HUNTER×HUNTER ―紅き公爵の剣譚― 作:アトレトル
第10話 剣の届く場所
木枠の角が、作業員の肩へ迫った。
ルシアンは男の足が台車の取っ手を越えるのを見ながら、刀身を斜めに差し入れた。周で包んだ銀灰色の刃が、張り出した木へ直接触れる。振り抜く先には人も馬もいない。押し寄せてくる荷台の重さを受け止めず、男の逃げ道へ突き出た部分だけを断つ。
硬い手応えが、切っ先の方へ抜けた。
「そのまま、こちらへ」
切り離された木が落ちるより先に、ルシアンは左手を伸ばした。男の上腕を取り、自分の進む側へ引き込む。剣を外へ向けたまま一緒に足を運ぶと、空いたところへ護衛の手が伸びた。
背後で、荷馬車が倒れた。
地面を叩く音に、木と積荷のぶつかる音が重なる。ルシアンは男を護衛へ渡し、もう一歩、二人を道から離した。肩越しに見た荷台は、斬る前と同じ勢いを残したまま横へ滑り、積荷を崩していた。
人の通る幅を作れた。それで、まだ動く車体へ近寄ってよいわけではない。
「後ろへ下がっていて。荷は、俺たちが見ておくよ」
男は大きく息を吸った。答えようとして声が出ず、ルシアンに掴まれた方の腕を、反対の手で押さえる。ルシアンはその手と服を見た。血は見えない。
「どこか、ぶつけたかな」
「いえ……ありません。たぶん、何も」
「それならよかった。落ち着いてから、もう一度確かめてもらおう」
護衛が男の様子を見ながら、退避した人々の側へ連れていく。ルシアンは剣を低く保ち、待機場所の縁を見渡した。台車の取っ手は空を向いている。男が最後にいた場所へ、割れた木片が散った。
御者台には、もう誰もいなかった。
車体が倒れる直前、グラントは手綱を放して、持ち上がっていない側へ飛び降りていた。地面へ着くと姿勢を崩しかけたが、手をついて踏み直し、そのまま走り出した。荷台に積んだ紙も箱も、取りに戻らない。
ルシアンは、その背中を見た。
今なら追える。だが、護衛へ渡した男のほかにも、音に驚いて動き始めた人がいた。倒れた車体の向こうでは、馬が脚を踏み替えている。
「グラントは降りて、走っている。俺はBの退避を続けるよ」
無線へ伝え、横転した荷馬車の方へ身体を戻した。カシウスの返事が短く届く。次兄が聞いたことを確かめ、ルシアンは近くの護衛へ馬の方を示した。
「扱える人を呼んでくれるかな。皆を、その前へ出さないように」
護衛が声を飛ばした。別の隊員が南口から来て、逃げ道を探している馬の周りを空ける。荷を受け取りに来ていた男が手を上げ、馬を扱う仕事をしていると告げた。隊員はその男と位置を確かめ、人を遠ざけながら近づいていく。
ルシアンは、荷台の下へ潜ろうとした作業員を止めた。紙が見えたらしい。
「今は触らずにいて。車体が動かないとわかってからだよ」
自分の剣が届いた木枠は、もう男を傷つけない。だが、倒れた荷台全体まで止めたわけではなかった。衝撃で、緩んでいた積荷の間から木樽が外れる。
一つが荷台の縁へ当たり、下り道へ落ちた。続いて、後ろの樽も動いた。
「下の道へ、樽が落ちた!」
ルシアンは声を上げ、無線機を取った。すぐ横の護衛もCへ知らせている。切っ先を向ければ届く場所にあった木とは違い、転がり始めた樽は、もう下りの曲がりへ向かっていた。
彼は道の入口へ近寄る人を引き留めた。
「そちらへは出ないで。下には、もう知らせている」
木樽の底が地面を叩く音が遠ざかり、曲がり角の向こうへ消えた。ルシアンの立つBからは、その先の資材置場が見えない。
倉庫の時計が正午を告げた。鐘の音の間に、彼は、こちらで救った男が護衛の問いへ頷く姿を確かめた。
◇
Cの救護待機場所では、南の異常を聞いた担当者が、作業道へ出る者を止めていた。
ギルベルトも、道の曲がりへ顔を向ける。荷馬車が傾いたという報告に続き、樽が落ちたという声が届いた。資材を動かしていた者たちへ、すぐに道から離れるよう伝える。
