HUNTER×HUNTER ―紅き公爵の剣譚― 作:アトレトル
第1話 公爵家の朝
東の空が、ゆっくりと白み始めていた。
まだ朝日が昇りきらぬ時刻。
広大な敷地を持つヴァルクレスト公爵家の屋敷では、すでに一日の営みが始まっていた。
庭師たちは朝露に濡れた庭園の手入れに取りかかり、厨房からは焼きたてのパンの香りが漂い始める。廊下では侍女たちが足音を抑えて行き交い、執事たちは今日の予定を確認していた。
それは、この屋敷にとって何ら珍しいことではない。
数多の領地を有し、複数の国家にまで影響力を及ぼす世界有数の大貴族。
ヴァルクレスト公爵家。
その威光は、単なる爵位や財力によるものではなかった。
古くから受け継がれてきた武の伝統。そして、それを支える数多の優れた人材。
積み重ねられた歴史そのものが、この家の権威を形作っていた。
そんな大貴族の屋敷の一室で、一人の少年が目を覚ましていた。
ルシアン・ヴァルクレスト。
十三歳。
現当主アルフォンス・ヴァルクレストの三男である。
少年は寝台から身を起こすと、窓の外へ視線を向けた。
薄明かりに包まれた庭園。
遠くに見える訓練場。
その光景を眺めていたルシアンの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「……いい朝だ」
独り言のようにつぶやいた、そのとき。
控えめなノックの音が響いた。
「ルシアン様。お目覚めでしょうか」
「起きているよ、マルタ。入っていい」
「失礼いたします」
扉を開けて入ってきたのは、一人の侍女だった。
四十代半ばほどの、穏やかな顔立ちの女性。
灰色がかった髪を丁寧にまとめ、その立ち居振る舞いには長年の経験に裏打ちされた落ち着きがある。
彼女の名はマルタ。
ルシアンが物心つくよりも前から、その世話を任されてきた古参の侍女である。
「あら。もうお着替えを?」
「ああ。今日は少し早く稽古を始めようと思ってね」
すでに寝間着を脱ぎ、動きやすい訓練着に袖を通している少年を見て、マルタは小さく息をついた。
「またそのようなことを……。昨日も随分と長くお稽古をされていたではありませんか」
「昨日は昨日、今日は今日だろう?」
「そういう問題ではございません」
即座に返された言葉に、ルシアンは楽しそうに笑った。
「マルタには敵わないな」
「でしたら、少しは私の申し上げることもお聞きくださいませ」
「聞いているよ。ちゃんと」
「聞いていらっしゃるだけでは困ります」
その言葉に、ルシアンは肩をすくめた。
マルタは呆れたような表情を見せながらも、少年の身なりを整え始める。
襟元のわずかな乱れを直し、寝癖の残る髪に櫛を通す。
それは幼い頃から、幾度となく繰り返されてきた朝の光景だった。
「朝食までには、必ずお戻りくださいませ」
「分かっている」
「昨日もそうおっしゃいました」
「今日は大丈夫だよ」
「本当でございますか?」
「……なるべく」
「ルシアン様」
少しだけ厳しくなった声音に、ルシアンはとうとう声を上げて笑った。
「分かった、分かった。心配させないようにするよ」
マルタはその返事を聞いて、ようやく表情を和らげる。
「それでしたら、よろしいのですが」
ルシアンは整えられた襟元に軽く触れた。
「ありがとう、マルタ」
「いいえ。私の務めでございますから」
「それでも、礼くらいは言わせてくれ」
何でもないように告げる少年に、マルタは柔らかな笑みを向けた。
「……はい。ありがとうございます、ルシアン様」
こうして、ヴァルクレスト家の三男の一日が始まった。
◇
ヴァルクレスト公爵家の訓練施設は、一般的な貴族の私設訓練場とは比較にならない規模を誇っていた。
剣術場、弓術場、屋内演武場。
さらには、実戦を想定してさまざまな地形を再現した訓練区域まで存在する。
公爵家に仕える騎士や兵士、武術師範たちが日々鍛錬を重ねる場所だった。
その一角。
まだ朝靄の残る剣術場に、二人の人影が向かい合っていた。
「おはようございます、ルシアン様」
