HUNTER×HUNTER ―紅き公爵の剣譚― 作:アトレトル
第4話 剣に生きる兄
朝の光が床を横切る前から、稽古場には足音がしていた。
戸を開けたルシアンは、中央にいる次兄を見つけた。カシウスは振り下ろした模擬剣を途中で止め、踏み込んだ足を戻している。急いでいるようには見えない。だが、次に構えが整うまでの間に、余計な動きは一つもなかった。
「おはよう、カイ兄上。俺を呼んでおいて、先に楽しんでいたのかな」
「おはよう、ルー。呼ばなくても来ただろう?」
「兄上がいなければ、探しに行くところだったよ」
ルシアンが答えると、カシウスは壁際の台へ顎を向けた。同じ種類の模擬剣が、二本揃えてある。次兄が手にしているものは、身体を温めるための別の一本だった。
「昨日は、ヴィクトル兄上に付き合ってもらったんだってな」
「ええ。自分の代わりに、札を狙われたんだ。俺の肩なら取れないから、ずいぶん可愛らしい相手を選んだものだね」
「その札は、守れたのか?」
「次は守るよ」
次兄は声を立てて笑った。ルシアンも悪びれず、台の剣を持ち上げる。握りの太さ、重みの寄り方を確かめ、それからもう一本と並べて見た。カシウスは弟が残した方を取り、軽く振る。
「今日は、何を守るのかな」
「まずは、自分でいい。剣だけでやろう」
「念を使わずに?」
「そうだ。強化もなし。俺の刃も使わない。周をかけた剣をどう捌くかは、また別にする」
ルシアンは、次兄の剣先を見た。
目に見えない刃が伸びることも、オーラの強弱で受ける位置が変わることもない。同じ種類の剣を、二人が自分の手で動かす。条件はわかりやすかった。そして、その条件で誰が強いかも、弟はよく知っていた。
「では、今日は言い訳を考えなくて済むね」
「負けた時のか?」
「兄上が、あとから念も使えばよかったと言い出さないか、心配したんだよ」
「言えるくらい、追い込んでみろ」
カシウスは笑いながら、台から離れた。その背を追うルシアンの足も軽い。長兄の稽古には、剣を避けた先に別の困りごとが待っていた。次兄の場合は、もっと近いところにある。こちらが剣を向けたその先に、もう兄の剣がいるのだ。
ルシアンは窓際で剣帯を外し、名のない実剣を台へ預けた。銀灰色の刀身は鞘に収まったまま、朝の稽古を待つ。今日はそれに頼る時間より、模擬剣を握る時間が長くなりそうだった。
床に転がっているものがないか確かめ、二人は離れて身体をほぐした。ルシアンが肩を回す間、カシウスは足を置く幅を変え、片足に寄せた重心を静かに移す。力を込めているようには見えないのに、足裏は床から離れなかった。
「この前より、返すのが速くなったな」
見ていたのを知られ、ルシアンは眉を上げた。
「俺は、まだ何も振っていないよ」
「剣を選ぶ時に、握り直しただろう。そのあとだ」
「そんなところまで見ているのかい?」
「見えるところは、見るさ」
当然のような返事だった。弟が少し変えた手の使い方を、カシウスは見落とさない。それは褒めて終えるためではなく、実際に向き合う剣が変わったことを喜ぶ声だった。
ルシアンは柄を握り直した。力を抜いた時の方が、次の向きへ早く返せる。身につけるまでには何度も試したが、それが次兄に気づかれたのは、たった一振りにも満たない時間だった。
「では、その続きも見てもらおうかな。見ているだけでは、済ませないつもりだけれど」
カシウスは中央へ出て、剣を構えた。ルシアンも向かい合う。念で剣や身体を強めることはせず、足の運びと、手にした一本で勝負する。
開始の合図を交わす直前、次兄の顔から笑いが消えた。不機嫌になったわけではない。視線が弟の剣と身体を捉え、それ以外へ流れなくなっただけだった。
ルシアンは、その顔を見るのが好きだった。
◇
ルシアンは、最初の一歩を小さくした。
深く入ってから速さを変えるより、入る前に相手を動かしたい。剣先をわずかに外へ振り、次兄の手元を誘う。カシウスは動かなかったが、足の向きだけが少し変わった。