曲がりの向こうで、硬いものが跳ねた。
木樽は、人の足で下りてくる時とは違う角度で現れた。一つが道脇の積み材へぶつかり、もう一つが、その手前で向きを変える。警告を聞いて下がりかけた運送作業員の足元へ、樽が転がり込んだ。
男が倒れた。近くにいた若い助手も身を引く途中で地面へ手をつき、脇の資材へ肩を打った。
別の成人作業員は、積み材から離れようとしていた。樽に押された木の端がずれ、その前腕を裂く。男は腕を抱えて膝をつき、作業着の袖から血が落ちた。
「道から離す。まだ、次が来るかもしれません」
ギルベルトが告げると、救護担当者は負傷した者のそばへ分かれた。ほかの隊員が作業道を見ながら、周囲にいた人々を資材のない側へ誘導する。倒れた樽を追って道へ飛び出す者は、誰も出さなかった。
腕を傷つけた男は、押さえた手を見下ろしたまま呼吸を速めていた。救護担当者がすぐに声をかけ、血の出ている場所を確かめる。圧迫を始めた布へ、赤い色が広がった。
「こちらを見てください。お名前を伺えますか」
男は答えた。声は震えているが、呼びかけは聞こえている。ギルベルトはその返事と、押さえても続いている出血を見て、担当者の隣へ膝をついた。
足を痛めた運送作業員の方からも、報告が来る。
「下腿です。立たせずに見ています。骨折の疑いがあります」
「固定と、搬送の用意をお願いします。こちらは腕の出血を先に見ます」
若い助手は、擦れた掌を押さえながら起き上がろうとしていた。担当者に止められ、痛むところを順に答える。顔をしかめてはいたが、問いを聞いて、自分の足を動かせるかどうかも説明できた。
ギルベルトは周囲を確かめ、最初に救護へ入った者へ、ほかに倒れている人がいないか尋ねた。作業をしていた者の数と、避けていた者の数が、声に出して合わせられる。
「負傷は三人です。今のところ、それ以外に見当たりません」
その報告が、無線へ送られた。
Bでは、ルシアンが待機場所の人々を数え終えるところだった。Cで三人が負傷したと聞き、下り道の入口へ目を向ける。見えるのは、樽の通った土の跡と、曲がりまでの道だけだ。
「ギルベルトは?」
「Cで対応を始めております。救護担当も、三人のそばへ」
「わかった。Bの作業員は救出している。こちらに怪我をした人はいないよ。今、下り道へは通していない」
知らせたあと、彼は目の前の護衛へ無線を渡した。下り道へ新しい荷が入らないよう、待機中の御者にも伝えてもらう。
先ほど助けた男が、退避した場所から、下の方を気にしていた。
「下に、いつも手伝ってくれる者がいるんです」
「今、誰がいるか確かめてもらっているよ。君も、こちらで名を伝えておいて。向こうで君を捜さずに済むように」
男は護衛へ名を告げた。ルシアンは、その返事がCへつながるのを聞く。ギルベルトがそばにいる。向こうへ送る道も、こちらで空けておける。
彼は、車体へ戻りかけた人の前へ歩いた。
「荷のことは、あとで確かめよう。下へ人を送る場所を、先に空けたいんだ」
相手が下がると、護衛が待機の列を動かした。誰がどこへ行けばよいか、もう一度、端から伝えていく。Cで始まっている救護へ、別の車両や人を重ねるわけにはいかなかった。
◇
カシウスは、南口へ続く通路で隊員を振り返った。
ルシアンの返事に続き、荷馬車が倒れた音が聞こえた。Bでの救助と、Cの負傷。その間も、倉庫の中では、動かしていない荷と原本を見ている者たちが残っていた。
「Aの制圧と保全の指揮を、ここから引き継いでくれ。担当者と立会人はそのまま、奥を確かめる隊員も残す。無断で荷を外へ出さないように」
「承知しました。南へ出るのは、こちらの二人で」
「それでいい。怪我人が増えたら、Cへ送る前に連絡を。俺はBでグラントを確保する」
隊員が復唱し、記録を取る担当者へ向き直った。引き継いだ者の声で、奥にいた隊員も返事をする。カシウスはそれを聞いてから、南口を抜けた。
