俺は男と結婚したくないのになんで公爵令嬢で聖女なんだよ! 作:本郷カキツバタ
「王宮へ、お願いいたします」
七月三十日。
王都エルディアへ入る手前で、旅荷を積んだ荷馬車は同行の使用人たちに任せ、公爵邸へ先に回してもらった。
俺の乗った馬車は、護衛と一緒にそのまま王宮へ向かう。
城門を抜けると、見慣れた通りが続いた。
パン屋の前には客が並び、通りの端では職人が荷を下ろしている。店の看板も、石畳も、いつものままだ。
俺がいない間、ここで王太子が襲われたなんて、信じられない。
いや、信じている。報告も何度も読んだ。レストは生きていて、治療も済んでいる。
でも、それならどうして俺は、こんなに落ち着かないんだろう。
御者が馬を緩めた途端、思わず前へ身を乗り出した。
「どうかなさいましたか」
「いえ、前の荷車が道へ出てきただけです。すぐに動きます」
「……失礼いたしました」
何をやってるんだ、俺。
王都の通りで、荷車が出てくるのは当たり前だろ。
こんな調子で王宮へ着いたら、案内する侍従まで急かしてしまいそうだ。
窓の外へ目を戻した。王宮の屋根が、もう見えている。
◇
王宮では、顔見知りの侍従が出迎えてくれた。
「セレスティア様。長旅、お疲れさまでございました」
「ありがとうございます。急に申し訳ございません。殿下に、お目にかかれますでしょうか」
「もちろんです。昨夜、道中の宿場から本日お戻りになると連絡をいただいております。殿下もお待ちですよ」
「……お待ち、なのですか」
「はい。本日のご予定を調整なさいました」
そっちだって、休んでいればいいのに。
……いや、会いたいと伝えたのは俺の方だ。来ると分かっていて、時間を作ってくれたんだろう。
「ありがとうございます」
礼をして、侍従の後に続いた。
長い廊下だ。前からこんなに長かったか。窓の外を見ても、どこまで歩いたのか分からなくなる。王宮の廊下なんて、何度も歩いたはずなのに。
客間の前で、侍従が立ち止まる。
扉が開いた。
「おかえり。セレスティア」
そこに、レストがいた。
黄金の髪。赤紫の瞳。いつもの声。
俺の方を見て、ほっとしたように笑っている。
……ああ。
本当に、いた。
「……ただいま戻りました」
礼をする。顔を上げるまで、少し時間がかかった。
「大変だったろう。まずは座って休むといい」
「はい。ありがとうございます」
これでいい。ちゃんと歩いている。声もいつもどおり。大丈夫だったんだ。
そう思った時、レストが窓の方を向いた。
左の頬に、細い線が見えた。
塞がってはいる。でも、頬骨の下から耳の手前まで、まだ赤く残っていた。
見つけた途端、そこから目を離せなくなった。
「……殿下。お顔の、それは」
レストが頬に触れた。
「ああ。襲撃の時に少しね。もう治療は済んでいるよ」
「……痛みは、ございませんか」
「ないよ。痕は、ひと月もすれば目立たなくなるそうだ」
ひと月。
それを聞いて安心するはずだった。
でも、俺は三日間、傷の大きさも知らずに帰ってきた。
安否が分からなかった間に、考えていたのは最悪のことばかりだ。剣で斬られたかもしれない。倒れて、誰にも助けてもらえなかったかもしれない。もう、俺の名前を呼んでくれないかもしれない。
そんなことまで考えた。
目の前の痕は、あの知らせが本当だった証拠みたいに見えた。
「セレスティア」
レストが少し声を落とす。
「心配をかけたね」
「……ほかに、お怪我はございませんか」
「今はない。王宮の治療師にも、診てもらっているよ」
「そう、ですか」
よかった。それなら、もう俺がすることはない。
ないはずなのに。
「……お願いがございます」
「何かな?」
「その痕を、私に治させていただけませんか」
言ってから、しまったと思った。すでに治療は終わっている。本人も気にしていないような傷を、俺がどうしても消したいだけだ。
レストは少し驚いた顔をしてから、頷いた。
「もちろん。君がそうしたいなら」
「ありがとうございます」
手を伸ばすと、レストは動かずに待っていてくれた。
光を集める。
腕を再生させた時のような複雑な治癒じゃない。傷はもう塞がっている。奥で馴染みきっていないところを、整えるだけだ。どこをどう治せばいいかも分かる。
普段なら、一息で終わる。