そこへ、ルシアンが踏み込んだ。
肩口へ向かう剣を、カシウスは短く受けた。正面から弾き返すのではなく、刃の側を合わせ、弟の剣先を外へ向ける。ルシアンはそのまま押さず、離れる寸前に手首を返した。今度は下から脇へ向けて、剣が上がる。
兄の肘は、すでにそこから離れていた。
剣が空いたところを通る。カシウスが大きく跳んだわけではない。後ろ足を少し引き、上体の向きを変えただけで、ルシアンが取るつもりだった場所がなくなっていた。
すぐに、次兄の切っ先が戻る。
ルシアンは剣の腹で受け、半歩横へ出た。受けた衝撃を腕だけへ残さず、身体の向きと一緒に逃がす。普通なら、それで剣を返す余裕ができる。カシウスの足は、その半歩の先へついてきた。
「近いね」
「遠くへ逃がすと、面倒だからな」
ルシアンは笑う間にも剣を下げ、次兄の手首を狙った。カシウスが柄を引き、剣先だけを残す。触れ合った位置が手元へ寄ったことで、ルシアンの剣は向きを変えにくくなった。
腕力で押せば、抜けられるかもしれない。しかし、その一瞬に兄の足が先へ入る。ルシアンは押すのをやめ、剣を離すと同時に身体を引いた。肩の前を、兄の模擬剣が通り過ぎる。
「今のは、惜しかったかな」
「避けた方か、打った方か?」
「どちらも、ということにしておこう」
二人は間合いを取り直した。ルシアンの呼吸はまだ乱れていない。次兄も同じだった。
次は、途中まで同じ形で入った。先ほど外へ逸らされた位置へ剣を出し、触れる前に向きを変える。受けが来ない方へ通すための動きだったが、カシウスは剣を追わず、弟が踏み込む足へ合わせて位置を変えた。
狙いは間違っていなかった。ルシアンの剣は、兄の構えの内側へ一度入る。けれど、その剣を伸ばしきるには、右肩をもう少し前へ出さなければならない。先に肩が動けば、次兄の剣が脇へ届く。
ルシアンは腰を回し、攻撃の途中から受けへ繋いだ。重い音がして、模擬剣が触れ合う。両足を揃えずに堪え、次の瞬間には剣を離した。受け止められる力はある。そこからもう一度攻める速さも、十分にあった。
それでも、兄の前では、いつも一つ動作が増えた。
ルシアンは、今度は打つ間を遅らせた。切っ先を上げれば、兄が受けるために動く。その動きが済むまで振り下ろさず、違うところへ出せばよかった。狙った通り、カシウスの剣が少し上がる。
だが、次兄は、受ける形へ最後まで入っていなかった。
ルシアンが剣を止めたところへ、短く先端を向ける。弟は胸を引いて外し、そのまま横へ剣を返した。カシウスが身体をずらし、二人の距離がまた変わる。
「待っているのも、楽ではないね」
「待ってくれれば、俺から行けるからな」
ルシアンはもう一度、同じ高さへ剣を出した。今度は止めずに振る。次兄はそれを受け、触れたところから向きを変えた。途中で止めることも、そのまま打つことも、どちらかだけなら選べる。カシウスは、その両方へ移れるところに身体を残していた。
ルシアンは息を整え、踏み出す前の兄の足を見た。剣が触れるより先に、そこへ違う選択をさせなければならない。思いついた動きが一つあり、すぐに試したくなった。
踏み込む前に剣を動かされ、打ち込む途中で足を置き換えられる。少し深く入れば、切り返すための場所が狭い。引けば、その引いた先へ次の剣が来る。カシウスは強く打ちつけて弟を下がらせるよりも、弟が力を使いにくくなる位置を選んでいた。
ルシアンは一度、足だけを止めた。
上へ向かうはずだった剣先を下げ、短く突き出す。長い振りを待っていたなら、間に合わない距離だった。次兄の剣が下がる。その動きを見て、ルシアンは手元を上げた。刃が触れる前に、兄の肩へ回す。
カシウスの目が、わずかに細くなった。
次兄は、先ほどより大きく足を動かした。斜めへ抜け、弟の剣先が伸びる線から外れる。ルシアンも追い、振り戻した剣を合わせた。二度、三度と触れ合う音が続く。
最後の一度だけ、兄の返しが先だった。