倒れた七号車の周りでは、人が離れ始めている。ルシアンは通行人の方に残り、手を上げて護衛へ何かを頼んでいた。剣の先は下がっている。弟が無事に立っているのを確かめ、カシウスは道の外側へ目を移した。
グラントが、積荷置場の端へ向かって走っていた。
足は動いている。車体から降りたあと、怪我で立ち止まる様子はない。だが、身を隠せる場所へ向かうたび、そこにいる隊員を見て進む向きを変えていた。
「止まれ。そちらへは行かせない」
カシウスの声に、グラントが振り返る。すぐまた前を向き、空の荷箱を回ろうとした。
カシウスは、同じ箱の後ろを追わなかった。男が出口として選んだ側へ、先に回る。グラントが顔を上げた時には、カシウスは、もう進もうとした場所に立っていた。
男の右手が、反射的に前へ出た。
押しのけるつもりの腕を、カシウスは内側から受けた。足の置き場を変え、相手の上体を道から外へ向ける。グラントが踏ん張ろうとしたところで、その手首を取って身体の後ろへ回した。
「動くな。手を見せたままでいろ」
剣は鞘に収まったままだった。オーラの刃を作る必要もなかった。
追いついた隊員がもう片方の腕を取り、拘束を確かめる。カシウスは相手を押さえる力を緩めず、足と服の状態も見た。男の呼吸は荒いが、受け答えはできる。
「馬車は、倒れる前に降りたな」
グラントは息を吸い、答えなかった。
「こちらでは確認している。痛む場所があるなら、今伝えろ」
「……ない」
カシウスは隊員へ引き継ぎ、周囲に落ちたものへ勝手に触れないよう伝えた。荷と紙は荷馬車の側に残っている。捕まえた男の言い分と、どこに何があったかを記す仕事は、別に続く。
無線へ、グラントをB付近で確保したと報告した。生存、目立った負傷なし。Aは隊員へ指揮を渡している。
ヴィクトルが受け、引き渡しまで担当を置くよう返した。
東の舗装路でも、その声をローレンツが聞いていた。
こちらへ来る乗用車の進路は、すでに封鎖班が押さえていた。事前の報告どおり、人と搬入車両を止める場所を分け、車の正面へ立って制止する者もいない。ローレンツは道脇から車内を見た。運転しているのは、オスカー本人だった。
前に出られないとわかると、車は急に速度を落とした。
オスカーは左右を見た。路肩には護衛がいる。前を空けろと手を上げたが、班は退かなかった。車が止まるのを待ち、ローレンツが、運転席へ声を届かせる。
「エンジンを止めて、両手を見せてください。確認を受けるため、降りていただきます」
「支店へ、戻るだけです。向こうで説明を」
「その説明は、引き継ぐ担当者が伺います。今は、そのまま手を見せて」
車が動かなくなったのを班の者と確かめ、ローレンツは運転席へ近づいた。オスカーは扉を開けたが、足を外へ出すところで、また後方へ目を走らせる。
副長は、その動く先へ身体を置いた。
「こちらへ」
腕を取り、車体から離す。オスカーが逃げ道を探して体重をずらしても、支えの位置は変わらなかった。もう一人の隊員が反対側へ付き、ローレンツ自身が拘束を確認した。剣を抜かせる相手ではなかった。
「書類が、車の中に」
「位置を教えてください。担当者が、状態を記録して扱います」
言いながら、副長は車内へ戻ろうとする腕を止めた。オスカーの名と状態、乗用車を止めた場所が、無線で送られる。
Dで二つの報告が照合された。南ではカシウスがグラントを、東ではローレンツと封鎖班がオスカーを確保した。荷馬車の男と、乗用車の男を取り違えず、それぞれを引き継ぐ先も確かめる。
Bへ戻ったカシウスは、ルシアンがまだ通行人へ道を示している姿を見た。声をかける前に、Cの救護担当から、新しい報告が入った。
◇
腕の傷を押さえる布を支えながら、救護担当者がギルベルトへ顔を向けた。
「出血が続いています。搬送は、手配しました」
「この方から始めます。保護を続けたまま、手を添える場所を空けてください」
