俺は男と結婚したくないのになんで公爵令嬢で聖女なんだよ! 作:本郷カキツバタ
少し真面目な話が続きます。
第十六話 弱き者を助くために、強くあれ
「替えの靴下は、あと三組お持ちください」
荷物を確かめていた侍女に言われ、俺は袋の中を覗いた。
「十組入っているわよ?」
「濡れたままお履きになるわけにもまいりませんでしょう。乾かせるとは限りませんし」
なるほど。それはそうだ。
「ではお願い。靴も予備を一足。荷物が増えるけれど、馬車に載せられるかしら」
「護衛の方に確認してまいります」
七月十八日。
俺は北東部へ向かう支度をしていた。
フィルネ川の上流で降り続いた雨が、川沿いの村々を水浸しにしている。救護院へ届いた最初の報告から、雨は弱まるどころか何度も強くなった。現地で足りない人手と薬品を調べ、移動できる治療師を揃え、王宮が護衛と道を確かめる。その間にも、届く被害の知らせは増えていった。
俺は聖女として救護院の一行に加わる。もちろん、行きたいと言っただけで連れていってもらえたわけじゃない。両親と救護院、王家と神殿会がそれぞれ許して、俺が現場で何をするかまで決めてある。
髪をまとめ直し、旅用の上着の袖を留める。
荷物の中には、治療に必要なものがほとんど入っていない。強いて言えば、治療に要るのは俺の治癒魔法だが、それは荷物に入らない。
あとは、救護院の馬車へまとめた道具が、無事に現地まで届くといいんだが……。
「セレスティア」
廊下から母の声がした。
「もう支度は終わった?」
「はい。あとは荷物だけです」
母は室内を一度見回し、旅用の袋を手に取って重さを確かめた。
「あなたが持つ分は、これだけでいいのね」
「ええ。ほかの方が使う治療の道具は、救護院でまとめてくださいますから」
「そう。初めての遠征だけれど、無事で帰ってきなさいね」
「はい、お母様」
いつもなら、ここで「心配しすぎですよ」と言うかもしれない。
だが、初めて行く被災地に何が待っているのか、俺にも分からない。大丈夫だと言えるほどのものを、俺はまだ何も持っていない。
「帰りましたら、お話ししたいこともたくさんあると思います」
「ええ。いいことでも、よくなかったことでもね。聖女だからといって気負いすぎないことよ」
母が俺の肩に触れてから部屋を出た。
よし。靴下は十三組。母との約束もした。
あとは、聖女としての務めをちゃんと果たすだけだ。
◇
王都を離れる前、救護院の馬車の横でマルタが荷の数を確認していた。
「セレスティア様、こちらへ。現地へ着くまでに一度、予定を合わせておきましょう」
「はい。よろしくお願いいたします」
「現地で最初にお話を聞くのは私です。診察をした上で、セレスティア様にお願いする患者を決めます。途中で急患が出た時も、まず私に知らせてください」
「分かりました」
「……お返事が早くて助かります」
「前に、検査を始める前に先走ってしまいましたから」
「覚えていらしたのですね」
忘れられるか。腕を戻したばかりの患者に、俺が真っ先に「動きますか」と聞いて止められたんだぞ。
「今回は、言われる前に止まります」
「できれば、止まる必要のない順番で進めましょう」
ふふ、とマルタが笑った。
……ごもっともです。
少し離れたところでは、レストが現地へ向かう騎士団の者と話していた。地図の端を押さえ、橋を避ける道筋を確かめている。俺の方を見ると一度だけ頷いた。
俺も頷き返す。
今日は二人で菓子を食っている時じゃない。向こうへ着いたら、俺もレストもそれぞれ別の仕事が待っている。
◇
十八日に王都を発ってから、途中の宿場で二晩を過ごした。雨で傷んだ道を避けるたびに予定が延び、馬車の中で何度も地図を確かめた。
七月二十日。
村へ近づくにつれ、車輪が泥を跳ねる音が変わった。
舗装の良い街道は途中までだ。ぬかるんだ道では馬車を急がせられず、先を行く騎士が地面の具合を見ている。窓から見えた畑には水が残り、柵へ引っかかった枝が流れの向きを示していた。
リーヴァ村に着いた時、最初に聞こえたのは鐘でも人の叫びでもなく、木槌を打つ音だった。
村の入口で板を張っている男が二人。荷車に麻袋を積み直している女が一人。誰も俺たちの到着を待っている様子はない。
それでいい。むしろ、俺たちを迎えるために作業が止まったら困る。
入口を通り、先行していた騎士に案内されたのは、村の集会所だった。
