HUNTER×HUNTER ―紅き公爵の剣譚― 作:アトレトル
第5話 公爵領の風景
出かける朝の本邸では、玄関の前だけ、いつもと違う音がしていた。
車の扉を確かめる音に、馬の蹄の音が重なる。脇の車寄せには馬車も用意されていたが、今日、ルシアンたちが乗るのは、その手前に停まる自動車だった。磨かれた車体の窓へ、屋敷の白い光が映っている。
「母上と出かけるなら、馬車になると思っていました」
ルシアンが言うと、エレオノーラは手袋を整えながら息子を見た。
「今日は、ゆっくり揺られることより、村でお話をする時間がほしいの。馬車でなければ、私とは一緒に乗れないかしら」
「それなら、俺が馭者台へ乗るところでしたよ」
「先に行きたいと言い出す方が、近い気がするわ」
母の返事に、隣のマルタが口元を和らげた。ルシアンは、二人が同じことを考えているのを見て、肩をすくめる。
「今日は、ちゃんと隣にいます。置いていかれる方の心配をしているんですから」
随行の者たちが、別の車へ書類と必要な荷を積んでいた。護衛は連絡の方法を確かめ、運転をする者と行程を相談している。剣を携えた家臣の脇を、携帯端末を持つ補佐役が通った。屋敷の格式に合わせた装いの中で、仕事の道具だけは、それぞれの役目に合うものが揃っていた。
アルフォンスが玄関へ出てくる。出発前の報告を聞き終えると、息子の腰へ目を向けた。ルシアンの名のない実剣は、鞘へ収めてある。
「今日は、稽古に行くのではないぞ」
「心得ています、父上。けれど、置いていく理由もありませんから」
「なら、歩く時には周りをよく見ておけ。剣を避けてくれる者ばかりではない」
ルシアンは剣帯の位置を少し寄せてみせた。父はそれを確かめ、車の方へ歩く。武器を持つことを禁じるのでも、持っているだけで充分だとするのでもない、いつもの短い注意だった。
座席へ着くと、ルシアンは今日の行先を確かめた。リュネール市を抜け、南へ進んでセレト村へ向かう。以前に遠くから見たことのある道もあれば、父母と一緒には通っていない道もあった。
「収穫の様子を見に行くのでしたね」
「それと、暮らしの方だ。村へ届いていない物資についても、現地で確かめる」
アルフォンスは、出発前に目を通していた紙を閉じた。
「ヴィク兄上が調べていた荷ですか」
「ああ。未着の報告は、すでに聞いている。今日は初めて事情を尋ねるのではない。記録と、実際にあるものを合わせて見る」
ルシアンは、長兄が食卓へ来る前に家臣へ渡していた連絡の紙を思い出した。あのあとも照合は続いていたが、食べる席へ細かな数字が持ち込まれることはなかった。父は別に報告を受け、必要な手配を進めていたらしい。
「それなら、荷のあるところへ先に行くのでは?」
「あると記されているところと、必要としているところの、両方を見る。村を訪ねる予定まで、帳簿の返事待ちにはしない」
母が窓の外へ目を向けた。マルタが車のそばで一礼し、運転する者が出発を告げる。屋敷の扉が少しずつ遠くなった。
外苑では、祭のための作業がもう始まっていた。ルシアンはそこへ顔を向け、支柱の間に昨日より布が増えているのを見た。開門祭まで十三日。自分がいない間にも、準備は進む。
「帰ったら、どれだけ変わっているか見てみようかな」
「お前が見ていなくても、仕事は進むからな」
「ええ。でも、見ていた方が楽しいでしょう」
父は短く笑い、道の先へ視線を戻した。門を抜けると、車の音が少し広く響いた。本邸の庭の向こうにあるものを、今日は窓越しに眺めるだけでは済ませない。ルシアンは背を座席から離し、近づいてくる道を見ていた。
◇
リュネール市へ近づくにつれて、すれ違う荷の形が変わった。
