HUNTER×HUNTER ―紅き公爵の剣譚― 作:アトレトル
第11話 勝者の責任
父の机へ並べられた書類の中に、ルシアンは、工房で受け取った修理票の写しを見つけた。
自分が持ち帰った時には、それだけを挟んでいた紙だ。今は車両の運行記録と、倉庫から保全した原簿の写しが隣にある。どれも同じものを記しているわけではないが、日付と荷の移動を順に追えば、互いの間がつながっていた。
街道から戻って、三日。開門祭まで、あと三日になっていた。
「こちらが、工房で保管されている原本と照合した分です」
テオドールが、写しの端を示した。アルフォンスは目を通してから、その隣の運行記録へ指を移す。
「修理のあとに、問題の便へ使われたことが確認できたのだな」
「はい。ただし、修理票に積荷の内容は記されておりません。そちらは入出庫の原本と、実際に残っていた物資から確かめております」
ヴィクトルが答えた。工房の票は、七号車の修理がいつ済んだかを示すものだった。それだけで、誰が何を運び、どこで利益を得たかまで決めることはできない。
長兄は、発注した品と、村で受け取られていない品を対応させた記録を開く。そこへ、倉庫に残っていた荷の識別番号が加わっていた。
経理補佐のエマは、手元の頁を確かめてから口を開いた。
「この取引の入金は、正規の経理記録にも残っています。公爵家へ提出された一覧では、別の項目へまとめられていました。保全された原簿の出庫先と合わせると、こちらの取引先へ渡した分に当たります」
以前、彼女が説明した相違が、今度は倉庫の現物と原本の両方へつながった。エマは自分が記帳した範囲を示し、それ以外の指示については、確認した担当者へ説明を譲る。何もかもを一人の証言へ載せる必要はなかった。
オスカーが主導した取引と、グラントが実行した物資の移動。商会から出された書類、公爵家で保管する発注と受付の記録、村の受領簿、それに転売先の受領と支払いが、机の上で対応していく。
カシウスは、逃走時の報告を渡した。
「グラントは、南へ出した七号車から降りたあと、俺が確保した。東へ車で出たオスカーは、ローレンツと封鎖班が止めている。二人とも、関係当局へ引き渡し済みです」
横転の前後についても、報告は分けて記されていた。正常に修理を終えていた車両を、無理な速さで曲げ、荷を偏らせた。工房の仕事に事故の責任を押しつけるものではなかった。
負傷した民間人は三人。死亡者はなく、三人とも搬送先で治療を受けている。腕に傷を負った者と、足を固定している者には、まだ仕事へ戻れるという報告はなかった。
アルフォンスは、最後まで聞いてから書類を閉じた。
「当該支店との取引は停止する。公爵家の受付から支払いまで、内部の点検も続けよ。働いていたというだけで関係のない者まで責めることはないが、確認しなければならぬ箇所は残すな」
「承知いたしました」
テオドールが答え、決められた事項を控える。
「不足分の補填は、調査の終わりを待つな。先に手配した便の到着と、追加で要る分を確かめる。負傷した者への支援も同じだ。司法の手続きに必要な資料は、保全の記録を添えて引き継ぐ」
処分という言葉を聞いて、ルシアンは、これで仕事が一つ片づくと思っていた。だが、父が指示した相手は、取引の担当者だけではなかった。配送を調え直す者にも、治療の経過を聞く者にも、次にすることが渡される。
父は彼へ目を向けた。
「ルシアン。昼に、手配している荷を見に行く。エレオノーラと一緒に来るか」
「はい。届ける方まで、見ておきたいです」
答えると、アルフォンスは頷いた。ヴィクトルは別の綴りを引き寄せ、報告会を終える前に、もう一件、本人へ伝える用意があると告げた。
ルシアンには、その綴りに書かれた名前が見えた。
◇
午前の光が、物資管理の部屋へ差し込んでいた。