担当者は、圧迫をやめて手を引くのではなく、ギルベルトが触れられる位置を確かめた。深い傷の周りを覆い、必要な処置を続ける。そのそばで、ギルベルトは男へ呼びかけた。
「私が手を添えます。治療を助けますので、そのままこちらにお任せください」
男は頷こうとした。腕を見た拍子に顔を強張らせ、かすれた声を出す。
「指が……動かせなくなるんでしょうか」
「これからの診察で、傷の深さも確かめてもらいます。今は、出血を抑えることを先に」
すべて元どおりになるとは言わなかった。男が返事をするのを待ち、ギルベルトは、傷のすぐそばへ手のひらを触れさせた。
呼吸を整える。掌から、相手の身体へオーラを送り込んでいく。
剣を握る時とは違い、その手は動かなかった。男が痛みに腕を引きかけても、支える位置へ静かに合わせ、触れたところを保つ。救護担当者は男へ声をかけ続け、腕を落ち着かせるのを助けた。
すぐに、傷が消えたわけではない。
布を染めていた血の広がり方が、少しずつ変わった。傷ついた組織の修復が進み、圧迫を続ける担当者が、出血の勢いが弱まったことを確かめる。腕にはまだ深い傷があり、保護を外せる状態ではなかった。
ギルベルトの掌は、その間も離れない。
強化系の発、『命を繋ぐ手』。ライフライン。
接触している生存者の自然治癒を促す能力だった。身体が傷を直す働きを、オーラで助ける。その働きに集中しているあいだは、触れた手を保つ必要がある。隣の負傷者へ同じ作用を送りながら、こちらの傷を直し続けることはできなかった。
足を痛めた運送作業員へは、別の担当者が付いていた。下腿には骨折の疑いがあり、動かさずに支える用意が進んでいる。骨が皮膚を突き破ってはいないが、それで軽い怪我になるわけではない。無理に立たせず、固定して運ぶ段取りを確かめていた。
「そちらの搬送路は、空きましたか」
ギルベルトが尋ねると、隊員が、Bからも人と荷を入れないよう連絡を取ったと答えた。
若い助手の擦過傷には、通常の処置が施されていた。肩を動かすと痛みがあるため、担当者が打った場所を聞き直している。助手は、隣の男の腕へ目を向けた。
「僕の方は、あとでいいです。あの人を」
「こちらにも担当がいます。痛むところは、我慢せずに教えてください」
返されると、助手は、土の付いた袖をそっと持ち上げた。誰かが重い傷を負っていても、ほかの者が黙っていなければならないわけではない。それぞれのそばにいる者が、必要なことを聞いていた。
腕を傷つけた男の呼吸が、少し落ち着いた。
「まだ、押さえていないといけませんか」
「はい。私の手があっても、こちらの処置は必要です」
ギルベルトは答え、救護担当者と傷の状態を確かめた。出血は先ほどより抑えられている。だが、傷の縁がすべて閉じ、腕の働きまで取り戻したわけではなかった。
男の家へ、搬送先を知らせるための確認が始まった。仕事場の連絡先を尋ねられ、男は口にしかけた名を言い直す。そちらは今日不在で、別の者へ伝えた方が早いという。担当者は聞き返し、紙へ控えた。
ギルベルトはそのやり取りを聞きながら、送り込むオーラを保った。
大きな傷ほど、助けるための負担も重くなる。触れてさえいれば、尽きずに働く能力ではない。掌の下で起きる変化を確かめ、出血を抑えた状態で運べるか、救護担当者の判断と合わせる。
「搬送中も、こちらを支えます。保護は、このまま維持できます」
担当者が告げた。ギルベルトは頷き、急に手を離さず、次の者へ姿勢を引き継ぐ準備を待った。
「この先は医療機関で診てもらいます。今日は仕事へ戻らず、治療を受けてください」
男が、ようやく彼の顔を見た。
「もう、動けるのかと……」
「血が落ち着いたことと、傷が治りきったことは別です。腕は、まだ休ませねばなりません」
男は、包まれた自分の腕へ目を落とした。今度は傷を覗き込もうとせず、支えに任せる。ギルベルトは必要な処置が続くのを確かめ、ようやく掌を離した。