ルシアンは身を低くし、胸へ向かった剣を外した。床へ手をつくことなく立て直し、間合いの外へ出る。頬にかかった髪を払う前に、剣を構え直していた。
「今のは、さっきよりよかっただろう?」
「ああ。もう一つ続いていたら、受けに戻るところだった」
「では、次は二つ続けるよ」
カシウスは嬉しそうに頷いた。ルシアンの手に、模擬剣の重さがはっきりと残る。まだ何度でも振れる。だが、ただ速く振るだけでは、次兄が先に取っている場所へ届かなかった。
戸の向こうで、人の足音が止まった。二人の稽古を見に来たギルベルトが、声をかけずに壁際へ立つ。ルシアンはそちらを一度見てから、すぐに兄へ目を戻した。
今度こそ、受けるためだけの一手を減らしたかった。
◇
ギルベルトが立ち会うことになっても、条件は変えなかった。
念による強化は使わない。同じ模擬剣で、有効な一撃を先に取る。二人が確かめると、師範は静かに開始を告げた。
ルシアンは、次兄の剣を追いかけるのをやめた。
足の向きと、肩が動く前の小さな重心の変化を見る。カシウスは、受けてから足を決めているわけではない。受ける角度を作るために、先に身体を置いている。ならば、そこへ落ち着く前に打てばよかった。
最初の剣が触れる前に、ルシアンは踏み込む幅を変えた。浅く来ると見せたところから、もう少し奥へ入る。兄が受けるはずだった位置を越え、肩口へ剣を運んだ。
今度は、カシウスの構えがはっきりと変わった。
次兄は剣を立て直し、弟の刃を手元に近い部分で受けた。ルシアンはそれを押さずに離す。上を防がせた間に、下からもう一度回す。カシウスが足を引き、ルシアンが追った。
剣先が、兄の上着の近くを通った。
触れてはいない。それでも、次兄に守り直させたのは確かだった。ルシアンはそのまま三つ目を出しかけ、途中で止める。兄の剣が、こちらの腕へ戻るのが見えたからだ。
剣を引きつけて受ける。触れた音は短かった。ルシアンは受けた剣を外へ流し、次の打ち込みを作ろうとした。
カシウスの身体が、横へ入った。
ルシアンは足を置き直す。そこへ兄の剣が沿い、手元を押さえた。強く叩きつけられたのではない。返そうとする方へ、ちょうど剣の重みが残る。腕を先に動かせば、身体が遅れる。身体を先に起こせば、剣が間に合わない。
ルシアンは、無理に起こさず、腰を落として抜けようとした。
次兄の足は、その動きを待たずに位置を変えていた。弟の進む先へ身体を寄せ、肩の向きをずらす。ルシアンの前足へ、踏ん張るはずの重心がうまく乗らない。剣を引いて立て直す間に、兄の刃が喉元の手前で止まった。
「そこまで」
ギルベルトの声が響いた。
ルシアンは、止まった剣を見てから、ゆっくり息を吐く。自分の剣は手にある。振るう力も残っている。けれど、ここから兄の一撃より先に打ち返す形は、なかった。
「……今のは、もう一つ続けさせてくれなかったね」
「続けられると、困るからな」
カシウスが剣を引いた。ルシアンは足を戻し、崩れかけた上体を起こす。腕で負けたというより、腕の力を使う場所をなくされていた。次兄の体格だけのせいにするには、受けた剣は軽すぎた。
「最後、剣を外へ流すのが早かったかな」
「悪くなかった。あのまま押し合うよりはな。ただ、俺の足が残っている方へ来た」
カシウスは、二人が立っていた位置へ戻った。ルシアンも足を置き、最後の動きをゆっくり辿る。腕だけなら抜けると思ったところに、次兄の身体が来る。そこから向きを変えようとすると、自分の前足が邪魔になった。
「ここから、もう一度入ったんだね」
「ああ。お前が返す前に、返しにくいところへ」
ルシアンは剣を下げた。わかってから同じ位置へ立てば、抜け方を考えることはできる。だが、実際に打ち合っている間にそこへ入るのは、次兄の方がずっと早かった。
「剣だけでやれば勝てる、と言わなくてよかったよ」
「思ってはいたのか?」
「勝つつもりではいたさ。最初から負けに来るほど、暇ではないからね」