リナは、マルセルの隣で椅子へ掛けていた。テオドールが書類を置くと、背筋がもう少し伸びる。ルシアンはマルタとともに、その斜め向かいへ座った。
ヴィクトルは、紙をリナが読める向きへ直した。
「調査の結果を、先に本人へ伝える。問題の変更書類にある受付確認署名は、リナが記したものではない。商会側で偽造されたと確認できた」
リナは、すぐには返事をしなかった。
目が、紙の上の自分の名前を辿る。説明を聞くために合わせていた両手が、膝の上でほどけた。
「私が、その書類を受け付けて、変更を回したのではないと……」
「うん。そのとおりだよ」
長兄は答え、確認した記録を順に示した。商会側の改ざんと、公爵家に届いた時点の記録。リナの勤務と実際の受付の履歴。それらに、倉庫で保全した書類と調査の結果が加わっていた。
マルセルが、リナへ向き直る。
「君から変更を上申された記録はない。こちらで照合して送ったものもない。前に確かめたとおりで、そこが新しい原本とも一致している」
テオドールも、自分が所定の承認をした原本は存在しないと告げた。受付の署名一つで、正式な配送変更が成立していたわけではない。リナに責任があるかのように見せた記載の方が、不正だった。
「一時分けていた受付の担当を、元へ戻す。これは罰を解くという意味ではないよ。処分として外したものではなかったからね」
ヴィクトルの言葉に、リナは小さく頷いた。
「関係した者にも、今回の確認結果を正式に伝える。本人だけが知っている状態で、仕事へ戻ってもらうつもりはない」
「ありがとうございます」
ようやく出た声は、最初の問いより少し低かった。リナは頭を下げ、顔を上げてから、もう一度書類を見た。
ルシアンは、彼女が読み終えるのを待った。
「当然の結果だね。俺は、最初から君の話を信じていたよ」
「はい。そう仰っていただいたこと、覚えております」
「なら、今日のことも覚えておくといい。君の仕事は、君がした分として戻ってきたんだから」
リナの口元に、ようやく笑みが浮かんだ。だが、マルセルが普段の受付簿を持ってきた時には、差し出しかけた指が一度止まる。
「今度、見覚えのない書類が混じっていたら、すぐにお尋ねしてもよろしいですか。前より、手を止めてしまうかもしれません」
「構わない。何を確認したかがわかれば、次には早くできる。わからないまま署名を増やす必要はないよ」
マルセルは、机の端を空けて、いつもの位置へ帳面を置いた。テオドールは立ち上がり、部屋にいる担当者たちへ説明するため、控えを持っていく。
マルタが、リナの前の杯へ目を向けた。
「少し、お飲みになってからでよろしいでしょう。お茶が冷めてしまいます」
リナは慌てて持ち上げかけ、今度は自分で動きを緩めた。口をつけて、息を吐く。その間に、戸口から呼ばれたマルセルが、到着した別便の記録を受け取って戻った。
「こちらから、また一緒に見ようか」
「はい」
リナは帳面を開いた。新しい行に日付を確かめ、渡された紙の番号と比べる。説明を受けたあとの部屋で、彼女が尋ねる声は、先ほどより遠くまで届いた。
ルシアンは、その手元を見た。
信じていると伝えた時にも、リナは礼を言った。けれど、今、自分の仕事として頁を開く顔は、それだけでは戻らなかったものだ。兄が、証拠を揃えることと、結果を本人や周囲へ伝えることを別々に済ませた理由が、目の前にあった。
「祭の荷も、また見るのかい?」
彼が尋ねると、リナはマルセルの方を確かめた。
「その予定です。まずは、今日届いた分から」
「では、頼むよ。俺が見に行った時、まだ何も来ていないと、つまらないからね」
「きちんと確認して、お待ちしております」
今度の返事には、笑いが混じった。
ルシアンは満足して席を立った。マルタが戸を開けてくれる。廊下へ出る直前、背後で、リナが自分の名を記す筆の音がした。
◇
