俺は男と結婚したくないのになんで公爵令嬢で聖女なんだよ!   作:本郷カキツバタ

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第二十話 たった一つの傷

「王宮へ、お願いいたします」

 

 七月三十日。

 王都エルディアへ入る手前で、旅荷を積んだ荷馬車は同行の使用人たちに任せ、公爵邸へ先に回してもらった。

 俺の乗った馬車は、護衛と一緒にそのまま王宮へ向かう。

 

 城門を抜けると、見慣れた通りが続いた。

 

 パン屋の前には客が並び、通りの端では職人が荷を下ろしている。店の看板も、石畳も、いつものままだ。

 

 俺がいない間、ここで王太子が襲われたなんて、信じられない。

 

 いや、信じている。報告も何度も読んだ。レストは生きていて、治療も済んでいる。

 

 でも、それならどうして俺は、こんなに落ち着かないんだろう。

 

 御者が馬を緩めた途端、思わず前へ身を乗り出した。

 

「どうかなさいましたか」

 

「いえ、前の荷車が道へ出てきただけです。すぐに動きます」

 

「……失礼いたしました」

 

 何をやってるんだ、俺。

 

 王都の通りで、荷車が出てくるのは当たり前だろ。

 

 こんな調子で王宮へ着いたら、案内する侍従まで急かしてしまいそうだ。

 

 窓の外へ目を戻した。王宮の屋根が、もう見えている。

 

◇

 

 王宮では、顔見知りの侍従が出迎えてくれた。

 

「セレスティア様。長旅、お疲れさまでございました」

 

「ありがとうございます。急に申し訳ございません。殿下に、お目にかかれますでしょうか」

 

「もちろんです。昨夜、道中の宿場から本日お戻りになると連絡をいただいております。殿下もお待ちですよ」

 

「……お待ち、なのですか」

 

「はい。本日のご予定を調整なさいました」

 

 そっちだって、休んでいればいいのに。

 

 ……いや、会いたいと伝えたのは俺の方だ。来ると分かっていて、時間を作ってくれたんだろう。

 

「ありがとうございます」

 

 礼をして、侍従の後に続いた。

 

 長い廊下だ。前からこんなに長かったか。窓の外を見ても、どこまで歩いたのか分からなくなる。王宮の廊下なんて、何度も歩いたはずなのに。

 

 客間の前で、侍従が立ち止まる。

 

 扉が開いた。

 

「おかえり。セレスティア」

 

 そこに、レストがいた。

 

 黄金の髪。赤紫の瞳。いつもの声。

 

 俺の方を見て、ほっとしたように笑っている。

 

 ……ああ。

 

 本当に、いた。

 

「……ただいま戻りました」

 

 礼をする。顔を上げるまで、少し時間がかかった。

 

「大変だったろう。まずは座って休むといい」

 

「はい。ありがとうございます」

 

 これでいい。ちゃんと歩いている。声もいつもどおり。大丈夫だったんだ。

 

 そう思った時、レストが窓の方を向いた。

 

 左の頬に、細い線が見えた。

 

 塞がってはいる。でも、頬骨の下から耳の手前まで、まだ赤く残っていた。

 

 見つけた途端、そこから目を離せなくなった。

 

「……殿下。お顔の、それは」

 

 レストが頬に触れた。

 

「ああ。襲撃の時に少しね。もう治療は済んでいるよ」

 

「……痛みは、ございませんか」

 

「ないよ。痕は、ひと月もすれば目立たなくなるそうだ」

 

 ひと月。

 

 それを聞いて安心するはずだった。

 

 でも、俺は三日間、傷の大きさも知らずに帰ってきた。

 

 安否が分からなかった間に、考えていたのは最悪のことばかりだ。剣で斬られたかもしれない。倒れて、誰にも助けてもらえなかったかもしれない。もう、俺の名前を呼んでくれないかもしれない。

 

 そんなことまで考えた。

 

 目の前の痕は、あの知らせが本当だった証拠みたいに見えた。

 

「セレスティア」

 

 レストが少し声を落とす。

 

「心配をかけたね」

 

「……ほかに、お怪我はございませんか」

 

「今はない。王宮の治療師にも、診てもらっているよ」

 

「そう、ですか」

 

 よかった。それなら、もう俺がすることはない。

 

 ないはずなのに。

 

「……お願いがございます」

 

「何かな?」

 

「その痕を、私に治させていただけませんか」

 

 言ってから、しまったと思った。すでに治療は終わっている。本人も気にしていないような傷を、俺がどうしても消したいだけだ。

 

 レストは少し驚いた顔をしてから、頷いた。

 

「もちろん。君がそうしたいなら」

 

「ありがとうございます」

 

 手を伸ばすと、レストは動かずに待っていてくれた。

 

 光を集める。

 

 腕を再生させた時のような複雑な治癒じゃない。傷はもう塞がっている。奥で馴染みきっていないところを、整えるだけだ。どこをどう治せばいいかも分かる。

 

 普段なら、一息で終わる。

 

 なのに、今回は指先に残るわずかな違和感が気になった。角度を変えて、もう一度確かめる。

 

