HUNTER×HUNTER ―紅き公爵の剣譚―   作:アトレトル

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第一部 陽だまりのヴァルクレスト 第2話「若様と小さな約束」

第2話「若様と小さな約束」

 

ヴァルクレスト公爵家の朝は、今日も穏やかだった。

窓から差し込む柔らかな陽光が、磨き上げられた家具を照らしている。

屋敷の廊下では、使用人たちが静かに行き交い、それぞれの仕事を始めていた。

そんな中、ルシアン・ヴァルクレストは自室の長椅子に腰掛け、一通の書類に目を通していた。

十三歳という年齢に似合わない、落ち着いた仕草だった。

「……ふうん。思ったより早かったな」

書類を机に置き、満足そうに笑う。

そこへ、控えめなノックが響いた。

「ルシアン様。マルタでございます」

「入っていいよ」

扉が開き、灰色がかった髪を丁寧にまとめた侍女が姿を現した。

マルタ。

ルシアンが物心つく以前から、身の回りの世話をしてきた女性である。

「おはようございます、ルシアン様。本日のお召し物をお持ちいたしました」

「おはよう、マルタ」

いつもと変わらない挨拶。

だが、ルシアンは彼女の顔を見るなり、わずかに目を細めた。

「……まだ気にしてるのか?」

「え?」

「休暇のことだよ」

マルタの動きが止まる。

昨日、彼女の息子の祝宴について事情を知ったルシアンは、父アルフォンスに休暇の相談をしていた。

結果、休暇は認められた。

それだけではない。

祝宴に間に合うよう、往復の馬車や滞在中の手配まで進められていた。

「ですが、ルシアン様。私が数日も屋敷を離れてしまっては……」

「困らないよ」

即答だった。

「俺は十三歳だ。マルタがいないと着替えもできない赤ん坊じゃない」

「それは、もちろん存じておりますが……」

「それに、代わりの者もいるだろう?」

「はい。ですが、まだ経験の浅い者もおりますので」

ルシアンは小さく息を吐いた。

「マルタ」

その声は、普段より少しだけ真面目だった。

「息子の祝いなんだろう?」

「……はい」

「だったら、ちゃんと祝ってやればいい」

マルタが顔を上げる。

「俺の世話なら、帰ってからいくらでもできる。でも、その日の祝いは、その日にしかできないだろう?」

「ルシアン様……」

「それとも何か? 俺がそこまで頼りないと思ってるのか?」

わざと不満そうに眉を上げる。

マルタは思わず笑ってしまった。

「いいえ。滅相もございません」

「なら決まりだ」

ルシアンは立ち上がり、机の書類を持ち上げた。

「馬車の準備は終わってる。父上にも確認した。出発は今日の午前中だ」

「……そこまでしてくださったのですか」

「別に。俺がそうしたかっただけだよ」

何でもないことのように答える。

だが、マルタは知っていた。

この少年は気まぐれで、自由奔放で、時に公爵家の息子らしい傲慢さを隠そうともしない。

しかし、自分が大切だと認めた相手のことになると、驚くほど細やかな気遣いを見せる。

「……ありがとうございます、ルシアン様」

マルタは深く頭を下げた。

「大げさだな」

そう言いながらも、ルシアンは少しだけ嬉しそうに笑った。

 

◇

 

