HUNTER×HUNTER ―紅き公爵の剣譚―   作:アトレトル

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第1部 陽だまりのヴァルクレスト 第二章 『帳簿に潜む影』

第6話 炉火の教え

 

 工房の戸が開くと、暖かい空気が頬へ触れた。

 奥では槌の音が続いている。ルシアンは迎えに出た職人へ挨拶し、その人が示した壁際を歩いた。床の一角に置かれた金属は、炉から離れていても、触れてよいものとは限らないらしい。運ぶ者と打つ者の間には、誰も立ち止まっていなかった。

「そこからなら見える。もう少し待て」

 ヴァルター・グレイゼンは、顔をこちらへ向けただけで作業へ戻った。公爵家の専属鍛冶職人は、ルシアンが来たからといって、炉から出したものを置き去りにはしない。槌を振るう腕を見ながら、ルシアンは腰の剣へ軽く触れた。

「今日は、俺の方が待つ役なのかな」

「先に来た仕事がある」

「それなら仕方ないね。待っている間に、見るものもありそうだ」

 近くの職人が、小さく笑った。ルシアンは道を塞がない位置から、炉の前へ目を向ける。熱せられた金属の色が、運ばれる間にも変わっていく。ヴァルターは同じところを同じ強さで打ち続けるのではなく、持ち替え、置く向きを変え、必要な箇所へ槌を落としていた。

 剣を打っているところだと思ったが、今、形を整えている品は、刀身よりずっと短かった。脇の棚にも刃物だけでなく、輪や、曲げられた金具が置いてある。二日前、南街道の倉庫を通った時に父が言った通り、ここには剣以外の仕事が幾つもあった。

 開門祭まで、あと十一日。外苑の支度が進むのと同じように、工房にも催しへ間に合わせる品があるのだろう。戸口から入ってきた男は、仕上がった金具を受け取り、引き渡しの控えを確かめていた。

 やがてヴァルターが品を別の台へ移し、道具を戻した。槌の置かれる場所は決まっているらしく、見ずに伸ばした手が、次の道具へ届く。ルシアンは、ようやくこちらを向いた職人へ笑いかけた。

「手を止めずに済んだだろう? 今日は、ちゃんと待っていたよ」

「いつもそうしろ。剣は」

「もちろん、持ってきたさ」

 腰の剣帯を外しかけると、ヴァルターは先に、机に残っていた道具を片づけた。空いた場所へ布を敷き、そこへ置けと示す。ルシアンは鞘ごと剣を預け、机の反対側へ回った。

 抜かれた刀身は、窓からの光を銀灰色に返した。銘も、飾りの線もない両刃の直剣だった。ルシアンの手に合わせて、この工房で仕立てられた一本である。ヴァルターはまず柄と鍔を確かめ、それから刀身の向きを変えた。

「使っていて、変わったところは」

「握りを返す時に、親指の下が少し気になる。振っている間に動くほどではないけれど」

「前には言わなかったな」

「この前より、長く使ったからね。困るところだけ言ってくれと頼まれたのは、覚えているよ」

 ヴァルターは柄を持ち直し、ルシアンが示した箇所を見た。使った者にしかわからない違和感と、残っている擦れ方を照らし合わせているらしい。

「刀身は」

「左から受けたあと、返しで少し重く感じることがあった。剣が曲がったとは思わない。俺の手の方かもしれないな」

「どの角度だ」

 ルシアンが空いた場所で手を動かすと、ヴァルターは、その途中で止めた。実際に握って見せろと言い、刃の向く先を確かめてから剣を返す。

 いつものようにオーラを刀身へ伸ばしかけたところで、低い声が飛んだ。

「今は周を使うな。そのままの重さを知りたい」

「剣を持つと、ついね」

 ルシアンは笑い、剣を包みかけたオーラを引いた。身体の纏は保ったまま、足を運ばず、手首と肘の動きだけをゆっくり再現する。ヴァルターの指が柄尻の近くを示した。

「その時、握り直している」

「……ああ。こちらへ寄せた方が、次を出しやすいから」

「寄せたあとで、元へ戻すのか」

 もう一度、同じ動きをした。ルシアンは途中で手を止め、それから最初の握りへ戻した。刀身のせいだと思いかけた重さが、少し変わる。ヴァルターは剣を受け取ると、光へかざし、刃筋と表面を順に調べた。