なのに、今回は指先に残るわずかな違和感が気になった。角度を変えて、もう一度確かめる。
「……セレスティア?」
「はい」
「もう、十分だと思うよ」
言われて、ようやく手を止めた。
頬には何も残っていない。あれだけ気になった赤い線が、きれいになくなっている。
「申し訳ありません。少し、念入りにしすぎました」
「痛くはなかったよ」
「そういうことでは、なくて……」
言葉が続かない。
傷は消せた。
けれど、レストが襲われたことまで、なかったことにはできない。
それなのに、傷がなくなれば三日間の怖さまで消えるんじゃないかと、どこかで期待していたらしい。
……馬鹿だな、俺。
◇
「少し、二人で話せるかな」
レストが侍従へ声をかけた。
「隣の部屋を使う。用があれば、こちらから呼ぶよ」
「かしこまりました」
侍従が下がり、護衛たちも部屋の外へ移った。
隣の小部屋に入ると、レストが扉を閉めた。廊下を遠ざかっていく足音が、やがて聞こえなくなる。
ようやく二人きりになった。
「……なあ、レスト」
「うん」
「襲われた時、何があったんだ」
聞きたいと思っていたことだった。けれど、口にした途端、聞くのが怖くなった。
「王宮へ戻って、馬車を降りたところだった。近くで荷を下ろしていた者が、急に刃物を抜いたんだ」
「……護衛は?」
「すぐに動いてくれたよ。私も、近くにいた人を離れさせようとして。その時、頬をかすめた」
レストは傷の消えた頬を指した。
かすめた傷が、耳の手前まで続くかよ。
「大事には至らなかった。犯人も、その場で取り押さえられている」
「大事には至らなかった、って……」
「本当に、傷はあれだけで――」
「そういうこと言ってんじゃない!」
思ったより大きな声が出た。
レストが黙る。
俺も黙った。
……何を怒鳴ってるんだ。生きていてくれた相手に。
「……悪い」
「いや。私の説明が足りなかったね」
「違う。お前はちゃんと説明してる」
ただ、俺が聞きたくなかっただけだ。
護衛が間に合わなかったら。刃がもう少し深く入っていたら。近くにいた人を守ろうとしたレストが、戻ってこなかったら。
無事だったと聞いても、こんなことばかり考えている。
「俺、さ……」
何だ。何を言えばいい。
肩が小さく震えた。怒鳴ったせいじゃない。多分、帰りの馬車からずっと、こうだったんだ。
「セレスティア?」
レストが一歩近づく。
その顔を見たら、もう駄目だった。
気がつけば俺はレストの胸に飛び込んでいた。
「……俺、怖かった」
声が服に吸い込まれた。
「襲われたって、それだけの知らせが来て……何も分からなくて」
「うん」
「お前、帰ったら本屋に行くって言っただろ。あんな普通の顔して……また王都でって……」
「……言ったね」
「なのに、死んだかもしれないって、俺……」
最後まで言えなかった。
しがみつく腕に、力が入る。
背中に腕が回った。
「ごめん」
「謝るなよ。お前が悪いわけじゃない」
「それでも、怖い思いをさせた」
「……するだろ。怖いに決まってるだろ」
十歳から八年だぞ。
何か面白いことがあれば、次に会った時に話そうと思う。菓子を見れば、あいつが好きそうだと思う。会えない日があっても、次には会えると当たり前に思っていた。
その「次」が、来ないかもしれなかった。
「私も、怖くなかったわけじゃないよ」
レストが静かに言った。
顔を上げようとすると、背中の腕が少し緩んだ。
「護衛はよく動いてくれた。誰も巻き込まずに済んだと聞いて、やっと安心したんだ。そのあとで、もう少し遅れていたらどうなっていたかと考えてしまった」
「……お前も、そういうこと考えるんだな」
「考えるよ。私は王太子だけれど、刃物で斬られれば怪我をするからね」
「……知ってるよ」
知ってる。知ってたはずなのに、いつも無事で帰ってくるものだと思ってた。
「……もう、こんな目に遭うなよ」
無茶な注文だ。言ってから分かった。
「努力するよ」
レストは、笑わずに答えた。
「私も、君が無事に戻ってきてくれてよかった」
「俺は仕事をして帰ってきただけだぞ」
「災害の現場へ行っていたんだ。簡単な仕事だったわけじゃないだろう」
「……そうだけど」
反論できない。
あの村には、まだ家へ帰れない人がいる。マルタも治療師も、今この時間だって働いている。