朝もすっかり深まった頃。

屋敷の正面玄関には、一台の馬車が停められていた。

馬車の周囲では、御者と使用人たちが荷物の確認を進めている。

ルシアンは玄関の階段に立ち、その様子を眺めていた。

「荷物は全部積んだ?」

「はい、ルシアン様。確認済みでございます」

「道中の宿は?」

「すでに手配しております」

「帰りの予定も?」

「問題ございません」

「そう。ならいい」

満足げに頷く。

その隣では、マルタが困ったように微笑んでいた。

「ルシアン様。何から何まで、本当に……」

「その話はもう聞いたよ」

ルシアンは肩をすくめる。

「礼なら帰ってからにしてくれ。土産話の一つでも聞かせてくれれば十分だ」

「ふふ……承知いたしました」

そこへ、背後から声がかかった。

「ルー。ずいぶん熱心だな」

振り返ると、長兄ヴィクトルが歩いてきていた。

二十一歳。

落ち着いた佇まいと端正な物腰を備えた、公爵家の長男である。

「ヴィク兄上」

「父上から聞いたよ。今回はお前が手配を進めたそうだね」

「必要だったからね」

「そうか」

ヴィクトルは微笑んだ。

「なかなか立派な仕事ぶりだったそうじゃないか」

「当然だよ。俺がやると決めたんだから」

「はは。そういうところは相変わらずだな」

長兄の笑みに、ルシアンも口元を緩める。

「ヴィク兄上こそ、何か用?」

「見送りだよ。長年この家を支えてくれている人だからね」

そう言って、ヴィクトルはマルタへ視線を向けた。

「マルタ。気兼ねなく楽しんできてほしい。屋敷のことはこちらで心配なく引き受ける」

「ヴィクトル様まで……ありがとうございます」

マルタは再び頭を下げた。

やがて、出発の準備が整う。

馬車に乗り込もうとしたマルタを、ルシアンが呼び止めた。

「マルタ」

「はい?」

「……息子によろしく」

少年は、ごく自然に言った。

「母親を少し借りすぎたからね。数日くらい、そっちに返してやるって」

一瞬。

マルタは驚いたように目を見開いた。

そして、ゆっくりと微笑んだ。

「……はい。必ず伝えます」

馬車が動き出す。

ルシアンはその姿が門の向こうへ消えるまで、静かに見送っていた。

「優しいことを言うじゃないか」

隣のヴィクトルが、からかうように口を開く。

「何のこと?」

「母親を返してやる、か」

「事実だろう?」

ルシアンは涼しい顔で答えた。

「俺が気に入ってるからって、ずっと独り占めするわけにもいかないしね」

「なるほど」

ヴィクトルは笑みを深める。

「それを独り占めと考えている時点で、お前らしいよ」

「……ヴィク兄上、俺をからかってる?」

「少しだけね」

「まったく」

不満そうに言いながらも、ルシアンは楽しげだった。

 

◇

 

その日の朝食。

長い食卓には、いつものように家族五人が揃っていた。

父アルフォンス。

母エレオノーラ。

長兄ヴィクトル。

次兄カシウス。

そして、末っ子のルシアン。

「ルー。マルタは無事に出発したの?」

母エレオノーラが尋ねる。

「はい、母上。少し前に出発しました」

「そう。よかったわ」

「本人は最後まで心配していましたけどね」

「ふふ。あの人らしいわね」

エレオノーラは穏やかに笑った。

「それだけルーを大切に思っているのよ」

「分かっていますよ」

ルシアンはパンを一口食べる。

「でも、少しくらい休んでもらわないと困ります」

「どうしてだ?」

今度は父アルフォンスが口を開いた。

「働きすぎて倒れられたら、俺が困るからです」

迷いのない返答だった。

アルフォンスは一瞬目を細め、それから楽しそうに笑った。

「なるほど。実にお前らしい理由だ」

「当然でしょう?」

「うむ。悪くない」

すると、向かいに座っていたカシウスが身を乗り出した。

「ところでルー。今日は午後、時間あるか?」

「ありますけど?」

「だったら俺と一度、剣を合わせようぜ」

ルシアンの目が輝いた。

「カイ兄上と?」

「ああ。しばらくまともに相手してなかっただろ?」

「へえ……」

口元に、不敵な笑みが浮かぶ。

「いいですよ。ちょうど試したいこともありますし」

「おっ、いいねえ」

カシウスも楽しそうに笑った。

そんな二人を見て、ヴィクトルが静かに口を開く。

「カイ。あまり夢中になりすぎるなよ」

「分かってるって、ヴィク兄上」

「前にもそう言っていただろう?」

「今度は大丈夫だ」

「信用していいものか……」

「兄上、心配しすぎだって」

そのやり取りに、エレオノーラが上品に微笑む。

アルフォンスもまた、楽しそうに息子たちを眺めていた。

ヴァルクレスト家の食卓には、今日も穏やかな笑い声が響いていた。

 