「こちらに、今すぐ直すほどの歪みはない。握りの具合は調える。手の使い方は、師範に見せろ」

「剣のせいには、できなさそうだね」

「そう言うために持ってきたのか」

「まさか。使いにくいままで勝つより、気持ちよく振って勝つ方がいいじゃないか」

 ヴァルターは返事の代わりに、柄を確かめ直した。近くで仕事をしていた職人が、必要なものを机へ置いていく。道具を渡す向きも、取ったものを戻す位置も、作業を続ける人の手に合わせてあった。

 ルシアンが台の端へ手を置こうとすると、ヴァルターが目だけを動かした。

「そこは粉がつく。こっちへ来い」

「見ていないようで、よく見ているね」

「剣を預かっている間に、お前の手を汚してどうする」

 言われた方へ寄ると、窓の明かりで刃の細かな跡まで見えた。遠くから眺める工房より、一本を挟んで立つ場所の方が、ずっと見るものが多かった。

 

◇

 

 ヴァルターが用意した砥石の前で、ルシアンは袖口を留め直した。

 剣の手入れを人任せにしているわけではない。稽古や外出のあとには汚れを落とし、刃も柄も確かめている。ただ、毎日使う者の手入れと、仕立てた職人が見る箇所は、同じではなかった。

「ここを、早く済ませようとしている」

 ヴァルターが示したのは、刃の一部に残る、わずかに違う擦れ方だった。ルシアンは顔を寄せ、刀身を傾けた。

「最後に力が入ったのかな。そんなに変えたつもりは、なかったけれど」

「つもりはいい。次に通す時、手を見ろ」

 角度を確かめてから、ルシアンは刃を動かした。作業台の上では、剣を振る時の速さは役に立たない。触れ方を揃えているつもりでも、手が遠くへ行くにつれ、少しずつ押す力が変わった。

 ヴァルターは途中で柄へ手を添えた。無理に引き戻すことはせず、力のかかっているところを示す。

「ここから、刃を押しつけている。急に減らすな」

「これくらいなら?」

「そのまま、終わりまで」

 もう一度通すと、手元へ伝わる感触が先ほどより揃った。ルシアンが顔を上げると、ヴァルターは刀身を取り、結果を見てから頷いた。

「今のを覚えておけ。回数だけ増やすなよ」

「俺がやると、削りすぎると思っているのかな」

「うまくいったから、もう一度やりたくなるだろう」

 言い返しかけて、ルシアンは笑った。実際、もう一度、同じ感触を確かめたいと思っていた。ヴァルターはそれ以上からかわず、次に拭き取るものを渡した。

 刀身を調えたあと、柄の気になっていた箇所へ移った。外から見える擦れだけで決めず、ヴァルターは一度手を入れるごとに、ルシアンへ握らせた。軽く返し、止め、力を抜く。見栄えよく整っていても、親指に当たるところが残れば、もう一度預けることになった。

「父上の剣を見る時も、こうして確かめるのかい」

「使う者に聞かなければ、わからんところはある」

「父上なら、よく馴染んでいそうだけれど」

「同じ剣でも、使ったあとは変わる。お前は身体も変わる」

 ルシアンは自分の手を開いてみた。今はちょうどよい柄も、ずっと同じ具合で握れるとは限らない。ヴァルターは、今度は違和感を覚えた時点で持ってこいと言った。折れてから来られても、何でも元通りにできるわけではないらしい。

 窓際には、仕事のための紙が何枚か置かれていた。剣の姿を描いたものもあり、その一つへ目を留めたルシアンは、父の剣にある線を思い出した。

「ノクスも、使う人に合わせて仕立てるのだろう? 代々、同じ一本を受け渡すわけではないと聞いたよ」

「ああ。当主となる者のために、新しく鍛える」

 ヴァルターは手元の作業を続けながら答えた。代々の当主が持つ剣は、同じ名を継ぐ。けれど、手の大きさも、力のかけ方も、剣の使い方も同じではない。その人が使う一本として仕立てるのだという。

