俺は男と結婚したくないのになんで公爵令嬢で聖女なんだよ! 作:本郷カキツバタ
「セレスティア様」
名前を呼ばれて、ようやく顔を上げた。
集会所の記録室の前に、マルタが立っている。いつからそこにいたんだろう。
「マルタ、様……」
「王都から、急ぎのお知らせがあったそうですね」
マルタの目が、俺の握っている封書に向いた。中身については何も聞かれない。
『王太子殿下が襲撃を受けられました』
その言葉を、俺だけが知っている。
口にしてしまえば、きっと誰かが慰めようとしてくれる。でも、何の手掛かりもない今、どう説明すればいい。
「申し訳ありません。私、王都へ戻ります」
「……事情は伺っておりませんが、お戻りになる必要があるのですね」
「はい。急いで戻らなければなりません」
そう答えると、マルタは迷わず頷いた。
「でしたら、こちらは私たちにお任せください」
あっさり言われて、返す言葉に困った。
「ですが、今日の患者さんが二人と、明日も――」
「どちらも把握しています。今すぐセレスティア様の治癒が必要な方はいません。診察はこちらで続けますから、必要な引継ぎを済ませましょう」
「……よろしいのですか」
「ここに残って、患者さんの話をきちんと聞けますか」
聞ける、と言いたかった。
でも、さっき受付で確かめていた患者の名前が思い出せない。
そんな状態で人を無事に治せる自信がなかった。
「お願いいたします。……ご迷惑をおかけします」
「迷惑なことではありませんよ。セレスティア様にしかできない治療はありますが、すべての患者さんが、今日その治療を必要としているわけではありません」
マルタは、俺が手にした紙をそっと指さした。
「それから、王都へ戻る道も安全とは言えません。お一人で飛び出さないこと。よろしいですね」
「はい」
子供みたいな返事になった。
今の俺は、実際そのくらい落ち着いていない。
◇
診療記録を開くと、昨日まで自分で書き込んでいた字が並んでいた。
患者の状態、次に診る日、治療師へ確かめてもらうこと。どれも見れば分かる。なのに、声に出して伝える段になると、一つずつ時間がかかった。
「この方は、治癒の前に熱の原因を調べることになっていましたね」
マルタが頁の隅を示す。
「……はい。今朝も熱が続いていると伺って、先に診察をお願いしました」
「承知しました。明日もその順番で進めます」
別の頁では、俺が移送の日付を言い間違えた。マルタが紙を確かめ、その場で直してくれた。
「申し訳ありません……」
「記録が残っているのは、そのためです。お気になさらず」
分かっている。分かっているんだが、情けない。
俺、昨日はもう少しましだっただろ……。
隣の机では、村の記録係が避難所へ移る人の名簿をまとめていた。診療の内容はマルタと現地の治療師が預かり、記録係には馬車の手配と移動予定を伝える。
仕事を分けてしまうと、驚くほど話が早かった。
俺がいなくなったら皆が困る、なんて思っていたわけじゃない。けれど、仕事が引き継がれていくのを見ていると、安心するより先に、自分が置いていかれそうな気がした。
……いや、俺が一番慌てているせいか。
「こちらで終わりです」
マルタが最後の記録を閉じた。
「途中でお気づきになったことがあれば、書き残していただければ、こちらで確認します。もう何度も見返さなくて大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
立ち上がると、足元が少しふらついた。寝不足というほどでもない。膝に力を入れ直して、机へ手をつく。
さっさと帰れ、俺。
そう思うのに、荷物をまとめる手は妙に鈍かった。
◇
「本日中に王都へ着くことは、できません」
護衛の騎士は、俺が行き先を告げる前にそう言った。
リーヴァ村から王都へは、来る時で二晩かかった。帰りもフェルド橋を使えず、道の一部は崩れている。
宿場で二晩。数え直したところで、道は一歩も縮まない。