◇

 

朝食を終えたルシアンは、自室へ向かっていた。

普段ならマルタが身の回りの用事を確認してくれる時間だったが、今日は違う。

代わりに、一人の若い侍女が控えていた。

「ル、ルシアン様! 本日より、マルタ様に代わりまして、お世話を担当させていただきます!」

緊張のあまり、声が少し裏返っている。

ルシアンは彼女を見つめた。

「そんなに緊張しなくていいよ」

「は、はい!」

「……緊張しなくていいって言ったんだけどな」

困ったように笑う。

侍女は顔を真っ赤にした。

まだ屋敷に勤め始めて日が浅いのだろう。

所作は丁寧だが、どうしても動きが硬い。

「朝の支度はもう済んでる。次は昼前に書斎へ飲み物を持ってきてくれればいい」

「か、かしこまりました!」

「それと、廊下を走らないように」

「はい!」

元気よく返事をして、侍女は立ち去っていった。

その後ろ姿を見送りながら、ルシアンは小さく呟いた。

「……大丈夫かな、あの子」

しかし、その心配は数時間後、現実になる。

 

◇

 

昼前。

書斎で本を読んでいたルシアンの耳に、小さな物音が届いた。

がしゃん。

陶器の割れる音だった。

「……ん?」

顔を上げる。

続いて聞こえたのは、慌てた声だった。

「も、申し訳ございません!」

ルシアンが廊下に出ると、先ほどの新人侍女が床に膝をついていた。

足元には割れたカップ。

こぼれた飲み物。

そして、割れた破片を慌てて拾おうとする手。

「何してるの?」

「ル、ルシアン様!」

侍女は顔を青くした。

「も、申し訳ございません! お飲み物をお運びしていたのですが、私が不注意で……!」

「ふうん」

ルシアンは床を見下ろす。

「転んだの?」

「は、はい……」

「怪我は?」

「え?」

「怪我してないかって聞いてるんだよ」

侍女は戸惑ったように自分の手を見た。

その指先には、薄く血が滲んでいた。

「だ、大丈夫です! この程度でしたら……」

「大丈夫じゃないだろ」

ルシアンの声が少し低くなる。

侍女の肩が跳ねた。

「手を見せて」

「ですが……」

「いいから」

差し出された手を確認する。

傷は浅い。

しかし、破片を拾う際に切ったらしい。

「……まったく」

ルシアンは小さく息を吐いた。

「誰か」

声をかけると、近くにいた使用人がすぐに駆け寄ってきた。

「はい、ルシアン様」

「この子の手当てを頼む。破片の片付けも他の者に任せて」

「かしこまりました」

「それと、新しい飲み物はあとでいい」

指示を終えると、ルシアンは再び侍女に向き直った。

彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。

「……申し訳、ございません……」

「何が?」

「大切な食器を割ってしまって……お飲み物も……」

「そうだね。次は気をつけた方がいい」

「はい……」

「でも、それだけだよ」

「……え?」

ルシアンは首を傾げた。

「カップ一つ割れたくらいで、何をそんなに怯えてるんだ?」

「で、ですが……」

「俺の屋敷の食器は、一つなくなった程度で困るような代物じゃない」

傲然と言い切る。

そこには、世界有数の大貴族の息子として育った少年らしい、揺るぎない自負があった。

「それより、怪我してるのに隠して働かれる方が困る」

「……ルシアン様」

「いい? 失敗したら報告する。怪我をしたら手当てを受ける。余計なことを考えず、まずそれを守って」

「……はい」