床に上げた荷の間を人が行き来している。濡れた布の匂いと煮炊きの湯気。入口近くでは、泥を落とした靴がずらりと並んでいた。
俺の靴も、もう泥の色だ。予備を足しておいて正解だったな……。
「救護にいらした方ですね。こちらです」
若い記録係がマルタを奥へ案内しかけ、俺に気づいて足を止める。
「……聖女様?」
「セレスティア・レーヴェルです。治療のお手伝いに参りました」
「失礼しました。急いでおりまして」
「お気になさらず。お仕事の途中でしょう?」
「はい。奥で二人、診ていただきたい方が」
すぐに歩き始めた彼女の後を追う。
紹介の挨拶を省いてくれて助かった。この人、さっきから何度も手元の紙を見ている。俺が来たかどうかより、患者の居場所が気になって仕方がないんだろう。
救護の部屋では、足に添え木を当てた男の子が横になっていた。隣の寝台には、息をするたび顔をしかめる年配の女性。
「この方は今朝から胸の痛みが強くなっています」
現地の治療師がマルタへ説明する。男の子の母親は、俺を見て腰を浮かしかけた。
「聖女様、うちの子を――」
「まず、先生のお話を聞かせてください」
そう答えるしかなかった。俺には、どちらが先かまだ分からない。
マルタと現地の治療師が順番に診る。年配の女性は肋骨を痛め、熱もあるらしい。男の子の足は骨が折れているが、添え木がきちんと当てられ、痛みも落ち着いている。
「先に、こちらの方をお願いできますか」
マルタが示したのは年配の女性だった。
「はい」
男の子の母親が、こちらを見た。
「お子様も、後ほど診せていただきます。今は添え木をそのままにしていてくださいね」
女性は何か言いかけ、それから息子の方へ座り直した。
俺の「後ほど」が、どれほど長く感じられるか。
考えないわけにはいかない。でも、今、俺が順番を変える理由はない。
年配の女性に治療の説明をし、頷いてもらってから光を集める。肋骨の傷んだところを探り、呼吸に合わせて治癒魔法をかけた。痛みの原因が他にないかは、マルタが引き続き診てくれる。
額の汗を拭いた女性が、ようやく大きく息を吸った。
「……ああ、痛くない」
「無理に起き上がらないでくださいね」
「言うことを聞かなかったら、またここへ戻されるよ」
現地の治療師が横から言う。
女性は口を尖らせた。
「家の窓が開きっぱなしなのさ」
「今は家に帰れないって、何度もお話ししましたよ」
何度も。
……元気になったとたんに帰りたがるのは、いいことなんだろうけどな。
次に男の子の足を治した。添え木を外すのは治療師に頼み、骨の位置を確かめる。骨そのものを繋ぐ時間は短く済んだが、痛みが消えたからといって立たせてはもらえない。
「もう走れる?」
「今日は歩くところまでです」
現地の治療師が言った。
「明日は?」
「明日、もう一度診てから」
「明後日は?」
母親が額を押さえた。
俺は笑いをこらえた。
大変だな、お母さん。治る前も治ったあとも、子供は容赦がないからな。
◇
夕方、集会所の食事場で、毛布の配分について小さな騒ぎが起きた。
「西の礼拝堂には、昨日の分しか届いていません」
先ほどの記録係が言った。
「いや、帳面では三十枚になっている」
補給担当の男が控えを出す。
「三十枚、渡しましたよ」
「三十枚あっても、あちらで寝る人は四十人を超えています」
「それは今朝増えた人数でしょう。私は昨日の数で運んだんです」
どちらも嘘は言っていないように聞こえる。
俺は帳面を覗いて、日付を確かめた。昨日渡した三十枚。今朝移った人が十二人。まだ橋の向こうに足止めされている荷車が二台。
「この十二人は、今日のうちに移った方ですか?」
「はい。川沿いの家からこちらへ。足の悪い方もいて、近いところで休んでもらうことにしたんです」
「では、今日の人数で、枚数を出し直さないといけませんね」
補給担当が渋い顔をした。
「足りない分を分けようにも、こちらも余りは少ないですよ」
「ほかの避難所も、今夜使う分を減らすわけにはいきませんものね」
俺が言うと、彼は頷いた。
なるほど。足りないのは毛布そのものか。
「現地の責任者へ、今の人数を伝えていただけますか。どの荷がいつ届く見込みかも、改めて確かめたいのですが」
「もう尋ねてますよ。ただ、橋があれでは……」
そこへ別の職員が入ってきた。
