HUNTER×HUNTER ―紅き公爵の剣譚― 作:アトレトル
第3話 長兄の背中
マルタが屋敷へ戻った翌朝。
ヴァルクレスト公爵家の屋敷には、いつもと変わらない穏やかな時間が流れていた。
高い窓から差し込む朝日が廊下を照らし、磨き上げられた床には窓枠の影が長く伸びている。遠くからは使用人たちの控えめな話し声と、忙しなく行き交う足音が聞こえていた。
その廊下を、ルシアン・ヴァルクレストは機嫌よく歩いていた。
朝の稽古を終え、身体も十分に動かしてある。
今日は少し趣向を変えようと思っていた。
いつも指導を受けているギルベルトでも、先日木剣を交えたカシウスでもない。
今日の相手は、長兄のヴィクトルだ。
「さて、ヴィク兄上はいるかな」
独り言を零しながら、ルシアンは廊下の奥へ視線を向けた。
長兄の執務室があるのは、屋敷でも比較的静かな一角だった。
幼い頃から何度も訪れている場所だが、ヴィクトルが年齢を重ね、公爵家の仕事を任されるようになるにつれて、そこは次第に本来の執務室らしい場所になっていた。
昔は兄と話したい時、ただ扉を開ければよかった。
今では、書類を運ぶ家臣とすれ違うことも珍しくない。
もっとも、だからといってルシアンが遠慮するようになったわけではなかった。
扉の前へ立ち、軽く指で叩く。
「ヴィク兄上、今いいかな?」
「開いているよ、ルー」
間を置かず、聞き慣れた声が返ってきた。
ルシアンが扉を開けると、机に向かっていたヴィクトルが顔を上げた。
机の上には、整然と積まれた書類の束がいくつも並んでいる。その傍らには開いた帳面が置かれ、筆記具を持った長兄の手が、ちょうど一行を書き終えるところだった。
書類の量だけを見れば、気軽に声をかけるのを躊躇う者もいるだろう。
しかしヴィクトル自身は、いつもと変わらぬ穏やかな表情を浮かべていた。
「おはよう、ルー。今日は随分早いね」
「おはよう、ヴィク兄上。朝の稽古が終わったところなんだ」
「なるほど。それで、私のところへ?」
「うん。今日は兄上に剣の相手をお願いしようと思ってね」
ヴィクトルは一度、机の上の書類へ目を向けた。
「そういうことか。喜んで付き合いたいところだけれど……」
「忙しい?」
「午前中に父上へ届けたい書類があるんだ。少し待ってもらえるかな」
ルシアンは兄の視線を追い、机の上を眺めた。
薄い書類が数枚というわけではない。
少なくとも、今すぐに片づく量には見えなかった。
「その『少し』は、なかなか長そうだね」
「そうかもしれないね」
「兄上は正直だなあ」
呆れたように言いながらも、ルシアンの口元には笑みがあった。
部屋の中へ入り、机の前の椅子へ腰を下ろす。
ヴィクトルはそんな弟を見て、楽しそうに目を細めた。
「待っていてくれるのかい?」
「もちろん。せっかく来たんだ。今さら帰るのもつまらないだろう?」
「それはありがたいね」
「ただし、待った分はたっぷり付き合ってもらうよ」
「心得ておこう」
穏やかな返答に満足して、ルシアンは背もたれへ身体を預けた。
机の向こうに座る兄を見つめる。
そういえば、幼い頃はこの椅子に座ると机の上がほとんど見えなかった。
兄が何をしているのか気になって、わざわざ立ち上がり、机の端へ手をついて覗き込んだ覚えがある。
そのたびにヴィクトルは笑い、膝の上へ座らせてくれたものだった。
今では椅子に座ったまま、兄の手元までよく見える。
随分と背が伸びた。
もっとも、長兄からすれば、今も大して変わらないのかもしれないが。
「何だい、ルー?」
「いや。昔はこの机が随分と大きく見えたな、と思ってね」
「そうだったね。昔のお前は、よくここへ登ろうとしていたよ」
「……そんなことまで覚えているのかい?」
「もちろん。止めるのに苦労したからね」
「俺には、あまり覚えがないんだけどな」
「都合の悪いことは忘れるものさ」
ルシアンは肩を竦めた。
「兄上も、なかなか意地が悪いね」
「お前ほどではないと思うよ」
ヴィクトルは微笑みながら、再び書類へ目を戻した。
さらさらと筆記具が紙の上を滑る音がする。
ルシアンはしばらくその様子を眺めていたが、やがて机の上に並んだ書類へ興味を向けた。
長兄は単に文章を読み進めているわけではない。
一枚を確認しては別の書類と照らし合わせ、時には帳面を開き、時には余白へ短く何かを書き添えている。
手元の動きに迷いがない。
けれど、決して急いでもいなかった。
「ねえ、ヴィク兄上」
「うん?」
「それは何の書類なんだい?」
「屋敷へ納められた品の請求に関するものだよ」
「請求書?」
「そう。ちょうどいい。少し見てくれるかな」
そう言って、ヴィクトルは一枚の紙を弟の前へ滑らせた。
ルシアンが眉を上げる。
「おや。待っている弟に仕事をさせるつもりかな?」
「嫌なら本棚の本を読んでいても構わないよ」
「……それはそれで、つまらないね」
ルシアンは笑いながら紙を手に取った。
記されているのは、屋敷へ納入された品の一覧と、その費用だった。
特別に難しい内容ではない。
品名、数量、単価、合計額。
そして運搬に関する費用。
横に置かれた見積もりと比べていくうちに、ルシアンは一つの違いへ目を留めた。
「運搬費が増えているね」
「そうだね」
「品の数は変わっていないみたいだけど」
「うん」
「……兄上、何か知っているのかい?」
「まだ、はっきりとはね」
ルシアンは請求書と見積もりを並べ、もう一度上から読み直した。
品名に違いはない。
数量も一致している。
単価が変わった様子もない。
ならば、なぜ運搬費だけが増えているのか。
「運ぶのに、何か余計な手間がかかったのかな?」
「その可能性はあるね」
「でも、この紙だけじゃ理由がわからない」
「だから確かめているんだ」
ヴィクトルの答えに、ルシアンは小さく頷いた。
請求された金額が増えている。
それ自体は、誰にでもわかることだった。
問題は、その理由だ。
必要な費用なのか。
計算の間違いなのか。
あるいは、書類に書かれていない事情があるのか。
金額だけを見て決めるわけにはいかない。
ルシアンは視線を戻した。
同じ書類を眺めているはずなのに、先ほどよりも細かな部分が気になってくる。
やがて、受け取り場所の欄で指が止まった。
「……あれ?」
「何か見つけたかい?」
「こっちとこっちで、受け取り場所が違うね」
見積もりに記されている場所と、実際の納品書に記された場所が異なっている。
ヴィクトルが頷いた。
「そう。最初に予定していた場所と、実際に受け取った場所が違うんだ」
「どうして変えたんだろう?」
「最初の倉が補修中だからだと思うよ」
「なるほど。なら、それで運搬費が増えたのかな」
「それもあり得る。ただ、まだ説明が足りないね」
ルシアンは顔を上げた。
「どういうこと?」
「場所が変わっただけなら、必ずしも費用が増えるとは限らない。変更をいつ、誰が知ったのかも確かめないとね」