「……セレスティア?」

 

「はい」

 

「もう、十分だと思うよ」

 

 言われて、ようやく手を止めた。

 

 頬には何も残っていない。あれだけ気になった赤い線が、きれいになくなっている。

 

「申し訳ありません。少し、念入りにしすぎました」

 

「痛くはなかったよ」

 

「そういうことでは、なくて……」

 

 言葉が続かない。

 

 傷は消せた。

 

 けれど、レストが襲われたことまで、なかったことにはできない。

 

 それなのに、傷がなくなれば三日間の怖さまで消えるんじゃないかと、どこかで期待していたらしい。

 

 ……馬鹿だな、俺。

 

◇

 

「少し、二人で話せるかな」

 

 レストが侍従へ声をかけた。

 

「隣の部屋を使う。用があれば、こちらから呼ぶよ」

 

「かしこまりました」

 

 侍従が下がり、護衛たちも部屋の外へ移った。

 

 隣の小部屋に入ると、レストが扉を閉めた。廊下を遠ざかっていく足音が、やがて聞こえなくなる。

 

 ようやく二人きりになった。

 

「……なあ、レスト」

 

「うん」

 

「襲われた時、何があったんだ」

 

 聞きたいと思っていたことだった。けれど、口にした途端、聞くのが怖くなった。

 

「王宮へ戻って、馬車を降りたところだった。近くで荷を下ろしていた者が、急に刃物を抜いたんだ」

 

「……護衛は?」

 

「すぐに動いてくれたよ。私も、近くにいた人を離れさせようとして。その時、頬をかすめた」

 

 レストは傷の消えた頬を指した。

 

 かすめた傷が、耳の手前まで続くかよ。

 

「大事には至らなかった。犯人も、その場で取り押さえられている」

 

「大事には至らなかった、って……」

 

「本当に、傷はあれだけで――」

 

「そういうこと言ってんじゃない!」

 

 思ったより大きな声が出た。

 

 レストが黙る。

 

 俺も黙った。

 

 ……何を怒鳴ってるんだ。生きていてくれた相手に。

 

「……悪い」

 

「いや。私の説明が足りなかったね」

 

「違う。お前はちゃんと説明してる」

 

 ただ、俺が聞きたくなかっただけだ。

 

 護衛が間に合わなかったら。刃がもう少し深く入っていたら。近くにいた人を守ろうとしたレストが、戻ってこなかったら。

 

 無事だったと聞いても、こんなことばかり考えている。

 

「俺、さ……」

 

 何だ。何を言えばいい。

 

 肩が小さく震えた。怒鳴ったせいじゃない。多分、帰りの馬車からずっと、こうだったんだ。

 

「セレスティア?」

 

 レストが一歩近づく。

 

 その顔を見たら、もう駄目だった。

 

 気がつけば俺はレストの胸に飛び込んでいた。

 

「……俺、怖かった」

 

 声が服に吸い込まれた。

 

「襲われたって、それだけの知らせが来て……何も分からなくて」

 

「うん」

 

「お前、帰ったら本屋に行くって言っただろ。あんな普通の顔して……また王都でって……」

 

「……言ったね」

 

「なのに、死んだかもしれないって、俺……」

 

 最後まで言えなかった。

 

 しがみつく腕に、力が入る。

 

 背中に腕が回った。

 

「ごめん」

 

「謝るなよ。お前が悪いわけじゃない」

 

「それでも、怖い思いをさせた」

 

「……するだろ。怖いに決まってるだろ」

 

 十歳から八年だぞ。

 

 何か面白いことがあれば、次に会った時に話そうと思う。菓子を見れば、あいつが好きそうだと思う。会えない日があっても、次には会えると当たり前に思っていた。

 

 その「次」が、来ないかもしれなかった。

 

「私も、怖くなかったわけじゃないよ」

 

 レストが静かに言った。

 

 顔を上げようとすると、背中の腕が少し緩んだ。

 

「護衛はよく動いてくれた。誰も巻き込まずに済んだと聞いて、やっと安心したんだ。そのあとで、もう少し遅れていたらどうなっていたかと考えてしまった」

 

「……お前も、そういうこと考えるんだな」

 

「考えるよ。私は王太子だけれど、刃物で斬られれば怪我をするからね」

 

「……知ってるよ」

 

 知ってる。知ってたはずなのに、いつも無事で帰ってくるものだと思ってた。

 

「……もう、こんな目に遭うなよ」

 

 無茶な注文だ。言ってから分かった。

 

「努力するよ」

 

 レストは、笑わずに答えた。

 

「私も、君が無事に戻ってきてくれてよかった」

 

「俺は仕事をして帰ってきただけだぞ」

 

「災害の現場へ行っていたんだ。簡単な仕事だったわけじゃないだろう」

 

「……そうだけど」

 

 反論できない。

 

 あの村には、まだ家へ帰れない人がいる。マルタも治療師も、今この時間だって働いている。

 

 俺は彼らに仕事を引き継いで、帰ってきた。

 

