと言い切る。
ミリオは「なるほどなぁ」と頷き、それ以上は何も言わない。
ヒマリも再び作業へ集中する。
数値を確認する。
過去の記録と比べる。
少しでも気になるところがあれば、もう一度見る。
異常がないと分かっても、その次へ進む前に一拍置く。
普段ならもっと早く終わっている。
それを一番よく分かっているのは、ヒマリ自身だ。
だが、手を抜く理由はない。
明日、これを身につけてミリオは現場へ向かう。
だから細部まで確認する。
「ヒマリ」
「今度は何です?」
「俺、何かした方がいいか?」
「何もしないでください」
「即答だなぁ」
「検査中の装備に不用意に触れられる方が困りますので」
「じゃあ見てるよ」
「お好きにどうぞ」
ミリオは本当にそのまま見ている。
ヒマリが画面を切り替えるたび、視線もなんとなくそちらについてくる。
もっとも、表示されている内容の大半は専門的なものだ。
数分もすると、ミリオが首を傾げる。
「これ、何見てるんだ?」
「説明してほしいのですか?」
「俺にも分かるかな?」
「三時間ほどあれば、基礎から教えて差し上げますよ」
「そんなにかかるのか?」
「当然です。この超天才清楚系病弱美少女技術者の知識を、数分程度で理解できると思わないことですね」
ようやく、いつもの調子が戻る。
ミリオが笑う。
「ハハハ! じゃあ今回はやめとくよ」
「賢明な判断ですね」
「でも、ヒマリがちゃんと見てくれてるなら安心だな」
ヒマリの指が止まる。
「…………」
「ん?」
ミリオはただ笑っている。
他意などないのだろう。
いつものことだ。
ヒマリは小さく息を吐き、何事もなかったように画面へ視線を戻す。
「当然でしょう」
「うん」
「誰が確認していると思っているのです?」
「ヒマリ」
「そういう意味ではありません」
「違ったか?」
「まったく……」
ヒマリは僅かに顎を上げる。
「雄英が誇る超天才清楚系病弱美少女技術者、この明星ヒマリが直々に確認しているのですよ。安心するのは結構ですが、もう少しありがたみを理解していただきたいものですね」
「分かってるよ」
ミリオは迷いなく返す。
「頼りにしてる」
「…………」
また指が止まる。
ミリオは相変わらず何も気づいていない。
ヒマリは視線を少しだけ横へ逸らす。
「……でしたら、大人しく待っていてください」
「分かった」
いつもこうだ。
本人はただ思ったことを言っているだけなのだろう。
だから余計に質が悪い。
ヒマリは小さく咳払いをして、最終確認へ戻る。
それからしばらく、工房には機器の小さな作動音だけが続く。
最後の測定結果が表示される。
ヒマリはすぐには何も言わず、最初から順に記録を見直していく。
一度確認した箇所も、もう一度。
それが終わると、過去のデータとの比較結果にも目を通す。
問題はない。
分かっている。
それでも最後まで確認する。
そして、ようやくヒマリの手が止まる。
「……問題ありません」
静かな声だった。
ミリオが顔を上げる。
「終わったか?」
「ええ」
ヒマリは測定器を停止させる。
「使用に支障となる異常はありません。明日はこのまま使用して問題ありませんよ」
「そっか」
ミリオが笑う。
「それなら安心だ」
「当然です」
ヒマリは胸を張る。
「この私が問題ないと判断したのですから」
「うん。ありがとう、ヒマリ。助かったよ」
「…………」
ヒマリは少しだけ視線を逸らす。
「礼など不要です」
「でも、やってもらったんだから言うだろ?」
「それは……そうですが」
軽く咳払いする。
「まあ、どうしても感謝したいというのであれば、受け取ってあげましょう」
「うん」
ミリオが笑う。
ヒマリは返事をせず、作業台の上のコスチュームへ手を伸ばす。
測定器を外し、広げていたそれを元の形へ戻していく。
折り目を整え、ケースの中へ収める。
最後に留め具を閉じる。
「どうぞ」
ヒマリがケースを差し出す。ミリオがそれを受け取ると、ヒマリは作業台の片付けに取りかかる。
だが、明日になればミリオはそのコスチュームを身につけ、死穢八斎會のもとへ向かう。
あの少女を助けるために。
「これで、私からあなたにする確認はすべて終了です」
「分かった」
「今日はきちんと休んでください」
「大丈夫。ちゃんと休むよ」
「明日になって寝不足などと言われても困りますので」
「心配しなくても大丈夫だって」
「別に心配しているとは言っていませんが?」
「そうだったか?」
「そうです」
ミリオが笑う。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
「ええ」
ヒマリはいつも通りに答える。
工房の出口へ向かうミリオの背中を、ヒマリは黙って見送る。自分にできることは、もう済ませた。
あとは彼らに託すだけだ。
ミリオが扉へ手を伸ばす。
「ミリオ」
その手が止まり、ミリオが振り返る。
「ん?」
いつもの顔だ。
明るく、真っ直ぐで。
ヒマリは彼を見たまま、言葉を飲み込む。
無茶はしないでください。
一度はそんな言葉が浮かんだ。
けれど、ヒマリの脳裏に浮かんだのは、あの少女だった。
壊理。
治崎を恐れ、身体にいくつもの傷を負っていた少女。
今も、助けを必要としている。
ヒマリは僅かに息を吸う。
「……あの子を――」
一度、言葉が途切れる。
ヒマリはもう一度口を開く。
「助けてあげてください」
その言葉に、ミリオの表情が変わり、真っ直ぐにヒマリを見つめる。
「うん」
迷いのない返事だった。
「絶対に助けるよ」
ヒマリは数秒、ミリオを見つめる。
それから小さく頷く。
「……お願いします」
「ああ」
ミリオが笑う。
ヒマリはそれ以上何も言わず、ミリオを見送った。
扉が閉まり、足音が少しずつ遠ざかっていく。
やがて工房に静けさが戻る。
ヒマリはしばらく閉じた扉を見つめたあと、ゆっくりと車椅子を作業台へ向けた。
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