「……ああ、そういうことか」
ルシアンは納品書を見下ろした。
物が運ばれる。
場所が変わる。
それだけなら、紙の上ではたった一行の違いだった。
しかし実際に運ぶ人間がいる。
荷を積み、運び、下ろす人間が。
もし変更が伝わっていなければ、余計な仕事が生まれることもある。
「兄上、ちょっと面白くなってきたよ」
「それはよかった」
「もう少し詳しく調べてみようじゃないか」
「そう言うと思ったよ」
ヴィクトルは机の隅に置かれていた鈴を鳴らした。
しばらくすると、事務を担当する家臣が姿を見せた。
ヴィクトルは書類の内容を簡潔に伝え、運搬費の増加について確認を頼む。
家臣は丁寧に頭を下げ、必要な控えを取りに一度部屋を出ていった。
その後ろ姿を見送り、ルシアンは椅子へ座り直す。
「ヴィク兄上なら、こういうのはすぐに片づけてしまうと思っていたよ」
「すぐに?」
「うん。金額が違えば、訂正させればいいのかと思っていたんだ」
ヴィクトルは穏やかに首を振った。
「それでは、正しい請求まで間違いにしてしまうかもしれないね」
「確かに」
「逆に、確かめずに支払うのもよくない。どちらにしても、まず理由を知ることが大切なんだ」
「兄上は何でも確かめてから決めるんだね」
「何でも、というわけではないけれどね」
そう言ってヴィクトルは微笑んだ。
「ただ、一枚の紙の向こうには、必ず誰かの仕事がある。そこを忘れたくはないかな」
ルシアンは、その言葉を黙って聞いた。
長兄の語り方は、いつも自然だった。
大袈裟に教え諭すわけでもなく、相手へ考えを押しつけるわけでもない。
必要なことを、ただ静かに話す。
それでいて、その言葉には不思議と重みがあった。
「……なるほどね」
ルシアンは手元の請求書を軽く持ち上げた。
「では、この紙の向こうにいる人たちの話を聞いてみようかな」
「うん。そうしよう」
ほどなくして、家臣が戻ってきた。
手には先ほどとは別の伝票がある。
「確認いたしました。荷が到着した際、最初の倉で一度荷下ろしを行ったようです」
「一度?」
ルシアンが問い返した。
「はい。その後、受け取り場所が変更されたことを知り、別の倉まで運び直しております」
家臣は伝票を開いて続けた。
「荷車を戻す予定だった者にも手を借りております。その追加作業の費用が請求されたものと思われます」
「受け取り場所の変更は、先方へ伝わっていたのかな?」
ヴィクトルの問いに、家臣は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「変更そのものは伝えておりました。ただ、荷を下ろす者たちにまで情報が行き届かなかったようでございます」
「なるほど」
ヴィクトルは伝票を受け取り、記された印を確かめた。
「追加の作業は、こちらでも確認されているんだね」
「はい」
「ならば、費用の理由はわかった」
ヴィクトルは書類を揃え、短く説明を書き添えた。
「父上には、この控えも一緒にお見せしよう。先方へは、確認に時間をいただいたことを伝えておいてくれるかな」
「かしこまりました」
「それから、次に受け取り場所を変える時は、実際に運ぶ者にも知らせが届くようにしてほしい」
「承知いたしました」
家臣が退出すると、ルシアンはしばらく請求書を眺めていた。
「……つまり、こちらの連絡が足りなかったせいで、二度も運んでもらったんだね」
「そういうことになるね」
「だったら、追加の費用を払うのは当然だろう?」
「私もそう思うよ」
「それにしても、最初から説明があれば、こんなに時間はかからなかったのに」
ルシアンは少し不満げに呟いた。
ヴィクトルは笑った。
「その通りだね」
「兄上もそう思う?」
「もちろん。だから次からは、作業の変更があった場合には、それを確認できる伝票も添えてもらうようにしようと思っている」
「なるほど。それなら、同じことで何度も調べなくて済むね」
「うん」
ルシアンは長兄の顔を見た。
ただ費用を確かめるだけではなく、次に同じことが起こらないようにする。
そのために何が必要なのかまで考えている。
兄が扱っているのは、単なる数字ではなかった。
人が働き、物が動き、誰かがその仕事を引き受ける。
そうした一つ一つの積み重ねを、ヴィクトルは書類の向こうに見ているのだ。
「ヴィク兄上」
「何かな?」
「その書類、あとで俺にも読ませてもらっていいかな?」
ヴィクトルの筆記具が止まった。
弟の顔を見て、少し意外そうに瞬きをする。
「もちろん構わないよ。興味があるのかい?」
「思ったより面白かったからね。次は、兄上に言われる前に気づきたいんだ」
「それは楽しみだ」
「ただ、剣の約束は忘れないでほしいな」
「忘れていないよ」
「よかった。俺はそちらが本命だからね」
ヴィクトルが笑う。
ルシアンも笑みを返した。
もっとも、この時にはすでに、朝訪れた時ほど待たされることを退屈には感じていなかった。
◇
ヴィクトルが書類を一束にまとめて立ち上がったのは、それから少し経ってからだった。
「ルー。倉の方を見に行こうと思うんだけれど、一緒に来るかい?」
「倉へ?」
「うん。受け取り場所を変えた件で、実際に確認しておきたいことがあるんだ」
ルシアンは机の上の紙を眺めた。
「もう理由はわかったんじゃなかったのかい?」
「費用の理由はね。でも、同じことを繰り返さないためには、現場を見ておいた方がいい」
「ふうん……」
ルシアンは立ち上がった。
「なら、俺も行こうかな」
「剣の方は?」
「兄上が約束を守ってくれるなら問題ないよ」
「そこまで信用されていないのかな?」
「信用しているから待っているんじゃないか」
そう答えて扉へ向かうと、ヴィクトルは少し愉快そうに笑った。
二人は連れ立って執務室を出た。
廊下を歩いていると、使用人たちが次々と挨拶をしてくる。
ヴィクトルは一人一人に自然に応じていた。
急いでいる時でも、相手が声をかければ顔を向ける。
何か報告があれば耳を傾け、必要があれば短く指示を出す。
けれど、いつまでも引き止めるようなことはしなかった。
その様子を横目に見ながら、ルシアンはふと尋ねた。
「兄上は、いつもこんなに忙しいのかな?」
「日によるよ。今日は確認しておきたいことが重なっただけさ」
「全部自分で見ていたら、剣を握る暇がなくなりそうだね」
「だから、任せるところは任せているよ」
「そうなの?」
「一人でできることには限りがあるからね。私が何でもやろうとしたら、ほかの者が仕事を進められなくなってしまう」
ヴィクトルは歩きながら、庭先の方へ視線を向けた。
そこで大きな籠を抱えた使用人が、二人に気づいて道を空けようとしていた。
「そのままでいいよ。こちらが通れるから」
兄が軽く手を上げる。
使用人は恐縮しながらも、その言葉に従って歩き出した。
ルシアンも隣へ寄り、相手の邪魔にならないように通り過ぎる。
