俺は男と結婚したくないのになんで公爵令嬢で聖女なんだよ! 作:本郷カキツバタ
「それでは、私は先に戻るよ」
「はい。道中、お気をつけください」
七月二十四日の朝。
リーヴァ村の入口には、王都へ戻る馬車が一台と、その前後を固める騎士たちが並んでいた。雨は上がっているものの、馬の脚はもう泥だらけだ。御者が車輪の脇を確かめている。
俺はマルタや現地の職員と一緒に、レストの見送りに来ていた。
ここ数日で避難路はどうにか通れるようになった。ただ、フェルド橋はまだ使えないし、家へ戻れない人も多い。
「修理の手配は、こちらの担当者に引き継いだ。何かあれば、いつもの経路で王宮へ知らせてほしい」
「承知しました。救護の方も、マルタ様と相談して報告をお送りします」
近くには騎士も職員もいる。俺はいつもどおりに答え、礼をした。
レストは馬車へ乗り込む前に、俺の顔を見た。
「そうだ。帰ったら、君の好きな本屋へ寄れるように時間を作ろうか」
「……このところ、本を開く時間もあまりありませんでしたね」
「私もだ。帰ったら、一度くらいは仕事以外の話をしたい」
「それはぜひ。殿下が珍しく、先におっしゃいましたね」
「珍しく、は余計かな」
馬車の扉が閉まり、騎士たちが動き出した。俺は曲がり角へ消えていく車体を見送る。
見慣れた顔が見えなくなったところで、背後からマルタに呼ばれた。
「セレスティア様。午後の診察について、少しよろしいですか」
「はい。すぐに参ります」
俺もまだ仕事がある。
レストの方は、王都に着いたらまた山ほど仕事があるんだろうな。せめて馬車の中くらい、寝ていればいいのに。
◇
レストがいなくなっても、村では同じように朝が来る。
具合の悪い人を診て、薬の残りを調べ、避難所へ移った患者の通院方法を相談する。最初の頃に比べて怪我人は減ったが、今度は「いつ家へ帰れるか」という相談が増えた。
「窓を開けて、せめて布団だけでも干したいんだけどねえ」
先日、肋骨を治した女性が言う。寝台へ腰掛けたまま、膝に置いた手で掛け布を何度も撫でていた。
「川沿いのお家でしたね。床下まで水が入ったと伺っています。まずは建物を見てもらいましょう」
マルタが答える。
「そんなことをしている間に、何もかもかびてしまうよ」
「お気持ちは分かります。でも、咳をするたび胸を押さえておられるでしょう。今は休んでください」
女性は渋々頷いた。
分かる。自分の家のことだ。人に頼むより自分で確かめたいだろう。……もっとも、この人はさっきから立ち上がるたびにマルタに睨まれている。こう続くと、俺も止める側に回る。
「お布団のことは、避難所の担当の方に相談してみますね」
「聖女様が持ってきてくれるのかい?」
「いえ、私が干すわけでは……。できる方にお願いできないか、聞いてみます」
危ない。俺が運びに行く話になるところだった。
マルタが横から咳払いをする。
「セレスティア様には、このあとも治癒の予定がございますから」
「……承知しております」
患者が笑った。
助けたいのは本当だ。でも俺が一枚ずつ布団を運んでいたら、救護院の馬車で来た意味がなくなる。分かっているんだけどなあ。
昼食の時、例の若い記録係にその話をした。
「よくありますよ。昨日なんて、鍵を取りに戻ると言い張った方が二人。まだ立入禁止だとお伝えしているのに」
「鍵、ですか」
「戸締まりが気になって眠れないんですって。私も気持ちは分かるので、困りました」
記録係は汁物を吹き冷まして口に運んだ。机の隅には、避難先の変更を記した紙が積まれている。
この人も随分忙しそうだ。患者の居場所に、毛布の数に、今度は家の鍵まで。
「そういえば、通りの菓子店が明日から開けるそうですよ」