「それができるなら、次はもう少し上手くやれるだろう?」

侍女は、ゆっくりと頷いた。

「……ありがとうございます」

「礼を言うようなことじゃないよ」

そう言ってから、ルシアンは少し考えた。

「それと」

「はい?」

「マルタが帰ってきても、今回の失敗だけで担当を外すつもりはないから」

侍女が驚いたように顔を上げる。

「だから、ちゃんと仕事を覚えて」

少年は、当然のように言った。

「できるようになるまで、何度でも学べばいいさ」

その表情に、侍女はようやく緊張を解いた。

「……はい!」

今度の返事は、先ほどよりもずっと自然だった。

ルシアンは満足そうに頷く。

そして、自室へ戻ろうとして――

「ああ、そうだ」

振り返った。

「飲み物は、冷たいものにしてくれ」

「はい!」

「甘い菓子も一緒に」

「かしこまりました!」

「うん。よろしく」

何事もなかったように書斎へ戻っていく。

その背中を見つめながら、若い侍女は深く頭を下げた。

 

◇

 

午後。

ヴァルクレスト家の屋敷に併設された剣術訓練場には、乾いた風が吹いていた。

中央には二人の少年が向かい合っている。

ルシアン・ヴァルクレスト、十三歳。

そして、その四歳年上の兄。

カシウス・ヴァルクレスト、十七歳。

双方の手には、訓練用の木剣が握られていた。

「さて、ルー」

カシウスは楽しそうに笑った。

「今日はどうする?」

「どうする、とは?」

「最初から本気で来るか? それとも少し探り合う?」

「……そんなこと聞くんですか?」

ルシアンは呆れたように笑った。

「カイ兄上相手に、手を抜いて勝てるわけないでしょう」

「ははっ! そりゃそうだ!」

カシウスは嬉しそうに木剣を構えた。

その瞬間。

周囲の空気が変わった。

見守っていた使用人たちが、思わず息を呑む。

先ほどまで笑っていた青年の雰囲気が、一変していた。

剣先はわずかに下がり、肩には無駄な力が入っていない。

一見すれば、隙の多い構え。

しかし、その実態はまったく違う。

どこから踏み込んでも。

どの角度から剣を振っても。

そのすべてに、即座に対応される。

そんな確信を抱かせる構えだった。

訓練場の端では、筆頭師範ギルベルト・ハルデンが静かに見守っていた。

「……見事ですな」

五十九歳の老剣士が、小さく呟く。

カシウスの剣才は、単に優れているという程度のものではない。

代々、武の頂点を当主の条件としてきたヴァルクレスト家。

その長い歴史の中でも、彼ほどの剣術の才能を持つ者は数えるほどしかいない。

歴代当主と比べても、最上位に名を連ねるほどの逸材。

それが、カシウス・ヴァルクレストだった。

「……相変わらずですね、カイ兄上」

ルシアンが小さく笑った。

「何が?」

「その構えですよ。見れば見るほど、嫌になる」

「褒め言葉として受け取っとくぜ」

「どうぞ、ご自由に」

ルシアンも構えを取る。

正統ヴァルクレスト流。

幼い頃からギルベルトに叩き込まれてきた、由緒ある剣術。

しかし、その構えにはすでに少年独自の工夫が混じっていた。

ギルベルトが目を細める。

「……ほう」

わずかに重心が変わっている。

昨日の稽古では見せなかった位置取りだった。

(あの時の動きを、もう取り込んだか)

思わず笑みが漏れる。

まったく、恐ろしい子供である。

「準備はいいか、ルー?」

「いつでも」

「じゃあ――」

カシウスが笑った。

「始めようぜ」

直後。

二人が動いた。

――カンッ!