指を一度曲げ直した時、額に浮いた汗が頬を伝った。救護担当者から布を受け取り、短く礼を言う。
足の患者も搬送の用意が整い、固定の状態をもう一度確かめられていた。その足へ、ギルベルトが一度触れただけで立たせることはしない。後の診察と、引き続き行う治療が必要だった。
「明日の便には、戻れませんか」
運送作業員が尋ねた。付き添う担当者は、まだ診察前なので約束はできないと答え、誰へ仕事の連絡をすればよいかを聞いた。男は一度口を閉じ、やがて、頼みたい相手を挙げる。担当者がその名を復唱すると、握っていた上着の裾から、少し力が抜けた。
ギルベルトは、連絡を受け持つ隊員へも確認した。怪我をした者が、明日の穴をどう埋めるかまで、その場で一人で決める必要はなかった。
若い助手は、付き添いの声を聞きながら、痛みを確かめて答えている。
三人とも、生きていた。
ギルベルトは無線へ、施術した相手と、残っている傷の状態を伝えた。ほかの二人には、救護班の通常の処置が行われている。これで全快したのではなく、三人を次の治療へつなぐところまで進んだのだと、Dへ報告した。
返事を聞いてから、彼は搬送する側の隊員へ向き直った。
「先ほどの連絡先も、一緒にお渡しください。到着したことが、仕事場とご家族へ伝わるように」
◇
Bの街道で、ルシアンは、地面に落ちた木片を見下ろしていた。
切り口は、狙ったところを通っている。刀身へ欠けがないことを確かめ、周を解いてから布で汚れを拭った。剣を鞘へ戻すと、近くで待っていた作業員が、こちらへ歩み寄った。
空の台車を片づけていた男だった。
「診てもらいました。どこも、傷はありませんでした」
「それなら安心だね。あの台車も、あとで戻してもらえるよ」
「台車より、先に、お礼をと思いまして」
男は言い、深く頭を下げた。ルシアンは、下がったその肩へ手を置かなかった。相手が顔を上げるまで待ち、少し笑う。
「間に合ってよかったよ。君が、呼んだ方へ来てくれたからだ」
「足が、うまく動かなくて。あの時、もっと早く……」
「それでも、手を離して来ただろう? ちゃんと、ここにいるじゃないか」
男が自分の足を見た。土の付いた靴が、二つとも地面に載っている。ルシアンも、その視線の先を見てから、まだ整理の続く荷馬車の方へ顔を戻した。
馬は、扱える者と隊員によって車体から離され、安全なところへ移されていた。横転した車体が動かないよう手当てをする者の脇で、調査担当が、散った荷と紙を記録している。誰かが木片を片づける前にも、それがどこにあったかを確かめていた。
男は、その仕事を見たまま、午後に受け取るはずだった荷のことを言い出しかけた。
「そちらも聞いておこう。君が怪我をしていないことと、仕事が済んだことは、また別だからね」
ルシアンは、朝に到着時刻を気にしていた男をつないだ担当者へ、用件を渡してもらった。待つ場所が変わったこと、台車は危険がなくなってから戻すことも、合わせて伝える。
作業員がそちらへ向かうのを見届けてから、ルシアンは、護衛が拾い上げた包みに気づいた。七号車が来た時、男が取りに戻ろうとしたものだ。持ち主を呼んでもらうと、包みを落とした男が、両手を出した。
「踏まれていなかったようだよ。中を確かめてみて」
男は結び目を解き、覗いてから、息を吐いた。
「大丈夫です。これで、戻れます」
「帰りは、あちらから案内してもらえるよ」
言うと、相手は道の方を確かめた。ルシアンは笑い、包みを抱え直す男を見送った。そこで、横から声がした。
「ずいぶん、頼りにされているな」
「カイ兄上。こちらは、もう逃げる人はいないよ」
「その一人は、俺が預かった」
カシウスが隣へ来た。腰の剣は、鞘に収まっている。ルシアンは一度見て、兄の顔へ目を上げた。
「抜かずに済んだんだね」
「走る相手を止めるだけだ。お前の方が、剣を使う仕事だったな」
ルシアンは木枠の切り口を示した。