昼、ルシアンは父母とともに、支援の荷を積む場所へ着いた。
車を降りると、トラックの脇で担当者が控えを広げていた。セレト村へ向かう便と、ほかの届け先へ回す便が分けてある。先に発注した代替物資のうち、到着した分をどちらへ積むか、受け取る側との連絡を合わせていた。
アルフォンスは、村へ出す荷の記録を受け取った。
「前の便で届けた分と、重複して数えてはいないな」
「はい。先に受領の連絡があった分を引き、追加の必要を伺っております。こちらは、その不足を補う分です」
回収した荷を、そのまま好きに配り直しているのではなかった。事件に関わる現物の記録と保全は続いている。その間にも使える品を別に手配し、待っている相手へ送る。
ルシアンは、毛布を運ぶ者のために道を空けた。積み込みを終えると、担当者が、控えに書かれた数をもう一度確かめる。
「着いた時、誰に渡すことになっているんだい?」
「村側の受領担当へ、先に到着を知らせます。ベルトラン様にも、変更がないか確認しております」
「それなら、待つ場所を間違えずに済みそうだね」
父母と行った時、村の倉庫には、紙に書かれた分がなかった。今度は荷があっても、受け取る者へ伝わっていなければ、その場で仕事が止まる。ルシアンは、車体の扉が閉じられるところまで見た。
エレオノーラは、別の担当者と話していた。
「負傷された方のお宅へは、受け取れる時間も伺っているのかしら」
「治療の付き添いで、普段どおりとは限らないとのことでした。お届けする前に、連絡を差し上げます」
「では、その返事を待ってからにしましょう。物を届けるために、付き添いを途中で帰らせては困るものね」
担当者は書き添え、連絡先を確かめた。父が送り出す便を決める隣で、母は受け取る人の一日を尋ねていた。
積み込みの確認を終えると、一行は、街道で負傷した者を見舞うために車へ戻った。医療機関へ着いてからも、家族だけで勝手に部屋へ入るのではない。担当者に都合を確かめてもらい、短い面会の時間を取る。
腕に深い傷を負った作業員は、前腕を保護されたまま座っていた。
アルフォンスとエレオノーラの姿を見ると、身体を起こそうとする。母が手を添える前に、ルシアンはそばの椅子を少し引いた。
「そのままでいいよ。こちらが座れば、話しやすいだろう?」
男は戸惑いながら腰を落ち着けた。ルシアンも父母が座るのを待ち、空いた席へ掛ける。
腕の傷はまだ治療中で、重い荷を持つ仕事へは戻れていなかった。足を傷つけた作業員にも固定と治療が続き、助手も痛むところを診てもらっている。三日前に命を繋いだ手は、これから先の時間まで消し去ったわけではなかった。
「家の者に、荷を取りに行ってもらおうかと考えておりまして」
作業員は、支援の話を聞いてそう言った。今まで自分が運んでいた道を、代わりに往復してもらわねばならないことを気にしている。
「お届けする手配は、こちらで進めております。普段お受け取りになる場所と、違うところがよければ、教えていただけるかしら」
エレオノーラが尋ねると、男は初めて、自宅で困ることを一つ口にした。重いものを置く場所まで、自分が持ち上げていたという。
母は場所を聞き、支援担当者に伝える。運ぶ途中だけでなく、渡したあとのことまで、用件が伸びた。
「治療の費用と、仕事を休む間に必要な支援も、担当者に確かめさせる」
アルフォンスが告げた。
「今は、急いで腕を使う方を選ぶな。医療の指示に従って休み、困ることがあれば伝えてほしい」
男は、保護された腕を見下ろした。ありがとうございます、と言うまで、少し間があった。
ルシアンは、帰る前に、その男が水を取るため手を伸ばすのを見た。傷のない方を使っていても、身体を寄せる動きは、まだ慎重だった。近くへ杯を動かすと、男は顔を上げて礼を言う。
「次は、取りやすいところへ置いてもらおう。俺は、ここまでしか動かしていないよ」