「お菓子のお店が?」
「ええ。棚を直しながららしいですが。お店が開けば、皆さんも少しは気が晴れるでしょう」
その言葉より先に、頭に浮かんだものがある。
黄金色の髪と、菓子の皿を前にして妙に慎重になる男の顔だ。
……いや、菓子の話をされたんだから、甘党の知り合いを思い出してもおかしくない。
レスト、今頃は馬車の中か。ちゃんと食事は取っているんだろうな。菓子だけで済ませていないだろうな。
「聖女様も甘い物がお好きですか」
「ええ。時々いただきます」
「でしたらぜひ。最初のお客さんになってあげてください」
「そうですね。休憩の時間に伺えたら」
俺も焼き菓子は好きだ。
別に、土産を買うためとは限らない。……買ってもいいけど。
◇
二十五日。
朝から少しだけ青空が見えた。
泥の残る庭先に洗った布が干され、壊れた柵のそばには新しい板が積まれている。復旧したと呼ぶには早い。それでも、村の人たちは昨日より一つ多く仕事を片付けようとしていた。
その中に、見覚えのある靴下が並んでいた。俺のだ。十三組あっても、泥の中では一組も余らなかった。
後で「ありがとう」って言っておかないとな。
昼過ぎ、マルタに休憩を命じられた。
「昨日も遅くまで記録を読んでいらしたでしょう。今日こそお休みください」
「まだ診る方が……」
「次の方は夕方です。今ここにいらしても、診察は早まりませんよ」
……その言い方はずるい。
護衛の騎士に道の様子を確認してもらい、一人についてきてもらった。
菓子店は集会所から歩ける距離にある。表の戸は開いていたが、店主らしい男性が木槌を持って棚と格闘していた。
「こんにちは。もう、お買い物はできますか」
「これは、これは……聖女様。半分だけ、というところです」
店主は木槌を下ろし、奥の台へ手を伸ばした。
「ここに並べた物でしたら、お売りできます。棚は、明日にはどうにかなるはずです」
台の上には、蜂蜜と木の実を練り込んだ焼き菓子がいくつか並んでいた。温かい甘い匂いに、焼いた木の実の香ばしさが混ざっている。
……こんな匂いを嗅いだのは、村へ来てから初めてかもしれない。
「こちらは、どのくらい日持ちしますか」
「硬く焼けば一週間ほど。ただ、湿気だけは気をつけてください。今日のは、少し柔らかいんです」
「王都へのお土産にしたいのですが、硬めの物をお願いできますか」
「できますとも。明日、まとめて焼きましょう」
よかった。それなら帰るまで保つ。
いや、まずは味だな。食わずにレストへ渡して、俺だけ知らないのも癪だ。
「今日の分を、一ついただけますか」
「どうぞ」
買った菓子を割ると、硬そうな見た目に反してほろりと崩れた。蜂蜜の甘さのあとに、炒った木の実の味が残る。
……美味い。
これ、あいつ絶対好きだろ。
菓子を口へ運ぶレストを想像して、つい笑いそうになった。初めは遠慮して一つ取る。そのうち俺の皿を見て、余っていないか確かめる。八年も見ていれば手に取るように分かる。
「いかがです?」
「とても美味しいです。明日の分を、少し多めにお願いしてもよろしいでしょうか」
「もちろん。ご家族へのお土産ですか」
「家族にも。それから、甘い物に目がない方がいまして」
「そりゃ、蜂蜜を惜しめませんね」
店主が愉快そうに笑った。
「店が開けられて、よかったです。娘に、もう休んだらどうかと何度も言われていたんですがね」
「お店は大丈夫だったのですか」
「床は濡れましたが、窯は無事でした。明日の分を焼けるなら、まだ店を閉めるわけにはいかんでしょう」
店主は直しかけの棚を見た。傷のついた木板に、新しい釘が打ってある。
俺が治せるのは怪我だ。棚は直せないし、この店の菓子も作れない。
