HUNTER×HUNTER ―紅き公爵の剣譚― 作:アトレトル
第12話 陽だまりのヴァルクレスト
外苑の門が開く前から、焼いた生地の甘い匂いが本邸まで届いていた。
ルシアンは窓を閉め、留め具へ指をかけた。三日前の夕食で見ていた灯が、今朝は明るくなった庭の中に残っている。支度をする者が最後の一つを消すと、その向こうを、器を載せた台車が通った。
「マルタ。もう、始まってしまうかな」
「門を開くまでには、まだお時間がございます」
「それなら、先に見るところを決めておこう。待っていたら、全部、誰かの後ろになりそうだ」
「その前に、こちらを向いていただけますか」
彼女は襟元を整え、袖の折り目を確かめた。ルシアンは素直に腕を下ろす。いつもの無銘剣も、鞘と剣帯を確かめて身につけた。今日は、刃を見せるために持っていくのではない。
廊下を出ると、厨房の方から、空の籠を抱えた使用人が戻ってきた。ルシアンが道を譲ると、その人は礼をして、すぐ次の荷を取りに行く。朝食を終えた家族がそれぞれの支度へ向かったあとも、屋敷の奥には幾つもの足音が重なっていた。
「皆、俺より先に外へ出ているね」
「お仕事のある方は、早くから」
「俺にも、見る仕事があるさ。約束したところが、ちゃんとできているか確かめなくては」
「では、あとでお話を伺うのを、楽しみにしております」
マルタと外苑へ出ると、立てた支柱の間で布が揺れていた。以前は位置を変えるたびに地面が見えていた場所へ、今は店の台が並んでいる。木陰には椅子が置かれ、通路の曲がり角に案内の者が立っていた。
リナが、入口に近い机で担当者へ控えを渡している。
「おはよう。今日は、探さなくても会えたね」
「おはようございます。今朝の分を、お渡ししているところです」
彼女は手元の紙を揃え、道を示す札を確かめた。何かを受け取った人が、そのままどちらへ進むかまで見てから、ルシアンへ顔を戻す。
「配る布は、あの台へ届いたのかい?」
「はい。代わりに手配した分も、昨日までに。こちらは、外苑で使うものです」
リナが示した先では、使用人が包みを開き、台へ並べていた。会場に置く備品と、必要とする家庭へ渡す品は、別々の場所に用意されている。村へ送った分まで、祭の台へ積んだことにはしていなかった。
「よかった。今日は、空いた場所ばかり見せてもらうのでは、つまらないからね」
「品物だけで、歩く場所がなくならないようにもしております」
「そこは、俺も少し手伝っただろう?」
ルシアンが柵を指すと、リナは、はい、と笑った。
警備の家臣が門のそばへ寄り、無線で短く確認を取った。一般の来場者が通る道と、招待客を本邸側へ案内する道は、入口から分けてある。どちらにも人は立っていたが、広場へ来た人を皆、同じ場所へ集めるようにはなっていない。
門が開いた。
先頭の人々は、少し歩いてから左右を見た。家族連れの子どもが母親の手を引き、年配の男は案内の声に足を緩める。遠くから見えていた台の上に料理があるとわかると、歩く向きが決まった。
ルシアンは、その流れの脇へ立った。
自分が初めて図面を広げた日には、誰もいなかったところだ。今は、道を空けて待つことにも用がある。
「マルタ、あの椅子は、もう使ってもらえているよ」
「ええ。奥様も、お気づきになるでしょう」
腰を下ろした老婦人へ、連れの者が杯を持ってきた。隣では別の子どもが、椅子の背に手をかけて、店の方を覗き込んでいる。
リナは新しく来た担当者へ、控えと持ち場を渡した。説明を聞いた相手が動き出すのを見て、ようやく自分の筆をしまう。
「あとで、あちらの展示もお手伝いします」
「なら、俺は先に見ておこうかな」
「お食事のお約束も、お忘れなく」
マルタに言われ、ルシアンは振り返った。
「覚えているよ。行くところも伝えてからにするさ。まず、あの焼き菓子の先だね」
「焼き菓子へ、お寄りになるのですね」