ルシアンは杯を示して笑った。男も、少し笑って頷いた。
面会を終え、父の車へ向かう途中で、ルシアンは尋ねた。
「捕まえた相手から話を聞く方は、別に続いているんですよね」
「そうだ。そちらを待って、今日の荷を止めることはない」
「では、俺たちが帰ったあとも、届いたかを聞く人がいる」
「その報告を受け、足りなければ手を打つ。それも、こちらが引き受けた仕事だ」
父は答え、先に開けられた車の扉へ手を添えた。
ルシアンは乗り込みながら、荷馬車の木枠を断った時のことを思い出した。あの一太刀を、もう一度振り直す必要はない。だが、父は今、剣を抜かずに、止まった仕事を次の者へ渡している。
屋敷へ戻ったら、ギルベルトに会おうと思った。
帰りの車で約束を先へ延ばしてから、今日まで三日経った。自分にも、もう一度確かめたいことがあった。
◇
午後の稽古場で、ルシアンは実剣を預け、模擬剣を受け取った。
握りを回すと、ギルベルトがこちらを見る。
「本日も、組手でよろしいですかな」
「ええ。いつもの判定で頼むよ。今日は、朝食の時刻を気にしなくていいからね」
「夕食までには、お返しせねばなりませんな」
師範も模擬剣を持ち上げた。補助の家臣が台を脇へ寄せ、床の端の目印を確かめる。武器に異常がないかを二人で見てから、間を空けた。
四大行と、汎用の応用技術は使える。固有の発は原則使わず、打ち込みは寸止め。体勢や武器の向きが危険に崩れた場合、目印を越えた場合には一度止める。勝つために、オーラで強化した模擬剣を身体へ叩き込むことはしない。
ルシアンは呼吸を整え、剣へ周を行き渡らせた。
柄の内側から切っ先まで、薄い厚みが揃う。足を開き、剣を持つ角度を変えても、覆ったオーラは乱れなかった。ギルベルトも構え、補助の家臣が下がる。
先に動いたのは、ルシアンだった。
手元を狙うように切っ先を寄せ、師範の剣が上がるところへ踏み込む。触れ合う寸前で角度を変え、開いた側の肩へ回した。ギルベルトは身体をずらし、刀身の根元に近いところで受けた。
返ってくる圧が強い。
ルシアンは押し合わず、剣を滑らせた。同時に目へオーラを集める。凝で確かめた師範の腕には、接触へ合わせて厚みが寄っていた。その変化は、すぐ次の動きへほどけていく。
見えた場所を、いつまでも見続けなかった。
ルシアンは目への集中を戻し、足を運ぶ。受けた側が厚い間に、反対へ剣を返す。師範が受け直す前に間合いを詰めると、ギルベルトは、剣を引いて斜めに一歩退かなければならなかった。
「そこは、空けてくれないんだね」
「空けては、すぐに届いてしまいます」
答える声とともに、師範の剣先が低く動く。
ルシアンの脇へ、嫌な近さが走った。第六感が迫るものを告げ、身体が退く。その方向へ目を戻すと、師範の剣がこちらの構えの外を通ろうとしていた。
今度は、剣先だけを追って腕を伸ばさない。
引き出したオーラを身体の周囲にも厚く保ち、堅へ切り替える。守りを整えたまま肘を畳み、足を外へ置いた。模擬剣同士が触れる。身体へ来る線を外し、受けた力で上体が流れないよう支えた。
ギルベルトの剣は、すぐに離れた。
ルシアンも追った。守りを保ったこと自体で満足していれば、相手は自由に次を選べる。刃のない切っ先を、師範の手前まで運ぶ。
ギルベルトの剣が、外側からこちらの手元を押さえようとした。ルシアンは柄を引き、先にその内へ剣を通す。師範は身体を残さず退いた。追うなら、もう一歩必要だった。全身を厚く守り続ければ、次の受けにも、余分な力を保ったまま合わせることになる。
ルシアンは足を止めず、剣の触れるところへ目を向けた。守りを全部捨てるのではなく、今、支えたいところへ必要な分を移す。
そこで、腕へ回すオーラを変えた。
周は残し、受ける側へ厚みを寄せ、足を踏み直す。流による基本の切替だった。剣と身体のどちらにも、最初の量を置いたまま動くのではない。必要なところを選び、次へ移す。