「殿下のところから返事です。東の道を回る荷車を増やせるそうです。ただ、今夜には間に合わないと」
間に合わない。
三十枚で、四十人あまり。どう割っても、一人一枚にはならない。
記録係が、机に広げていた村の略図を引き寄せた。
「集会所の奥を使えるようにします。床板は乾いていますし、そこなら一か所で分けられる」
「西の礼拝堂から動ける人だけ移すんですか」
「移るだけでは、毛布が足りないままです。無事だった家に乾いた毛布を借りられないか聞いてきます。貸していただいた分は、数と持ち主を控えておきます」
「お願いできますか。もちろん、無理に出していただくわけにはいきませんから」
「分かっています。持ってきてもらう場所も決めておきます」
彼女は言いながら、壁にかかった帳簿を取った。
俺が考えつくより早い。というか、そうだよな。どの建物のどこが使えるか、一番知っているのは村の人だ。
「では、救護の方でも移動してよい患者さんを確認します」
マルタが立ち上がる。
「私も参ります」
「聖女様は、こちらへ。次の治療をお願いしたい方がいらっしゃいます」
別の治療師に呼び止められた。
「……承知しました。マルタ様、よろしくお願いいたします」
「はい。お戻りになったら、またお話ししましょう」
集会所の奥へ向かう人々の足音が遠ざかる。
そうだな。俺には俺の役割がある。俺は次の患者が待つ部屋へ戻った。
◇
日が暮れる頃、レストが集会所の裏口から入ってきた。
濡れた外套を外し、護衛に渡す。頬に疲れは見えるが、足取りはいつもどおりだ。
「殿下、東の道の件、ありがとうございます」
記録係が頭を下げた。
「礼なら、迂回路を確かめてくれた運送業者へ。日が暮れてから荷車を動かすのは危険だから、明朝の便を増やすことにしたよ。毛布は足りたかな?」
「はい。高台の家から、乾いた毛布を分けていただけました。借りた先も記録しています。今夜の分は何とか確保できました」
「よかった。明日の人数の報告を頼めるかな」
「承知しました」
彼女が机へ戻る。レストは俺を見て、少しだけ声を和らげた。
「セレスティア。そちらはどう?」
「皆様が、順番に診てくださっています。私も治療をお手伝いしています」
「そうか。無理はしていない?」
「マルタ様が止めてくださいますので」
少し離れたところでマルタが振り向いた。
「必要な時には、止めますよ」
「それは有難いね」
レストが笑い、俺もつられて笑った。
「外の様子は、いかがですか」
俺が尋ねると、レストは少し声を落とした。
「フェルド橋は荷車の通行を止めている。東回りの道は使えるけれど、泥で速度が出ない。王都への知らせも、村の職員が騎馬の伝令に託しているところだ。近くの管轄行政庁に《伝信晶》があるからそこから送る。返事は伝令が村へ運んでくるまで待つしかない」
レストは窓の外へ目をやった。
屋根を打つ音は、まだ止まない。
「……まだ、雨は降りますか」
「上流では続く見込みだそうだ。川の水位を見ながら、動ける範囲で進めるよ」
俺はうなずいた。
橋も道も、毛布も、寝る場所も。治癒魔法で直せないものの方が多いじゃないか。
聖女は万能ではない、か。
レストが次の報告へ向かうのを見送ったあと、マルタが俺のところへ戻ってきた。
「明日は、早くから診察が入ります。今夜は休んでください」
「はい。……あの、まだ大丈夫なのですが」
「そうおっしゃると思いました」
また見抜かれた。
魔力は余っている。もっと治療しようと思えばできる。
でも、明日も怪我人は来る。俺が頭を働かせられなくなったら、困るのは患者の方だ。
「分かりました。寝ます」
「本当に?」
「……努力します」
マルタは呆れたように笑った。
部屋へ向かおうとした時、入口の護衛が外から戻ってきた別の騎士に声をかけた。
「森の見回りは?」
「足跡が増えている。昨日まで人の通らない斜面にいた群れが、川沿いまで下りてきたらしい」
思わず俺は振り向いた。
「……魔物、ですか?」
「はい。上の山が崩れて、棲み処を追われたようです。まだ村には入っていませんが、近くに来るのも時間の問題かと」
騎士は言いながら、泥のついた地図を机へ広げた。
今夜、ようやく寝床を決めた人たちがいる。支援物資も届き始めて、治療もできるようになってきたんだ。
そのすぐ近くに、別の危険が来ている。
ふざけるな……勘弁してくれよ。雨だけでも、もう十分だろ……。