「通り道にあるものまで、避けて歩くことはないだろう?」
彼女が笑う。ルシアンは、その返事を聞いてから、人の間へ歩き出した。
◇
焼き菓子は、店の裏から新しい皿に載ってきたところだった。
ルシアンは先に待っていた親子の後ろへ並んだ。店の者がこちらを見て手を止めかけたので、彼は、前の皿を示す。
「そちらが先だよ。せっかく選んでいたのに、忘れてしまうじゃないか」
子どもは母親の顔を見てから、一つを指した。店の者が紙へ包み、渡す。それが済んでから、ルシアンも同じものを頼んだ。
温かい生地を割ると、中の果実が少しだけ指へついた。甘さのあとに酸味が残る。厨房で味見した菓子とは形も違い、立ったまま食べても、端から崩れにくかった。
「これなら、歩きながらでも困らないね」
「端の方を厚くしております。中身だけ落ちてしまっては、もったいないので」
「確かに。落とした分を、もう一つ買いに戻るのも忙しい」
店の者が笑い、次の客へ紙を広げた。ルシアンは受け取った包みを畳み、食べ終えてから、隣の展示へ向かった。
木で作った器や箱の奥に、小さな独楽が並んでいた。
職人が一本を回すと、薄い色と濃い色の筋が、丸い模様になって重なる。そばにいた男の子が屈み、止まるまで顔を寄せて見ていた。台の上には、形の違う見本も幾つか置いてある。
「それも、同じように回るのかい?」
ルシアンが尋ねると、職人は、先の細いものを取った。
「よく回ります。ただ、最初に傾けすぎると、あちらへ走ってしまいます」
「では、真ん中へ置いてみてくれるかな」
回された独楽は、狭いところで揺れ、やがて立ち直った。ルシアンは軸の先を見た。さっきの丸い独楽より軽く見えるのに、すぐには倒れない。
男の子が、自分もやりたいと手を出す。渡された一本を握り、急いで回した。独楽は横へ跳ね、台の縁へ向かった。
ルシアンは、落ちる先に掌を出して受けた。
「もう少し、広いところが要りそうだね」
「そうではなくて、ちゃんと回したいんです」
「なら、俺も、落ちるたびに拾う役で終わるわけにはいかないな」
彼は職人へ、使ってよい場所を尋ねた。見本用の平らな板を指されたので、その上へ独楽を戻す。通路へ転がる向きには、小さな箱が置かれた。
職人は、子どもの指が軸のどこへかかっているかを見て、持ち方を教えた。ルシアンも横から覗く。強く握ればよいわけではなく、放したあとに指が触れないようにするらしい。
「君は、回したあとまで掴もうとしているんだね」
「落ちると思ったから」
「離さなければ、そもそも回らないよ。次は、この板の真ん中でやってみたらいい」
男の子がもう一度試した。独楽は揺れながらも、その場に留まった。倒れるまでの間、子どもの手も、今度は台へ出てこなかった。
「回った」
「うん。俺が拾わずに済んだだろう?」
「もっと長く、回せますか」
「もちろん。そう言われて、試さずに帰るつもりはないさ」
ルシアンは別の見本を借りた。指先で重みを確かめ、軸を立てて回す。板の上を細かく揺れた独楽は、子どものものより先へ進まず、同じところで音を立て始めた。
職人は手元を見て、感心したように息を漏らす。
「指を離すのが、お上手ですな」
「手を残すと、邪魔になるものには慣れているからね」
けれど、形の違う一本へ持ち替えると、同じ強さでは端が跳ねた。ルシアンは、回るものをつまみ上げず、止まってから持ち直した。重さの寄るところが違えば、指へ返る感じも違う。
「こちらは、少し緩くてもよさそうだ」
「軸も、持つところの太さも違いますので」
職人が二つを並べた。飾りを付ける前の木片も見せてもらうと、できあがった一本の軽さへ至るまでに、削るところが幾つもあるとわかった。
リナがマルセルとともに、展示へ届いた空箱を受け取りに来た。
「楽しそうですね」
「よいところに来たね。これを、あとで兄上たちにも見せたいんだ」