俺は彼らに仕事を引き継いで、帰ってきた。
それが間違いだったとは思わない。でも、帰ってくるまで胸の中がレストのことでいっぱいだったのも、確かだ。
レストはそれ以上何も聞かず、俺の背中を支えてくれていた。
手を離そうとして、一度顔を上げる。
頬の痕はもうない。いつもの顔だ。
なのに、今度はその顔を見ていたくなって、結局また、腕に力を込めてしまった。
「……もう少し、このままでいいか」
「うん。君の好きなだけ」
変に気の利いたことを言わないのが、ありがたかった。
俺が離れるまで、レストは待っていてくれた。
◇
落ち着いてから、窓際の長椅子へ座った。
レストが茶を頼もうかと聞いてくれたが、首を振った。
「今はいい。誰か入ってきたら、また変な顔しそうだ」
「君が?」
「ほかに誰がいるんだよ」
少し笑われた。
「……さっきは怒鳴って悪かった」
「気にしていないよ」
「お前は、もう少し気にしろ」
「どちらなのかな」
今度は俺も笑ってしまった。
何だよ。普通に話せるじゃないか。
笑っていると、レストの表情もやっと少し緩んだ気がした。
「……襲ってきたやつは、捕まったんだよな」
「ああ。ほかにも関わった者がいないか、担当の者が調べている。ルシアンも連絡を取りながら、状況を確かめてくれている」
「……そうなのか」
「現場にいた者と、王宮で対応した者にも、口外しないようにしてもらっている」
あの紙を開けてからずっと、ほとんど誰にも話せなかった。
「そうか」
「君にも、分かったことは伝える。ただ、今日は詳しく話すより、少し休んだ方がよさそうだ」
俺は頷いた。
知りたいことはまだある。でも、今はこれ以上、刃物や護衛の話を聞きたくなかった。
「あ、そういえば、土産を買ってきたんだ」
「土産?」
「村で買った焼き菓子。蜂蜜と木の実が入ってて、結構うまかった。お前が好きそうだと思ってさ」
「……私に?」
「そうだよ。ほかに誰がいるんだ」
「いや、嬉しいな。今あるのかな?」
「それが、荷物と一緒に家へ送っちゃったんだよ。先に王宮へ来たから」
「……そうか」
レストがあからさまに残念そうな顔をした。
おい。
さっきまで襲撃の話をしていた男が、菓子がないと分かっただけでそんな顔をするな。
「明日、届けさせる。硬く焼いてもらったから、まだ大丈夫なはずだ」
「本当に? ありがとう。楽しみにしているよ」
「……お前、怪我をしたばかりなんだぞ」
「菓子を食べるのに支障はないよ」
「そういう問題でもない」
でも、よかった。
蜂蜜を増やしてもらったことを知ったら、どんな顔をするんだろう。
そんなくだらないことを考えられるくらいには、いつもの俺に戻っていた。
しばらく話してから、席を立つ。
「……そろそろ帰るよ」
「うん。今日はゆっくり休んで。今度は君が無理をしない番だ」
「お前に言われたくない」
「それは確かに」
レストが笑った。
扉へ向かう途中、振り返る。
さっきは頬の傷しか見えなかった。
今は、その顔ごと、ちゃんと見られる。
「……また来るからな」
「うん。待っているよ」
◇
公爵邸に戻ると、母が出迎えてくれた。
「おかえりなさい。殿下には、お会いできた?」
「はい。お元気でした。お怪我も、もう大丈夫です」
「そう。よかったわね」
母は、俺の顔を見てからそれだけ言った。
王宮でどんな話をしたか、詳しくは聞かれなかった。ありがたい。
部屋に戻ると、旅の荷が届いていた。侍女が上着を預かってくれる間に、小箱を取り出して中を確かめる。
蜂蜜と木の実の焼き菓子は、潰れずに残っていた。
明日、レストへ渡そう。
本屋の約束だって、まだ残っている。
寝台へ倒れ込みたいほど疲れていたが、その前に着替えて、母に村での話をして、それから食事も取らなければならない。
やることが多いな、まったく。
でも、今日はそれが嬉しかった。
待て。冷静になって思い出した。王宮の小部屋で、自分から抱きついたやつがいる。
……男相手に何やってんだ、俺。
顔が熱いのは、長旅の疲れのせいだ。たぶん。
菓子の箱を机に置く。
明日になれば、またレストが甘い物を食べる顔を見られる。
その顔を、ずっと見慣れたままでいられたらいい。
……何だよ。そんなの、当たり前だろ。
俺は侍女を呼んで、夕食の支度を頼んだ。