分かっている。分かっているが。
「少しでも、急げませんか」
声がきつくなった。
騎士は困った顔をしたものの、引かなかった。
「日が暮れたあとの山道は避けます。殿下からも、出入りする荷車は安全を確認して通すようにと命じられております」
レストが決めたことだ。
避難者を危険な道へ通さないために、あいつが騎士団と散々話していたのを知っている。
なのに、俺だけ特別に急がせてどうする。
「……申し訳ありません。今夜は途中の宿場までで構いません。出発の準備をお願いいたします」
「承知しました。馬の交代先も確認いたします」
護衛が動き始めた。
俺は荷を積んでもらう間、集会所の外に立っていた。板を運ぶ男たちの声が聞こえる。濡れた地面から、昼の日差しで蒸された土の匂いが上がってきた。
村では、まだやることがある。
あの礼拝堂の毛布は足りているだろうか。肋骨を治した女性は、今日こそ大人しく寝ているだろうか。……明日になったら、また家へ戻ると言い出すかもしれない。
「聖女様」
記録係が駆け寄ってきた。
「移動予定の控えを、もう一度お願いできますか」
「ええ。こちらです。診療のことはマルタ様と現地の先生方へお預けしました」
「承知しました。王都へ急いで戻られるのですね」
「……はい」
「こちらのことは任せてください。避難所の人たちにも、手伝える仕事を少しずつお願いできるようになりました」
記録係が抱えた紙には、知らない名前が増えていた。昨日は助けられる側だった人が、今日は誰かの毛布を運んでいるらしい。
「ありがとうございます。皆様も、どうかお気をつけて」
「聖女様こそお気をつけて。帰る道はまだ悪いそうですから」
この村に来てから、何度「気をつけて」と言われただろう。
馬車に乗る直前、マルタがもう一度声をかけてくれた。
「最初に泊まる宿場と明日の道順は、護衛の方が確認してくださいました。連絡が届いた時に受け取れるよう、手配もなさっているそうです」
「……そこまでしていただいて」
「必要なことです。ご事情は存じませんが、どうか無事にお帰りください」
俺は深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます。マルタ様も、どうかご無事で」
村の入口を抜けた時、振り返る余裕はなかった。
◇
七月二十七日の夕方。
最初の宿場へ着いた。
馬車は思ったほど進まなかった。御者は道を確かめながら進み、騎士が先のぬかるみを見に行くたび止まった。
それでも、窓の外に見える建物はもうリーヴァ村のものじゃない。
宿では食事を出してもらった。侍女に勧められて口へ運んだが、何を食べたかよく覚えていない。
「少しお休みくださいませ」
「ありがとう。あなたも休んでね」
平気そうな声が出た。
外では護衛が宿場の係と話していた。明日の行程を知らせ、俺宛ての封書が届いたら、開けずに本人へ渡してほしいと頼んでいる。
誰も、あの紙に何と書かれていたか知らない。
守られているのは分かる。分かるんだが、今は一人で抱えているのがきつかった。
部屋で横になり、目を閉じた。
馬車へ乗り込む前、レストが振り返った顔が浮かぶ。
あいつのことだから、急に襲われても剣を抜けたはずだ。護衛だって優秀だ。そう思う。
だったら、何で安否が分からないんだよ。
人は剣が得意だから死なないわけじゃない。そんなこと、嫌になるほど分かっている。
考えをやめようと布団を被っても、眠りかけたところでまた目が覚めた。
まだ暗い。
夜って、こんなに長かったか。
◇
二十八日。
空が明るくなるのを待って出発した。
山を下り、フェルド橋を避けて東の道へ回る。荷の少ない馬車は昨日より軽く走ったが、車輪を取られた荷車があれば、結局止まるしかない。
途中、先行していた騎士が戻ってきた。
「少し先の荷車が道を塞いでおります。引き上げるまで、しばらくお待ちください」
「……どのくらいですか」
「今、手を貸しております。通れるようになれば、すぐに」