畑の脇を通る小さな車に代わり、店の名を記したトラックが増える。広い通りへ入ると、停留所で人を待つ路線の車両が見えた。荷を下ろすために停まった車のそばを、買い物籠を持った人が避けて歩いている。
ルシアンは窓越しに、店先へ運ばれる箱を目で追った。屋敷の搬入口へ来る時には一つの便に見える荷も、ここでは通りごとに分かれ、違う人の手へ渡っていく。
父が停車を頼んだのは、市場へ入る手前だった。通行の妨げにならない場所へ車を寄せ、随行の者が周りを確認する。父母が降りると、店先の男が手にした袋を脇へ置き、一礼した。
「おはようございます、公爵様」
「店を開くところか。手を止めさせたな」
アルフォンスは、並べた品を見ながら話しかけた。収穫はどうか、最近は何がよく売れるか。男は初めこそ姿勢を正していたが、自分の扱う品の話になると、言葉が少しずつ増えた。
今年も品を揃えることはできた。ただ、朝に運び込まれる荷と、通りを使いたい人が重なると、店を開けるまでに手間取ることがあるという。アルフォンスは、どの時間に、どの辺りで困るのかを尋ねた。男が示した先を、補佐役が見に行く。
「道が広ければ、済む話でもないのか」
ルシアンが言うと、男は少し迷ってから頷いた。
「車を停める場所が空いておりましても、下ろしたものを、すぐには店へ入れられないことがございまして」
入口には、まだ片づけていない空箱があった。隣の店も開店の準備中で、荷を一度に寄せる場所は限られている。ルシアンは、人と荷が同時に動く道を見た。本邸で台車の返す場所を決めていた時と、困るところが少し似ていた。
その間に、エレオノーラは店の脇にいた子どもへ声をかけていた。籠を運ぶ手を止めた子は、最初、母親の後ろへ半分隠れる。公爵夫人が籠の中を見て、これは自分で並べるのかと尋ねると、少しだけ前へ出て頷いた。
「では、お邪魔をしてしまったわね。どこへ置くつもりだったの?」
子どもが指さす。ルシアンはその前から一歩退いた。籠を抱えた小さな身体が、そこを慎重に通っていく。
「通れたね。俺の足へぶつけずに済んだ」
声をかけると、子どもはルシアンの腰を見た。剣に気づいたらしい。
「それ、重い?」
「重くて振れないものを持ち歩くほど、見栄は張っていないよ」
子どもには少し難しかったようで、母が笑った。ルシアンは柄へ触れず、籠へ視線を向ける。
「その籠だって、持てる分を持ったんだろう? 俺も同じさ」
子どもは今度は納得したらしく、残りもあると答えた。ルシアンが一つ持とうかと聞くより先に、自分で行くと言って店の奥へ戻っていく。
「お手伝いを取らずに済んだわね」
母の言葉に、ルシアンは笑った。
「俺が運んだ方が、速くはありますけれど」
「ええ。でも、あの子はご自分でできるところを、見せたかったのかもしれないわ」
父の話が終わるまで、母は店の女主人とも言葉を交わした。祭には来る予定か、忙しい時間はどうするのか。挨拶のために立ち寄ったはずの短い時間に、店の者が気にかけていることが、幾つも顔を出した。
車へ戻ると、ルシアンは父へ尋ねた。
「全部、ここで決めていかれるわけではないのですね」
「聞いたことを、全部その場で約束するつもりはない。だが、困っている場所を知らずに決めるのも違う」
補佐役が通りの様子を確かめて戻り、父へ短く報告した。アルフォンスは、今日見たことを担当へ伝えるよう頼む。荷を下ろす者も店の者も同じだと一まとめにせず、両方の動く時刻を確かめるよう付け加えた。
再び走り始めると、店の並びは少しずつ途切れた。広い道から農地へ続く分岐が増え、向こうから、馬に引かれた荷車が来る。運転する者が余裕を取って道を譲ると、馭者がこちらへ軽く頭を下げた。
ルシアンは、その後ろを見送った。トラックと同じ道を通っていても、同じところまで入れるわけではない。次の分岐から先は、舗装の様子も変わっていた。
◇