ルシアンは真っ直ぐに兄を見た。
「今は、カイ兄上の方が上だよ。そこは、よくわかった。そのうえで、次は超えるつもりで来るから」
カシウスの表情が、ぱっと明るくなった。負けた弟を慰める時の顔ではない。次の勝負を、そのまま楽しみにしている顔だった。
「来いよ。俺も、このまま待っているつもりはないぞ」
「それは、そうだろうね。追いかける相手が止まってしまったら、面白くない」
壁際で、ギルベルトが二人の模擬剣を受け取った。ルシアンの刃筋と切り返しはよかったと告げ、それからカシウスへ、踏み込みを繋いだ位置を確認する。師範の問いへ答える次兄の言葉は短かったが、床を指す手には迷いがなかった。
ルシアンは水を飲みながら聞いていた。自分の剣を強くするために、まだ試したいことがある。次兄が答えるたび、その数は減るどころか増えていった。
話し終えたカシウスも、水を取った。弟の隣へ腰を下ろすと、先ほど剣先が上着へ近づいたところを、今度は自分から尋ねる。
「あの二つ目は、最初から回すつもりだったのか?」
「受けられたらね。兄上がもっと下がったら、前へ続けるつもりだったよ」
「そうか。俺が受ける方を見てから、変えたんだな」
カシウスは空いた手で柄を握る形を作り、一度だけ動かした。それから、次は同じところへ残さないと言う。ルシアンは、自分の試した動きが兄の次の稽古にも残るのを、悪くないと思った。
「それなら、俺も違うところへ入らなくてはね」
水の杯を返す頃には、次の勝負の約束が、もう少し具体的になっていた。
◇
休憩のあと、稽古場の一角へ標的が運び込まれた。
固定した台に細い木片を取りつけ、周りのものを離す。ギルベルトは標的の奥に人が入らないことを確かめ、兄弟が立つ位置も変えた。ここからは、実剣と念を用いる稽古になる。
カシウスは自分の剣を抜いた。ルシアンも纏を整え、兄の手元へ目を向ける。先ほどまでの模擬剣の音が残っていた場所に、実体の刃の光が落ちた。
「まず、ここから見ていろ」
次兄は、標的へ実剣が届かないところで構えた。切っ先と木片の間には、目で見てわかる隙間がある。腕を伸ばせば届く、という姿勢でもない。
剣に沿って、オーラが形を持った。
実剣の先へ、もう一つ刃が続いている。ルシアンはその先端を見てから、兄の足元を見た。まだ踏み込んではいない。
カシウスが剣を振った。
木片の縁が切れ、台の外へ落ちる。実体の切っ先は、最後まで木へ触れていなかった。次兄は剣を止め、落ちた木片が転がり終えるのを待ってから構えを解いた。
「無形の刃。伸ばしているのは、こっちだ」
兄は実剣の先をわずかに上げた。
「実剣ごと、長くなったわけではないんだね」
「そうだ。剣に沿わせて、刃になるオーラの形を変えている」
ルシアンは許可を得て標的へ近づき、切れた縁を確かめた。実剣が届かなかった位置に、切断の跡がある。見ていなければ、兄が深く踏み込んだのか、最初に思ったより剣が長かったのかと考えたかもしれない。
「長くするだけではないんだろう?」
「よく見ていろ」
弟が戻ると、カシウスは次の木片へ剣を向けた。今度は先へ伸ばす部分が短くなり、実体刃の両側にオーラが広がる。剣そのものより外へ出た部分が、横に据えた細い木の縁を切った。
ルシアンは、床へ落ちた小さな欠片を見る。
「横も、剣の幅で考えたら足りないのか」
「左右へ広げられる。その代わり、どれも同じだけ使えるわけじゃない」
カシウスは剣を止めたまま、刃の形を戻していった。長くすれば、そこへ回すオーラが要る。幅を取れば、その分も要る。鋭さを保つにも配分がある。伸ばす長さ、広げる幅、切るための鋭さを、全部いちばん大きくすることはできなかった。
「剣先の先へは、長くて一メートルほど。横は、片側に十五センチくらいまでだ。だが、その形なら何でも同じように切れる、とは思うなよ」
「では、一番大きな刃を待っていればいい、というわけでもないんだね」
「小さい方が、嫌なところへ入ることもある」