「ああ。おはよう、ギルベルト」
ルシアンの前に立つのは、ギルベルト・ハルデン。
五十九歳。
ヴァルクレスト家の筆頭剣術師範にして、長年にわたり一族の剣を支えてきた歴戦の武人である。
年齢を感じさせない堂々たる体躯。
無駄のない立ち姿。
そして、静かでありながら隙のない気配。
彼を知らぬ者が見れば、ただの老練な剣士と思うかもしれない。
だが、その実力は公爵家に仕える数多の武人の中でも、明確に一線を画していた。
「本日も随分とお早いですな」
「少し試してみたいことがあってね」
「ほう」
「昨日の稽古で、気になったことがあったんだ」
ルシアンは用意されていた木剣を手に取った。
その動きに迷いはない。
しかし、ギルベルトは少年の構えを見ただけで、わずかに目を細めた。
「……昨日とは、少し違いますな」
「分かる?」
「無論。足の位置を変えられましたか」
「ほんの少しだけね」
ルシアンは木剣を軽く振る。
「昨日は踏み込みが遅れた。だから、最初から少しだけ重心を前に置いてみたんだ」
「なるほど」
ギルベルトはゆっくりとうなずいた。
「理屈は分かります。しかし、重心を前に置くということは、それだけ相手に動きを読まれる危険も生じます」
「だから試してみたい」
「……よろしいでしょう」
老剣士の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「では、参りましょう」
次の瞬間。
ルシアンが踏み込んだ。
鋭い一歩。
十三歳の少年とは思えない速度で、木剣がギルベルトの肩口へと迫る。
だが。
カンッ!
乾いた音が響いた。
ギルベルトの木剣が、寸分違わぬ角度でその一撃を受け流していた。
ルシアンは即座に体勢を変える。
二撃目。
三撃目。
流れるように連なる斬撃。
その一つひとつは、すでに並の剣士では容易に捌けない水準に達していた。
しかし、ギルベルトは崩れない。
必要最小限の動きで刃筋を逸らし、少年の間合いを外していく。
ルシアンの瞳が、静かに細められた。
(……やっぱり、そう来るか)
相手の足運び。
剣先の角度。
重心の移動。
呼吸。
そのすべてを観察しながら、少年は次の一手を組み立てていた。
ギルベルトが半歩下がる。
ルシアンはそこへ踏み込んだ。
相手が後退するならば、その分だけ間合いを詰めればいい。
そう判断した。
だが――。
「……っ!」
ギルベルトは下がらなかった。
後退するかに見えた足が止まり、わずかな身体の捌きとともに木剣の軌道が変わる。
ルシアンの剣が空を切った。
直後。
トン。
ギルベルトの木剣が、少年の肩口に触れていた。
「そこまでですな」
静寂。
ルシアンはしばらく、自分の肩に触れた木剣を見つめていた。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……参った」
ギルベルトは木剣を下ろした。
「最後の一歩が大きすぎましたな」
「そうだね」
「私が下がるとお考えになったのでしょう」
「ああ。ギルベルトが後ろに下がると思っていた」
少年は自身の足元へ目を向ける。
「あの瞬間、完全にそう決めつけていた。だから、動きを変えられなかったんだ」
「その通りです」
ギルベルトは頷いた。
「剣において、相手の動きを予測することは重要です。しかし、予測に頼りすぎれば、かえって自らの動きを縛ることになります」
「なるほど……」
ルシアンは思案するように目を伏せた。
そして。
「面白いね」
顔を上げた少年は、楽しそうに笑っていた。
ギルベルトもまた、口元を緩める。
「負けて、面白いと?」
「もちろん悔しいさ。でも、それ以上に面白い」
ルシアンは木剣を持ち直した。
「知らないことを一つ教えてもらえたんだからね」
「……なるほど」
「もう一度お願いできるかな」
その申し出に、ギルベルトは小さく笑った。
「喜んで」
再び、二人が構えを取る。
老剣士は目の前の少年を見つめながら、内心で静かに感嘆していた。