セレト村へ着いたのは、昼を迎える少し前だった。
道の両側に、収穫を終えた畑が見える。車が速度を落とすと、屋敷を出た時とは違う土の匂いが窓の隙間から入った。ルシアンは、先へ歩いてくる男へ目を向けた。
村長のベルトラン・フォルネだった。
五十五歳の村長は、車から降りたアルフォンスへ丁寧に礼をした。エレオノーラとルシアンにも挨拶し、まずは休めるところへ案内すると申し出る。
「久しいな、ベルトラン。先に、外を少し見せてもらえるか」
「承知いたしました。お足元がよくないところもございますので、こちらへ」
ベルトランは先に立った。公爵を迎えるために慌てて笑顔を作っているようには見えなかったが、困っていることを隠して案内する様子でもない。父の隣へ並ぶと、収穫と、このところの朝の冷え込みについて話し始めた。
アルフォンスが覚えていたのは、以前に訪ねた時、乾かす場所が足りないと話していた家のことだった。ベルトランは場所を指し、今は使い方を変えていると答える。父はその先を見て、歩きながら続きを聞いた。
ルシアンは、二人の間へ無理に入らず、少し後ろからついていった。道の脇で作業をしていた女が手を止める。母がその人へ声をかけると、ベルトランも足を緩め、紹介した。
「今年は、収穫を片づけるところまで、皆さんで手を貸し合えたのですね」
エレオノーラが言うと、女は、忙しい家へ順に人が寄ったのだと答えた。うまくいったところの話になると、その場にいた別の者も口を挟む。ベルトランは二人が話し終えるのを待ち、それから、まだ足りていない品のことを父へ告げた。
「ご連絡した物資ですが、今朝までに届いたものはございません。毛布と保存食を待っている家には、村にある分を融通しております」
「不足している先は、把握できているか」
「はい。ただ、このまま長くは回せません。早めにお伝えするべきか迷った者もおりましたので、まとめて、私から申し上げました」
父は、連絡を受け取っていると答えた。なぜ今さらそんな話をするのかとも、村の工夫で何とかしろとも言わない。どこへ届く予定だったのか、今、どの家が先に必要としているのかを確かめる。
ルシアンは、村長の持つ紙へ目を向けた。
「足りない分は、届けてもらえるのだろう?」
「手配を進めてくださっていると、伺っております」
「それなら、待たせる順番まで我慢することはないよ。必要な家がわかっているなら、父上へ言ってしまえばいい」
ベルトランが父を見る。アルフォンスは、息子の言葉を咎めなかった。
「そのためにも来た。遠慮して、少なく言う必要はない」
「ありがとうございます。では、あとで、こちらの控えもご覧いただければ」
村長の声が少し楽になった。ルシアンには、それを言うまでに遠慮が要る方が不思議だった。父が約束した荷を必要としているなら、届いていないと告げてよい。自分の暮らす家なら、ごく当たり前の話だった。
ただ、当たり前に届くはずだったものが、ここには届いていない。
母は女へ、今ある毛布を家の中でどう使っているかと尋ねた。数だけなら足りて見えても、全員が夜に使えるとは限らない。別の家へ貸したままなら、貸した方の余裕もなくなっていく。
ルシアンは会話を聞きながら、村長が示す家々を見た。窓があり、洗ったものが干してあり、戸口には履き物がある。屋敷へ来る一枚の報告の向こうには、そんな当たり前の暮らしが、一つずつあった。
「若様には、お退屈ではございませんか」
歩調を落としたベルトランが尋ねた。ルシアンは首を振る。
「俺の知っている道より、見るものが多いよ。それに、まだ倉庫を見ていないだろう?」
「ええ。こちらを曲がりますと、すぐでございます」
「では、続きを頼むよ。届くはずの箱が、どこへ入るつもりだったのかも見たいからね」