「お預かりいたしましょうか」
「一つなら、自分で持てるよ。君たちは、そちらを運ぶところだろう?」
買うものを選び、代金を渡す。職人は、持って帰る時に軸を傷めないよう、紙で包んでくれた。男の子はまだ、見本を回していた。
マルセルは箱の表示を確かめ、リナへ置き場所を伝えた。彼女はすぐに受け取り、通る人の列が切れたところを選んで運ぶ。誰かに名前を呼ばれれば、顔を上げて、次に何が届くかを尋ねていた。
ルシアンは、包みを片手へ収めた。
「昼には、そちらも食べる時間があるのかな」
「交代でいただきます」
「それならよかった。あの菓子は、温かいうちの方が美味しいと思うよ」
リナは店の方を見て、あとで寄ってみます、と答えた。
彼女が仕事へ戻る隣で、男の子の独楽がもう一度、音を立てて回り始めた。
◇
昼に近くなってから、ルシアンは外苑の端で父母と合流した。
店の並ぶ広場から少し離れたところで、ベルトランが一礼している。セレト村を訪ねた時には受領簿を開いていた村長が、今日は、村から来た人々の居場所を話していた。
「向こうで、もう食事を買っている者もおります。私もあとで、そちらへ参ります」
「道中は、支障なかったか」
「はい。ご案内いただいた場所で車を降り、こちらへ」
アルフォンスが頷くと、ベルトランは、ルシアンにも礼をした。
「また、お目にかかれて嬉しく存じます」
「今日は、倉庫へ案内してもらうわけではないね」
「ええ。ただ、届いたもののお話は、させていただければ」
村長は、持っていた鞄から控えを出した。父はその場で全部を広げさせず、まず、予定していた分が届いたかを尋ねる。
「急ぎの毛布と保存食は、受け取りを終えました。先に必要と伺っていた家へも、渡せております。残る分は、担当の方と、次の到着を確かめているところです」
ルシアンは、村で見た棚を思い出した。あそこにあるはずだったものを、皆が使う日まで待っていた。紙の欄を埋めただけなら、今、村長が伝えることも違っただろう。
「夜まで、待たずに済むようになったのかな」
「はい。毛布を、隣の家へ返しに行った者もおりました」
「返す?」
「届くまでの間、余分に持っている家から借りていたのです。自分たちの分を受け取れたので、先に礼をしに行ったと」
ベルトランは、受領を確認した家のことを話した。一軒が借りていたものを返すと、今度は貸していた家でも、その晩から使える。ルシアンの見た棚から、知らない家の戸口まで、荷の行先が少し伸びた。
エレオノーラが、その家へ渡す時に不便はなかったか尋ねた。
「運ぶ者も、村で手配できました。付き添いで家を空けている方には、戻られる時間を伺ってから届けております」
「では、受け取るために、慌てて帰っていただかずに済んだのね」
「はい。その方がよいと、こちらのご担当にも確かめていただきました」
父の隣で聞いていたルシアンは、見舞いの帰りの車を思い出した。あのあとも、返事を受け取る者がいた。今日、ここへ届いた話の中には、その人が聞き直したことも含まれている。
アルフォンスは、支援の担当者へ控えを渡した。残っている用件も、祭が終わってから見失わないよう、引き続き連絡を取る。
ルシアンは、ベルトランの後ろにいた婦人へ目を向けた。両手で持っていた籠から、小さな包みを取り出している。村で採れたものを、皆で少しずつ持ち寄ったのだという。
「お礼に、何かと思いまして」
「ありがとう。家の者たちと、いただこう」
父が受け取ると、婦人はほっとしたように肩を下ろした。エレオノーラは中を覗き、厨房の者にも伝えておきます、と笑う。ルシアンにも、包みの隙間から果実が見えた。
「あちらで売っている菓子にも、似たものが入っていたよ」
「そのままでも、よい甘さになりました」
「それなら、今度はそちらで確かめようかな」
婦人は、よろしければ、と包みを父の手元へ寄せた。ルシアンは、夕食で切ってもらえるか、母へ尋ねる。