ルシアンの才能は、疑いようもなく常識を超えている。
しかし、それは単に剣を振る速度や力が優れているという話ではなかった。
一度見た動きを理解し、失敗の理由を自ら探り、次の瞬間には修正を試みる。
その観察力と適応力。
何より、敗北さえも学びとして楽しむ姿勢。
それこそが、この少年の恐ろしさだった。
(……末恐ろしいお方ですな)
だが、同時に。
(まだまだ、教えることは山ほどあります)
ギルベルトは木剣を構え直す。
十三歳の天才。
その才がいかに規格外であろうと、積み重ねられた経験と研鑽の重みまで消えるわけではない。
ゆえにこそ、教え甲斐がある。
「参りますぞ、ルシアン様」
「ああ。今度はそう簡単に取らせないよ」
朝日に照らされた訓練場に、再び木剣の打ち合う音が響いた。
◇
「……ルー」
穏やかでありながら、どこか有無を言わせぬ声音だった。
ヴァルクレスト公爵家の食堂。
長い食卓を囲む家族の視線が、一斉に入口へ向けられていた。
「今朝も、少し遅れたようですね?」
そう告げたのは、エレオノーラ・ヴァルクレスト。
四十三歳。
公爵夫人にふさわしい優雅さを備えながら、家族に対しては深い愛情を持って接する女性である。
その母を前に、ルシアンはわずかに苦笑した。
「申し訳ありません、母上。少し遅れました」
「少し、ですか?」
「……少し、のつもりだったんですが」
その返答を聞いて、食卓の一角から笑い声が上がった。
「ははっ! 相変わらずだな、ルー!」
カシウス・ヴァルクレスト。
十七歳。
ルシアンの四歳年上にあたる次兄である。
快活で親しみやすい性格の青年だが、その剣の腕はすでに並の達人の領域を超えていた。
歴代のヴァルクレスト家当主たちと比較してさえ、屈指の武才を持つと評されるほどの剣士である。
「またギルベルトに付き合ってもらっていたんだろ?」
「そうだよ、カイ兄上」
「で、今日はどうだった?」
「一本取られた」
「おっ!」
カシウスの瞳が楽しそうに輝いた。
「そいつは見たかったな!」
「笑い事じゃないよ」
「いやいや、あの爺さんから一本も取られなくなったら、逆にこっちが困るだろ」
「それはそうだけどね」
兄弟が笑い合う。
そのやり取りを、隣に座る青年が穏やかに眺めていた。
「カイ。あまりルーをからかわない方がいい」
ヴィクトル・ヴァルクレスト。
二十一歳。
三兄弟の長男である。
整った立ち居振る舞いと落ち着いた物腰を備えた青年で、政治、財政、外交といった実務面で卓越した才能を発揮していた。
しかし、それは彼が武を不得手とすることを意味しない。
ヴァルクレスト家の長男として、剣術も武術も幼い頃から修めており、その技量もまた歴代当主たちに引けを取らない水準にあった。
「ヴィク兄上」
「ルーも真面目に稽古をしていたんだろう。それ自体は悪いことじゃない」
ヴィクトルは穏やかに言葉を続けた。
「もっとも、時間を忘れてしまうのは感心しないけれどね」
「……耳が痛いな」
「それと、カイ」
「ん?」
「お前も以前は、稽古に夢中になって朝食に遅れていただろう?」
「げっ」
カシウスの表情が固まった。
ヴィクトルは涼しい顔で続ける。
「確か、父上に何度か注意されていたはずだけど」
「ヴィク兄上、それは昔の話だろ!」
「事実だよ」
あっさりと返され、カシウスは頭を掻いた。
ルシアンはその様子を見て、楽しそうに笑う。
「なるほど。カイ兄上も人のことは言えないわけだ」
「おい、ルー。お前まで言うか?」
「事実だろう?」
「……ヴィク兄上に似てきたな、お前」
「それは光栄だね」
再び笑い声が広がった。
エレオノーラは呆れたように微笑みながら、三人の息子たちを見渡す。
「まったく、あなたたちは……」
そのとき。
「まあ、よいではないか」
低く、落ち着いた声が響いた。
食卓の上座に座る男。
アルフォンス・ヴァルクレスト。
四十六歳。
ヴァルクレスト公爵家の現当主にして、三兄弟の父である。
その威厳は、ただ座っているだけでも周囲に伝わるほどだった。
