俺は男と結婚したくないのになんで公爵令嬢で聖女なんだよ! 作:本郷カキツバタ
「聖女様にお会いできると聞いて、昨日から入口を磨いていた者がおりまして」
六月十二日。
王都大神殿の救護院で、俺を迎えた女性がそう言った。
「まあ。わざわざ、ありがとうございます」
俺のためにそこまでしてもらうのはなんだか申し訳ないな。
目の前の女性は、マルタ・エルネと名乗った。治療師で、救護院の実務を預かっているという。四十代ほどの落ち着いた人だ。俺が立っている間にも、彼女の後ろでは担架が通り、薬品を持った職員が別の部屋へ急いでいった。
「まず、こちらをご覧ください。聖女様の治癒を必要としている方だけが、患者ではありませんから」
案内されたのは、治療室ではなく受付だった。
長椅子には、腕を布で吊った少年と、その母親らしい女性。奥では老人が職員に歩き方を確かめてもらっている。薬の受け取りだけで帰る人もいる。
「すべての方を、こちらで診ていらっしゃるのですか?」
「ええ。すべてを治癒魔法で治すわけではありません。使える者も限られますし、まず必要なのは、何が起きているかを調べることです」
光属性の適性を持つ人間は、ほかの属性に比べて珍しい。俺もレストも持っているから、あって当然だと無意識に思っていたが、そうか。治癒魔法を使える人が少ない中で、治療を回さないといけないんだな。
マルタが受付の記録を示した。
「地方からもお話が来ています。こちらへ運んでよい状態か、現地の治療師で対応できるか。そういうことも決めなくてはなりません」
「聖女だからといって、遠くの患者を全員お呼びするわけにはいかないのですね」
「連れてくる途中で具合を悪くしては、何のための治療か分かりませんもの」
正論だ。
三日前に神託院で話を聞いた時は、紙の上の話だった。
今、目の前の長椅子には人が座っている。俺が魔法をかければ全員帰れる、なんて話じゃない。
俺がどれだけ魔力を持っていても、馬車が速くなるわけではない。それに、あの雑貨店主のお母さんが自力でここまで来られるかどうかも、まだ知らない。
「ひとつ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「私の治癒が役に立つ方は、どうやって決まるのでしょう」
「今日は、そのお話をしたいと思っていました」
マルタは静かに頷き、俺を奥へ案内した。
小さな診察室には、三十代くらいの男性が待っていた。
右の袖は普通に通しているが、左の袖は肘のあたりから折り返してある。
「春に、作業場で事故に遭われた方です」
マルタが紹介すると、男性は椅子から立ち上がった。
「初めまして、聖女様」
「初めまして。どうか、そのままで」
俺が向かいの椅子へ座ると、彼も腰を下ろした。
「今日は見学の予定だと伺っていましたが、診ていただけるかもしれないと聞きまして」
「はい。ただ、私もお話を伺ったばかりなのです。まず、マルタ様からお聞きしてもよろしいでしょうか」
マルタは、これまでの処置と傷の状態を説明した。出血と感染の危険はすでに落ち着いている。右腕だけでできるよう仕事を変えたものの、以前のように道具を扱うことは難しいという。
「傷を塞いで、骨をつなぐところまでは、私たちにもできます。失ったものを戻すのは、聖女様の記録の中だけの話でした」
「職人をやっておりまして。今は材料の確認ばかりです。家の者は、無理をしなくていいと言ってくれるんですが」
男性は右手で左の袖を整えた。
「……自分で作った物を、また人に使ってもらいたいんです」
何を作る職人かは、尋ねなかった。
そうか。もう一度、自分の手で作りたいんだな。生き甲斐、というやつなのかもしれない。それを事故で失うのは、苦しいだろう。
「……治療のお話は、どこまでお聞きになっていますか?」
「腕が戻る可能性があると。ただ、必ずとは言えないとも」
「私は治癒魔法を使えます。でも、お身体を確かめず、何でも治せると申し上げることはできません」
「はい」
「もし治療ができたとしても、すぐに以前のお仕事へ戻れるかどうかは、別に確かめなくてはならないと伺いました」
マルタが頷き、言葉を継いだ。
「戻った部分は、長く使っていなかったのと同じ状態です。感覚や動きは治療後に調べます。日を置いて、もう一度診ることも必要です」
男性はうつむいて考えた。
急がせる理由はない。俺がどれだけ早く治せるつもりでいても、決めるのはこの人だ。
しばらくして、彼が顔を上げた。
「お願いします。治療を受けたいです」
「承知しました」
短い返事なのに、喉が渇いた。
怖いわけじゃない。
いや、嘘だな。
俺の力が足りないことより、助けたいと思った相手を助けられなかった時のことが怖い。
テオやアルの擦り傷なら、何度も治したことがある。でも、ここまでの傷は初めてだ。聖女といっても、神様は猫だ。そんな俺が、本当にこの人の腕を治せるのか……?