ルシアンは頷いた。目の前で変わったのは、剣の先だけではない。次兄が踏み込む前に届く場所も、剣同士を合わせたつもりで合わせられない場所も変わる。さっきの剣術にこれが加われば、距離を覚え直すだけで済むとは思えなかった。
カシウスが、もう一度標的の前へ立った。
今度はオーラの輪郭が見えにくくなる。実剣は消えていない。柄を持つ手も、光を受ける刀身も、はっきり見えたままだった。
振られた剣の外側で、木片が落ちた。
「隠を使っているのか」
「そうだ。剣そのものを消しているわけではない。見えている方だけで、届かないと決めないことだな」
ギルベルトが落ちた木片を確かめ、対人で行う範囲を告げた。出力は抑え、打ち込む方向を限る。喉や顔を狙うことはせず、動きを止められる速度と距離で始める。ルシアンにも、受けることより先に、危険な位置から外れるよう確認した。
「兄上が短く振っても、先にいるかもしれないわけだね」
「そう簡単に当てるつもりはない。だが、短いままだと決めても困るぞ」
対人へ移る前に、ルシアンは、もう一つ木片を据えてもらった。横へ広げた刃が、同じ振りの途中でどう戻るのかを見たかった。カシウスは了承し、弟が安全な位置へ下がるのを待つ。
剣の外側で木が切れる。そのまま横へ抜いた剣を、次兄は身体の近くへ引いた。広がっていた刃は収まり、反対側へ向き直る時には別の形になっていた。
「形を変えるのも、剣を戻すのと一緒にしているんだね」
「そうだ。自分の剣がどこを通るか、わからなくなったら使えない」
ルシアンは標的の跡を目で辿った。兄は刃を大きくしてから振るだけではなく、振った剣を次の場所へ持っていくところまで考えている。形が変わることを知っただけで、その使い方まで知れたわけではなかった。
カシウスは、実演を終えた剣を下げた。実体の長さは、最初と何も変わっていなかった。
◇
最初の一撃で、ルシアンは剣を合わせなかった。
兄の手元が動く。実剣は、まだ肩へ届かない。その判断が言葉になる前に、左側へ留まりたくない感覚が走った。ルシアンは後ろ足を引き、肩を斜めへ逃がした。
カシウスの剣が止まる。
ルシアンは自分のいた場所を見た。実体刃だけなら、そこまで引く必要はなかったはずだった。だが、危険だと感じた時には、もう足が動いていた。
「今の、見えていたか?」
「剣は見えていたよ。外側の刃まで、はっきり見たわけではないけれどね」
「よく引いた。合わせに来るかと思ったぞ」
「身体の方が、先に嫌だと言ったんだ。兄上に近づくのを嫌がるなんて、困ったことだね」
カシウスは笑い、剣を下げた。ギルベルトが停止した位置を確かめる間、ルシアンは肩を動かす。危険のあった辺りはわかる。けれど、そこにある刃がどのくらい広いのか、今も同じ形で残っているのかは、それだけでは確かめられなかった。
次の構えに入る前に、目へオーラを集めた。
凝を用いると、実剣に沿った刃の輪郭が捉えられた。先ほどの実演で見えた時より、意識してその境を追う。刀身の片側から外へ広がり、切っ先の先にも続いている。光を受ける鋼とは違う位置に、避けるべき縁があった。
「……思ったより、横へ出ているんだね」
「今は、そっちへ回している」
兄が剣をゆっくり返す。実体刃だけを目で追っていた時なら空いていると思った場所を、オーラの縁が通った。ルシアンは剣を振らず、どこへ足を置けば、その外へ出られるかを見ていた。
危険を感じて避けた方向と、目で確かめた刃の位置は、食い違ってはいない。しかし、同じものでもなかった。足を動かすには間に合った直感が、刃の幅を指で示す答えまでくれたわけではない。
「もう一度、お願いできるかな」
カシウスはギルベルトを見た。師範が位置を確認して頷く。ルシアンは実剣を構え、刀身へ周を施した。凝で捉えた輪郭と、実際に受ける角度を一緒に追う。
兄が同じ側から剣を出した。