ベルトランは頷き、村人へ短く言葉をかけて歩き出した。エレオノーラは話していた女へ、後ほどまた寄ると伝える。ルシアンは母の歩く場所を空け、それから父の後ろへついた。
畑の方で、誰かが知り合いを呼ぶ声がした。村は公爵の来訪で止まったわけではない。人はそれぞれの仕事へ戻り、倉庫へ向かう者にだけ、控えを持ってきてほしいと村長が頼んでいた。
◇
倉庫の扉を開けると、乾いた木と、積まれた物の匂いがした。
ルシアンが最初に見たのは、空っぽの建物ではなかった。村にもともとある品が、置き場所を分けて積んである。ただ、ベルトランが今回の荷を置く予定だったと示した場所には、待っているはずの箱がなかった。
補佐役が台帳を開いた。村で荷を受け取る担当者も、自分の控えを持って来ている。アルフォンスはその二人に、まず、実際に受け取ったものから順に話してもらった。
「こちらが、最後に入った便です。そのあと、今回の分を待っております」
担当者の指が止まった日付を、補佐役が書き留める。台帳には、その前に受け取った品と、家へ渡した分が記されていた。予定しているだけの荷は、受け取ったものとして足されていない。
「商会からは、納入済みと説明されている」
アルフォンスが持参した写しを見せると、ベルトランは紙を覗き込んだ。
「この数は、こちらの倉庫には入りませんでした。ほかへ直接下ろすよう、頼んでもおりません」
「別の者が受け取った可能性は?」
「村の中も確かめました。少なくとも、今回の品を受け取ったと申す者はいません。こちらにある分を配った記録は、別に残しております」
受領担当者も同じように答えた。待っていた日に荷が来ず、商会へ問い合わせた。輸送を調整していると説明され、その次の連絡でも、まだ到着を確かめられなかったという。
補佐役は話を遮らず、いつ、どこへ連絡したかを一つずつ確かめた。担当者が端末の履歴を見せ、別に残していたメモを開く。電話をかけたことと、そこで何と説明されたかは、同じ一つの記録にせず、それぞれわかるよう書き取られた。
ルシアンは父の脇から、紙と倉庫の中を見比べた。
「出した数が合っていても、ここへ来ていなければ、足りないままではありませんか」
「そうだ」
父の答えは短かった。
「だから、受け取った記録と現物を見ている。商会の説明だけで、この欄を埋めることはできん」
補佐役は了承を得て、荷を置く予定だった場所と、今ある品の写真を残した。棚の一角だけを写して終わらせず、どこの何を確かめたかわかるよう記録する。受領担当者が、撮影した場所を台帳の記載と照らして示した。
ルシアンは入口へ寄り、箱が入るならどこを通るのかと尋ねた。担当者は広い側の扉を示す。普段、荷を下ろす時には、ここへ人が来て、一緒に数を確かめる。全部を一人が見ているわけではないが、今回の分を確認した者はいなかった。
「箱の見た目を忘れた、という話ではないんだね」
「はい。こちらで受けた分と、待っている分は、分けております」
「それなら、そのままにしておいてくれるかな。来ていないのに、来たことにされては困るだろう?」
担当者は頷き、ベルトランも、記録は変えずに保管すると答えた。
机へ戻ったルシアンの目に、商会側の配送担当欄が入った。
グラント・バルデン。
名前の下には、配送に関する連絡先が記されている。それが、荷を最後に見た者の名前なのか、書類を取りまとめた者の名前なのかは、ルシアンにはわからなかった。
「ここにある人へ、聞けばわかるのでしょうか」
「配送を担当する者への確認は進めている。ここに名があることと、何をしたかは、分けて確かめる」
アルフォンスは紙を補佐役へ返した。ルシアンも、その名前を口にして犯人を決めることはしなかった。今、自分の目で見たのは、待つために空けられた場所と、そこへ届いたことになっている紙の違いだった。