「ここが出ていた。車体ごと受けるより、この方が早かったんだ」
カシウスは、元の荷台と、作業員がいた場所を見比べた。足元の台車が、まだ脇に寄せられている。
「ああ。よく間へ入った」
「俺に任せたんだから、それくらいは期待していたのだろう?」
「もちろんだ。だから、期待どおりだったと言っている」
ルシアンは満足して頷いた。兄が、たまたま助かったと言わないのが嬉しかった。男の進む向きも、刃を通す場所も、自分で見て選んだ。握っていた時の手応えを、今も覚えている。
Cから、搬送の準備が進んだという連絡が来た。
カシウスが応答し、Bの通路を空けていることを確かめる。ルシアンは曲がり角へ目をやった。
「下の三人は、これからも治療がいるんだね」
「ああ。ギルベルトから、そう報告が来ている」
「樽が落ちた時には、もう向こうへ知らせていた。俺が走っても、ここからでは見つけるところからだ」
口にしてから、ルシアンは剣の柄へ軽く指を触れた。見えていた木枠を、斬れる位置まで運ぶのに迷いはなかった。曲がりの先にいる者は、同じやり方では選べない。
「Bを離れて追っていたら、あの人のところへ戻ることになる。そちらを片づけて下へ走れば、今度は、ここで人を止める者が減るね」
「だから、分けている。一人で全部の場所に立たなくていい」
カシウスは、通路の脇へ立つ護衛へ目を向けた。弟が頼んだとおり、新しく来た者をその手前で止めている。
「ここを任せられたから、俺はグラントへ行けた。下は、師範と救護の者が見ていた。それで続ければいい」
「兄上まで俺と一緒に、木を斬りに来ても困るしね」
「斬り口の順を相談する時間は、なかったな」
二人で少し笑った。カシウスが先に歩き、搬送のために空けた道を確かめる。ルシアンも並んで、待機中の者が張り出していないか見た。
下から連絡を受けた隊員が、通過できると無線で返す。やがて救護の車両が動くと聞き、兄弟は道の外へ寄った。
通っていく車両の中へ、ルシアンは覗き込まなかった。今は、乗せた者を運ぶ仕事がある。自分のいた場所から、その進む先を空けておけばよかった。
カシウスが、弟の肩の埃を指で払った。
「帰ったら、マルタに見つかるぞ」
「見つからないように戻るつもりはないよ。怪我をしていないことから、先に話すさ」
「順序は、よく考えたな」
「今日は、いろいろ任されたからね」
ルシアンが返すと、兄は笑い、次に動かす待機の列を指した。二人はそちらへ向かった。
◇
夕方、Dの机には、各所から集めた控えが並んでいた。
ヴィクトルは、無線の時刻を記した紙と、現場の担当者が持ってきた報告を合わせている。ルシアンがカシウスと入ると、長兄は手元の一枚を押さえたまま顔を上げた。
「Bの片付けは?」
「車体は動かないようにして、担当へ渡した。馬も離している。通す道と、作業を続ける場所は分けてきた」
カシウスが答えた。ルシアンは、台車の作業員が無傷だったことと、待機していた人々を担当者へ引き継いだことを添える。ヴィクトルは聞いたことを記し、隣の紙へ移った。
ローレンツは、東側から戻っていた。
「オスカー本人は、関係当局の担当者へ引き渡しました。停止させた乗用車も引き継いでおります。車内の書類は、位置と状態を記録した上で保全しております」
「グラントはB付近で俺が確保した。身柄は、関係当局へ引き渡してある。七号車に残った荷と紙も、現場の記録へ付けてある」
南と東の報告が、机の上でも別々に揃う。倉庫では、引き継いだ隊員の指揮のもとで奥の原本も確かめられ、物資とともに保全された。現物と書類を扱った者、場所を変えた理由、引き渡した先が、一つずつ対応していた。
ヴィクトルは、確認の済んだ分を担当者へ渡した。
「本人たちと資料は、関係当局へ。こちらで確かめたことと、これから調べてもらうことが、わかる形にしておこう」