ルシアンは先ほどより小さく足を引いた。見えている広がりの外へ肩を出し、実体刃に近いところへ自分の剣を寄せる。激しく打ち合わせる前に、カシウスが向きを変えた。横に広かった刃が収まり、その代わりに先が伸びる。
ルシアンはさらに身体を捻った。伸びた先端が向く線から外れ、次の足を置く。追って攻めようとしたところで、次兄が剣を止めた。
「今のところまでだ」
ギルベルトが、続けて停止を告げた。ルシアンは構えを解き、止まった兄の剣を見る。
「見えたあとも、同じ形ではいてくれないらしいね」
「俺だって、剣を振る途中で腕の向きは変えるだろう。それと一緒に、こっちも変える」
「ずいぶん、忙しい腕だ」
「慣れるまでは、な」
もう一度始めた時、ルシアンは兄の実剣だけを狙って踏み込んだ。刃が伸びる前に、手元へ届けばいい。凝で見たオーラの先を避けながら、実体刃の内側へ入る。
カシウスは剣を引き、身体の向きを変えた。
さっき、模擬剣でも見た動きだった。外側の念の刃を追っていたルシアンの前へ、次兄自身の足が入る。剣を返したくても、肩の向きが遅れる。兄の実剣はすでに止まり、その外側のオーラも、弟へ触れないところへ収められていた。
ルシアンは小さく息を漏らした。
「そちらを見ていても、兄上自身がいるんだったね」
「やっと思い出したか」
「忘れてはいなかったよ。少し、欲張っただけさ」
見えない部分を確かめられたことは、確かに役に立った。最初より少ない動きで避けられたし、剣を合わせられそうな位置もあった。それでも、見えた刃の形だけで、次兄の次の一手まで決まるわけではない。伸びる刃を持つ相手は、刃を伸ばさなくても、自分より巧く剣を振った。
ギルベルトは、今日はここまでと告げた。実剣の点検を先に行い、二人が剣を収めるまで目を離さない。ルシアンは自分の刀身を布で拭き、刃に欠けがないことを確かめてから鞘へ戻した。
片づける前に、ルシアンは、切り落とした木片の位置をもう一度見た。兄と向き合っていた時には、左へ留まりたくないと感じた。同じ兄が離れた標的を切った時には、その感覚は来ていなかった。
「俺へ向いていない時まで、刃の端がわかるわけではないんだね」
弟が言うと、カシウスは落ちた木片を拾い、標的の台へ置いた。小さな切断面だけが、実剣の外にも刃があったことを残している。
「だが、見れば確かめられたろう」
「うん。だから、そこは面倒がらずに見ておこうと思うよ。避ける時だけ間に合えば、何でもいいとは限らないからね」
ルシアンは自分の剣帯を手に取った。見ていなかったところで何が起きたかを、あとから断言するつもりはない。次に同じ刃と向き合う時には、見て確かめる余裕も残したい。そのうえで、目が追いつくより先に足が動く自分の勘も、捨てる理由はなかった。
「見たものと、感じたものを混ぜませんでしたな」
師範が言うと、ルシアンは顔を上げた。
「違うものだったからね。避けられたというだけで、全部わかった顔はできないだろう?」
「ええ。その先を確かめられるのでしたら、避けたことも、次に繋がりましょう」
「今日は、ずいぶん次が増えたよ」
カシウスは隣で、いいことだ、と答えた。ルシアンも異論はなかった。負けた回数だけを数えるつもりなら、朝からここへ来る楽しみは、もっと少なかったはずだった。
◇
稽古場を出ると、廊下の窓には高くなった陽が差していた。
ルシアンは濡れた髪を布で押さえながら、隣を歩く兄を見る。カシウスは自分の剣帯を持っていた。今は刃を伸ばすものも、広げるものもない。ただ、歩く時に鞘が壁へ触れないよう、自然に位置を寄せている。
「カイ兄上。昼食まで剣のことを考えていると、皿まで切り分けてしまわないかな」
「それは、刃を出しすぎた時の話か?」
「兄上なら、パンの幅に合わせて変えられそうだよ」
「パンくらい、食卓のナイフで切る」
「安心した。料理人が、今日は器も調達することになったら気の毒だからね」
次兄が肘で軽く弟を押した。ルシアンは笑いながら避け、すぐに隣へ戻る。さっきは同じ動きで肩を取られかけたが、廊下なら剣を返す必要もなかった。