倉庫の外で、村人が手を止めて待っている。母はその人たちと話していたが、父が出てくると、必要な品の中で急ぐものを先に伝えた。
補佐役は台帳の必要な箇所を写し、連絡履歴の確認資料もまとめた。原本は村で保存し、後からどの記載を確かめたか追えるようにする。ベルトランは最後にもう一度、今朝までの未着を確かめ、父へ報告した。
アルフォンスはその言葉を聞き、次の手配を始めるため、日陰に置かれた机へ向かった。
ルシアンは倉庫の扉を振り返った。空いている場所は、見るだけなら静かなものだった。けれど、そこへ来るはずだった荷を待っている家は、さっき歩いてきた道のあちこちにあった。
◇
アルフォンスは、村長の控えと、母が聞いてきた話を並べて見た。
どちらも毛布の数を扱っていたが、同じ表ではない。村長の方には村で回せる分と不足分があり、母の話には、夜に家を空けられない者や、受け取りに出るのが難しい家があった。
「届いたあとも、ここへ取りに来るのを待たない方がよい先があるのね」
エレオノーラが言うと、ベルトランは該当する家を確かめた。村の者に頼んで運ぶことはできる。そのためにも、便が着く時刻を先に知りたいという。
父は補佐役へ向き直った。
「別の配送先から、急ぐ分を先に動かしてくれ。元の便と同じ説明を待つ必要はない。使える在庫と、運べる車を確かめてほしい」
補佐役が連絡を取る。アルフォンスは費用と不足分の扱いを確かめ、後で重複が出た時にも追えるよう、今回の手配は別に残すよう頼んだ。村へは、積み出しと到着の見込みが確かめられてから知らせる。急ぐからといって、届くかどうかわからない時刻を約束することはしなかった。
ルシアンは机の脇で、その連絡が終わるのを待った。
「納入済みと書けば、それで済むと思われたのでしたら、ずいぶん軽く見られたものですね」
父が息子を見た。ルシアンの声は荒れていなかったが、口元からは笑いが消えている。
「間違いなのか、そう見せようとしたのかは、調べているところだ」
「ただの間違いでも、困っている家はあるでしょう。荷を持っているところへ、俺たちが行けば早いのではありませんか」
「荷がどこにあるかを、今は確かめている。その返事を待つ間にも、別の荷は動かせる」
アルフォンスは、村長の紙をルシアンの前へ寄せた。
「先に届かせたいのは、こちらだ」
ルシアンは紙を見た。毛布を必要としている家の名がある。相手の説明を改めさせても、それだけで今夜使うものが増えるわけではなかった。
「……では、こちらを先に。そのあとで、届いたことにした方へも、返事をもらいたいですね」
「ああ。どちらも、途中でやめるつもりはない」
父はそう答え、戻ってきた補佐役の報告を聞いた。ルシアンは机から離れなかった。怒りを収めたふりをする必要はない。ただ、今その場で誰かを捕まえること以外にも、先にできる仕事があるのはわかった。
エレオノーラが、先ほど話していた女の家を訪ねるという。ルシアンも同行した。父は村長と手配を続け、護衛の一部が母子へつく。
家の者に招かれて戸口から中を見ると、窓のそばへ洗った布が寄せてあった。母は勝手に奥へ入らず、普段どう使っているかを聞く。女は、村の分を借りていることと、受け取ったら返すつもりだったことを説明した。
「必要な間は、使っていてよいのではないかな」
ルシアンが言うと、女は、ほかにも待っている家があるのだと答えた。自分の家だけが困っているのではない。そう言う手が、布の端を整えている。
エレオノーラは、返す日を急いで決めなくてよいと伝えた。新しい分が届いたあと、村長と一緒に使い方を確かめる。今ここで誰かの分を取り上げ、別の家へ回す話にはしなかった。
戸口の脇には、小さな籠が二つ置かれていた。ルシアンが通る道を空けるため、女がそれを持ち上げかける。彼は先に身を寄せ、籠へ手を伸ばした。