「名前だけは、先に決まっているんだね」

「名と、受け継ぐ意匠がある。刀身の中央を通る、一条紅線もその一つだ」

 根元の近くから切っ先の手前まで通る紅い線を、ルシアンは思い浮かべた。父が手にしている時には、剣を振るう姿と一緒に見ていることが多い。机の上に並ぶ職人の道具から、その一本へ至る間に、どれだけの仕事があるのだろう。

「同じ名なら、どれも同じように振れる方が楽そうだけれど。それでは、使う方が合わせることになるかな」

「直すために来た剣を、他人の握りへ合わせて返してほしいか」

「それは困るね。俺の手で使うのだから」

 ヴァルターが柄を差し出した。ルシアンは受け取り、気になっていた動きを、今度はゆっくり返してみる。親指の下にあった引っかかりが薄れ、握り直す時にも迷うものが減っていた。

「こちらでいい。さっきより、指を置きやすいよ」

「なら、使って確かめろ。まだ当たるなら言え」

「頼む時には、遠慮しないさ。せっかく俺に合わせてもらったんだ。使ってみた方の話も、聞いてもらわないとね」

 ヴァルターは短く頷いた。ルシアンは剣を布の上へ戻す。今、目の前にあるのは、紅い線のない銀灰色の一本だった。いつか持つかもしれない剣の話をしていても、今日、自分の指が覚え直すのは、この柄の感触である。

 近くの職人が、仕上がった品を運ぶために通りかかった。ルシアンは剣の脇へ置きかけた布を持ち上げ、机の端を空けた。空いたところへ、荷台に使うという金具と、仕事の控えを挟んだ板が置かれた。

 

◇

 

「この分も、祭の荷を運ぶところへ?」

 ヴァルターが尋ねると、職人は頷いた。運送の仕事を請け負う業者からの依頼で、昼過ぎには引き取りに来るという。ルシアンは机に置かれた金具を見た。剣のような刃はなく、荷台へ取り付けて、物を支えるための形をしている。

「南街道の倉庫で、似たものを見たよ。荷馬車の脇についていた」

「何台も使う。形だけでは、同じ車かわからんぞ」

「そこまでは思っていないさ。俺が見たのは、車で通り過ぎる間だけだからね」

 職人は控えの板をめくり、先に直した分と、今日渡す分を確かめた。同じ業者の車でも、取り付ける場所が違えば、そのまま使えるとは限らないらしい。ヴァルターは片方を指し、これは別の車の寸法だと告げた。

「前にも、直したのかい」

「先週、一台。荷台を固定する金具の修理だ」

 職人が棚の記録を出してきた。引き渡しの確認をしてから戻すつもりだったらしく、ヴァルターもその頁を確かめる。ルシアンは、金具を描いた小さな図の脇に、車両を識別する札の記載を見つけた。

 七号車。

 作業日は、開門祭の十八日前だった。依頼の窓口には、レダン商会の配送部門とある。自分が長兄の執務室で書類を見た日の、さらに一日前になる。

「その車も、こちらで直したんだね。どこが傷んでいたのかな」

 ヴァルターは記録の図を指した。留める箇所に摩耗があり、荷台を支える金具を調えている。重い荷を繰り返し積めば、そういう部分へ負担がかかることはあるという。

 ルシアンは紙の上へ視線を落とした。セレト村が待っていた箱と、倉庫の脇に並んでいた荷馬車が浮かぶ。だが、あの日見た車に、どんな札がついていたかは覚えていない。そもそも、自分のいた窓から読める位置にあったかも、わからなかった。

「多く積んでいた、とは言える?」

「その可能性はある。何度も使った摩耗か、どう積んだかまで、金具だけでは決まらん」

「中身も、こちらでは見ていないのかな」

「持ち込まれた時、荷はなかった。直す箇所を見て、仕事をした。それだけだ」

 職人は引き渡した時の欄を示した。直したあと、取り付けを確かめ、通常どおり使える状態で返している。まだ壊れたまま走らせたという話ではなかった。

 ルシアンは机にある別の金具へ目を戻した。似た形のものが幾つもここを通る。一台の仕事の日付と窓口がわかっても、それだけで、その後に運んだ箱の行先は埋まらない。

「ヴィク兄上が、商会の配送を調べているんだ。この記録も、見てもらいたい」

「元は、こちらの仕事の記録だ」

「持っていってしまうつもりはないよ。写しをもらえるかな。詳しく確かめるなら、兄上から担当を寄越してもらう」

 ヴァルターは承知し、職人へ必要な頁を示した。原本は工房に残し、誰の仕事を写したものかわかるようにする。ルシアンは用意してもらった紙を受け取り、七号車と作業日、依頼窓口の三つを、元の頁と見比べた。