師範の受けへ、先ほどより深く剣が入った。
ギルベルトは、そのまま押し返さなかった。接触する場所をずらしてルシアンの切っ先を外へ導き、自分の肩を引く。狙った場所が動いても、ルシアンの剣は止まらず、短く返ってきた。
追いつける。
ルシアンは、もう半歩踏み込んだ。師範の横に出る位置へ足を運び、手元を押さえにいく。そこへ剣が返るなら、厚みを寄せた腕で受け、逆側へ回すつもりだった。
だが、ギルベルトは強く受けなかった。
触れた剣の圧が抜け、師範の足が、弟子の進む線から外れる。ルシアンは剣を短く引き戻し、身体に残す守りを変えようとした。
切替が、一瞬重なった。
腕の受けを保つのか、返す剣へ戻すのか。その選択に気づくより先に、ルシアン自身の足は次の位置へ着きかけている。最初の変更は間に合った。続けて変わった接触と間合いへ、同じ精度ではついていけなかった。
ギルベルトは、そこを待たなかった。
剣を受け流す動きから、すぐに柄を引く。先ほど外へ出した足が、今度はルシアンの正面からずれた位置にある。模擬剣の先が、腕を大きく振らずに戻ってきた。
ルシアンは身を捻った。
危険へ身体は応じる。剣も戻せる。だが、戻す先へ、自分の肩が先に入っていた。足を踏み直す余地はあっても、それを済ませるより、師範の一手が短い。
「そこまで」
ギルベルトの剣が、胸元の手前で止まった。
ルシアンの切っ先は、師範の脇へ向いている。そこへ届かせるには、まだ一度、腕を返さなければならなかった。
彼は足を止めたまま、その違いを確かめた。
「……今のは、取れそうだったんだけどな」
「ですので、取られる前に変えました」
師範が剣を下げる。ルシアンも構えを解き、息を吐いた。
握った剣には、まだ周が残っていた。振り直したいと思うままの形で、手の中にある。ルシアンはそれを見てから、先ほどギルベルトの足が置かれていた場所へ目を落とした。
◇
補助の家臣が武器を確かめる間、ルシアンは布で額を拭った。
堅を保った時より、そのあと、配分を変え直したところの手応えが気になっていた。腕で受ける量を戻しかけた時には、相手の剣が、もう触れていた場所から離れていた。
「二度目は、剣へ戻す方が先だったね」
彼が言うと、ギルベルトは、返された模擬剣を持ち直した。
「戻す量だけでなく、足をどこへ置くかも変わりました。先ほどの位置まで、ゆっくりお願いいたします」
勝負を始め直すのではなかった。補助の家臣も、二人が動くところから下がる。ルシアンは周を薄く保ち、足を置いた場所を思い出しながら、剣を合わせた。
ギルベルトが手元をずらす。今なら、その変化を追って配分を戻せる。ルシアンは、接触するはずだったところを残さず、剣と足を引き直した。
「この速さなら、間違えないのだけど」
「そうですな。では、ここへ受けを残しておくと、どうなりますか」
師範は、さっきよりわずかに違うところへ剣を置いた。ルシアンは同じ位置へ動きかけ、手を止めた。
「それでは、戻したところを、もう一度変えなければならない」
「はい。最初の一度は、よく合っておりました。そのあとを、同じ形で続けられるとは限りません」
ギルベルトは剣を離した。ルシアンも下げ、足元を見た。相手の変化に応じて剣を運ぶことは、いつもしている。だが、同じ間にオーラの寄せ方も変えれば、揃えなければならないものが増える。そこが、師範ほど滑らかにはつながらなかった。
「凝で見たあと、追う場所を変えたのは?」
「よい判断でした。見えていた受けへ、そのまま押し込んではおりませんでしたからな」
「堅にしたところも、悪くなかっただろう?」
「ええ。受ける腕が流れず、次へ剣を返せておりました。ほかの技を使ったために、剣が弱くなったわけではございません」
ルシアンは少し笑った。