逃げた者を捕まえたからといって、ここで全員の処分を決めるわけではない。倉庫にいた者から聞く話も、まだ残っている。紙に書かれた名と、実際に行ったことを、これからも合わせる必要があった。
ギルベルトが到着したのは、その確認が一段落する頃だった。
ルシアンは椅子の前を空けた。師範は礼を述べ、腰を下ろす前に、三人の搬送が済んだことを報告した。
「成人作業員の腕は、出血を抑えて医療機関へ引き継ぎました。傷は残っており、引き続き処置と休養が必要です。足の方も、固定した状態で搬送しております。助手の方には、通常の応急処置を」
「負傷した民間人は、三人で変わりないね」
「はい。死亡した方はおりません。Bで救出された方にも、負傷はないと確認できました」
ヴィクトルの手が、記録の上で止まった。
「わかった。搬送先への連絡と、その先に必要な手配は続ける。今日中にすべて終わったことにはしないでおこう」
救護の担当者が控えを受け取り、部屋を出た。ギルベルトの前へ、水の入った杯が置かれる。師範がそれを持つ手を見て、ルシアンは尋ねた。
「手を当てている間、ずっと集中していたんだね」
「ええ。治そうとする働きを助けるものですから、相手の状態も見ておらねばなりません」
「剣の時より、長く手を動かさずにいるんだ」
「相手の方に、動かないでいていただくお手伝いも要ります」
その言い方に、ルシアンは救護担当者の声を思い出した。無線には、施術の報告だけでなく、搬送の道と付き添いの確認も流れていた。
「それなら、帰りは座っていて。剣の相手を頼むのは、また今度にするよ」
「お心遣い、ありがたく。次の稽古までお忘れいただけるとは、思っておりませんでしたが」
「忘れたら、師範の方から呼びに来るだろう?」
ギルベルトが口元を緩めた。カシウスは椅子の背へ手を置き、弟を見た。
「帰ってすぐ、もう一本とは言わないんだな」
「俺も、夕食を食べたいからね。兄上が、先に全部食べてしまうと困る」
「俺の食欲まで、今日の報告に入れるな」
ヴィクトルも笑い、残しておく書類をまとめた。それから、ルシアンへ向き直る。
「今日、Bを守ったことは、父上にも報告する。人を助けて、そのあとも持ち場を見続けた。よくやったね」
ルシアンは、兄の目をまっすぐ見返した。
「任されたからには、そう言ってもらうつもりだったよ」
「うん。そのつもりで、次も頼む」
長兄は、あっさりと言った。褒められるために控えめな顔を作る必要も、助けたことを小さく言う必要もなかった。ルシアンは気持ちよく頷き、帰るために椅子を戻した。
最後の担当者へ引き継ぎを終え、彼らは車へ向かった。ギルベルトの座る席を確かめ、ローレンツが現地に残る班と連絡を取る。ルシアンは、兄たちと同じ車へ乗り込んだ。
窓の外を、夕方の街道が流れていく。朝には荷を待つ場所として見た道に、今は片付けを続ける者の姿があった。車が通る前に、隊員が合図を返す。
腰の剣は、もう鞘の中にある。
帰ったら、手入れをしておこう。あの切り口を通った刃を、明日も同じように握れるように。
そう考えていると、カシウスが、また上着の肩を見た。
「埃は、まだ残っているぞ」
「もういいよ。マルタには、最初から話すことにしたんだから」
「母上にも聞かれるね」
ヴィクトルに言われ、ルシアンは頷いた。
「ええ。ちゃんと帰ってきたところから、お話しするよ」
今度は、二人の兄が同時に笑った。
ルシアンも窓から顔を戻した。屋敷で待っている人々へ、今日、自分の手で助けた男のことを話せる。その男が、傷一つなく、自分の足で歩いていたことも。
車は、家族の待つ屋敷へ向かっていた。
第10話 了
命を繋ぐ手(ライフライン)
ギルベルトの強化系の念能力。手のひらで触れた負傷者の自然治癒を促し、身体が傷を直す働きを助ける。施術中は接触と集中を保つ必要があり、原則として一度に一人を対象とする。大きな傷ほど負担も重く、触れるだけで即座に全快する能力ではない。