木剣が激しくぶつかる。

先に踏み込んだのはルシアンだった。

正面からの一撃。

それをカシウスが軽く受け流す。

続く横薙ぎ。

さらに切り返し。

そのすべてが、正確に捌かれる。

「いいねえ!」

カシウスが笑う。

「前より速くなってる!」

「まだまだですよ!」

ルシアンが踏み込む。

しかし。

「――そこだ」

カシウスの剣が、わずかに角度を変えた。

ルシアンの木剣が外側へ逸れる。

次の瞬間には、カシウスの剣先が少年の喉元で止まっていた。

「一本」

「……ちっ」

ルシアンは小さく舌打ちした。

「今の、誘いましたね?」

「おう」

カシウスはあっさり認めた。

「お前が次にそこを狙うって分かったからな」

「……読まれてたか」

「動きは悪くない。けど、狙いが少し分かりやすい」

カシウスは剣を下ろす。

「次は?」

「当然、やりますよ」

ルシアンは即答した。

その顔に、落胆はない。

むしろ。

楽しそうだった。

 

◇

 

二度目の立ち合い。

今度はカシウスから踏み込んだ。

速い。

だが、ルシアンはすぐに反応した。

右からの斬撃を受け流す。

続く下段への変化を、後退してかわす。

そこから反撃。

――カンッ!

再び木剣がぶつかった。

カシウスの眉がわずかに上がる。

「お?」

先ほどまでとは違う。

ルシアンの動きが変わっていた。

足運び。

剣先の角度。

攻撃を始める間合い。

ほんの数分前とは、別人のようだった。

(……もう合わせてきたか)

カシウスは笑みを深める。

面白い。

これだから、この弟との稽古はやめられない。

「いいぞ、ルー!」

「言われなくても!」

ルシアンが踏み込む。

一撃。

二撃。

三撃。

鋭い連撃を、カシウスはすべて捌いた。

だが――

四撃目。

ルシアンの剣が、不意に軌道を変えた。

それまで狙っていた上半身ではない。

足元でもない。

カシウスの木剣を受ける手元。

ほんの一瞬。

次の動作へ移るために生まれる、極めて小さな隙。

そこを狙った。

「――っ!」

カシウスの表情が変わる。

直後。

乾いた音が響いた。

カンッ!