しかし、家族へ向ける眼差しは温かい。
「稽古に熱中すること自体は悪いことではない。それだけ真剣に取り組んでいる証でもある」
「ありがとうございます、父上」
「だが」
アルフォンスはそこで言葉を区切った。
「時間を守ることもまた、大切な務めだ」
「……はい」
「剣の腕がどれほど優れていようと、周囲への配慮を欠いてよい理由にはならん」
ルシアンは素直に頷いた。
「以後、気をつけます」
「うむ」
アルフォンスは満足そうに頷く。
すると、カシウスが横から口を挟んだ
「でも父上、ルーのやつ、今朝もギルベルトに一本取られたらしいですよ」
「ほう」
アルフォンスの視線がルシアンへ向いた。
「それで、何を学んだ?」
その問いに、少年は少し考えてから答えた。
「相手の動きを決めつけないこと、でしょうか」
「ほう?」
「俺はギルベルトが後ろへ下がると思っていた。でも、実際は違った。予測そのものが間違っていたというより、予測が外れたときに対応できなかったことが問題だったと思います」
アルフォンスは黙って耳を傾ける。
「だから、次は相手がどう動くかだけじゃなく、違う動きをされた場合も考えながら剣を振ってみようと思っています」
「なるほど」
父は静かに笑った。
「よい学びだ」
「ありがとうございます」
「敗北から何を得るか。それを考えられるのであれば、今日の稽古にも十分な価値があったということだ」
ルシアンは嬉しそうに微笑んだ。
その様子を見ていたエレオノーラが、静かに口を開く。
「では、稽古のお話はひとまずそこまでにしましょう」
家族の視線が彼女に集まる。
「せっかくのお料理が冷めてしまいますからね」
「……確かに」
ルシアンがつぶやくと、再び小さな笑い声が起きた。
こうして、ヴァルクレスト家の朝食は和やかに進んでいった。
それは、世界に名を轟かせる大貴族の食卓でありながら、どこにでもある家族の団欒でもあった。
◇
朝食を終えたルシアンは、自室へ戻る途中でふと思い立ち、屋敷の厨房へと足を向けた。
扉の向こうからは、食器の触れ合う音や料理人たちの声が聞こえてくる。
「おはよう」
そう声をかけながら入ると、厨房にいた者たちが一斉に振り返った。
「ルシアン様!」
「おはようございます!」
料理人たちが慌てて姿勢を正す。
だが、ルシアンは気にした様子もなく片手を上げた。
「そんなに畏まらなくていいよ。仕事の邪魔をするつもりはないんだ」
「い、いえ。とんでもございません」
料理長が一歩前へ進み出る。
「本日はどのようなご用件でしょうか?」
「特に用事があるわけじゃないんだけどね。少し気になって」
ルシアンは厨房の奥へ視線を向けた。
焼き上がったばかりの菓子が、いくつか並べられている。
「それは?」
「ああ、こちらでございますか。本日の試作品でして」
「へえ」
少年の瞳が興味深そうに輝いた。
「少し味見してもいいかな」
「もちろんでございます!」
料理長はすぐに小皿を用意した。
差し出された菓子を一口。
ルシアンはしばらく味わうと、小さく頷いた。
「うん。美味しいね」
「ありがとうございます!」
「焼き加減もいいし、香りも悪くない」
その言葉に、周囲の料理人たちの表情が明るくなる。
しかし、ルシアンは少しだけ考え込んだ。
「ただ……俺には少し甘すぎるかな」
「甘すぎますか」
「ああ。せっかく果実を使っているんだし、もう少し酸味を活かした方が、俺は好みだね」
料理長は真剣な表情で頷いた。
「なるほど……。確かに、その方が味に変化をつけられるかもしれません」
「もちろん、これは俺の好みだけどね。今のままでも十分美味しいよ」
「いえ、大変参考になります」
「それならよかった」
ルシアンが笑みを浮かべた、そのときだった。
「きゃっ……!」
小さな悲鳴。
振り返ると、まだ若い侍女が、運んでいた皿を取り落としかけていた。
皿が傾き、床へと落ちていく。
周囲の者たちが息を呑む。
だが――。
ガシッ。
皿が床に触れるより早く、ルシアンの手がそれを受け止めていた。