「ええ。忘れずに、食卓へ出してもらいましょう」
「では、俺も忘れずに帰ります」
「果物だけが、お帰りを待つわけではありませんよ」
母に言われ、ルシアンが笑うと、ベルトランも口元を和らげた。
村長が広場へ戻る前に、アルフォンスは、街道で負傷した者たちへの支援についても伝えた。三人とも回復の途中にあり、治療と休養が続いている。仕事へ戻る日を急がせず、家族が困ることも担当者が聞いていく。
包みを運ぶ使用人を見送り、ルシアンは尋ねた。
「村から、届ける人の手も借りるのかな」
「必要であれば、こちらからも連絡を受けて動きます。手配した相手がいないまま、荷だけを送り出さぬように」
ベルトランは、父と交わした確認を自分の控えにも残した。礼を言い終えたから、その先は誰にも尋ねない、ということにはしないらしい。
広場から、子どもの呼ぶ声が届いた。村長はそちらを見て、連れを待たせていることに気づく。
「どうぞ、ごゆっくり」
エレオノーラに促され、二人はもう一度礼をして、店の並ぶ方へ歩いていった。ルシアンは、その背を追う人々の間に、さっきの籠が空になって揺れるのを見た。
帰りには、別のものが入るのだろう。
彼は母へ、木工の店の場所を教えた。あの独楽は、持って帰るには、ちょうどよい大きさだった。
◇
午後、ヴィクトルは広場の脇で、テオドールから短い報告を受けていた。
予定した品と、追加で手配した品の支払いが、別の控えへまとめられている。長兄は二枚を混ぜずに確かめ、返答を残した箇所を示してから返した。
ルシアンが近づいた時には、もう筆をしまっている。
「ヴィク兄上。今日は、机がなくても書類が来るんだね」
「私が、受け取る場所を伝えておいたからね」
「それでは、見つからないように隠れるわけにもいかないな」
「隠れるつもりなら、先にお前へ相談するよ」
ルシアンは面白そうに笑った。テオドールは次に確認する時刻を伝え、控えを持って戻る。長兄の手が空くと、ちょうど、カシウスも通路の先から歩いてきた。
次兄は、店の前で人が溜まり始めたところを、ローレンツへ示している。立ち止まる者と、隣を通りたい者が同じ道を使っていた。副長は近くの隊員へ声をかけ、列の折れる位置を少し変えてもらった。
「あの柵は、そのままでいい。戻る者の通る側も残しておいてくれ」
「承知しました。交代する者にも伝えます」
カシウスは、人が動き直すところまで見てから、弟の隣へ来た。
「よく回ったか、ルー」
「まだ、全部ではないよ。兄上たちが、ずいぶん広く使うことにしたからね」
「朝から歩いても、足りなかったか」
「歩くのが遅かったわけではないさ。見せてもらう方に、少し時間がかかったんだ」
ルシアンは、紙の包みを出した。
近くの休憩用の卓には、まだ誰も座っていなかった。カシウスがローレンツへ持ち場の確認をすると、副長は、次の交代までの間はこちらで見ていると答えた。連絡を受ける隊員も位置を確かめている。
兄たちが椅子へ掛けたので、ルシアンは卓の端へ包みを置いた。
「それは、昼食の残りか?」
「カイ兄上は、何でも食べる方へ考えるんだね」
「食べてから、戻れるうちに戻ろうと思ってな」
包みを開くと、独楽が出てきた。カシウスはそれを見てから、弟を見た。
「食べられそうにはないな」
「回す方なら、付き合ってくれるかな」
ヴィクトルが軸へ指を添え、底を確かめた。ルシアンは借りた時の持ち方を話したが、手を取って教えようとはしない。兄は軽く回してみて、揺れる独楽が立ち直るところを見ていた。
「よくできているね。あの展示で?」
「うん。同じ形に見えても、持ってみると少し違うんだ。削っているところも、見せてもらったよ」
「剣を見に行く時と、あまり変わらないな」
カシウスが笑い、回り終えた一本を取った。指が離れると、独楽は卓の中央へ寄り、それから静かに回る。