「では、こちらで準備しましょう」
マルタの声で、我に返った。
考え込んでも仕方がない。今は俺ができることを精一杯やろう。
◇
治療の前に、マルタともう一人の治療師が傷の状態を確かめた。男性にも、途中で違和感があればすぐ知らせるよう説明する。
俺は洗った手を、左腕のそばにかざした。
光を流し込めば、それで終わり。……だったら、どんなに楽か。
怖い。本当に治してあげられるのだろうか。
俺は集中して光を彼の左腕に集める。残っている腕の形を確かめながら、失われた部分へ力を届かせる。
どこまでが腕だったか。指の先まで、どうつながっていたか。関節の一つ一つ、筋肉の筋を丁寧に思い描きながら治癒魔法を使う。
「……痛みはございませんか」
「今は……温かいです」
男性の返事を聞き、手を止めずに続けた。
淡い光が、折り返された袖の下を照らす。
失われていた部分に、徐々に輪郭が生まれてきた。
肘の先から手首、掌、五本の指へと、光が人の腕の形を作っていく。
緊張と今までにない集中で時間の感覚が曖昧になる。魔力はまだ十分にある。焦るな。いける。丁寧に思い描いて魔力を集めろ。
「……指が」
男性が声を漏らした。
俺は最後に指先まで形を確かめて、ようやく魔法を止めた。
そこには、左手があった。
男性はしばらく動かなかった。右手を持ち上げ、新しい左の指先へ触れる。
「触っているのが、分かる」
言い終える前に、彼は口を結んだ。
よかった……。ちゃんと腕が戻った。俺が治せたんだ。
……いや、待て。ちゃんと動くのか? こんな怪我を治すのは初めてだ。上手くできたのか、急に怖くなってきた。見た目だけ戻って動かなかったら、どうすればいい!?