騎士の後ろから、人が車輪の下へ板を差し込む音が聞こえた。
手伝いに出た護衛の鎧が、泥で汚れて戻ってきた。ようやく馬車が動く。
急ぎたい。
でも、誰かを危険にさらしてまで急いだところで、レストが無事になるわけじゃない。
……そんなこと分かってるって。
次の宿場に着く頃には、窓の外ばかり見ていたせいで首が痛くなっていた。
宿の門前に、一頭の馬が繋がれていた。そばにいた旅装の男が、護衛の騎士へ何かを差し出している。
「セレスティア・レーヴェル様宛ての封書です。ご本人へ直接お渡しください」
昨夜の宿場から知らせた旅程を頼りに、王宮が先回りして送ってくれたらしい。
護衛が封書を受け取り、俺に差し出した。
「セレスティア様。お預かりしました」
「ありがとうございます。部屋で読ませてください」
何が書かれているか、彼らは知らない。俺だってまだ知らない。けれど、今ここで開いて、顔を見られながら読む勇気がなかった。
宿の部屋へ入り、扉を閉めた。
指がうまく動かない。封を切ると、紙の端が少し破れた。
『王太子殿下はご存命。
お顔に傷を負われたが、治療済みで、お命に別状はない。
現在は安全な場所にて静養中』
……生きてる。
まずそこを読んだ。
もう一度読んだ。
三度目は、文字が少し滲んだ。
肩に入れていた力が抜けて、寝台へ腰を下ろした。
無事だった。
よかった。
生きてる。帰れば、会える。
……『お命に別状はない』。
別状はない、って。別状がありそうな傷だったってことか。
レストのことだ。「この程度なら」とか言っていないだろうな。あいつ、自分の怪我に関しては妙に平然としているところがある。
いや、これは王宮の正式な報告だ。治療師も診ているはずだ。
分かってる。分かってるけど。
俺は書面を丁寧に畳み、胸元の袋へ入れた。
落ち着いたところで部屋の外へ出ると、護衛が廊下で待っていた。
「……明日の出発は、予定どおりでお願いいたします」
「承知しました。朝のうちに馬を替えておきます」
いつもどおりの声が出ただろうか。そんなことを気にする自分が、少し嫌だった。
安心した途端に足の力が抜けたくせに、もう先へ行きたくなっている。
……俺、面倒くさいな。
◇
二十九日。
川から離れた街道へ入ると、馬車の速度がようやく上がった。
商人の荷車とすれ違い、宿の前では子供たちが菓子の取り合いをしていた。王都へ近づくほど、街道には人が増える。
同じ国にいるのに、リーヴァ村とはまるで違う景色だ。
俺たちはあんなに雨に振り回されていた。王都ではレストが襲われて、今も調べが続いている。
それでも、通りには焼き菓子を買う人がいる。
当たり前だ。知らない人には、知らないままの一日がある。
「もう少し先まで進めませんか」
宿場の手前で、御者が馬に水をやっていた。思わず尋ねてから、水桶へ鼻先を突っ込んでいる馬を見た。
「……すみません。休ませてあげてください」
「いえ、王都へお急ぎなのは存じております。ただ、この先は上り坂になりますので」
「ええ。どうか、無理のないように」
俺が代わりに走れればいいのに。いや、馬より速く走れるわけがないだろ。俺は何を考えてるんだ。
宿に着くと、護衛は明日の王都到着見込みを、王宮へ知らせる手配を進めてくれた。
「明日には、お戻りになれますね」
侍女が温かい飲み物を運んできた。
「……ええ。ありがとう」
指先で器を包む。熱さを感じるくらいには、頭が落ち着いてきたらしい。
王宮からの報告は、何度も読み返した。
生きている。治療も受けている。明日には会える。
信じていないわけじゃない。最後に見たレストは村の入口で笑っていた。ただ、今、王宮にいるレストがどんな顔をしているのか、俺は知らない。
帰ったら一緒に本屋へ行く約束をしたんだ。
そんな話をしていた相手に、何を言えばいいのか、こんなに分からなくなるなんて。
明日、扉が開いてレストの顔を見たら。
その時の俺が、何をするのかも分からなかった。