「そこは、俺もそう思っていたよ。剣は、さっきより好きなところへ行った。ただ、最後まで同じようには続かなかったんだ」
師範は頷いた。できたところと、取られたところを、まとめて消す必要はなかった。
ルシアンは模擬剣を台へ戻した。今日使った技を、全部いつも使えばよいとも思わない。相手が剣へ厚く寄せた時には、その場所を確かめる。守りが要るなら保ち、変えなければ届かないなら変える。自分の剣に必要なところを、もっと速く選びたかった。
「次も、同じように逃げてくれるかな」
「勝負の最中に、お約束はできませんな」
「それは困ったね。取るところを、もう考えていたのに」
「では、そのお考えも動かしていただかねば」
師範が返すと、戸口から笑い声がした。
「もう、次の負け方の相談か?」
カシウスが入ってきた。ルシアンは布を畳み、兄へ顔を向ける。
「勝ち方だよ。最後だけ見ていたのなら、先に聞いてほしいな」
「最後は、よく見えた。お前の剣が戻るより、師範の方が短かったところだ」
「カイ兄上なら、そこまで来る前に取りに来るだろうね」
「わかっているなら、次の相手もできるな」
次兄の手が、台の模擬剣へ伸びかけた。ルシアンは笑ったが、その剣を先に取らなかった。
「今日は、今の切替を確かめておくよ。カイ兄上が相手だと、剣の方も忙しくなるからね」
「俺の相手が暇になる日は、まだ先だろう」
「では、暇にしてあげるつもりで来るさ」
ギルベルトが、二人の間へ、使い終えた模擬剣を並べた。
「その前に、こちらの片付けをお願いいたします」
ルシアンは素直に一本を取り、補助の家臣へ渡した。もう一本はカシウスが持つ。兄弟が同じ方へ差し出したので、家臣は置く場所を示し、順番に預かっていった。
「剣を取るより、返す方が揃ったね」
ルシアンが言うと、カシウスが吹き出した。
「では、次は取る方も揃えてみろ」
「それは、師範より先にカイ兄上から取っても構わない、ということかな」
「来られるものなら」
兄は楽しげに返し、弟の実剣が預けられている台へ向かった。ギルベルトは、床の目印と周囲を確かめ、家臣に終わりを告げる。
ルシアンは、戻された剣帯を受け取った。ここでは振らなかった無銘剣も、手入れを終えたまま、よく収まっている。今日の負けが、その一本まで鈍らせることはなかった。
師範へ挨拶し、兄と廊下へ出る。窓の外では、外苑の仕事が続いていた。
明日の稽古までに、足を置く順をもう一度考えておこう。ルシアンは、返し損ねた一手を思い浮かべながら、次兄と歩き始めた。
◇
夜、ヴィクトルの執務室には、まだ灯りがついていた。
ルシアンが戸口から覗くと、長兄は書類を一枚めくり、端末の記録と合わせていた。机の上には、持ち帰るものと、明日担当へ渡すものが分けて置かれている。
「ヴィク兄上。夕食へ行く支度は、できているかい?」
「もう少し。この便の到着だけ、確かめてから」
「父上も、昼に同じことを言っていたよ」
ルシアンは部屋へ入り、机の端を空けて置かれた椅子へ掛けた。勝手に紙を取り上げることはせず、兄が見ているものへ顔を向ける。
追加した荷の一部が、予定した受け取り先へ着いたという連絡だった。まだ運んでいる分もあり、それは別に残してある。ヴィクトルは電話で確認した担当者から短く報告を受け、時刻を書き入れた。
「昼に見た荷の方は、送り出した時に確かめてある。今は、その先の返事を待っていたんだ」
「やはり、着いたと聞く人がいたね」
ルシアンが言うと、兄は顔を上げた。
「父上と、どこまで見てきたの?」
「積むところと、怪我をした人のところ。母上は、荷を渡したあとに誰が運ぶのかまで聞いていたよ」
「では、明日の担当へ渡す時にも、その続きがわかるようにしておこう」
兄は、問い合わせを残している紙の横へ、今受けた連絡を添えた。ルシアンは、隣へ置かれていた別の控えの名前に気づく。リナの受付へ戻された分だ。