「動かせそうですか」
思わず尋ねると、マルタから声が飛んだ。
「聖女様。そこからは私の仕事です」
「……はい」
やってしまった。
力を使い終えた瞬間、検査の順番を飛ばしかけた。そうだ。俺が一番落ち着け。
椅子から立とうとして、膝に力が入らなかった。魔力はまだ残っているのに、頭の芯がじんと痺れている。指の一本一本まで、思い描き続けたせいだ。
重い傷を治すほど体にも負担がかかる、と大神官長が言っていたのは、こういうことか。
マルタは男性の手を支え、指を一本ずつ動かしてもらった。触れた場所が分かるか確かめ、腕の曲げ伸ばしも見ていく。
「今日は、できる範囲だけですよ。道具を持つのは、次に状態を見てからにしましょう」
「はい。でも、動くんです」
「それは、私も見ています」
マルタの返事は素っ気ないくらいだった。
でも、男性の手首を支える手は離さない。患者がまた指を動かしてみせると、今度は彼女も小さく笑った。
ああ。この人がここにいてくれて、本当によかった。安心感が違う。
そして、猫神様。俺に加護を与えてくれてありがとうございます。この前会った時は色々言ったかもしれないけど、猫神様のおかげで治療ができました。
◇
廊下へ出ると、ユリウスが待っていた。
「マルタ様から、欠損部の再生があったと」
「はい。治療は終わりました。今、検査をしてくださっています」
「記録でしか拝見したことがありませんでしたが、実際に起きるとは……」
彼は手元の紙へ視線を落とし、書きかけの行を見直した。
「日時だけは、先に記録してもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
驚きながら仕事を忘れない人だ。
少し安心する。
室内から、男性の笑う声がした。続いて、何か言葉が詰まったような声。
俺が診察室を横目で見ると、マルタが入口から顔を出した。
「聖女様。患者さんから、もう一度お礼をお伝えしたいと」
「承知いたしました。すぐに参ります」
ユリウスに一言断ってから診察室へ戻る。
男性は椅子に座り、両手を膝へ載せていた。
「本当に、ありがとうございました」
「こちらこそ。治療を受けてくださって、ありがとうございます」
「まだ仕事を再開してはいけないそうです」
「そうなのですね。では、しばらくは動かす練習でしょうか」
「そうみたいです。家族にも言っておきます。きっと道具を持つと怒られますから」
言いながら、今度は笑った。
家族が怒る理由も分かる。俺がその立場でも、心配が勝って怒るかもしれないしな。
「では、お大事になさってください。動かす練習も、頑張ってくださいね」
「はい。また来ます。先生に、ちゃんと動くところを見てもらわないといけないので」
男性が見たのは、俺ではなくマルタだった。
うん。今にも道具を握りそうなこの人を止められるのは、俺じゃない。
マルタは無言で微笑んでいた。ちょっと怖い……。
◇
「聖女様がいらっしゃる日に、同じ治療を希望する方が増えるでしょうね」
マルタは受付の机へ戻る途中で言った。
「そうでしょうか」
「ええ。今日の方の話が伝われば。ですが、全員に同じ治療が必要とは限りません」
「救護院で、先に診ていただくのですね」
「はい。そして、治せないこともある。亡くなった方を呼び戻せるわけではありませんから」
治癒魔法で、死んだ人を生き返らせることはできない。
でも、さっきの人は腕を取り戻した。だったら、ほかにも助けられる人がいるんじゃないか。
一人治せたから、もう十分。そうは思ってもらえないだろうし、俺自身も思えそうになかった。
「……次に伺う時も、患者さんのことを教えていただけますか」
「喜んで。ただし、診察の邪魔をなさらない範囲で」
「気をつけます……」
マルタが笑った。
「先ほどは、検査を始めるところを少々急がれましたからね」
「それは……。申し訳ありません」
「悪いことばかりではありませんよ。助けたいから、確かめたくなるのでしょう」
マルタはそこで、少しだけ声を落とした。
「それから、次からは、セレスティア様とお呼びしてもよろしいですか。ここで聖女様とお呼びすると、待っている方々が身構えてしまいますので」
「ええ。そのほうが、私も助かります」
救護院の奥では、次の患者を呼ぶ声がした。
俺が今日治療できたのは、一人だ。
あの人が仕事へ戻れるかは、これからマルタたちが見ていく。
傷が治りました。はい終わり! とはいかない。
帰り際、入口で職員に尋ねられた。
「次回のご訪問は、儀礼のある日と重ならないようにいたしましょうか」
「……儀礼?」
「はい。来週は、聖女様にも礼拝をご覧いただく予定でして」
礼拝。
そうだった。俺は聖女なんだった。
初めて大怪我を治す仕事で頭がいっぱいだったが、そっちもあった。
神様なら知っている。直接会った。撫でた。
でも、礼拝で厳かに祈ろうとしたら、思い浮かぶのはあの猫だ。
腕を治せたときには感謝したけど、聖女として、これで大丈夫なの……か?