「……っと」
一瞬の出来事だった。
少年は何事もなかったかのように皿を持ち直す。
「危なかったね」
侍女は真っ青になっていた。
「も、申し訳ございません!」
深々と頭を下げる。
「わ、私……!」
「落ち着いて」
ルシアンは穏やかに声をかけた。
「怪我はない?」
「え……?」
「手を切ったりしていないかい?」
「は、はい……大丈夫です」
「それならよかった」
少年は皿を調理台に置いた。
しかし、侍女はまだ震えていた。
「本当に申し訳ございません……」
その様子を見て、ルシアンは不思議そうに首を傾げる。
「そんなに怖がらなくてもいいよ」
「で、ですが……」
「皿一枚で怒ると思った?」
侍女は答えられなかった。
ルシアンは困ったように笑う。
「もちろん、物を大切にするのは大事なことだ。でも、失敗することだってあるだろう?」
「……はい」
「次から気をつければいい」
そう告げて、少年は再び料理長へ視線を戻した。
「それじゃ、俺はそろそろ行くよ。試作品、また楽しみにしている」
「はっ。ありがとうございます!」
「無理はしないようにね」
気軽に手を振り、ルシアンは厨房を後にした。
扉が閉まったあと。
新人侍女は、ようやく大きく息を吐いた。
「……お優しい方なのですね」
ぽつりと漏らされた言葉に、料理長が笑った。
「ああ。あの方は昔からああだ」
そして、静かに付け加える。
「もちろん、甘いだけのお方ではないがな」
その言葉の意味を、若い侍女が本当に理解するのは、もう少し先のことになるだろう。
◇
午後。
自室で書物を読んでいたルシアンは、控えていたマルタへふと視線を向けた。
彼女はいつもどおり、静かに仕事を進めている。
しかし。
「……マルタ」
「はい、ルシアン様」
「何かあったのかい?」
突然の問いかけに、マルタは目を瞬いた。
「何か、と申されますと?」
「朝から何度か考え込んでいただろう?」
「……まあ」
マルタは驚いたように少年を見つめた。
「お気づきでしたか」
「それくらいは分かるよ」
ルシアンは読んでいた本を閉じた。
「俺が何年、マルタに世話になっていると思っているんだい?」
その言葉に、マルタはかすかに微笑んだ。
「それは……随分と長いことでございますね」
「だろう?」
「ですが、ルシアン様にご心配いただくようなことでは……」
「それを決めるのは、話を聞いてからでも遅くないんじゃないかな」
穏やかでありながら、どこか譲らない口調だった。
マルタはしばらく迷った末、小さく息をついた。
「実は……息子から手紙が届きまして」
「息子さんから?」
「はい」
マルタは丁寧に頷いた。
「商会に勤めているのですが、このたび仕事で大きな役目を任されたそうなのです」
「へえ。それは素晴らしいことじゃないか」
ルシアンは素直に笑みを浮かべた。
「おめでとう、マルタ」
「ありがとうございます」
嬉しそうに頭を下げたマルタだったが、すぐに少し困った表情を見せる。
「それで、今度、息子の勤め先で小さな祝宴があるそうなのです。よければ来てほしいと……」
「なるほど」
ルシアンは頷いた。
「それなら、行ってくるといい」
「ですが……」
「何か問題が?」
「隣の都市まで行かねばなりませんし、何日かお暇をいただくことになります」
「それが?」
「私には、ルシアン様のお世話がございますから」
その言葉を聞いたルシアンは、一瞬だけ目を丸くした。
そして、思わず笑みを浮かべる。
「マルタ」
「はい」
「君が数日休んだところで、この屋敷が立ち行かなくなるわけじゃないだろう?」
「それは……そうでございますが」
「それに、俺だってもう十三歳だ。何から何まで世話をしてもらわなきゃ生活できないわけじゃない」
「……それは存じております」
「だったら、何も問題ないじゃないか」
マルタは困ったように微笑んだ。
「ですが、長くお仕えしておりますと、どうしても気になってしまうものでして」
「それは嬉しいけどね」