「なるほどね。兄上が全部やってしまったら、あの人たちの仕事まで奪ってしまうわけだ」
「場合によってはね」
「でも、任せた仕事が間違っていたら?」
「その時は、原因を確かめて直せばいい」
「それだけ?」
「もちろん、同じ失敗を繰り返さないようにはするよ。ただ、最初から何も任せなければ、誰も経験を積めないだろう?」
「……確かにね」
ルシアンは小さく頷いた。
自分ならどうするだろう。
剣の稽古なら、何度でも試せばいい。
失敗したなら、次は別の方法を試す。
しかし、屋敷の仕事は自分一人の問題ではない。
自分が間違えれば、誰かがその分を負担することもある。
それなら、間違えないことより、間違えた時にどうするかが大切なのかもしれない。
もっとも、そう考えること自体が少し面倒でもあった。
「兄上は、こういう仕事が嫌になったりしないのかい?」
「どうして?」
「俺なら、ずっと机に向かっているのは退屈しそうだからさ」
ヴィクトルは笑みを浮かべた。
「私も一日中机に座っていたいわけではないよ」
「それは安心した」
「ただ、自分が確かめたことが、誰かの役に立つのは悪くないものだよ」
ルシアンは兄を見上げた。
「……兄上らしい答えだね」
「そうかな?」
「うん。俺だったら、もっと面白いことを探しに行ってしまいそうだ」
「それも、お前らしいね」
二人は笑い合った。
やがて、補修中の倉が見えてきた。
入口の近くには作業に使う道具が寄せられ、床に落ちた木屑を使用人が掃き集めている。
少し離れた場所には、現在荷を受け取っている別の倉があった。
扉が大きく開かれ、その奥にはいくつもの包みが整然と置かれている。
ルシアンは二つの倉を見比べた。
紙の上では、受け取り場所の名称が一行変わっただけだった。
しかし、実際に目にすると、その違いは随分大きい。
荷物を持って歩けば、確かに余計な労力がかかる。
まして、一度下ろしたものを改めて運び直したのなら。
「……なるほど。こうして見ると、確かに手間が増えそうだね」
「そうだね」
「書類だけでは、ここまでわからなかったな」
ヴィクトルは頷き、倉の近くにいた家臣へ声をかけた。
「少しいいかな」
「ヴィクトル様。ルシアン様も。どうなさいましたか?」
「昨日の荷の受け取りについて、確認したいことがあるんだ」
「はい。何なりと」
家臣は手にしていた控えを閉じ、二人へ向き直った。
ヴィクトルは作業を妨げない場所へ移動してから話を始めた。
「受け取り場所を変えた知らせは、この倉には届いていたのだね?」
「はい。ただ、荷を下ろす者たちには伝わっておりませんでした」
「最初の倉へ運んでしまったのかな?」
ルシアンが口を挟む。
「その通りでございます。私が気づいた時には、すでに一部の荷が下ろされておりまして……」
家臣は申し訳なさそうに続けた。
「こちらから先に案内を出すべきでございました」
ルシアンは補修中の倉へ目を向けた。
確かに、そこへ運ばれてきた荷を見て、初めて来る者が別の場所へ向かうとは考えにくい。
「なら、入口に知らせを出しておけばいいんじゃないかな」
「入口に、でございますか?」
「うん。あちらは補修中で、今はこっちで受け取っているとわかるようにしておけば、迷わずに済むだろう?」
家臣は納得した様子で頷いた。
「確かに、それなら初めて来る者にもわかりやすいかと」
「そうだろう?」
ルシアンが満足げに笑う。
すると、傍らで聞いていたヴィクトルが穏やかに口を開いた。
「いい案だね、ルー。ただ、もう一つ考えておきたいことがあるかな」
「もう一つ?」
「荷を運んでいる者が、必ずその知らせを見るとは限らない。大きな荷を抱えていれば、入口の周りへ目を向ける余裕がないこともある」
「……ああ、そうか」
「だから、知らせを出すだけではなく、荷が来る時には案内する者からも声をかけてもらうといいね」
ヴィクトルは家臣へ向き直った。
「入口のどこへ知らせを出すかは、実際にここを使う者たちと相談して決めてくれるかな。出入りの邪魔にならない場所がいい」
「かしこまりました」
家臣は丁寧に頷いた。
ルシアンは二つの倉の入口を、改めて見比べた。
自分が考えた案は、間違っていたわけではない。
実際、家臣も良い案だと受け取っていた。
しかし長兄は、そこからさらに一歩先を考えている。
知らせを出す。
知らせを見る。
そして、知らせが届いたことを確かめる。
似ているようで、それぞれ違うことだった。
「……兄上」
「何だい?」
「俺は、目立つところに貼っておけば十分だと思っていたよ」
「それも大事なことだよ」
「でも、それだけでは足りないんだね」
「そういう場合もあるね。だから、実際に使う人たちに聞いてみるんだ」
ルシアンは頷いた。
家臣の手元には、先ほど自分が口にした案も書き留められていた。
兄が新しい指示を付け加えても、それが消されることはなかった。
自分の考えが、役に立たなかったわけではない。
そのことが、思いがけず嬉しかった。
「よし。それなら次は、もっと良い案を考えてみようかな」
「楽しみにしているよ」
「でも、先に兄上へ聞くのはやめておこう」
「なぜだい?」
「最初から答えを教えてもらったら、つまらないじゃないか」
ヴィクトルは小さく笑った。
「なるほど。では、次は少し黙っていることにしよう」
「うん。その方がいいね」
二人は家臣へ礼を告げ、来た道を戻り始めた。
柔らかな風が庭を通り抜け、足元の葉を揺らしていく。
ルシアンは長兄の隣を歩きながら、ふと口を開いた。
「ヴィク兄上」
「うん?」
「書類を見るのも、案外悪くないものだね」
「それは嬉しい感想だ」
「ただし、剣を振る方が好きなのは変わらないけどね」
「知っているよ」
「だから、午後の約束は忘れないでほしいな」
「大丈夫。ちゃんと覚えているよ」
ヴィクトルは微笑んだ。
その表情を見て、ルシアンも満足そうに笑った。
午前中、ただ剣の相手をしてもらおうと思って訪れたはずの執務室。
そこで過ごした時間は、思っていた以上に興味深いものになっていた。
何より、普段の稽古場とは違う場所で長兄の姿を見るのは、久しぶりのことだった。
それでもルシアンには、まだ一つ、楽しみが残っていた。
午後になれば、今度は剣を手にした兄と向き合える。
そう考えるだけで、自然と足取りが軽くなった。
◇
昼食の席に着く頃には、ルシアンの腹もすっかり空いていた。
広い食堂には家族が揃い、卓上には温かな料理が並べられている。
昨日帰ってきたばかりのマルタも、いつもと変わらぬ様子で給仕を手伝っていた。
その姿が目に入ると、ルシアンは自然と口元を緩めた。
息子の祝宴へ出席するために三日間の休暇を取っていた彼女は、昨日の夕方、無事に屋敷へ戻ってきた。
出迎えた時の穏やかな笑顔は、今もよく覚えている。
こうして普段通りに働いている姿を見ると、留守の間に感じていた小さな物足りなさも、すっかりなくなったようだった。