「これがあれば、荷が何だったかもわかるといいのだけれどね」

「そちらの記録と合わせろ。俺に聞かれても、見ていない箱は出せん」

「そうするさ。剣のことは、ずいぶん細かく聞かれたから。こちらも、細かく確かめてもらうよ」

 ヴァルターは机の布を引き寄せ、ルシアンの剣を最後に拭った。紙へ気を取られていたルシアンも、その手元へ向き直る。職人が金具を包み始めると、彼は端へ寄っていた控えの板を持ち、置き直してよい場所を尋ねた。

「その棚の、手前だ」

 板を戻すと、机が空いた。ヴァルターは刃と鞘口を確かめてから、剣をルシアンへ渡した。腰へ戻す前にもう一度握ると、親指を置くところが、前より素直に手へ馴染んだ。

「これなら、午後に師範へ見せられるよ」

「具合を聞かれたら、剣と手を混ぜるな」

「勝てたら、剣も褒めておくさ」

「負けた時にも、持ってこい」

 ルシアンが笑うと、ヴァルターはすでに次の仕事へ顔を向けていた。炉の前では、さっきとは別の品が待っている。ルシアンは写しを折らずにしまい、迎えの者が来たことを確かめてから、工房の皆へ礼を言った。

 戸口を出ると、外の風が思ったより冷たかった。腰の剣帯を整えた指に、さっき調えてもらった柄の感触が、まだ残っていた。

 

◇

 

 午後の稽古場で、ルシアンは実剣を壁際の定位置へ預けた。

 ヴァルターに見てもらったところを話すと、ギルベルトは、あとで手の返しを確かめようと答えた。今は台に並んだ模擬剣から一本ずつ取り、傷や緩みを調べる。刃を付けていないからといって、周を施した剣で身体を打ってよいわけではない。接触の前に止める箇所と、使う強さを確かめてから、二人は向かい合った。

「今日は、どこを取れば勝ちにしてくれるのかな」

「有効な攻めが通れば、その一本はルシアン様のものです。ただし、先にこちらが止めた剣を、なかったことにはいたしません」

「それは残念。あとから俺の方が当たったと言おうと思っていたのに」

 ギルベルトは模擬剣を構えた。笑ってはいたが、こちらが入るのを待つ足の置き方は、少しも緩んでいない。

「全身の守りを保ちながら、剣へ回す量を選んでください。必要な時には凝も使う。何を使うかまで、こちらから毎回申し上げるつもりはありません」

「心得たよ。剣を受けてもらえるなら、少しは楽になるかな」

 ルシアンは練でオーラを引き出し、身体の周囲へ保った。纏で留める働きと合わせ、厚い守りを持続させる堅の構えになる。普段から使える技術だが、この状態のまま剣へオーラを回し、攻めと守りを変えると、使い慣れた周だけの時とは手応えが違った。

 最初の踏み込みは、ルシアンからだった。

 相手の剣を外へ押し、空いた側へ入る。刀身を包むオーラは、手首を返しても乱れなかった。受けたギルベルトが半歩退き、ルシアンは、その退いた先へもう一度剣を送った。

 剣先が向きを変えるのと同時に、脇へ冷たいものが走る。

 身体が先に避けようとした。ルシアンは足を開き、迫った模擬剣の軌道から身をずらす。だが、攻めるために伸ばした腕は、戻しきれなかった。ギルベルトの剣がその内側で止まり、続けて出そうとした一手を塞いでいた。

「ここまでです」

「剣を押した方へ来ると思ったのだけれどね」

 ルシアンは、止められた腕の位置を見た。危ないと感じたのは確かだったが、師範がどこへどれだけオーラを回したかまで、それで見えたわけではない。目へ凝を集め、離れていくギルベルトの手元を改めて確かめる。