ルシアンは、その手元を見た。
「では、同じ一本で比べてみようか。どちらが長く回せるか」
「勝てたら、明日の稽古を一本増やしてほしい、と言うつもりか?」
「よくわかったね。さすが、俺の兄上だ」
「負けても、言うだろう」
ヴィクトルが、では順番に、と手元の時計を確かめた。立ち上がる時刻を決めてから、今度は遊びのために見る。ルシアンは、卓の上の皿を寄せて、回す場所を空けた。
次兄の独楽は、勢いが弱くなってもすぐには倒れなかった。軸の揺れが少しずつ大きくなり、最後に小さな円を描いて横になる。
ルシアンは、それが止まるまで待った。
同じところへ置き、指先の重みを確かめる。朝に借りた見本より馴染んだ一本を、軸を残さずに放した。回り始めると、彼も手を引く。
広場の笑い声が、すぐそばを通っていく。給仕の者が卓を空けたままでよいか尋ね、ヴィクトルは、もう少しだけ、と答えた。
最後の揺れが長く残った。
「今の方が、少し長いね」
長兄の判定に、ルシアンは満足して独楽を取った。
「今日の分は、俺の勝ちかな」
「独楽の分はな。明日は、剣を持って来いよ」
「もちろん。そのために、約束を取りつけているんじゃないか」
カシウスは楽しげに笑い、今度は長兄へ手を差し出した。ヴィクトルも短く試したが、途中で縁が卓へ触れてしまう。倒れた独楽を見て、長兄は首を傾けた。
「お前たちのあとだと、難しく見えるね」
「先に回した時の方が、よかったよ。次は、あちらの板でやってみよう」
ルシアンが言うと、兄は、そうしよう、と返した。卓のそばにいた子どもにも見えるよう、弟がもう一度回してみせる。
カシウスは、その間に差し出された軽食を受け取った。ルシアンも一つ選び、包みを膝へ戻す。独楽をしまう前に、長兄が、よい買い物だったね、と言った。
「明日の稽古まで付いてきたから、そうだね」
「付けたのは、お前だろう」
食べ終える頃、ローレンツが戻ってきた。通路の列が落ち着いたことと、次の交代を報告する。カシウスは杯を置いて立ち、ヴィクトルも、夕刻の挨拶までに確認しておくところを尋ねた。
ルシアンは、二人の間から広場を見た。椅子へ座っていた時より、人の向きが少し変わっている。
「俺は、また外を回ってくるよ」
「夕方は、着替えてから来るんだぞ」
「マルタにも、そう言われると思う?」
「言われる前に戻ればいい」
それはもっともだった。ルシアンは包みを収め、兄たちと別れる前に、帰る時刻をもう一度確かめた。
◇
夕方、本邸側の窓に、低くなった陽が差していた。
着替えを済ませたルシアンは、袖口をマルタへ見せる。彼女は、今日は呼びに行かずに済みました、と言って、襟の端を一度だけ直した。
「兄上たちにも、先に言われてしまったからね」
「では、お約束をよく覚えていらしたのですね」
「俺の記憶も、なかなか役に立つだろう?」
「はい。お食事の時刻も、同じようにお願いいたします」
ルシアンは笑って、招待客を迎える方の広間へ向かった。
外苑から続く通路には案内の者が立ち、初めて来た客へ、進む先を伝えている。先ほどまで広場を歩いていた人も、ここでは身なりを整え、迎える公爵夫妻へ一礼した。
アルフォンスが挨拶を返し、エレオノーラは連れの者にも言葉をかける。三兄弟が並ぶと、父は、来客へそれぞれの名を伝えた。
「長男のヴィクトル、次男のカシウス、三男のルシアンです」
ルシアンは、兄たちに続いて礼をした。相手が話し終えるのを待ち、問われれば、顔を上げて答える。広場で菓子を選んだ時とは違う声も、自分のものとして無理なく出た。
「外苑を、随分と見て回られたそうですね」
「ええ。まだ、見足りないところもあります」
「それほど、催しがお好きですか」
「好きですよ。知っている場所へ、見たことのないものが来ますから。今日も、面白い品を見つけました」