「ルー。午前中はヴィクと一緒だったそうだな」
席に着いたところで、父アルフォンスが声をかけてきた。
「はい、父上。少し仕事を見せてもらっていました」
「ほう。ヴィクの仕事をか?」
「ええ。最初は剣の相手をお願いしに行ったんですが、兄上の仕事がなかなか終わらなくてね」
ルシアンは長兄へ視線を向けた。
「随分と長い『少し』だったよ」
ヴィクトルは涼しい顔で微笑んだ。
「途中で帰っても構わなかったんだけれどね」
「途中で帰ったら、請求書の謎が解けないじゃないか」
「謎?」
隣に座っていたカシウスが、面白そうに身を乗り出した。
「何だ、ルー。今度は探偵でも始めたのか?」
「そういうわけじゃないよ。運搬費が増えていた理由を調べていただけさ」
「……お前が?」
「何かおかしいかな?」
「いや、別に。ただ、朝からお前の姿が見えないと思ったら、そんなことをしていたとはな」
カシウスは笑いながら続けた。
「てっきり、どこかで剣を振っているものだと思っていたぞ」
「俺だって、たまには違うこともするよ」
「たまには、な」
「カイ兄上。そこは余計じゃないかな」
ルシアンがわざと不満そうな顔をすると、カシウスは声を上げて笑った。
向かいに座るエレオノーラも、そんな二人を微笑ましそうに眺めている。
「それで、ルー。ヴィクのお仕事はどうだったの?」
母に尋ねられ、ルシアンは少し考えてから答えた。
「思っていたより面白かったですよ、母上」
「あら、そうなの?」
「ええ。最初は金額が違うだけの書類だと思っていたんですけど、調べてみると色々な事情があってね」
ルシアンは午前中に起こったことを簡単に説明した。
倉の補修によって受け取り場所が変わったこと。
連絡が行き届かず、一度下ろした荷を運び直すことになったこと。
そして、その追加作業が費用の増加につながっていたこと。
アルフォンスは静かに耳を傾けていた。
「なるほどな」
話を聞き終えると、父は満足そうに頷いた。
「良い経験をしたようだな、ルー」
「はい。兄上の仕事も、見ているとなかなか勉強になりますね」
「ヴィクはよくやってくれている。私としても助かっているよ」
アルフォンスは長男へ目を向けた。
「書類は届いている。午後に確認しよう」
「ありがとうございます、父上。追加の作業についても、確認を取ってあります」
「うむ」
短いやり取りだった。
しかしルシアンは、そこに少し興味を引かれた。
午前中、あれほど時間をかけて調べたことが、父と長兄の間ではほんの数言で片づいている。
それは、手を抜いているからではない。
必要なことがすでに確かめられ、説明できる形になっているからだ。
何も知らないまま短く済ませるのと、すべてを把握した上で簡潔に伝えるのとでは、まるで意味が違う。
ルシアンは料理を口へ運びながら、そんなことを考えた。
「それで?」
カシウスの声に顔を向ける。
「剣の方はどうなったんだ?」
「ああ、それなら午後からさ」
「ヴィク兄上と?」
「うん。約束は取りつけてあるよ」
「それは楽しそうだな」
カシウスは笑みを浮かべた。
「俺も見に行こうかな」
「構わないよ。ただ、俺の邪魔はしないでほしいな」
「するわけないだろ」
「カイ兄上の場合、面白くなって途中で混ざってきそうだからね」
「お前が望むなら、そうしてやってもいいぞ?」
「今日はヴィク兄上と稽古するんだ。カイ兄上はまた今度ね」
「何だ、つれないな」
口ではそう言いながら、カシウスは楽しそうだった。
エレオノーラが柔らかく笑う。
「二人とも、午後はあまり無理をしないようにね」
「わかっていますよ、母上」
ルシアンは素直に頷いた。
すると、向かいのヴィクトルが何気なく口を開いた。
「それなら、昼食もほどほどにしておいた方がいいかもしれないね」
「……どうして?」
「食べすぎると、身体が動きにくくなるからね」
その視線は、ルシアンの皿へ向いていた。
ちょうど追加の料理を頼もうと考えていたところである。
ルシアンはわずかに眉を寄せた。
「ヴィク兄上。ひょっとして、俺の考えていることがわかるのかい?」
「長い付き合いだからね」
ヴィクトルは笑った。
そのやり取りを聞いていたマルタが、そっと声をかける。
「ルシアン様。お料理のお代わりは、いかがなさいますか?」
「……少しだけお願いしようかな」
「かしこまりました」
「ただし、マルタ。今度こそ本当に少しでいいよ」
ルシアンは長兄を横目で見た。
「兄上の『少し』とは違うからね」
その瞬間、カシウスが堪えきれずに吹き出した。
ヴィクトルも肩を揺らし、エレオノーラは口元へ手を添えて微笑む。
アルフォンスまで、楽しげに目を細めていた。
食堂に家族の笑い声が広がる。
ルシアンはそんな光景を眺めながら、満足そうに料理を口へ運んだ。
ヴァルクレスト家の食卓は、いつもこうだった。
それぞれの立場や役割が違っていても、この場所では一人の父、一人の母、そして三人の兄弟として過ごす。
ルシアンにとって、それは何より自然で、心地よい時間だった。
◇
午後。
庭に面した稽古場へ、乾いた風が吹き込んでいた。
よく手入れされた床の上で、ルシアンは一本の木剣を握っていた。
軽く振り、握りを確かめる。
腕を伸ばし、肩を回し、足の位置を整える。
朝の稽古で身体は十分に動かしているが、相手が相手だけに、準備を疎かにするつもりはなかった。
少し離れた場所では、ヴィクトルが上着を脱ぎ、袖口を整えていた。
書類を扱っていた時とは違う、動きやすい服装だ。
その姿には、机に向かっていた時の穏やかさとは別の、引き締まった雰囲気が漂っていた。
「待たせたね、ルー」
「本当だよ。ずいぶん待ったんだから、今日はたっぷり付き合ってもらうよ」
「もちろん。そのつもりさ」
ヴィクトルは木剣を手に取り、ゆっくりとルシアンへ向き直った。
その動作を見た瞬間、ルシアンの表情が変わる。
先ほどまで浮かべていた笑みが、少しだけ鋭くなった。
ヴィクトル・ヴァルクレスト。
ヴァルクレスト家の長男であり、公爵家の公務を支える優秀な人物。
政治、財政、外交、統治。
そうした分野で優れた才能を持つことは、屋敷の誰もが知っていた。
だが、その才覚は執務に限ったものではない。
剣を握ったヴィクトルは、歴代の当主たちと比較しても遜色のない実力を持つ、一流の武人でもあった。
ルシアンも、それをよく知っている。
幼い頃から何度も兄の剣を見てきた。
実際に打ち合ったことも、一度や二度ではない。
だからこそ、目の前の相手がどれほど厄介なのか、誰よりも理解していた。
「今日は、どこまでやるつもりかな?」
ヴィクトルが尋ねる。
ルシアンは木剣を肩の高さに持ち上げた。
「兄上が満足するまで、と言いたいところだけど」
「けれど?」
「俺が満足するまで、かな」
「それは長くなりそうだね」