 それが間違いだったとは思わない。でも、帰ってくるまで胸の中がレストのことでいっぱいだったのも、確かだ。

 

 レストはそれ以上何も聞かず、俺の背中を支えてくれていた。

 

 手を離そうとして、一度顔を上げる。

 

 頬の痕はもうない。いつもの顔だ。

 

 なのに、今度はその顔を見ていたくなって、結局また、腕に力を込めてしまった。

 

「……もう少し、このままでいいか」

 

「うん。君の好きなだけ」

 

 変に気の利いたことを言わないのが、ありがたかった。

 

 俺が離れるまで、レストは待っていてくれた。

 

◇

 

 落ち着いてから、窓際の長椅子へ座った。

 

 レストが茶を頼もうかと聞いてくれたが、首を振った。

 

「今はいい。誰か入ってきたら、また変な顔しそうだ」

 

「君が?」

 

「ほかに誰がいるんだよ」

 

 少し笑われた。

 

「……さっきは怒鳴って悪かった」

 

「気にしていないよ」

 

「お前は、もう少し気にしろ」

 

「どちらなのかな」

 

 今度は俺も笑ってしまった。

 

 何だよ。普通に話せるじゃないか。

 

 笑っていると、レストの表情もやっと少し緩んだ気がした。

 

「……襲ってきたやつは、捕まったんだよな」

 

「ああ。ほかにも関わった者がいないか、担当の者が調べている。ルシアンも連絡を取りながら、状況を確かめてくれている」

 

「……そうなのか」

 

「現場にいた者と、王宮で対応した者にも、口外しないようにしてもらっている」

 

 あの紙を開けてからずっと、ほとんど誰にも話せなかった。

 

「そうか」

 

「君にも、分かったことは伝える。ただ、今日は詳しく話すより、少し休んだ方がよさそうだ」

 

 俺は頷いた。

 

 知りたいことはまだある。でも、今はこれ以上、刃物や護衛の話を聞きたくなかった。

 

「あ、そういえば、土産を買ってきたんだ」

 

「土産?」

 

「村で買った焼き菓子。蜂蜜と木の実が入ってて、結構うまかった。お前が好きそうだと思ってさ」

 

「……私に?」

 

「そうだよ。ほかに誰がいるんだ」

 

「いや、嬉しいな。今あるのかな?」

 

「それが、荷物と一緒に家へ送っちゃったんだよ。先に王宮へ来たから」

 

「……そうか」

 

 レストがあからさまに残念そうな顔をした。

 

 おい。

 

 さっきまで襲撃の話をしていた男が、菓子がないと分かっただけでそんな顔をするな。

 

「明日、届けさせる。硬く焼いてもらったから、まだ大丈夫なはずだ」

 

「本当に? ありがとう。楽しみにしているよ」

 

「……お前、怪我をしたばかりなんだぞ」

 

「菓子を食べるのに支障はないよ」

 

「そういう問題でもない」

 

 でも、よかった。

 

 蜂蜜を増やしてもらったことを知ったら、どんな顔をするんだろう。

 

 そんなくだらないことを考えられるくらいには、いつもの俺に戻っていた。

 

 しばらく話してから、席を立つ。

 

「……そろそろ帰るよ」

 

「うん。今日はゆっくり休んで。今度は君が無理をしない番だ」

 

「お前に言われたくない」

 

「それは確かに」

 

 レストが笑った。

 

 扉へ向かう途中、振り返る。

 

 さっきは頬の傷しか見えなかった。

 

 今は、その顔ごと、ちゃんと見られる。

 

「……また来るからな」

 

「うん。待っているよ」

 

◇

 

 公爵邸に戻ると、母が出迎えてくれた。

 

「おかえりなさい。殿下には、お会いできた?」

 

「はい。お元気でした。お怪我も、もう大丈夫です」

 

「そう。よかったわね」

 

 母は、俺の顔を見てからそれだけ言った。

 

 王宮でどんな話をしたか、詳しくは聞かれなかった。ありがたい。

 

 部屋に戻ると、旅の荷が届いていた。侍女が上着を預かってくれる間に、小箱を取り出して中を確かめる。

 

 蜂蜜と木の実の焼き菓子は、潰れずに残っていた。

 

 明日、レストへ渡そう。

 

 本屋の約束だって、まだ残っている。

 

 寝台へ倒れ込みたいほど疲れていたが、その前に着替えて、母に村での話をして、それから食事も取らなければならない。

 

 やることが多いな、まったく。

 

 でも、今日はそれが嬉しかった。

 

 待て。冷静になって思い出した。王宮の小部屋で、自分から抱きついたやつがいる。

 

 ……男相手に何やってんだ、俺。

 

 顔が熱いのは、長旅の疲れのせいだ。たぶん。

 

 菓子の箱を机に置く。

 

 明日になれば、またレストが甘い物を食べる顔を見られる。

 

 その顔を、ずっと見慣れたままでいられたらいい。

 

 ……何だよ。そんなの、当たり前だろ。

 

 俺は侍女を呼んで、夕食の支度を頼んだ。

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