「どちらへ置けばいいのかな」
「あの、そちらの壁際へ……ありがとうございます」
「俺が通るために動かすのだろう? それくらいは、自分でさせてくれていいよ」
置き場所を確かめて二つを揃えると、奥にいた子どもが顔を出した。ルシアンは一歩下がり、通れる場所を残す。市で籠を運んでいた子よりも小さな子だった。
母が短く声をかけ、女の表情が少し緩んだ。荷が届いていないと聞いた時に頭へ浮かんだものより、家の中はずっと普通だった。物があり、人がいて、片づけなければ通れない場所もある。その中で、届くはずの一つが足りない。
外へ出ると、母はルシアンへ、籠を動かしてくれて助かったと告げた。
「あのくらいなら、頼まれなくてもできますよ」
「ええ。どこへ置くかは、聞いていたでしょう」
「勝手なところへ置いたら、あとで探させてしまいますからね」
母はそれ以上、教訓を足さなかった。ルシアンも、自分がいつの間にそんなことを気にし始めたのか、長く考えなかった。屋敷でリナが移した道具の向きを揃えていたのを、少し思い出しただけだった。
戻ると、父の手配は一つ進んでいた。急ぎの品を今日動かせる見通しがつき、積み込みが確定したら、村へ改めて連絡が入る。村長は連絡を受ける者と、到着後に運ぶ者を確かめ、必要な家へ知らせに向かった。
少し遅くなった昼食には、村で用意していた料理が出された。アルフォンスは礼を言って席へ着き、ベルトランにも休むよう勧める。話題は不足分だけでなく、収穫の時に助け合った家々や、祭へ出かける予定へ移った。
「開門祭には、おいでになるのかな」
ルシアンが尋ねると、村長は、支障がなければ伺いたいと答えた。
「では、こちらの用事が片づいたら、楽しむ方にも来てくれるといい。俺は、そちらの役目が多いからね」
ベルトランが笑い、エレオノーラは、料理のお味見もお役目かしら、と尋ねた。ルシアンは、準備の時には確かに頼まれたのだと答える。
父はそのやり取りを聞きながら、出されたパンを取った。机の上で物資の手配を決めた手が、今は村長と同じ料理の皿へ伸びていた。
食事を運んできた者が、村で採れたものだと料理を示した。母が作り方を尋ねると、味のことより先に、忙しい時にもまとめて用意できるという話になった。毎日の食事と、人が集まる日の食事では、同じ鍋でも使い方が変わるらしい。
「屋敷でも、祭に出す菓子を、今から試していたよ」
ルシアンが話すと、作った者が興味を示した。彼は自分が作ったわけではないと断り、同じ材料でも焼く場所で仕上がりが違ったことを教える。ベルトランが、若様はよくご覧になっているのですね、と言った。
「味見まで任されたからね。違いくらいは、覚えておかなくては」
「大事なお役目でございますな」
「そうだろう? 母上にも、今の言葉を覚えておいていただきたいな」
エレオノーラは笑いながら頷き、食べすぎないところまで含めてのお役目ね、と返した。村長も笑う。ルシアンは少し大げさにため息をついてから、もう一口、料理を取った。
連絡を待つ仕事は残っていたが、その間ずっと、困った顔だけを並べている必要はなかった。
◇
帰路の車から見える畑は、来る時よりも影が長くなっていた。
村を離れる前、ベルトランはもう一度、連絡を受ける場所を確かめた。父は、到着した品と数を知らせてほしいと頼み、母は訪ねた家への言葉を託した。ルシアンにも挨拶され、彼は祭で会う約束を改めて口にした。
窓の向こうを見ながら、ルシアンは、村の倉庫の空いた場所を思い返していた。商会の紙には数がある。村の台帳には、その数がない。どちらの紙も同じ荷の話をしているはずなのに、見ている場所が違えば、待っている人の姿まで消えてしまうらしかった。
車が少し速度を落とした。