「覚悟しておいてほしいな」
二人は笑みを交わした。
しかし次の瞬間、その場の空気が静かに張り詰めた。
ヴィクトルが構える。
ただ、それだけだった。
大きな動作はない。
剣先を必要な位置へ置き、足を自然に開く。
肩にも肘にも余計な力は入っていなかった。
だというのに、そこへ踏み込もうとすれば、たちまち刃が届きそうな気配がある。
ルシアンは小さく息を吐いた。
やはり、簡単にはいかない。
長兄の剣は、カシウスのそれとは違う。
カシウスは剣そのものを深く理解し、凄まじい技量で相手を圧倒する。
一度動き始めれば、次々に繰り出される斬撃が相手の選択肢を奪っていく。
一方のヴィクトルは、相手の動きを丁寧に読み、その時々に最も適した手を選んでくる。
どちらも極めて高い剣術の域に達している。
だが、その剣が持つ性格は異なっていた。
「では、始めようか」
「うん。よろしく頼むよ、ヴィク兄上」
ルシアンは一歩を踏み出した。
まずは間合いを測る。
剣先をわずかに動かし、相手の反応を見る。
ヴィクトルは動かない。
いや、正確には、必要以上に動かない。
ルシアンが半歩進めば、その距離に応じて剣先の位置が変わる。
しかし、攻撃を仕掛けてくる気配はなかった。
待っている。
そう判断したルシアンは、少しだけ口元を緩めた。
「……誘っているんだね」
ヴィクトルは答えなかった。
ただ、穏やかに微笑んでいる。
それが余計に腹立たしい。
ルシアンは踏み込んだ。
床を蹴り、一気に距離を詰める。
木剣が鋭く振り下ろされた。
乾いた音が響く。
ヴィクトルの剣が、正確にそれを受け止めていた。
ルシアンは止まらない。
受けられた木剣を滑らせ、角度を変える。
上からの斬撃を胴へ回し、空いた場所へ刃を走らせる。
だが、その瞬間。
ヴィクトルの足が、わずかに動いた。
ほんの半歩にも満たない移動。
それだけで、ルシアンが狙った場所は遠ざかっていた。
追うか。
それとも引くか。
判断するより早く、身体が危険を察した。
追えば崩される。
ルシアンは踏み込みを止め、剣を引いた。
しかし。
「一本」
軽い音とともに、ヴィクトルの木剣がルシアンの前腕へ触れた。
「……っ」
ルシアンは一歩退き、自分の腕へ視線を落とした。
痛みは大したことがない。
稽古であることを踏まえ、長兄が正確に力を抑えたのだろう。
しかし、それがかえって悔しかった。
あの一瞬で、確実に腕を捉えられた。
「今のは、最初から腕を狙っていたのかな?」
ルシアンが尋ねる。
「いいや。途中で変えたよ」
「途中で?」
「お前が追って来なかったところでね」
ルシアンは眉を寄せた。
つまり、追っていれば別の攻撃が待っていたということだ。
踏み込めば、その先を狙われる。
止まれば、止まった場所を攻められる。
「……相変わらず、面倒な剣だね」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「もちろん、褒めているんだよ」
ルシアンは木剣を握り直した。
「ただし、次はもう少し手を焼かせたいな」
「楽しみにしているよ」
再び二人が構える。
今度のルシアンは、すぐには踏み込まなかった。
長兄の剣先を観察しながら、小さく足を動かす。
ヴィクトルも、それに応じて位置を変える。
どちらも大きくは動かない。
しかし、静かな間合いの中では、わずかな重心の変化さえ意味を持っていた。
ルシアンは考える。
長兄は、自分がどう動くかをよく見ている。
それなら、見せた動きとは違う場所へ足を置けばいい。
先ほどと似た角度で剣を振る。
木剣がぶつかる。
今度は力を抜かず、少しだけ押し込んだ。
ヴィクトルの刃が応じる。
その瞬間、ルシアンは足をずらした。
先ほどとは違う位置。
そこへ体重を移し、剣の角度を変える。
ヴィクトルの目がわずかに細くなった。
次の瞬間。
重い。
兄の打ち込みが、先ほどより明確に強くなった。
ルシアンは腰を落とし、足元から力を支える。
木剣同士が軋む。
押し負けるつもりはない。
しかし、相手の力を受け止めることに意識を向けた瞬間、ヴィクトルの剣が離れた。
「……!」
支えていた力の行き場がなくなる。
ルシアンは咄嗟に身体を引いた。
だが、長兄の剣先はすでに胸元へ迫っている。
速い。
そう感じた時には、木剣を立てていた。
間へ差し込み、迫る切っ先を逸らす。
乾いた摩擦音が耳元で響く。
そして。
ルシアンの木剣が、ヴィクトルの袖を掠めた。
届いた。
ほんのわずかではあるが、確かに届いた。
ルシアンの口元が吊り上がる。
しかし、その笑みはすぐに止まった。
ヴィクトルの左手が、ルシアンの手首を押さえていた。
足が動く。
視界が傾く。
剣を持つ腕の自由を奪われ、身体の均衡が崩される。
ルシアンは咄嗟に踏み止まったものの、そこから先へは動けなかった。
「ここまで」
ヴィクトルが手を離した。
ルシアンは一歩退き、深く息を吐く。
「……惜しかったんだけどな」
「そうだね。良い動きだったよ」
「兄上の袖に触れただけじゃ、満足できないよ」
「それでも、先ほどとは違う攻め方だった」
ヴィクトルは自分の袖を見下ろした。
「足の置き方を変えたね」
「同じことをしても、兄上は通してくれないだろう?」
「そうだね」
「なら、変えるしかないじゃないか」
ヴィクトルは嬉しそうに微笑んだ。
「その通りだよ」
その時だった。
「ははっ! 今のは惜しかったな、ルー!」
稽古場の端から、聞き慣れた声が響いた。
二人が振り向くと、柱へ肩を預けたカシウスが立っていた。
いつから見ていたのか、楽しそうに笑っている。
「カイ兄上。いつからいたんだい?」
「お前が二度目に踏み込む少し前からだ」
「見ていたなら、声をかけてくれればよかったのに」
「面白そうだったからな。邪魔するのも野暮だろ?」
カシウスは近づき、ルシアンの木剣へ目を向けた。
「それにしても、あそこでよく剣を戻したな」
「戻さなかったら、胸を取られていたからね」
「そうだな。あの判断は悪くなかった」
「でも結局、手首を取られたんだよ」
カシウスは肩を竦めた。
「相手がヴィク兄上なんだから、そう簡単にはいかないさ」
あっさりとした言葉だった。
だが、その声には確かな信頼があった。
カシウスは、長兄の強さをよく知っている。
互いに剣を交え、鍛錬を重ねてきたのだから当然だった。
ヴァルクレスト家の兄弟たちは、それぞれに優れた才能を持っていた。
しかし、その才能を理由に相手を軽んじることはない。
むしろ、互いの優れた部分を誰よりも理解していた。
「カイ兄上なら、今のはどうする?」
ルシアンが尋ねる。
「俺か?」
「うん。兄上なら、あそこからどう攻めるのかな」
カシウスは少し考えた。
「そうだな……俺なら、あそこで引かない」
「引かない?」
「ああ。押し込むと決めたなら、そのまま最後まで出る」
そう言って、カシウスは足を一歩動かした。