「今の腕なら、もう少し守りを残せました」

「剣が先へ出ていたから?」

「はい。次の斬り込みへ寄せたあと、身体へ戻すのが遅れました」

 ギルベルトは間合いを取り直した。動き出した剣へ目を向けると、受ける側に厚みが寄り、そこから反撃へ移る時には、配分も変わっていた。ルシアンにも、剣から身体へ移すこと自体はできる。だが、見てから同じ速さで追おうとすると、自分の腕の動きと噛み合わない。

 次の打ち合いでは、ルシアンは早めに左腕の守りを増やした。ギルベルトの剣を受ける位置を定め、そこへ合わせて間合いを詰める。受け止めた感触は、今度はよかった。

 その手応えを使って押し込もうとした時、師範の足が横へ動いた。受けるつもりで厚くしたところは、もう次の剣筋に向いていない。ルシアンは剣を返しながら配分を移したが、両方を急いだ分、肩が先に開いた。

 ギルベルトの剣先が、その前で止まる。

「今度は、早く用意しすぎたかな」

 ルシアンは剣先を下げずに言った。師範は、構えを解かないまま答える。

「用意した守りを、次へ移すところです。相手がその場所を打ってくれるとは限りません」

「俺も、空いている方へ行くからね。そこは文句を言えないか」

 もう一度向かい合うと、ルシアンは手の内を緩めた。凝で師範の動きを確かめつつ、自分の剣に必要な量を残す。先ほどより小さく動かし、受けてから移すまでを短くしようとした。

 剣が触れた一瞬は、狙い通りだった。余分に押し返さず、相手の刀身を脇へ逃がせた。だが、そこで間を詰める足が遅れ、ギルベルトは届く前に構えを整えてしまう。ルシアンが次へ移る頃には、こちらの進む側へ剣が待っていた。

 止められた切っ先を見て、ルシアンは小さく息を吐いた。

「いちいち、待ちやすいところへ戻るね」

「そうなるように、動いております」

「知っているよ。俺がそこへ行くことまで、勘定に入れているのだろう?」

 ギルベルトが剣を下げた。いったん水を飲むよう勧められ、ルシアンも模擬剣を持つ手を下ろす。身体の守りを保ちながら動いた分、いつものように剣へ任せて踏み込む時より、呼吸を意識する場面が増えていた。

 剣そのものは、思った通りに動かせる。そこへ身体の守りと、目で確かめる作業を重ねると、選ぶまでの短い間を、師範はきれいに使ってきた。

 ルシアンは差し出された水を受け取り、一口飲んだ。負けた回数を数えるより、さっき一度だけ、無理なく剣を外へ流せた感触の方を、先に確かめておきたかった。

 

◇

 

「俺には、周を使って剣を通す方が合っていると思うよ」

 水を置いてから、ルシアンは言った。ギルベルトが顔を向ける。ルシアンは模擬剣を持ち直し、先ほどの返しをゆっくり動かしてみせた。

「剣へ回す分を少なくすれば、同じようには押せない。いちばん使えるところを、先に弱くするのも惜しいだろう?」

「ええ。ルシアン様の周は、よく剣についております。それを捨てて、こちらのやり方へ揃える必要はございません」

「では、そこは話が早いね」

 ルシアンは笑って剣を止めた。ギルベルトも頷いたが、さっき剣を止めた腕の内側を示す。

「ただ、ここを守らずに通すと決めたのか、戻せない間に取られたのかは、違います。先ほどは、どちらでしたか」

「戻す前に来られた。危ないとはわかったのに、腕が残ってしまったよ」

 そこを曖昧にしたまま、剣が強いと繰り返しても、次の一本は変わらない。ルシアンは、流で守りを移そうとした時の手元を見た。移すことに気を取られ、刃の向きまで大きく変えていた。