南街道の先に、倉庫の建物が見える。リュネール市から来たトラックが荷を下ろし、別の場所では、荷馬車のそばに人が集まっていた。車の向きを変える者と、箱を運ぶ者が、道を空け合いながら動いている。
「あそこが、荷を継ぐところですか」
ルシアンが尋ねると、父が頷いた。
「大きな車で入れない道へ行く荷は、そこで分ける。すべてが市から同じ車のまま届くわけではない」
ルシアンは、村へ入る前に通った細い道を思い出した。広い街道に合わせたトラックで進めても、村の家の戸口までそのまま寄せられるとは限らない。荷馬車や小さな車へ移し、人の手で降ろすところもある。
倉庫のそばには、複数の荷馬車が見えた。空のものも、荷を積んでいるらしいものもある。遠くからでは、箱の中身も、向かう先もわからない。
「あそこへ行けば、どこへ運んだのか聞けるのではありませんか。荷が残っていれば、見つけられるでしょう」
「確認に入る担当は、動いている。必要な許可を整え、記録を出してもらうところからだ」
「父上が寄られれば、話は早そうですが」
「私が来たことに驚いて答えた話と、実際にどう運んだかを、同じものにはできん。ここへ来る者には、何を確かめるかを決めて任せている」
父は、補佐役が村でまとめた資料へ目を向けた。
「今日の記録も、そちらへ回す。届いていないことを、現場から確かめてきた資料だ」
ルシアンは、もう一度倉庫を見た。自分が剣を下げて乗り込めば、人を立ち止まらせるくらいはできる。だが、そこにある箱を開けても、それが村の待っている品なのか、別の注文の品なのかは、見た目だけでは決まらなかった。
「なら、あの荷を触る前に、見るものがあるわけですね」
「ああ。荷の数、出入りした日、受けた相手。その場で動いている者が、全部を決めたとは限らない」
ルシアンは、ベルトランの手にあった台帳を思い出した。村長一人が全部の荷を受け取っているわけではない。本邸でも、リナとマルセルとテオドールは、違うところで記録を見ていた。
納めると約束したものが届かなかったことは、変わらない。けれど、今見える荷馬車の一台を選んで、それが運んだはずだと言うだけの根拠はなかった。
その時、脇に停まっていた荷馬車のそばで、男が身体を屈めた。車輪ではなく、荷台の縁を確かめているらしい。別の男が箱を指さし、何かを言っている。
ルシアンは、その手が触れている金具へ目を留めた。
「荷を運ぶためのものも、ずいぶんあるんだね」
剣を収める鞘や剣帯なら、自分も使い方を考える。箱を積んで道を走るためには、別の形で支えるものが要るのだろう。母は息子の視線を追い、ああいうものを直す職人の仕事も、祭の前には忙しくなるでしょうね、と言った。
「ヴァルターの工房でも、扱うものがありますか」
ルシアンが父へ尋ねると、アルフォンスは、剣以外の金物にも仕事があると答えた。
「剣だけを置いて眺めている工房ではないからな」
「それなら、今度はそちらも見せてもらおうかな。俺の剣を預けるだけでは、少し惜しい気がしてきました」
父は、仕事の邪魔をしないように、と短く答えた。ルシアンは笑って了承し、鞘の位置を確かめる。今日一日、抜くことのなかった剣は、朝と同じ重さで腰にあった。
車がまた進み、倉庫は窓の後ろへ遠ざかった。
母が、村の子どもが最後には顔を出してくれた話をする。父は、あの家にも必要な分を回せるよう、ベルトランが控えを持っていたと答えた。ルシアンは二人の声を聞き、籠を置いた壁際の狭い場所を思い出す。
帰ったら、ヴィク兄上へ村のことを話そう。
荷が来るはずだった場所と、それを待つ人のことを。剣では確かめられなかったが、自分で見てきたことなら、今は話せる。
道の先に、市の建物が見え始めた。ルシアンは窓へ寄せていた身体を戻し、父母の話へ加わった。
第5話 了