でも、買うことはできる。
「では、私の分も一つ増やしてください」
「おや。明日まで待てますか」
「……一日くらいは」
笑われてしまった。
違うぞ。俺はレストほど甘党じゃない。念のために言っておく。誰にだ。
◇
二十六日の午後。
同じ護衛についてもらい、菓子を受け取りに行った。
店の棚はまだ少し傾いていたが、昨日より品が増えている。店主は包みを丈夫な紙で二重にし、さらに小箱へ入れてくれた。
「硬く焼いたから、一週間ほどは大丈夫ですよ。雨に当てないようにだけ注意してください」
「ありがとうございます。帰るまで大事にいたします」
「またお越しください。次は棚も真っ直ぐになっているはずです」
「ふふ。楽しみにしております」
村から王都まで、道が直っても気軽に菓子を買いに来られる距離じゃない。けれど、またここで店が開いていると思えるのは嬉しかった。
箱は馬車に積む荷のうち、濡れにくい場所へ預けた。うっかり潰されたら困る。特にレストの分は。
……いや、俺の分も困るけどな。
レストは今日あたり王都に着いているはずだ。帰った途端、休まず仕事を詰め込んでいないだろうか。
あいつ、俺には無理をするなと言うくせに、自分のことになると少し甘いからな。
甘いのは菓子だけにしてほしい。
その夜は、明日の診察予定を確かめてから早めに寝た。
レストに渡すのは帰ってからでいい。本屋へ行く約束もある。次に会う時、菓子を渡してやろう。
そんな当たり前のことを考えながら眠った。
◇
二十七日の朝。
診察が始まってすぐ、救護の受付で最初の患者の名前を確かめていると、地方行政庁の職員が訪ねてきた。
「聖女様。王都から、ご本人宛てのお知らせが届いております」
「……王都から?」
「行政庁に《伝信晶》で届いた知らせを、封書にしてお持ちしました。ご本人に直接お渡しするよう言われております」
思わず紙から顔を上げた。
王都から、俺へ。
何だ。実家で何かあったのか。父か、母か。テオとアルは――。
「マルタ様、少し失礼いたします」
「ええ。こちらは任せてください」
集会所の奥の記録室で、職員が封書を差し出した。
封筒には、俺の名前が記されていた。
「中身については、私どもも伺っておりません。お返事が必要でしたら、お声がけください」
「ありがとうございます」
職員が出ていき、扉が閉まった。
封を切る。たった一枚の紙だった。
『王都にて、王太子殿下が襲撃を受けられました。
現在、詳しい状況を確認中。
襲撃の目的が判明していないため、聖女様にも危険が及ぶおそれがあります。
警護を厚くしたうえで、王都へお戻りください。
帰路の手配は、現地の護衛にも伝えてあります』
「……襲、撃?」
誰もいない部屋で、声だけが落ちた。
襲撃って、何だよ。
レストが? 王都で?
紙をひっくり返した。裏には何もない。
おい。待てよ。怪我をしたとも、無事だとも書いてないじゃないか。
三日前、馬車に乗る前に、本屋へ行こうと言っていた。いつもと同じ顔で笑って、また王都で、と。
だから俺も、また王都で、と。
……確認しないと。
『殿下はご無事でしょうか。お怪我の程度は。分かり次第、至急お知らせください』
紙を折って封じ、職員を呼んで預けた。
「急ぎで、お願いいたします」
「承知しました。すぐに行政庁へ戻る伝令に託します」
礼をした。職員が出ていく。
何かしていないと、頭の中が勝手に最悪のところへ行ってしまう。
レストなら剣を使える。護衛もいる。だから大丈夫だろ。そうだろ?
でも、無事なら無事だと、どうして書いていない。
さっきまで考えていた明日の患者の名前が、一つも思い出せなくなった。
封書は、俺の手の中に残っていた。