「もちろん、ただ力任せに押すわけじゃない。相手の剣がどこへ逃げるかを見て、そこへ続けるんだ」
「なるほど」
ルシアンは足元へ視線を落とした。
「でも、ヴィク兄上なら、それも読んでくるだろう?」
「当然だな」
カシウスは笑った。
「だから面白いんじゃないか」
ルシアンも思わず笑みを浮かべる。
いかにもカシウスらしい答えだった。
一方、ヴィクトルは穏やかに口を開いた。
「カイの言う通り、押し込むのも一つの方法だね。ただ、どこまで踏み込めるかは考えておいた方がいい」
「うん」
「お前は途中で剣を戻せた。それは悪い判断ではなかったよ」
ヴィクトルは木剣を軽く持ち上げた。
「ただ、その時に自分の足元が少し狭くなっていたね」
「足元が?」
「そう。剣を引いた時、身体も少し後ろへ残っていた」
ルシアンは先ほどの動きを思い返した。
確かに、胸元へ迫る剣を避けることに意識が向いていた。
足の位置まで、十分に考えられてはいなかったかもしれない。
「……なるほどね」
ルシアンは小さく頷いた。
そして、再び長兄へ向き直る。
「ヴィク兄上」
「何かな?」
「もう一度お願いできるかな」
「もちろん」
「今度は、さっきとは違う攻め方を試したいんだ」
ヴィクトルは笑みを浮かべた。
「楽しみにしているよ」
二人が再び構える。
ルシアンは、正面から長兄を見据えた。
先ほどまでと同じ間合い。
同じような構え。
しかし、考えていることは違っていた。
ヴィクトルは相手の動きを見て、最も適した手を選ぶ。
それなら、自分も途中で変えればいい。
最初から一つの攻撃に固執しなければいいのだ。
ルシアンは床を蹴った。
剣先を高く見せる。
ヴィクトルの剣が応じる。
その瞬間、足を軸に刃の向きを変えた。
胴へ回す。
だが、長兄の手元が下がったのを見て、すぐに押し込むのをやめた。
触れた木剣を滑らせ、身体を横へ移す。
ヴィクトルの刃が追ってきた。
ルシアンは半歩ずらして、それをかわす。
木剣がぶつかった。
一度目。
受けられる。
二度目。
逸らされる。
三度目。
今度こそ、と剣を返した瞬間。
長兄の剣先が、自分の手元へ向いていることに気づいた。
同じように振り続ければ、確実に取られる。
ルシアンは咄嗟に剣を引いた。
しかし、その動きに合わせてヴィクトルが踏み込んでくる。
距離が近い。
先ほどと同じだ。
今度は手首を取られまいと、ルシアンは木剣の柄を身体へ寄せた。
兄の左手が伸びる。
その手を避ける。
成功した。
だが。
「……っ」
胸元で、木剣の切っ先が止まっていた。
ヴィクトルの剣だった。
ルシアンはしばらくそれを見つめ、それから大きく息を吐いた。
「……そっちが来るのか」
「手を取られるのは嫌だったようだね」
「一度で十分さ。さすがに同じことを何度もされるのは悔しいからね」
「そのおかげで、こちらも変えなければならなかったよ」
ヴィクトルは剣を引いた。
ルシアンは胸元へ視線を落とした。
手首を守ることはできた。
しかし、その瞬間に剣への注意が薄れてしまった。
一つの攻撃を避けることに意識を向けると、別の攻撃が見えなくなる。
長兄は、そこを正確に突いてきたのだ。
「……難しいなあ」
思わず呟く。
すると、ヴィクトルが少し意外そうな顔をした。
「珍しいね。お前がそんなことを言うなんて」
「難しいものは難しいよ、兄上」
ルシアンは肩を竦めた。
「でも、つまらないとは言っていないだろう?」
ヴィクトルが笑う。
「確かにね」
「むしろ、どんどん面白くなってきたところさ」
ルシアンの表情には、すでに悔しさよりも楽しさが勝っていた。
剣を交えるたびに、新しい発見がある。
自分が考えていた攻め方を崩される。
崩された理由を知り、次の手を考える。
そうして少しずつ、今まで見えなかったものが見えてくる。
ルシアンは、そういう時間が好きだった。
「ヴィク兄上。もう一つ、聞いてもいいかな」
「何だい?」
「兄上は、俺がどう動くか、最初からわかっているの?」
ヴィクトルは静かに首を振った。
「すべてがわかるわけではないよ」
「そうなの?」
「もちろん。お前の動きには、私が予想していなかったものもある」
「へえ。それは嬉しいね」
「ただ、その動きを見た後で、どう対処するかを考えているんだ」
ルシアンは少し目を細めた。
「見てから、考える……」
「そう。相手が何をするか決めつけすぎると、違う動きをされた時に対応が遅れることもあるからね」
「……なるほど」
ルシアンは自分の木剣を見下ろした。
さっきの自分は、兄の左手を避けようとしていた。
だから、その先に来る剣を見落とした。
あらかじめ考えることは大切だ。
しかし、決めつけてしまえば、そこから外れた動きに遅れる。
剣術は、ただ技を繰り返すだけではない。
相手がいる。
相手も考え、動き、変わっていく。
そのすべてに応じて、自分も変わらなければならない。
「……面白いね」
ルシアンが呟く。
「何がだい?」
「ヴィク兄上の剣だよ」
顔を上げる。
「午前中、兄上が書類を調べているところを見ていたんだけどね」
「うん」
「今の剣と、少し似ている気がするんだ」
ヴィクトルは静かに弟を見つめた。
ルシアンは続ける。
「請求書を見た時も、兄上は最初から答えを決めなかっただろう? 理由を確かめてから、どうするか考えていた」
「そうだね」
「剣も同じなんだ。俺がどう動くかを見て、それに合わせて変えてくる」
ルシアンは木剣を軽く持ち上げた。
「兄上らしい剣だと思ったよ」
一瞬、ヴィクトルが目を丸くした。
それから、ゆっくりと微笑む。
「……そう言われたのは初めてだね」
「そうなの?」
「うん。でも、悪くない言葉だ」
「ならよかった」
ルシアンは楽しそうに笑った。
その様子を見ていたカシウスが、腕を組んだまま口を開いた。
「それにしても、お前は本当に剣が好きだな、ルー」
「今さら何を言っているんだい?」
「いや、改めてそう思っただけだ」
カシウスは笑みを浮かべた。
「剣を振っている時のお前は、いつも楽しそうだからな」
「カイ兄上だって同じだろう?」
「まあな」
「それに、兄上たちが強いからね。打ち合っていて飽きないんだよ」
あまりに自然な言葉だった。
ヴィクトルとカシウスは、一瞬だけ顔を見合わせる。
そして、どちらからともなく笑った。
「それは光栄だね」
ヴィクトルが言う。
カシウスも頷いた。
「ああ。そう言われると、ますます負けられないな」
「俺も、いつまでも負けているつもりはないよ」
ルシアンは木剣を構え直した。
瞳には、まだ十分な闘志が宿っている。
「さあ、ヴィク兄上。もう一本お願いできるかな?」
「もちろん」
ヴィクトルも剣を上げた。
「ただし、そろそろ疲れているだろう? 動きが鈍くなったら休憩にしよう」
「わかっているよ」
ルシアンは不敵に笑った。
「でも、その前に一度くらいは驚かせたいな」