ルシアンは椅子から立ち上がった。
そして、マルタの前へ歩み寄る。
「でも、息子に会いに行くことを諦める理由にはならないだろう?」
「ルシアン様……」
「たまには自分の家族と過ごしたっていいと思うよ」
少年はそう言って、自然な笑みを浮かべた。
「むしろ、せっかくの祝い事なんだ。行かなかったら、息子さんも寂しがるんじゃないかな」
マルタはしばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと頭を下げる。
「……ありがとうございます」
その声には、かすかな震えがあった。
ルシアンは気づいていたが、あえて触れなかった。
「父上には俺から話しておくよ」
「ですが、そこまでしていただくわけには……」
「大したことじゃないさ」
少年は軽く肩をすくめた。
「それに、俺がお願いした方が話も早いだろう?」
どこか悪戯っぽく微笑むルシアン。
その姿に、マルタもようやく笑みをこぼした。
「……まったく。ルシアン様には敵いませんね」
「今朝も似たようなことを言っていたね」
「ええ。毎日のように思っております」
「それは困ったな」
そう言って、二人は笑い合った。
◇
夕刻。
ルシアンは父アルフォンスの書斎を訪れていた。
広々とした室内には、膨大な書物や領地に関する資料が整然と並べられている。
公爵家の当主として、多くの責務を担う父の仕事場。
ルシアンにとって、幼い頃から馴染み深い場所でもあった。
「父上。少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「ルーか。構わん。入りなさい」
アルフォンスは手元の書類から顔を上げた。
「どうした?」
「マルタのことで、少しご相談が」
「マルタ?」
「はい」
ルシアンは、昼間に聞いた話を父へ伝えた。
マルタの息子が商会で大きな役目を任されたこと。
近々、その祝いの席が設けられること。
そして、マルタ自身が休暇を取ることをためらっていること。
話を聞き終えたアルフォンスは、静かに頷いた。
「なるほど。そういうことか」
「ええ。できれば、数日ほど休暇を取らせてあげたいのですが」
「休暇については構わん。執事長にも伝えておこう」
「ありがとうございます、父上」
ルシアンは嬉しそうに頭を下げた。
その姿を見て、アルフォンスは穏やかに微笑む。
「しかし、ルー」
「はい?」
「なぜ、お前自身がその相談を持ってきた?」
ルシアンは少し首を傾げた。
「なぜ、と申されますと?」
「マルタが直接、執事長に申し出ることもできたはずだ」
「それは、そうですね」
「それでも、お前は自ら動いた」
父は静かに息子を見つめた。
「理由を聞かせてくれるか」
ルシアンは少し考えた。
しかし、その答えは難しいものではなかった。
「マルタが、遠慮していたからです」
「ほう」
「俺の世話をしなければならないから、休むわけにはいかないと」
「なるほど」
「でも、マルタにだって家族がいます」
少年は当たり前のことを話すように続けた。
「息子さんの祝い事なら、できれば行ってほしいと思いました」
アルフォンスは黙って聞いていた。
「それに……」
「うむ?」
「俺にとって、マルタは大切な人ですから」
迷いのない言葉だった。
「物心つく前から、ずっと世話になってきました。叱られることも多いですけどね」
ルシアンは少しだけ笑った。
「だから、嬉しいことがあったなら、ちゃんと笑っていてほしいんです」
書斎に、静かな時間が流れた。
アルフォンスは息子の顔をじっと見つめていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……ルー」
「はい」
「使用人たちにも、それぞれの家族があり、生活がある」
「はい」
「彼らは我々に仕える者たちだが、同時に、一人ひとりが大切な人生を持っている」
ルシアンは静かに頷いた。
「それを忘れぬことは、上に立つ者にとって重要なことだ」
アルフォンスはそこで、わずかに笑みを浮かべる。