そして、二人の動きが止まった。

カシウスの剣は、ルシアンの肩口で止まっている。

ルシアンの剣先は、カシウスの腕のすぐ手前。

あとわずか。

ほんのわずかだけ、届かなかった。

「……惜しい!」

ルシアンが悔しそうに声を上げる。

「今のはいけると思ったのに!」

カシウスは、自分の腕を見下ろした。

そして。

「……はは」

小さく笑った。

「はははっ! すげえな、ルー!」

心底楽しそうな笑い声だった。

「今のを狙ってたのか!」

「当然でしょう!」

「最初の立ち合いで、俺の剣の戻りを見てたんだな?」

「ええ。あの位置なら、届くと思ったんですけどね」

「届かなかったな」

「……腹立たしいことに」

「ははっ!」

カシウスは笑いながら木剣を肩に担いだ。

ギルベルトが静かに近づいてくる。

「お見事でした、カシウス様」

「どうも、先生」

「最後の切り返し。わずかに重心を残しておられましたな」

「ええ。ルーが狙ってくる気がしたんで」

「なるほど」

ギルベルトは頷いた。

「読み合いの上でも、完全に先を行っておられた」

カシウスは肩をすくめた。

「まあ、兄貴だからな」

「……それ、理由になってませんよ」

ルシアンが不満そうに言う。

「お、そうか?」

「そうですよ」

その様子に、ギルベルトは小さく笑った。

「ルシアン様」

「はい?」

「今の一撃。昨日の稽古を踏まえておられましたな」

「分かりました?」

「もちろんです」

ギルベルトは満足そうに頷いた。

「相手の動きを観察し、次の動作を予測する。その精度が、昨日よりさらに上がっております」

「それはよかった」

ルシアンは嬉しそうに笑う。

しかし、ギルベルトは続けた。

「ですが、カシウス様はその先を読んでおられた」

「……ええ」

「技を覚えることと、技を使いこなすことは別です。さらに、相手の意図まで含めて剣を組み立てるには、経験が必要になります」

ルシアンは黙って耳を傾けた。

「カシウス様の剣は、すでに一流の剣士として完成された領域に足を踏み入れております。あの年齢であれほどの技量に達する者は、そう多くありません」

「先生にそこまで言われると、照れるなあ」

カシウスが笑う。

「事実でございます」

ギルベルトの声には、揺るぎない確信があった。

ヴァルクレスト家が誇る、歴代屈指の天才剣士。

カシウスの強さは、その評価に相応しいものだった。

それを誰より理解しているのは、他でもないルシアン自身である。

「……分かっていますよ」

少年は木剣を握り直した。

「カイ兄上が凄いのは、昔から知ってます」

「お?」

「だから、面白いんじゃないですか」

不敵に笑う。

「簡単に勝てる相手だったら、こんなに楽しくないでしょう?」

カシウスの口元が上がった。

「……いいこと言うじゃねえか」

「事実ですよ」

「なら、もう一本やるか?」

「もちろん」

即答だった。

ギルベルトは、そんな兄弟を見つめながら目を細める。

(……まったく)

カシウスは、歴代の当主たちと比べても遜色のない天才である。

常人がどれほど努力しても届かない高みに、十七歳という若さで足を踏み入れている。

だが、その剣を目の前で見て。

敗北を重ねながら。

それでもなお、嬉しそうに笑っている少年がいる。

しかも、その少年は、立ち合うたびに成長している。

(この家の未来は……実に楽しみですな)

老剣士は、静かに微笑んだ。

 

◇

 

夕刻。

剣の稽古を終えたルシアンは、屋敷の庭を歩いていた。

身体には心地よい疲労が残っている。

「……はあ」

小さく息を吐く。

「結局、一本も取れなかったな」

思い返すのは、カシウスとの立ち合いだった。

何度も剣を交えた。

何度も相手の動きを観察した。

そのたびに新しい発見があった。

それでも、勝てなかった。

「……次は絶対に取ってやる」

口元が自然に緩む。

負けたことが悔しくないわけではない。

むしろ、心底悔しい。

だが、それ以上に楽しいのだ。

目の前に、自分より優れた剣士がいる。

しかも、それが大好きな兄なのだから。

「……ふふ」

思わず笑みが漏れる。

「本当に、退屈しないな」

そう呟いたところで、背後から足音がした。

「ルシアン様」

振り返ると、昼間の新人侍女が立っていた。

「お疲れ様でございます」

「ああ、さっきの」

ルシアンは彼女の手元を見た。

「指は?」

「はい。手当てをしていただきました。もう大丈夫です」

「そう」

短く答える。

「なら、よかった」

侍女は少し躊躇してから、頭を下げた。

「……本日は、本当にありがとうございました」

「またその話?」

「ですが……」

「失敗した分は、仕事で返せばいいよ」

ルシアンは当然のように言った。

「それで十分だ」

「……はい!」

侍女の表情が明るくなる。

ルシアンはそれを見て、少しだけ笑った。

「ところで」

「はい?」

「今日の夕食、何だろう?」

「え?」

「腹が減ったんだけど」

あまりにも自然な問いかけに、侍女は一瞬呆気に取られた。

そして、慌てて答える。

「も、申し訳ございません! すぐに確認してまいります!」

「走らなくていいからね」

「はい!」

今度は足元に気をつけながら、小走りで去っていく。

その姿を見送ってから、ルシアンは苦笑した。

「……元気になったみたいだね」

 

◇

 