「期待しているよ」
そして再び、木剣の音が稽古場へ響き始めた。
それからもしばらく、二人は剣を交え続けた。
ルシアンは攻め方を変え、足の運びを変え、時には思い切って間合いを詰めた。
ヴィクトルはその一つ一つに応じ、弟の攻撃を受け、逸らし、時には先を取った。
ルシアンの剣が長兄を捉えることは、結局なかった。
それでも、ただ一方的に打ち込んでは止められるだけの稽古ではない。
何度も試し、何度も失敗し、そのたびに新しい工夫を重ねた。
ヴィクトルもまた、弟の変化を楽しむように剣を振っていた。
時折、カシウスが鋭い指摘を加える。
それを聞いたルシアンが、また新しい動きを試す。
稽古場には何度も木剣の音が響き、その間に兄弟たちの笑い声が混じった。
やがて、ヴィクトルが剣を下ろした。
「今日はここまでにしようか」
ルシアンも肩で息をしながら、木剣を下げた。
「……もう少し、やりたかったんだけどな」
「今日は十分に動いただろう?」
「そうだけどね」
ルシアンは自分の腕を見下ろした。
握っていた指を開閉する。
まだ動く。
しかし、先ほどまでと同じ精度で剣を振れるかと問われれば、少し怪しかった。
疲労が蓄積している。
長兄が稽古を終えると判断した理由も、よくわかった。
「……仕方ないね。今日はここまでにしておこうかな」
「賢明な判断だ」
ヴィクトルは微笑んだ。
カシウスが近づき、ルシアンの肩を軽く叩く。
「よく動いたな、ルー」
「カイ兄上が横から色々言うからね。試したくなってしまったんだよ」
「それは俺のせいか?」
「少しはね」
二人は笑い合った。
ルシアンは木剣を片づけながら、先ほどの打ち合いを思い返していた。
あの一歩。
あの切り返し。
あそこで、あと少し違う動きができていれば。
そんな考えが次々に浮かぶ。
しかし、後悔ばかりではなかった。
今日は、長兄の剣から多くのものを学べた。
それだけでも十分に価値のある時間だった。
◇
稽古場の端へ移動すると、マルタが柔らかな布を差し出してきた。
「ルシアン様。お疲れ様でございました」
「ありがとう、マルタ」
ルシアンは布を受け取り、額の汗を拭った。
「今日は随分と熱心でいらっしゃいましたね」
「うん。午前中に待った分、たっぷり付き合ってもらったからね」
「お待ちになっていた間も、退屈はなさらなかったと伺いましたけれど」
マルタの言葉に、ルシアンは顔を上げた。
そして、隣にいる長兄を見る。
「……ヴィク兄上?」
「何かな?」
「ひょっとして、マルタに午前中のことを話したのかい?」
「ルーが書類を見てくれた、と少しね」
「俺はちょっと覗いただけだよ。仕事を片づけたのは兄上じゃないか」
「でも、受け取り場所の違いに気づいたのはお前だろう?」
「それはそうだけど」
ヴィクトルは微笑んだ。
「良いところを見せられて、兄としても嬉しかったんだよ」
そう言われると、ルシアンも反論しにくい。
少し困ったように笑い、肩を竦めた。
「……兄上は、そういうところがずるいね」
「褒め言葉かな?」
「どうだろうね」
そんな二人のやり取りを見て、マルタが嬉しそうに目を細めた。
ルシアンはその笑顔を見つめる。
幼い頃から、何度も見てきた表情だった。
自分が何かを覚えた時。
新しいことができるようになった時。
あるいは、ただ無事に帰ってきた時でさえ。
マルタは、いつも自分のことのように喜んでくれた。
ルシアンは布を畳み、彼女へ返した。
「ありがとう、マルタ。お茶もお願いできるかな?」
「かしこまりました」
「それと、君の分も忘れずにね」
マルタが瞬きをする。
「私の分も、でございますか?」
「もちろん。一緒に飲もう。ちょうど休憩するところなんだから」
古参の侍女は一瞬だけ驚いたような顔をした。
しかしすぐに、いつもの柔らかな笑みを浮かべる。
「ありがとうございます、ルシアン様」
「うん。楽しみにしているよ」
マルタが茶の準備へ向かうと、カシウスが隣へやって来た。
「なあ、ルー」
「何だい、カイ兄上?」
「明日は俺のところへ来いよ」
「明日?」
「ああ。今日はヴィク兄上に取られたからな」
ルシアンは思わず笑った。
「俺はいつから、兄上たちの取り合いになったんだい?」
「嫌なのか?」
「まさか」
ルシアンは即答した。
「むしろ嬉しいくらいさ」
カシウスが満足そうに笑う。
「なら決まりだな」
「うん。楽しみにしているよ、カイ兄上」
「今日の動きも悪くなかったが、まだ色々試せそうだったからな」
「俺もそう思うよ」
ルシアンは自分の掌を開き、もう一度握った。
「今日ヴィク兄上から教わったことも、もう少し試してみたいんだ」
「いいじゃないか」
カシウスは楽しそうに頷いた。
「ただし、明日は俺の剣に付き合ってもらうぞ」
「望むところだよ」
その返事を聞いて、カシウスは笑った。
ルシアンも笑みを浮かべる。
明日は、また違った稽古ができる。
そう思うと、疲れていたはずの身体が少し軽くなった気がした。
「それにしても、今日はよく動いたな」
カシウスが椅子へ腰を下ろしながら言う。
「明日になって腕が上がらない、なんて言うなよ?」
「その時は、カイ兄上に剣を持ってもらおうかな」
「それでどうやって打ち込むんだ?」
「そこまで任せたら、俺の稽古じゃなくなってしまうね」
「わかってるなら、自分で持て」
二人は声を上げて笑った。
ヴィクトルも近くの椅子へ腰を下ろし、そんな弟たちを穏やかに眺めていた。
ルシアンはふと、長兄の手へ視線を向けた。
机の上で書類を揃えていた手。
筆記具を持ち、数字を確かめていた指先。
その同じ手が、午後には木剣を握っていた。
そして、自分の一つ一つの動きに応じ、正確に刃を運んでいた。
公務にも、剣術にも優れている。
そのことは以前から知っていた。
しかし、今日ほどその両方を近くで見たことは、あまりなかったかもしれない。
ヴィクトルはどちらの場面でも、驚くほど自然だった。
難しいことをしているように見せようとはしない。
自分の優秀さを誇示しようともしない。
ただ、必要なものを確かめ、必要なことをする。
その姿勢が、公務にも剣にも表れている。
「……ヴィク兄上」
ルシアンが声をかける。
「うん?」
「今日はありがとう」
ヴィクトルは少し目を丸くした。
「どうしたんだい、急に」
「別に。お礼くらい言ってもいいだろう?」
「もちろん」
ヴィクトルは穏やかに笑った。
「こちらこそ、楽しかったよ」
「そう?」
「うん。お前は毎回、違うことを試してくるからね」
「同じことばかりしていたら、兄上には勝てないだろう?」
「そうだね」
「だから、次はもっと驚かせてみせるよ」
「楽しみにしている」
その言葉は、決して社交辞令ではなかった。
ヴィクトルは本当に楽しみにしているのだろう。
弟が成長することを。
新しいことを覚え、より強くなることを。
ルシアンには、それがよくわかった。