「次は、もう少し早く決めてみる。守りが要らないところでは、遠慮なく剣へ回してもいいのだろう?」

「その判断も含めて、お願いいたします」

 ギルベルトは休憩を終え、稽古場の中央へ戻った。ルシアンも剣を構える。今度は師範から動き、剣が斜めに入ってきた。

 受ける側へ寄せれば、そのまま弾いて出られそうだった。ルシアンは一歩入ろうとし、師範の肩が剣の動きほど進んでいないのを見た。剣は速いが、身体ごと押し込む動きではない。目へ凝を使い、動く腕と、身体に残されたオーラの厚みを確かめる。

 深くは来ない。

 剣へ大きく寄せかけた分を留め、まず身体の守りを保った。刃が合う前にギルベルトが軌道を変え、ルシアンの低い側へ回る。ルシアンは堅を崩さず、剣を小さく下ろして、その進路を塞いだ。

 模擬剣同士が触れ、木の音が短く響いた。いつもの強さで押し返すことはできなかったが、腕を伸ばしきる前に受ける位置へ入れた。師範の切っ先は、今度はルシアンの身体へ届く道を失っている。

 そのまま斬り返そうとした時には、もうギルベルトが一歩外れていた。

「惜しかったね。今度は、そちらの一本にならなかった」

 ルシアンが言うと、師範は構えたまま答えた。

「はい。攻めへ戻す方は、まだ間に合いませんでしたが」

「そこまで一度に頼むのは、欲張りではないかな。次は、もう少し早く返すよ」

 同じように来てくれるとは思わず、ルシアンは足の位置を変えた。ギルベルトも、今度は浅く触れて退く動きをやめる。正面からの圧力が増え、ルシアンは周を施した剣でそれを受けた。

 触れた手応えに合わせ、必要な方へオーラを動かす。先ほどより早く肩を戻せたが、剣から離す量は滑らかには揃わない。ギルベルトは、その短い乱れのうちに立つ場所を変えていた。

 ルシアンは追わず、一度間合いを取り直した。強引に振れば届くかもしれない位置だったが、振り終えたあとに、自分がどこを空けるかも見えていた。

「来られませんか」

「来てほしそうだから、少し待とうと思ってね」

 笑い返し、今度はこちらから踏み込む。剣に回す時には回し、止められれば、次の動きへ移る前に守りを戻す。それでも、二度目の返しで足を止められ、最後は師範の剣先が胸の前を押さえた。

 ルシアンはすぐに剣を下げた。勝ちを拾えたわけではない。身体を守ったところから反撃へ移る間も、まだ長かった。それでも、最初のように、同じ場所を続けて空けてはいなかった。

「もう一本、と言いたいところだけれど」

「今日は、返しの手も見る約束でした」

「覚えていたか。では、剣のせいではないところを、先に見てもらおうかな」

 ヴァルターへ見せた動きを、模擬剣で再現した。ギルベルトは、握り直すことそのものを禁じず、戻す時に肘まで引きすぎていると指摘した。ルシアンはゆっくり確かめ、剣先が余分に下がらない位置で止める。

 速く振れば隠れていた動きが、止めるとよくわかった。次に同じ速さで使えるかは、また別に試す必要がある。ルシアンは教わった位置をもう一度なぞり、それから模擬剣を台へ戻した。

 実剣を受け取った時、調えてもらった柄へ、今確かめた指を置いてみる。今日は刃を抜く必要がなかったが、次に使う時に試したいことは増えていた。

 

◇

 

 夕方の執務棟へ向かう前に、ルシアンは部屋へ置いておいた紙を取った。

 昼に持ち帰った修理票の写しは、剣帯や稽古着と分けて、平らにしてあった。汗のついた手を洗い、折り目をつけずに持つ。廊下の窓からは外苑の布が見えた。朝には下へまとめられていた一枚が、今は支柱の間へ張られている。

 ヴィクトルの部屋では、マルセルが机の脇へ立っていた。端末の画面と開いた書類を確かめ、何かの報告を終えるところらしい。ルシアンが戸口で待つと、兄が顔を上げた。

「工房は、どうだった、ルー」

「剣は前より握りやすくなったよ。それから、兄上に見てもらいたいものがある」

 ヴィクトルは手元の書類を閉じ、空いたところを示した。ルシアンは写しを置き、工房で修理した荷馬車のことを、順に話した。

「七号車。作業日は、祭の十八日前だね」

 兄の指が記載を追う。マルセルも脇から確認し、依頼窓口がレダン商会の配送部門であることを読み取った。

「祭の輸送も請ける業者の車だそうだよ。ただ、俺が倉庫で見た荷馬車と、同じものかはわからない。札まで見ていたわけではないからね」

「修理した箇所については、何と?」

 ルシアンは、荷台を固定する金具の摩耗と、修理後に正常に使える状態で渡したという説明を伝えた。重い荷が負担になることはあっても、中身や運んだ先まではわからない。ヴァルターも持ち込みの時の荷を見たわけではないと、付け加える。