木工の展示を話すと、客は、そちらにはまだ寄っていないと言った。ルシアンは、店の並びの中でどこにあるかを説明する。先に広場へ行った家族が、そこで足を止めていたらしいと聞いて、相手も笑った。
隣では、カシウスが警備の話を尋ねられていた。
「行き来の多いところは、担当を分けております。ヴィクトル兄上とも、必要な備品を確かめてありますので」
短く答える声は、先ほど独楽を受け取った時より落ち着いている。ルシアンは、その横顔へ一度目を向けてから、自分の前の客の話へ戻った。
給仕の者が杯を運び、入れ替わるように、次の来客が夫妻の前へ進んだ。誰か一人の足が止まれば、後ろにも人が残る。ルシアンは脇へ半歩寄り、会話を続ける場所を空ける。
挨拶の合間に、領内の配送について、短く尋ねる者もいた。
父は、必要な補填を進めていることと、確認の残る事柄は担当を通して引き続き扱うと答えた。説明が済むと、相手も礼を言い、今日連れてきた家族の話へ移る。部屋に並ぶ料理の前で、いつまでも書類の話だけが続くことはなかった。
少しして、一家は来客とともに外苑へ出た。
広場からも見える場所で、アルフォンスが、今日来てくれた人々と支度をした者たちへ挨拶をした。秋の実りを持ち寄った人、店を開いた人、遠くから歩いてきた人。耳を向けた相手の顔を見ながら、父は、残る時間も楽しく過ごしてほしいと告げた。
拍手のあと、楽器の音が戻る。
さっきまでこちらを見ていた子どもが、もう隣の店へ顔を向けていた。ルシアンは、その切替の早さに少し笑う。自分も、あちらの音のする方へ行ってみたかった。
客の一人が、連れの婦人を待って立ち止まった。婦人は少し足を休めたそうに、広場の端へ目を向けている。近くの椅子は埋まっていた。
ルシアンは案内の者へ、木陰の奥にも席があったはずだと尋ねた。支度を始めた頃、母が歩いて見てほしいと言ったあの場所は、今日も道から少し離れて残っている。
空きを確かめた者が戻ると、彼は婦人へ、その方からなら段差を回らず行けると伝えた。
「急がずにどうぞ。こちらを通れば、演奏も聞こえますよ」
婦人は礼を言い、連れと一緒に歩いていった。ルシアンが元の位置へ戻ると、父がその先を見ていた。
「よく覚えていたな、ルー」
聞き慣れた声だった。父の口元が緩み、隣で母も嬉しそうに席の方へ目を向ける。
「俺が見てきたところですから。あそこなら、まだ空いていると思いました」
「ええ。教えてくれて、ありがとう」
母の言葉に、ルシアンは少し顎を上げた。
案内を終えた家臣が戻り、次に待っている客を知らせる。アルフォンスは頷き、来客の方へ向き直った。ルシアンも姿勢を整え、その隣へ立つ。
陽が傾くにつれ、広場には灯りが増えていった。昼には目立たなかった色の布が、明かりのそばで揺れる。給仕の盆を持つ腕の向こうから、焼いた肉の香りが流れてきた。
朝より長い影の中でも、歩く道は、まだ見失わずに済んでいた。
◇
夜の食卓には、セレト村から届いた果実が切って並べられていた。
ルシアンが席へ着くと、カシウスは、ようやく食べられるものを持ってきたな、と皿を見た。今日、独楽を見せられた時のことを思い出したらしい。
「今度は、兄上の見立てどおりだね。回しても、長くはもたないと思うよ」
「回さずに食べる方へ、付き合ってくれ」
次兄が一片を取り、ルシアンも続いた。歯を入れると甘い汁が広がる。菓子の中で食べた時より、果実そのものの香りが、はっきり残った。
エレオノーラは、厨房の者たちにも取り分けてもらったと話した。届けた婦人へ、今日のうちに礼を伝えておく。昼間に受け取った籠は、もう空のまま戻されることにはならないらしい。
「エリー。そちらも、先に温かいうちに食べなさい」
「ええ。アルも、今日はお皿の方を見ていてちょうだい」
父は、脇へ寄せてあった小さな控えを伏せた。外苑の片付けは担当者が進めており、急ぎの報告があれば、その者へ届く。杯を取った父の隣で、母もようやく椅子へ深く座った。