それから数日。

マルタが不在の間も、屋敷の日常は普段どおりに続いていた。

朝には剣を振るい。

家族と食卓を囲み。

昼には学問や書物に時間を費やす。

午後には兄たちと過ごし、ときには訓練場へ足を運んだ。

新人侍女も、最初のように慌てることは少なくなっていた。

ルシアン自身、何かと手を貸そうとする使用人たちを適度に断りながら、普段どおりに生活していた。

マルタがいなければ、何もできない。

そんなことは、もちろんない。

だが。

ふとした瞬間に、普段とは違うことに気づく。

朝、決まった時間に聞こえる声。

衣服を整える際の、慣れた手つき。

稽古のあと、何も言わずに用意されている飲み物。

それらが今は、少しだけ違っていた。

不便ではない。

ただ、違う。

それだけのことだった。

 

◇

 

三日目の午後。

ルシアンが書斎で本を読んでいると、扉が静かに叩かれた。

「ルシアン様」

「どうぞ」

入ってきたのは、例の新人侍女だった。

「マルタ様がお戻りになられました」

ルシアンの手が止まる。

「……ああ」

本を閉じた。

「予定どおりだね」

「はい。つい先ほど、馬車が到着いたしました」

「そう」

立ち上がる。

その動作は、いつもどおり落ち着いていた。

しかし、足取りは心なしか軽かった。

 

◇

 