角を曲がったところで、マルタが待っていた。二人の姿を見て、食堂へ向かう前に着替えを、と告げる。ルシアンは布を下ろし、自分の袖を見た。汗は拭いたが、上着の襟はまだ稽古のままだった。
「もう少し、余裕があると思っていたよ」
「お話にも、熱が入っておられましたから」
「兄上が、続きを増やすのが上手いんだ」
「ルーも、自分で増やしていたぞ」
マルタはどちらを責めるでもなく、着替えの用意を整えてあると答えた。兄弟は別々の部屋へ向かい、ほどなく、今度はきちんと襟を整えて廊下で落ち合った。
食堂へ着く前、ルシアンは窓の外へ目を向けた。外苑では、作業する者たちが布を広げている。祭まで十六日。昨日より支柱が増え、その間を歩く道がはっきりしてきた。
「昨日、ヴィク兄上とやった稽古でね。自分が避けるのと、後ろのものを守るのは、同じではなかったんだ」
「札の話だな」
「うん。今日の刃も、俺だけなら大きく引ける。けど、後ろへ人がいたら、その人の分まで空くとは限らないだろう?」
カシウスも外苑を見た。布を運ぶ二人が、広げる向きを相談している。片方だけが急いで進むと、もう片方の手が引かれる。二人は歩調を合わせ直し、支柱の間へ入っていった。
「引く前に、どこを空けるかは考えるな。自分の剣を振る場所も要る」
「兄上の刃なら、場所も余計に要りそうだね」
「だから、広げればいいってものでもないんだ」
その返事は、稽古場で木片を切った時の声と変わらなかった。カシウスは弟の肩へ手を置き、食堂の方へ向き直る。
「だが、今日の剣はよかった。最初の受けのあと、もう一度入ってきただろう。あれは、前より嫌だったぞ」
「それなら、次は三度目も嫌だと思ってもらおうかな」
「楽しみにしてる」
すぐに返ってきた言葉に、ルシアンは口元を上げた。次兄には遠慮して褒められる方がつまらない。手強くなった分を、本気で喜んでもらえるのなら、今日の負けも次へ持っていきやすかった。
食堂では、エレオノーラが二人を見て微笑んだ。稽古はどうだったかと聞かれ、カシウスより先にルシアンが答える。
「よい朝でした、母上。カイ兄上を超えるために、少し忙しくなりましたけれど」
「それは、よかったことなのね」
「ええ。先へ行く兄がいてくれるのは、悪くないものですよ」
「追いつかれないように、俺も忙しくなります」
カシウスが続けると、母は二人とも先に食べるよう告げた。ルシアンが席へ着くところへ、ヴィクトルも入ってくる。手にしていた連絡の紙を家臣へ渡し、夕刻の返答が届いたら知らせてほしいと頼んだ。
「まだ、荷のことを確かめているのかい?」
ルシアンが尋ねると、長兄は頷いた。実際に受け取った先の記録と、商会からの説明を、引き続き照らしているところだという。
「食べる間は、私もこちらにするよ」
そう言って席へ着く長兄へ、次兄が朝の勝負を短く話した。ルシアンは、次の勝負の約束も忘れずに付け加える。エレオノーラは三人の皿へ料理が行き渡るのを見てから、近いうちに父と領内を訪ねる予定があると話した。
「ルーも、一緒にいらっしゃい。屋敷へ届くものの先には、暮らしている方たちがいるでしょう」
「もちろんです。窓から見ているだけでは、少し狭くなってきたところですから」
母は楽しみにしていると答えた。ルシアンはパンを取り、隣の次兄へ籠を渡す。その手元を見たカシウスが、食卓のナイフで切るぞ、と小声で言った。
ルシアンは笑いを堪えきれず、母に見られてから、少しだけ姿勢を正した。
第4話 了
無形の刃(ファントムエッジ) カシウスの念能力。
実剣に沿って、切断力を持つオーラの刃を作る。切っ先の先へは最大約一メートル、横へは左右それぞれ最大約十五センチまで広げられる。ただし、長さ・幅・鋭さに回せるオーラには限りがあり、三つすべてを同時に最大にはできない。剣を振る途中でも配分と形を変えられるため、実体刃の長さや、一度見た形だけでは間合いを測れない。