「……やっぱり、兄上たちはいいなあ」
何気なく呟いた言葉に、ヴィクトルとカシウスが顔を向ける。
「何だ、急に」
カシウスが尋ねた。
「いや。二人とも強いし、色々教えてくれるしね」
ルシアンは笑った。
「俺は恵まれているな、と思っただけさ」
一瞬、二人の兄が黙った。
そして。
「……まったく」
カシウスが照れ隠しのように笑い、ルシアンの頭を軽く撫でた。
「そういうことを、さらっと言うんじゃない」
「本当のことだろう?」
「それでもだ」
ヴィクトルも微笑んでいた。
「私たちも、お前が弟でよかったと思っているよ」
ルシアンは少しだけ目を細める。
「……それは嬉しいね」
そう言って、素直に笑った。
その時、廊下の方から足音が近づいてきた。
「お待たせいたしました」
マルタが盆を手に戻ってくる。
盆の上には茶器と菓子が並んでいた。
ルシアンはすぐに席を少しずらし、卓の上を空けた。
「ありがとう、マルタ」
「いいえ。皆様、お疲れ様でございました」
マルタが丁寧に茶器を並べていく。
温かな茶の香りが、稽古場の一角へゆっくりと広がった。
菓子の皿を見たカシウスが、嬉しそうに声を上げる。
「おっ。これは母上のところにもあったな」
「はい。奥様から、こちらにもお持ちするようにと」
「母上らしいね」
ルシアンは微笑んだ。
昼食の時、エレオノーラは休憩を忘れないようにと言っていた。
どうやら、本当に忘れないようにしてくれたらしい。
「それなら、きちんと休んでいたと母上に伝えておいてくれるかな」
「かしこまりました」
「兄上たちも一緒だった、とね」
マルタが柔らかく微笑む。
「ええ。皆様のご様子も、お伝えいたします」
「……それは、ちょっと恥ずかしい気もするけどね」
ルシアンがそう言うと、カシウスが笑った。
「今さらだろ。母上は何でも知ってるぞ」
「それもそうだね」
ルシアンは笑みを浮かべ、茶器へ手を伸ばした。
温かな茶を一口飲む。
稽古で疲れた身体へ、ゆっくりと熱が染み渡っていく。
窓の外では、午後の日差しが庭を照らしていた。
草木が風に揺れ、遠くから小鳥の声が聞こえる。
目の前には二人の兄がいる。
そして、幼い頃から変わらず自分を見守ってくれているマルタ。
穏やかな時間だった。
やがて、近くにいた使用人がヴィクトルへ声をかけた。
「ヴィクトル様。先ほどの請求書の件ですが、旦那様のご確認が済みました」
「ありがとう」
ヴィクトルは差し出された控えを受け取った。
ルシアンは茶器を置いて顔を上げた。
「父上は何と?」
「手を借りた分は、きちんと支払うように、と」
「当然だね。二度も運んでもらったんだから」
「そうだね」
ヴィクトルは微笑んだ。
そして書類を軽く揃え、傍らへ置こうとする。
その時、ルシアンが手を差し出した。
「ヴィク兄上」
「うん?」
「それ、今借りてもいいかな?」
ヴィクトルは少し意外そうに瞬きをした。
「もう読むのかい?」
「うん。せっかくだからね」
ルシアンは笑みを浮かべた。
「お茶を飲みながら、もう一度読んでみようと思って」
ヴィクトルは穏やかに笑い、控えの中から必要な書類だけを抜き出した。
朝に見ていた請求書。
見積もり。
追加作業を確認した伝票。
そして、長兄が書き添えた説明。
「では、これを。残りは別の仕事のものだからね」
「ありがとう、ヴィク兄上」
ルシアンは書類を受け取った。
朝に見た時と、文字は何も変わっていない。
金額も同じ。
品名も数量も、そのままだ。
しかし今なら、その数字が何を意味しているのか理解できる。
一度荷を下ろした場所。
そこから別の倉へ運び直した人たち。
変更が伝わらなかった理由。
そして、その仕事に対して支払われる費用。
紙の上の数字には、それぞれ意味があった。
ルシアンは書類の端を揃え、最初の行へ視線を落とした。
すると、隣からヴィクトルが声をかける。
「何かわからないところがあったら聞いてくれていいよ」
「うん。でも、まずは自分で読んでみるよ」
「そうかい?」
「兄上に全部聞いてからでは、面白くないからね」
ヴィクトルは満足そうに頷いた。
「わかった。では、読んでみるといい」
ルシアンは再び書類へ目を戻した。
朝と違い、今はそれほど難しく感じない。
もちろん、すべてを理解できるわけではない。
まだ知らないことも多いだろう。
しかし、それで構わなかった。
知らないことがあるなら、知ればいい。
わからないことがあるなら、調べればいい。
剣の稽古と、少し似ている。
できないことを見つけ、次にどうすればよいか考える。
そして、もう一度試す。
そうして自分のものにしていけばいい。
ルシアンは、ふと長兄の横顔を見た。
ヴィクトルはカシウスの話を聞きながら、穏やかに笑っている。
机に向かっていた時も。
倉で家臣と話していた時も。
稽古場で剣を握っていた時も。
兄の姿は、どこか変わらなかった。
相手をよく見て、話を聞き、必要なことを考える。
そして、自分で決めたことに責任を持つ。
それが、ヴィクトルという人間なのだろう。
長兄の背中は、幼い頃からずっと見てきた。
遠くに感じる時もあった。
追いかけたいと思うこともあった。
だが今日、その背中が少しだけ違って見えた。
遠ざかったわけではない。
かといって、急に近づいたわけでもない。
ただ、今まで気づかなかったものが、少し見えるようになったのだ。
「……ふふっ」
思わず笑みが零れる。
「どうした、ルー?」
カシウスが尋ねた。
「いや、何でもないよ」
ルシアンは書類をそっと置き、茶器へ手を伸ばした。
「ただ、今日はいい一日だったなと思ってね」
ヴィクトルが微笑んだ。
「まだ日は暮れていないよ」
「そうだね」
ルシアンは楽しそうに笑った。
「でも、もう十分に楽しかったよ」
そう答えると、カシウスが肩を竦めた。
「なら、明日はもっと楽しくしてやるさ」
「期待しているよ、カイ兄上」
「任せとけ」
次兄の自信に満ちた返事に、ルシアンは声を上げて笑った。
ヴィクトルも笑い、マルタが柔らかく目を細める。
庭から入ってきた風が、卓の端に置かれた書類をかすかに揺らした。
ルシアンはその紙へ手を添える。
そして、もう一度だけ長兄を見た。
今日のことは、きっと忘れないだろう。
難しい請求書も。
倉で交わした会話も。
何度も受け止められた木剣も。
そのすべてが、ルシアンにとって大切な一日の出来事だった。
今はまだ、兄には届かない。
剣でも、経験でも、知識でも。
だが、それを悔しいとは思わなかった。
むしろ、楽しみだった。
自分の知らないことが、これほどたくさんある。
これから学べることが、まだまだ残っている。
そして何より、それを教えてくれる家族が、すぐ傍にいる。
ルシアンは茶を飲み干し、満足そうに微笑んだ。
ヴァルクレスト公爵家の午後は、今日も穏やかに過ぎていく。
温かな陽だまりの中で、三兄弟の楽しげな声が、いつまでも響いていた。