正面玄関。

そこには、旅装を解いたマルタの姿があった。

「ルシアン様」

少年の姿を見つけた瞬間、マルタの顔がほころんだ。

「ただいま戻りました」

「おかえり、マルタ」

ルシアンは微笑む。

「どうだった?」

「はい?」

「息子の祝いだよ。楽しめた?」

マルタは一瞬、言葉に詰まった。

そして。

「……はい」

深く、穏やかに微笑んだ。

「とても、幸せな時間を過ごすことができました」

「そう」

ルシアンは満足そうに頷いた。

「ならよかった」

「息子も、大変喜んでおりました」

「ふうん?」

「ルシアン様のお言葉も伝えました」

「……ああ、あれね」

「息子は、ぜひ直接お礼を申し上げたいと」

「別にいいのに」

ルシアンは肩をすくめた。

「俺はただ、マルタに休んでもらいたかっただけだよ」

「それでも、息子にとっては大変ありがたいことだったようです」

「……そう」

少し照れくさそうに視線を逸らす。

マルタは、そんな少年の様子を優しく見つめていた。

「ところで、ルシアン様」

「何?」

「私の留守中、お困りのことはございませんでしたか?」

「特にないよ」

即答だった。

「食事も普段どおりだったし、稽古もできた。書斎も問題なかった」

「それは何よりでございます」

「新しい侍女の子も、最初は少し失敗してたけどね」

「……まあ」

「でも、もう大丈夫そうだよ」

ルシアンは笑った。

「なかなか頑張ってる」

「そうでございましたか」

マルタも嬉しそうに微笑んだ。

そして、少しだけ悪戯っぽい表情になる。

「では、私がいなくとも問題なかったのですね?」

「当然だろう?」

少年は胸を張った。

「俺を誰だと思ってるんだ?」

「ふふ……そうでございましたね」

マルタが笑う。

ルシアンも、つられて笑った。

しかし。

少しだけ間を置いてから、少年は続けた。

「……まあ」

「はい?」

「帰ってきてくれたのは、嬉しいけどね」

マルタの目が見開かれた。

ルシアンは、何でもないことのように続ける。

「俺の生活に問題はなかった。でも、マルタがいる方が、やっぱり落ち着く」

「……ルシアン様」

「だからさ」

少年は柔らかく微笑んだ。

「またよろしく頼むよ、マルタ」

マルタは、ゆっくりと頭を下げた。

「……はい」

その声は、わずかに震えていた。

「こちらこそ、末永くよろしくお願いいたします」

ルシアンは頷く。

そして、ふと思いついたように口を開いた。

「ああ、そうだ」

「はい?」

「土産話は?」

「……はい?」

「約束しただろう? 帰ってきたら聞かせてくれるって」

マルタは、思わず笑ってしまった。

「ふふ……もちろんでございます」

「なら、今から聞かせてよ」

「今から、でございますか?」

「うん」

ルシアンは当然のように答える。

「俺が聞きたいんだから、いいだろう?」

その傲慢とも言える物言いに、マルタは懐かしさを覚えた。

この少年は、決して誰にでも優しいわけではない。

気に入らないことには容赦がないし、自分の望みを遠慮なく口にする。

貴族としての誇りも、気位の高さも、人一倍だ。

それでも。

その身勝手さの奥に、確かな愛情がある。

「……かしこまりました」

マルタは穏やかに微笑んだ。

「では、お茶をご用意いたしましょう」

「うん。頼むよ」

「お菓子はいかがなさいますか?」

「もちろん」

即答する。

「少し多めにね」

「ふふ。承知いたしました」

二人は並んで廊下を歩き始めた。

その姿は、数日前までと何も変わらない。

いや。

ほんの少しだけ、違っていた。

マルタの表情は以前よりも柔らかく。

ルシアンの足取りは、どこか楽しげだった。

 

◇

 

夕暮れ。

公爵家の窓には、暖かな光が灯り始めていた。

書斎の一角。

ルシアンは長椅子に腰掛け、マルタの話に耳を傾けていた。

息子の様子。

祝いに集まった人々。

久しぶりに会った親族たち。

どれも、公爵家の歴史を揺るがすような話ではない。

世界を動かすような出来事でもない。

ただ、一人の母親が家族と過ごした、幸せな数日の話だった。

それでも、ルシアンは楽しそうだった。

「へえ。そんなことがあったんだ」

「はい。それはもう、皆で大笑いしまして……」

「ははっ! それは面白いね」

笑い声が響く。

マルタも、つられるように笑う。

やがて話がひと段落したころ。

「……マルタ」

「はい、ルシアン様」

「また、こういうことがあったら言ってよ」

「……はい?」

「休みたい時とか、家族に会いたい時とか」

ルシアンは、カップを机に置いた。

「俺に遠慮する必要はないから」

マルタは静かに少年を見つめる。

「……ですが、私はルシアン様にお仕えする身でございます」

「知ってるよ」

即答だった。

「でも、それだけじゃないだろ?」

「……」

「マルタは、俺が小さい頃からずっと一緒にいる」

少年は微笑んだ。

「だから、俺にとっては大切な人なんだ」

マルタは何も言わなかった。

ただ、そっと目を伏せる。

長い年月。

この公爵家で働き続けてきた。

幼い頃から世話をしてきた少年は、いつの間にかこんなことを口にするようになっていた。

「……ありがとうございます」

ようやく、それだけを告げる。

ルシアンは首を傾げた。

「だから、大げさだって」

そして、少しだけ笑った。

「俺が大切だと思ってるんだから、それでいいだろう?」

それは、実にルシアンらしい言葉だった。

自分がどう思うか。

自分が何を大切にするか。

その判断を、他人に委ねるつもりなどない。

傲慢で。

自由奔放で。

けれど、どこまでも真っ直ぐな少年。

マルタは、心から微笑んだ。

「……はい。ルシアン様」

その声には、深い愛情が込められていた。

窓の外では、夕陽がゆっくりと沈んでいく。

今日もまた、ヴァルクレスト家の一日が終わろうとしていた。

何も特別なことはない。

家族と食事をして。

兄と剣を交え。

使用人たちと笑い合う。

それだけの、穏やかな日常。

けれど、ルシアン・ヴァルクレストにとって。

それは、何物にも代えがたい時間だった。

そして、少年はまだ知らない。

いつか自分が、この家に連なる多くの人々の未来を背負うことになるということを。

今はただ。

愛する人々に囲まれて、自由気ままに笑っている。

――陽だまりのヴァルクレスト。

温かな日々が、今日も静かに流れていた。

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