「だが、お前はそのような責務を考えて、今回のことを申し出たわけではなさそうだな」
「……そうですね」
ルシアンは素直に認めた。
「正直、当主の責務だとか、そういう難しいことは考えていませんでした」
「では?」
「ただ、マルタに笑っていてほしかっただけです」
アルフォンスは目を細めた。
「……そうか」
そして、静かに告げる。
「ならば、それでよい」
ルシアンは父を見上げた。
「父上?」
「責務を理解することは大切だ。いずれ、お前にも多くのものを背負う時が来るだろう」
その声音には、公爵家当主としての重みがあった。
「だが、今のお前が抱いた思いも、決して忘れてはならん」
「……はい」
「理屈や立場だけで、人の心をすべて量れるものではないからな」
アルフォンスは穏やかに笑った。
「お前はお前のままで、大きくなればよい」
その言葉に、ルシアンはしばらく黙っていた。
そして。
「……ありがとうございます、父上」
心からの笑みを浮かべた。
父もまた、その笑みに応えるように頷いた。
◇
夜。
屋敷は昼間の賑わいを失い、穏やかな静寂に包まれていた。
廊下を照らす灯り。
窓の向こうに広がる星空。
昼間とは違う表情を見せる屋敷の中で、ルシアンは自室の窓辺に立っていた。
マルタの休暇については、すでに手配が進められることになっている。
執事長にも話が伝わり、彼女が安心して息子の祝いに出席できるよう調整される予定だった。
ひとまず、気にかけていたことは片づいた。
「……さて」
少年は窓の外へ視線を向ける。
遠くに見える訓練場。
朝、ギルベルトと剣を交えた場所だ。
思い出すのは、最後の一歩。
踏み込んだ瞬間の感覚。
後退するはずだと判断した相手が、その場に留まったこと。
そして、肩口に触れた木剣。
「……あそこは、もう少し違う動きができたはずだな」
小さくつぶやく。
目を閉じ、頭の中で何度か動きを組み立て直す。
右へ避ける。
踏み込みを止める。
あるいは、最初から違う間合いを取る。
考えれば考えるほど、試してみたいことが増えていく。
自然と口元が緩んだ。
「……明日が楽しみだ」
そのときだった。
「ルー」
背後から、優しい声が聞こえた。
振り返ると、扉のそばに母エレオノーラが立っていた。
「母上」
「まだ起きていたのですね」
「ええ。少し考え事を」
「剣のお稽古のことですか?」
「……よく分かりましたね」
エレオノーラは小さく笑った。
「あなたのことですもの」
そう言って、息子のそばへ歩み寄る。
「ですが、もう遅い時間ですよ」
「もう少しだけ……」
「ルー」
穏やかな声音。
しかし、その一言でルシアンは言葉を止めた。
昼間、マルタから向けられたものとよく似た視線だった。
「……分かりました、母上」
「よろしい」
エレオノーラは満足そうに微笑んだ。
そして、少年の髪をそっと撫でる。
「今日も一日、楽しかったですか?」
「はい」
ルシアンは迷わず答えた。
「とても」
「それはよかった」
母は優しく微笑む。
「では、明日もよい一日になるよう、今日はゆっくり休みなさい」
「はい、母上」
ルシアンは窓を閉じた。
夜風が遮られ、部屋に静けさが戻る。
寝台へ向かう少年を見届けながら、エレオノーラは柔らかな声で告げた。
「おやすみなさい、ルー」
「おやすみなさい、母上」
灯りが落とされる。
暗闇に包まれた部屋の中で、ルシアンは静かに目を閉じた。
朝には、厳しくも頼もしい師がいる。
食卓には、愛する家族がいる。
屋敷には、幼い頃から自分を見守ってくれた人々がいる。
それは彼にとって、あまりにも当たり前の日常だった。
けれど、当たり前であるからこそ。
そこにある温もりを、少年は確かに知っていた。
世界にその名を轟かせるヴァルクレスト公爵家。
いつの日か、その頂点に立つことになる少年。
ルシアン・ヴァルクレスト。
彼の物語は、まだ始まったばかりだった。
そして今は、ただ。
愛する人々に囲まれた、穏やかな少年の日々が続いていた。