 マルセルが自分の控えを開いた。公爵家が頼んだ便の記録だけでは、七号車がほかの仕事でどこへ回ったかまでは読めないらしい。車両の名前だけを、セレト村向けの荷の横へ書き込むことはしなかった。

「商会へ求めている資料に、車両の運行記録も合わせよう。修理に出した前後、どの便を受け持ったかを確かめたい」

 ヴィクトルの指示に、マルセルは頷いた。依頼を取り次いだ配送部門の記録と、実際に車を動かした業者の記録を、双方から確認するという。

「原本は、工房で保管してくれる。担当が確かめに来るなら、見せると言っていたよ」

「それも頼む。写しを受け取った経緯を残して、工房へ確認を入れてくれ。通常の修理をしただけなら、その仕事まで疑ってかかる必要はない」

「承知いたしました」

 マルセルは三つの記載を自分の控えにも留め、ルシアンへ、ほかに直接聞いたことはあるかと尋ねた。彼は、今日机にあった金具は別の車のものだと答えた。それを七号車から外した品だと思われては、話が変わってしまう。

「写しを取りに行ったのではないのに、持ち帰るものが増えたね」

 ヴィクトルが言った。ルシアンは笑い、机から少し離れた。

「父上に、剣以外の仕事も見せてもらおうと思うと話したからね。その分は、ちゃんと見てきたさ」

「ヴァルターには、褒めてもらえたかな」

「手入れを急いだところは、見つかったよ。午後には師範にも、戻すのが遅いと言われた。二人で相談したわけでもないのに、忙しいことだね」

 マルセルが書類をまとめながら、わずかに口元を和らげた。ヴィクトルは机の端に置かれた茶へ手を伸ばし、弟にも座るよう促す。

「それで、どちらの注文にも応じるつもりか」

「使ってみてから、こちらの注文も増やすつもりだよ。合わせてもらうところは、まだありそうだから」

 兄は声を立てて笑った。マルセルは紙を持って一礼し、照会の手配へ戻っていく。ルシアンはその背を見送り、自分の前へ寄せられた茶を取った。まだ温かい。

 ヴィクトルが残りの仕事へ目を戻す間、彼は外苑の方を眺めた。遠くにいる者が布の端を押さえ、別の者が留める位置を確かめている。風が来ると二人とも一度手を止め、揺れが収まるのを待ってから、また動き始めた。

 村で待っている荷の話も、工房から持ち帰った写しも、まだ途中にある。兄の机の上では、その続きを確かめる準備が進んでいた。ルシアンは残った茶を飲み、空いた杯を静かに置く。

「ヴィク兄上。夕食には、間に合いそうかな」

「これを渡したら戻るよ。先に行っていてもいい」

「では、母上にはそう伝えておくよ。席へ着いてから呼びに来られると、俺まで茶を飲んでいたことになるからね」

「飲んでいただろう」

 ルシアンは空の杯を見て、少しだけ笑った。兄が書類を揃えるまで待ち、それから一緒に部屋を出た。廊下へ戻ると、窓から入る夕方の光が、二人の足元まで長く伸びていた。

 

第6話 了

 




ヴァルター・グレイゼン
 ヴァルクレスト公爵家の専属鍛冶職人。ルシアンの無銘の直剣を仕立て、手入れや握りの調整もしている。身分におもねらず、現物の状態と使い手の話を確かめて仕事を進める、寡黙な職人。工房では剣以外の金物も扱っている。

剣と家の伝統
 歴代当主の剣は「ノクス」の名と、刀身中央の「一条紅線」という意匠を受け継いでいる。同じ一本を代々使うのではなく、当主となる使い手ごとに新しく鍛えられる。
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