マルタが、今日いちばん長く足を止めたのはどちらでしたかと尋ねる。
「木工の店かな。あとで、兄上たちにも見てもらったよ」
「ルーが、よいものを選んできたんだ」
ヴィクトルが言ったので、ルシアンは、当然だという顔で頷いた。
「朝には、回し方も確かめたからね。明日の稽古まで、付けてもらえた」
「付ける約束をした覚えはないが」
「長く回した方が勝ち、というところまでは、聞いていただろう?」
「明日の方は、明日聞こう」
カシウスの返事に、長兄が笑った。ルシアンは、聞く時間まで約束してくれたのだから、今のところは十分だと思うことにした。
父は、自分が見られなかった展示について尋ねた。ルシアンが木目の模様を話すと、母は、同じ店で箱を見せてもらったと答える。長兄は器の縁を気に入り、次兄は、子どもが使っていた見本の独楽を覚えていた。
同じ店へ寄っていても、見たものは少しずつ違っていた。
ルシアンが、あの子は長く回せるようになったかなと言うと、マルタは、帰る時にも大事そうに包みを持っていた子どもを見かけたと話した。同じ子かどうかはわからなかったが、あの店の紙だったらしい。
「なら、家へ戻ってからも回すつもりかもしれないね」
「お部屋の床へ、傷を付けなければよろしいのですが」
「俺の分は、板のあるところで使うよ」
「お聞きできて、安心いたしました」
先回りされたルシアンを見て、兄たちが笑う。彼も笑い、今度は料理へ手を伸ばした。食べている間にも、広場のどこで誰と会ったかという話が続いた。
リナのいた受付も、終わりの確認を済ませたらしい。マルタは、交代した者と食事を取ってから戻ると聞いている。朝と同じ顔ぶれだけが、最後まで立ち続けているわけではなかった。
窓の外で、荷を運ぶ台車の音がした。
ルシアンは、開けてある方へ少し顔を向ける。祭の灯はまだ幾つか残っていたが、歩く人は少なくなり、片付ける者がそれぞれの道を使っていた。
「明日は、また柵を運ぶのかな」
「残すものと、戻すものを分けてからだね」
ヴィクトルが答えた。外した布を受け取る者、器を数える者、来年も使う品をしまう者。その話の途中で、カシウスが、稽古場へ持ってくる剣まで間違えるなよ、と口を挟む。
「間違えないさ。あちらへ持っていくものは、よくわかっているよ」
「独楽は置いてこい」
「明日は、剣で一本取るつもりだからね」
言うと、父が満足そうに頷き、母は、では朝食を遅らせないようにと告げた。ルシアンは、そこはマルタにも先に言われる気がします、と返した。
食後、家族へ挨拶をして廊下へ出ると、屋敷の音は、昼とは違う近さになっていた。
マルタが部屋まで来て、明日の支度を確かめる。ルシアンは独楽の包みを机へ置き、もう一方の手で剣帯を外した。鞘へ収まった無銘剣の重みは、朝と同じように掌へ馴染む。
「今日は、一度も抜かずに済んだよ」
「よい一日でございましたね」
「うん。見るところが、思っていたより多かった」
彼女が退出してから、ルシアンは窓のそばへ寄った。
木陰の椅子は片付けられ、広場には、最後の荷を受け取る人がいた。その向こうで灯が一つ消える。運び終えた者の足音が、門の方へ遠ざかった。
自分が今日、歩けたところだった。朝に人を迎えた道も、夕方に席を案内した場所も、暗くなれば、また明日の仕事を待つ庭へ戻っていく。
ルシアンは窓を閉めた。
明日は兄の剣が、今日より近く見えるかもしれない。師範に返し損ねた一手も、まだ試したい。握った時にどこへでも運べる一本を、もっと思うとおりに振るいたかった。
俺の剣は、もっと強くなる。
その確信を少しも疑わず、彼は剣をいつもの場所へ置いた。
廊下の向こうで、兄たちの話す声がした。ルシアンは、明日の朝にも聞けるその声に口元を緩め、それから、静かに部屋の灯を落とした。
第12話 了
第1部 陽だまりのヴァルクレスト 完