「あの子も、午後はいつもの帳面を開いていたね」
「うん。マルセルから、確認しながら進めていると聞いた。ルーも、本人の話をよく聞いてくれたね」
「当然だよ。俺が知っている相手の話くらい、ちゃんと聞くさ」
ルシアンは背を伸ばさずに答えた。兄は笑って、そうだね、と返す。礼を言われるために付き添ったわけではないことも、知っているようだった。
戸が叩かれ、マルタが顔を出した。
「お食事のお支度が整いました。カシウス様は、先にお向かいです」
「俺は、迎えに来たところだったよ」
「では、ご一緒にお戻りいただけますね」
ルシアンが兄を見ると、ヴィクトルは最後の紙へ目を落とし、明日の担当を確かめて立った。
「これで渡せる。待たせたね」
「たいしたことはないよ。俺も、今日は少し長く剣の話をしていたから」
「それなら、食卓で聞かせてもらおうかな」
廊下へ出ると、使用人が外苑で使う布を運んでいた。リナも別の担当者へ、受け取った備品の置き場所を伝えている。ルシアンに気づくと軽く頭を下げ、そのあと、相手の問いへ向き直った。
マルタは、食事の後に片付ける品について、通りかかった者と確認した。皆が立ち止まって三人を待つのではない。通る場所が空けられ、それぞれの仕事が続いていた。
食堂へ入ると、父母とカシウスが席に着いていた。
「遅かったな。ヴィク兄上を連れ出す方が、今日の稽古より難しかったか」
「そちらは、ちゃんと連れてきただろう? 今日は、一つ取れたことにしていいね」
ルシアンが返すと、ヴィクトルは、引かれた椅子へ座りながら笑った。
「それでよければ、毎晩、勝負にされそうだ」
「書類の行先まで、確かめてきたか、ルー」
アルフォンスが言い、ルシアンは両手を少し広げた。
「そこも、確かめてきました。明日、続きを受け取る人がいます」
「それなら、よい」
父は頷いた。エレオノーラが、ルシアンの袖口へ目を向ける。
「こちらは、きちんと着替えてきたようね」
「マルタに、先に見てもらいましたから」
「では、汗をかいたのね。ギルベルトとのお約束は、どうなったのかしら」
ルシアンは、注がれた水を一口飲んだ。隣の次兄が、こちらへ顔を向ける。
「剣は、よく動いたよ。最後の切替は、もう少し速くしたかったけれど」
「勝負の方を聞かれているぞ、ルー」
「そこは、カイ兄上が見ていたとおりだね。次も、見に来てくれて構わないよ」
言うと、母が笑い、兄たちも笑った。ルシアンは料理へ手を伸ばした。負けを口にしたら、食卓が急に静かになるような家ではない。父は何を試したのか尋ね、彼が答える間、兄も横から、最後に見た足運びについて口を挟む。
しばらく剣の話が続き、それから、母が外苑の準備へ話題を移した。
一般に開く場所と、屋内の招待客の場所は分け、休める席や人の通る道を確かめている。カシウスは警備の担当と見たところを答えた。ヴィクトルは、届いた備品と、明日着く予定の品を分けて伝える。
ルシアンは、それを聞きながら、皿へ残った最後の一口を取った。
「祭の日は、俺も外苑へ行くよ。見たいところが、いろいろできたからね」
「お前が部屋に残るとは、誰も思っていない」
カシウスが即座に返した。ルシアンも笑う。
「では、探す時には、先に外を見てもらえるかな」
「探される前に、行くところを伝えてくださいませ」
マルタに言われ、彼は素直に頷いた。
窓の向こうには、準備のために点いた外苑の灯が見えた。祭の当日は、まだ来ていない。今夜も片付けてから帰る者がいて、明日は、残った仕事を受け取る者が来る。
ルシアンは窓から顔を戻し、兄へ、明日の稽古場をいつ使うのか尋ねた。
カシウスが時刻を答える。彼は、その時間を聞いて、楽しげに口元を上げた。
約束を一つ増やした食卓で、温かな料理の匂いが、まだゆっくりと漂っていた。
第11話 了